見つけもの @ そこかしこ

ちょっと見つけて嬉しい事、そこら辺にあって感動したもの、大好きなもの、沢山あるよね。

カテゴリ: ロンドン演劇事情


79歳のイアン•マッケラン氏のリア王の舞台は是非見ておきたいと思ったのだが、そうなのだ、「リア王」は長い、、、開演時間が7時。私の仕事は6時までだが、時間きっちりに終わることはあまり無く、都心に出るには45~50分、いつもの7時半開演の芝居なら、なんとかコーヒーとサンドイッチくらいはお腹に詰め込んで行かれるのだが••••• 

躊躇している間にもチェックするたびにチケットはどんどん無くなっていくし、「どうしようかな」と思っていたら、またシアターライヴでやるという。家の近くのシネマだと、帰りも楽だし、本当は劇場で観たかったけれど、一歩譲ってシネマライヴのチケットを取った。

images

「リア王」と言えば、数ヶ月前にBBCがアントニー•ホプキンス氏でテレビ版を放映していたのが記憶に新しく、比べてみるのも面白いと思っていた。そのブログ記事はこちらへどうぞ

今回の演出は元々Chechesterという地方都市のキャパ300の劇場での上演用として創られたので、ロンドンに持って来る際に、大降りにならないように留意したのだそうだ。上演されているDuke of Yorkは小ぶりな劇場だから、その意図は十分生かされていると思う。シアターライヴで何が良いかというと、役者の表情をアップで見る事ができる。反対に、あまりにカメラの寄りが多いと、「もっと舞台全体が観たい」とも思うのだが。

ケント役に女性を持ってきたのは変わっていた。そしてケントが変装してリアに付き添う際には思いっきりのアイリッシュアクセントになっている。ケントと三女のコーディリアが話の初めてでリア王の逆鱗に触れて「縁切り」の目にあうのだが、コーディリアのキャスティングだけが、どうもなんと無くしっくりこなかった。他の2人の娘も、グロースター、その息子のエドガーとエドモンドもすごく良かったので、余計に気になってしまった。

2014

今回コーディリアを演じたのは黒人の女優さんだ。こちらでは最近は肌の色に関係なく、黒人の役者達の普通にあちこちに配役されている。「家族だろう!?」と突っ込みたくなる事もあるのだけれど、親子、兄弟でもブラックの役者さんが配役されていることはままある。

演技的にはもちろん何も問題ないし、気にならない事の方が多いのだが、今回のこの女優さんは、話し方と首の振りにとても癖があって、それが気になってしまった。いわゆる「黒人訛り」と言えばいいのか、、、目をつぶっても「黒人だ」とわかってしまう滑舌なのだ。顎の骨格なのか、歯並びなのかはわからないけれど、すぐに解る。そして一生懸命話そうとするからか、首を振りながらセリフを粒立てようとしてしまうので、これが演技を邪魔してしまう。すごく気になってしまった。黒人でも普通に滑らかに話す役者もたくさんいるし、むしろロンドンの舞台ではそれが基準だったので、ちょっと驚いた。

それにしてもイアン•マッケラン氏は本当にプロ中のプロだと改めて凄いなと思ってしまった。もちろん彼はリアを何度も演じているし、まるで「もうセリフなんて体に染み付いています」という感じの自然さでシェイクスピアのセリフを紡ぐ。声も息も、そして目の動きまで、ちゃんと解って演じている感じだ。

48a604baefc9d8038bc1116d4d14caf2


愛嬌のある役者さんなので、くるくると動く目だけでセリフが何倍にも膨らむ。巧いよ、、本当に名優だ。雨のシーンでは全身ずぶ濡れになって上着だけでなく中のシャツまでびしょ濡れだった。79歳で舞台に立ってこんなシーンを物ともせずにやり過ごす体力はすごい。そうだ、蜷川さんの最後のハムレットでクローディアスを演じた時の平幹二朗さんの時もそう思った。役者は体力勝負。頭も身体も声も揃っていなくては舞台には立てない。

1680


やっぱり劇場で観たかったなあ〜〜、でもそれでも観られて良かった。そのうち日本でも上映されるようだったら是非おすすめです。

さーて、いよいよ明日1日働けば日曜の朝には機上の人となる!!
でも、、、台風がやばい!本当にやばいことになってるよ、、、羽田に着くのが1日の朝7時の予定なのだが、台風真っ最中じゃないのか、、、ちゃんと降りられるんだろうか、ドキドキです。



 


あまりに暑くて地下鉄でロンドン市内に出るなんて自殺行為に等しかったので、芝居を観るのも久しぶりな気がする。実はあまりピンとくるものがなくて、イマイチ躊躇していた。Broadwayで絶賛されたThe king and I(王様と私)もパレディアムで上演中だけれど、最近は大ぶりなミュージカルに食指が動かなくなっている。渡辺謙さんが大健闘して賞賛を浴びているのも知ってるけれど、もう3回は観ているプロダクションなもので、、、、、、

で、今回行ったのは、Finsbury Parkにある Park Theatreの小さい方。まだ新しいこの小劇場はキャパ200のPark200とキャパ90のPark90の2つのスタジオ式の劇場だ。前に行ったのはオートンの「Loot」をPark200の方で観た。今回はPark90の方だ。休憩込みでも2時間ほどの「Spiral

キャストは4人、そして観客は数えたところきっちり30人で幕をあける。席は自由で、最前列に座っても良かったんだけど、なんだか役者がよろけたら足を踏まれそうな感じなので、2列目に座る。 
トムとジルの中年夫婦は、数ヶ月前に15歳の一人娘が行方不明になってしまい、家出なのか、事故なのか、事件なのかも分からずに苦しい日々を過ごしている。娘の事を知りたいと、トムは娘の友人だった高校生女子を順番に呼んで話を聞こうとしたところが、「未成年女子に性的興味を示した」容疑で訴えられてしまう。もちろんトムにはそんなつもりは全くないのだが、世間の関心がそんな噂を立て始めると、妻であるジルも疑心暗鬼になっているのだ。純粋にティーンエイジャーの娘を思うトムは、制服姿で会ってくれるようにという要望でエスコート嬢のリーアを雇う。

エスコートガールというのはまあ行ってみれば娼婦なのだけれど、ただベッドで相手をするというのではなく、例えば一緒に観劇や食事に行ったり、パーティーや 集まりでパートナーとして同伴したりという仕事も含めて時間と自分を売る女性たちの事だ。リーアとトムはただ会って話をするうちにお互いに誠意を感じて打ち解け合うようになる。もちろん性的な関係は一切無く、親子ほどの年の差の友人のような関係だ。リーアにはヒモ兼彼氏のマークがいるのだが、これが完全に支配欲の塊のような男で、独占欲と支配欲で彼女を縛り付けているような関係だ。時には暴力も。愛情の影に常につきまとう脅迫と恐怖。

すっかりトムのことが信用できなくなってしまったジルと、執拗にリーアを監視してトムの事を突き止め、嫉妬で怒り狂うマーク、そんな中でひたすら友情を貫くリーアとトム、、、、やがてリーアの妊娠が分かる事で展開が変わる。


身近にいる、愛している人を信じられなくなってしまったら?、、、、娘の蒸発に端を発した疑心暗鬼。そもそもこの娘は家出だったのか、事件だったのか?、、、、途中、警察から身元不明の遺体発見の知らせを受けたジルはそれが娘では無かったと知って泣き崩れる。 怯えながらもマークから離れられないリーアは「家庭内暴力から逃げられない女」の典型だし、マークは本当に見ていて怖くなるくらいにリーアを心理的に縛り付けるのが上手い、、、この芝居で一番パワフルな役だ。巧かったし怖かったわ〜〜!リーアをマークから助けてやろうと、トムは別居を決意したジルが去った家に彼女を匿ってやる。でもリーアの携帯に追跡アプリを忍ばせておいたマークはトムの家に侵入して、リーアを脅す。

そこでリーアが妊娠していることがわかるのだが、マークはリーアの子供の父親はトムだと思い込んで無理やり薬を飲ませて流産させようとする。このシーンの残酷極まりないマークの演技には心底怖くなったし、怒りが湧いた。上手いよ〜〜!
そしてこの時初めてリーアは本気でマークに逆襲し、婦人救済所に逃げ込んでマークとの関係を断ち切るのだ。最後まで友人として彼女をマンチェスターまで送ってやるトム。

数ヶ月のち、すべての疑惑がクリアになって訴えをすべて取り下げられたトムとジルは再び夫婦として出直そうと暮らしている、臨月近くになったリーアを友人として訪ねるトム、「もうマークとは完全に切れて、どこにいるのかも知らないわ」というリーアはお腹をさすりながら、穏やかな陽だまりの中で、トムと友人としてのひと時を過ごす、という暖かいシーンで終わったのが救いだった。

信じるという尺度はあるのだろうか、「ここまでは信じる」という基準は決められるのだろうか?初めから信じようともしない人にどうしたら話を聞いてもらえるのか?真実を言う勇気がない人の言葉は「嘘」と決めつけていいのだろうか?小ぶりながらも現実的でパワフルな芝居。

この本を書いたのはリーアを演じているAbigale Hoodで、マーク役のKevin Thomlinsonは演出にも携わっている。UKでの行方不明者は若者に多い。家出をしてしまって戻ってこなかった人たち、家族は生きているのか、死んでいるのか、分からないままに長い長い年月を過ごさなくてはならない。身元不明の遺体が出るたびに心が凍りつき、似た人を見かけると 取り乱し、、、、そんな中、リーア役のAbigaleがこの芝居を書くきっかけになったのは、ローカル新聞のMissing Peopleのコラムにある親御さんからのメッセージが載っていたのを見たことだという。「早く帰ってきて」「一度でいいから連絡を」というメッセージが並ぶ中にあった一文、

「愛しいスティーヴン、愛していますよ、あなたがいなくて寂しいです。どうかあなたが自分の探しているものを見つけることができますように」

どうやって、自分の息子は自分の望む人生を探しに出かけたのだ、というポジティブな考えに至ることができたのか、、?それともただの強がりなのか?そんな思いからこの芝居の案が生まれたのだという。
 
こういう芝居が好きだなあ〜〜 


ほとんど忘れかけてた!っていう位に久しぶりのフランス古典喜劇!! そうだよ、モリエールがいたじゃないか!、、、、、
iconsquare1382315287-124962-Tartuffe

初めはタイトルの「Tautuffe」 を見てもピンとこなくて、その下にMoliereという名を見てやっと、「あ! タルチュフだ〜〜!」と気づいた。モリエールの喜劇なんて、本当にもう30年以上観ていなかった。久しぶりに嬉しくなって、速攻で何もチェックせずにチケットを取った。前の日になって、帰りの電車の時間が気になったので終演時間を確認しようとしたところ、「バイリンガル•プロダクション」と記事に書かれてあって、「??」と思ったのだった。

モリエールは17世紀のフランスで活躍した劇作家。彼の劇団は旅公演だけでなく、王侯貴族たちからも援助を受け、社会風刺の効いた喜劇で人気を博していた。丁度太陽王、ルイ14世の時代だ。モリエールの喜劇は、同時代のラシーヌのようなギリシャ悲劇を元にした古典劇に比べると、題材が人間本来の感情や思考による間違いや勘違い等での面白さなので、時代にとらわれずに楽しめる。

今回のプロダクションも時代は現代のロサンゼルスという事になっているらしい。そして、本当に英語とフランス語がゴッチャに入り混じってのバイリンガル劇になっている、、、、しょっぱなから聞こえてきたのはフランス語の掛け合い。え、、?と思って見回すと、舞台上部、左右、そして前方の床の左右、と、5箇所の字幕スクリーンがある。こういう場合はサークル席とかの方が舞台と一緒に字幕も視界に入るのだけれど、私のいるストール(一階席)のしかも前方(つまりはものすごく良席)だと字幕を見るためには顔を背けなくちゃならない。せっかく良いテンポの芝居なのに、字幕追いが大変で、「これで最後まで持つのか、、?」と不安になった。

資産家のオルゴンとその母親は友人のタルチュフの事を善良で信心深い、人類の見本のような人物だと崇めている。オルゴンは彼を自分の家に泊めて、なんとか彼を見習って自分も立派な信心深い人間になりたいと思っているのだが、実はタルチュフの本性は偽善者そのもの、自分を信じきっているオルゴンを利用しようとしているに過ぎない。オルゴンの周りの人たち、妻のエルミールや息子のダミス、義兄のクレアント達はタルチュフの胡散臭さをなんとなく見抜いていて、オルゴンに忠告しようとするのだが、オルゴンは一向に耳を貸さない。そして、既に恋人ヴァレールとの婚約が決まっていた娘のマリアンヌを婚約解消してタルチュフに嫁がせようと考える。父にヴァレールではなくタルチュフと結婚するようにと言われたマリアンヌは、父には逆らうべきではないという自分の忠実な娘としての立場から反論できずにいる。マリアンヌの侍女のドリアンヌはもっと自分の意見を主張するべきだとマリアンヌを諭すのだが、とうとうマリアンヌに泣きつかれて彼女の味方になると約束する。マリアンヌの兄のダミスは、タルチュフが密かに母=オルゴンの妻であるエルミールに言い寄っているのを聞きつけ、なんとか父にタルチュフの本性を知らせようとするのだが、オルゴンは一向に息子の言葉を信じないばかりか、逆に信仰を逆手にとって、「自分は罪深い人間だ、許してくれ」というタルチュフにますます肩入れしてしまう。なんとかしてタルチュフの本性を暴こうとエルミールは自らタルチュフに誘いをかけ、自分にいいよる悪党の顔をしたタルチュフの姿を夫に見せる。家族一丸となってタルチュフの本性を暴き、流石のオルゴンも自分の盲目的な思い込みから目がさめる。ところが、マリアンヌと結婚させて、タルチュフに家屋敷と財産を譲ろうとしていたオルゴンは全ての書類が入った鞄がタルチュフの手に渡ってしまった事に気づいて愕然とする、、、、、

The-cast-of-Tartuffe-Photo-Helen-Maybanks-181

父に反抗できずにいるマリアンヌは当時(17世紀)の父親の家庭内での権力を示している。その後に、恋人のヴァレーヌと愛し合っているのに喧嘩になってしまったり、ダミスが必死に本当の事を告げて忠告しているのに、信じないばかりか逆に息子を勘当してしまうオルゴンのバカっぷりは本当に笑える。

それにしてもなぜ2ヶ国語なのか、本当によく分からない。英語部分の翻訳はお馴染みのクリストファー•ハンプトン氏だ。それも、キャラクターによってとか、場面によってというのではなく、普通の掛け合いの途中でいきなりフランス語と英語がシフトするのだから、なかなかついていくのが大変だった。

でも不思議なことに、意味はわからないのに、フランス語の台詞が耳に心地よい、、、おそらくあの時代の作品だから、シェイクスピアの英語と同じように、フランス語の台詞もリズムがあって書かれているのだろう。おまけに役者達は本当に良い芝居をしているので、字幕を見るのがもったいなかった。役者達はイギリス人、フランス人と混ざっているし、中の数人は実際にバイリンガルのようだ。

知らなくて得したのは、ちょうど今BBCでシリーズ3を放映中のドラマ「ベルサイユ」でルイ14世を演じているジョージ•ブラグデンがダミス役で出ていた事だ。3年前から始まったシリーズ物の「ベルサイユ」の大ファンで、「レ•ミゼラブル」の映画にも出ていたジョージのルイ14世をみて「一度舞台でもみてみたい人だな」と思っていたので。彼は子供の頃にフランスの学校に行っていたバイリンガルアクターだ。「ベルサイユ」のドラマは全て英語だけれど、制作はカナダ・フランスなので、インタビューなんかではかなりフランス語でも喋っていたっけ。

ドリアーンとオルゴンの母・ペルネル夫人を演じている2人のフランス人の女優さんが素晴らしい。そしてタルチュフ役のポール•アンダーソンは初めはアメリカ人の役者かと思った。ちょっと鼻にかかった投げやりな感じのロサンゼルスアクセントが偽善者の悪党ぶりを見事に表していて、決して攻撃的じゃないのに、「この悪党!」と思ってしまう憎らしさ!役者自身はイギリス人で、ちょっと驚いた。

最後はオリジナルから現代に変えていて、タルチュフを逮捕するのは国王ではなく、ドナルド•トランプというのがご愛嬌。
実はこの芝居、敬虔なキリスト教信者に見せかけた偽善者という設定から、当時の反宗教的要素を監視していた団体から圧力をかけられ、ベルサイユ宮殿で初演されたものの、その後、国王ルイ14世から上演禁止を命じられてしまう。(これは5年間で解かれている)

なんだか昔劇団時代に上演したフランス喜劇を思い出した。コメディー•フランセーズのレパートリーになっているジョルジュ•フェドーの喜劇達。笑いのテンポがやっぱりモリエールあたりが基本になっていたのだなあとちょっと思った。2ヶ国語ゴッチャの珍しい芝居だったけれど、それがなんだか耳に心地よくて楽しめたのだからまあ、成功していたと言っていいのかな。

でも次回はやっぱり全部分かる言葉で観たいなあ〜〜









 


BBCがまたも素晴らしく見応えのある番組を創ってくれましたよ!!
少し前からアントニー•ホプキンズのリア王の宣伝をしていたので、これは観なければ!と録画しておいた。

まずチームが素晴らしい。リアにアントニー•ホプキンズ、長女のゴネリルにエマ•トンプソン、次女のリーガンはエミリー•ワトソン、とまさに実力派揃い。おまけに脇を固めるグロスターに名ベテラン脇役のジム•ブロードベント、ケント役にはこれまたお馴染みのジム•カーター、そして何とエドガー役には「シャーロック」でのモリアーティー役の怪演が大インパクトだったアンドリュー•スコットという豪華顔ぶれ。

テレビ用脚本と演出はリチャード•エアー氏で、今回のヴァージョンはテレビドラマらしく2時間にまとめられている。シェイクスピアは舞台作品でも演出によって様々だ。現代を設定にしたものも多いけれど、やっぱりオリジナルのセリフが持つ古典のリズムを壊さないように設定を変えるのは演出家の腕次第だ。
背景は現代そのままで、ロンドンの夜景からロンドン塔=軍の司令部にカメラが移り、リアを取り巻く兵士たちも迷彩服にベレーで軍靴を響かせている。

リア王というと、領地を分け与える娘達に「自分を喜ばせる賛辞の言葉をより上手く言えたものから領地をやろう」と言われて、お世辞タラタラの挙句に後で父親を見捨てる上二人の娘と、お世辞を言えずに父を怒らせて勘当されてしまった末娘の真の愛情、みたいな部分が先行するけれど、この芝居はそれだけではない。兄を陥れてのし上がろうとする野心家のエドモンドは、結局リアの上の娘二人とも両天秤にかけるという悪党キャラだ。そして弟に陥れられた兄のエドガーは気がふれた男のふりをしてリアと出会い、また後には目の言えなくなった父親と再会する。

そう言えば、80年代の黒澤明監督の作品「乱」はこのリア王をモチーフにして、イギリスでも大絶賛された。私がロンドンの映画館で観たときも、終わりに拍手が沸き起こって、「映画館で拍手」というのは初めてだったのでびっくりした。

今回はシェイクスピアもリア王も知らない現代の若者がたまたまテレビを付けたらドラマをやっていたので観た、という流れでも十分楽しめるドラマになっている。老いて少しボケ始めた独裁的なおじいちゃんを当てはめても良い。平気で親を見捨てる家庭の絆の薄さ、兄弟でありながら兄を蹴落として自分を引き上げてもらおうという身勝手な若者、それらの構図は本当に何百年経っても変わらないのだ。改めて、シェイクスピアという人の人間を観察して描き出す筆の力は凄い、と痛感する。 

それにしても80歳になったホプキンズ氏の重厚な演技の素晴らしいこと。凛と響く声も鋭い眼力も健在だ。重いだけでなく、コーディリアと和解するあたりはそても柔らかく、 狂いかけて、スーパーのカートにゴミを山積みにして引き廻すあたりの力を抜いた演技も的確だ。

端折っているシーンもあったのだけれど、観ていてほとんど気にならなかった。(エドガーとグロスターのシーンがもう少し欲しかったけど)グロスターの目をくり抜くシーンは本当に目を覆いたくなるようなリアリティーがあり、エドモンドを挟んでのゴネリルとリーガンのビッチな火花のちらし合いもさすがはベテラン女優お二人。

まず、ホプキンズ氏の年齢を考えたら、もうこんなキャストでこんなドラマって作れないんじゃないか、、とさえ思ってしまった。2−3年前にやっぱりテレビ版で放映された「The Dresser」というドラマで、イアン•マッケルンとアントニー•ホプキンスがダブル主演していた時もそう思って、ドラマの質の高さに感動したのだけれど、、、、偶然か、今年の夏からマッケルン氏も舞台でリア王をやる。彼も79歳だ。

考えてみたら、私がずっと尊敬しているイギリスの名優達はみんなもう80代になっている、、、機会があるうちに是非観ておかなくては。

 


久しぶりのマクベス。

実はシェイクスピアの作品の中でもよく知られているのに、舞台で観た事って意外と少ない。2−3回かな、、? 今回はマクベス夫人役のAnne-Marie Duffを観たくて行ってみた。
劇場はNT(ナショナルシアター)の中のOlivier、ここはアンフィシアター=円形舞台なので、とても見易い.。どの席も良席と言える。そして高さ5回建で何層にも回せる最新の舞台機能があり、これをどんな風に使った演出になるかも楽しみだ。
Macbeth_march18-2


マクベスのあらすじは比較的シンプル。

舞台はスコットランド。ダンカン王の信頼厚い武将のマクベスは、反乱軍を鎮めて帰途に着く途中、森の中で3人の魔女たちに「未来の予言」を告げられる。「コーダの領主に、そしてやがてスコットランド王になる」と告げられたマクベス。さらに一緒にいた友人のバンクオーにも「お前の子孫がやがて王になる」と予言がされる。半信半疑だったマクベスだが、すぐに自分がコーダの領主に任命されたと知らされると、さらなる予言の成就=王座に野心を抱き始める。
そしてマクベスよりもその予言に執着したのがマクベス夫人だ。王がマクベスの城に泊まった晩、ひるむマクベスを駆り立てて、野心をむき出しにして王の暗殺をそそのかす。そして王を刺し殺た罪の意識におののくマクベスを叱咤激励して後始末の手はずをする。危険を察したダンカン王のの息子、マルコムがイングランドに亡命すると、マクベスは王位に就く。
kinnear-2

しかし王位についても安心できないマクベスは「王を生み出す」と予言されたバンクオーを暗殺し、また、マクベスに疑惑の念を抱いていた貴族のマクダフがイングランドに亡命すると、マクダフの妻子をも暗殺する。不安をぬぐいきれないマクベスは再び森の魔女達にあって、さらなる予言を聞き出すと、「女から生まれたものにマクベスは殺せない」「森が動かなければマクベスは倒されない」と言われ、どちらもありえない事、と安堵する。王の暗殺には冷徹な顔を見せたマクベス夫人だが、やがて罪の意識は彼女を夢遊病にしてしまい、夜な夜な血で汚れた手を洗おうとさまよい歩く。そしてついには自ら命を絶ってしまう。やがてイングランドでダンカン王の王子=マルコムを説得したマクダフは、マクベス討伐の為にイングランドから攻め込む。女から自然な形では生まれなかった=母の腹を蹴破って出てきたというマクダフにマクベスは討たれ、マルコムが次期王として即位する。

マクベスで有名なのが、魔女たちの予言だ。しょっぱなから謎かけのような有名なラインがある。
Fair is foul and faul is fair
これは日本語ではよく「良いは悪いで、悪いは良い」とか「綺麗は汚い、汚いは綺麗」「フェアはファウルでファウルはフェア」と訳されてる。この時にバンクオーに与えられた予言、「王を生む」は、やがて彼の子孫が王女と結婚して世継ぎをもうけることになるのだが、ここでは出てこない。
2度目の予言では
For none of woman born shall harm Macbeth =女から生まれた(自然に)者は誰もマクベスを倒せない

となっているのだが、実はバンクオーは今でいう帝王切開で出てきた、という屁理屈でマクベスを倒す。
そうはいってもあの時代、麻酔も医療技術も無かったのだから、お腹を割いて赤ん坊を取り出すという事は間違いなく母親は死んだのだろう。まさに「母の腹を切り裂いて出てきた」のだ。森が動く=イングランドの護衛軍が木の枝をかぶって前進してきた様子が「森が動く」という光景になる。

ストーリー的には簡単なのだけれど、魔女たちの予言に野心と欲が出て、手を血で染めることになったマクベス夫妻。その後の罪の意識と不安におののく姿がこの芝居の軸なのだけれど、意外と淡々と作られていた。マクベス夫人のAnn-Marie Duffがやっぱりよかったな。殺害の場面では男気がある感じで、その後の夜歩きまでの心情の変化がうまかった。
Macbeth-Preview-26-02-18-Olivier-563


今回のマクベスは時代設定的には明確でない。衣装は軍服にブーツで、現代風ではあるけれど、いきなりセットで生首が木の上に吊るし上げられていたり、とちょっと野蛮な中世の雰囲気も出ている。
マクベス役のRoy Kinnearは何処かで見たな、と思ったら、以前「三文オペラ」でマックをやった人だった。

マクベスはそれほど長い芝居ではないけれど、なんとなくあっさりと話が進んだなあ〜と思ってプログラムやレヴューを見てみると、結構削った台詞も多いらしい。ハムレットのように台詞の下まで覚えているわけではないので、見ている時には気づかなかったけど。

オリヴィエ劇場といえば、やっぱりセットと舞台転換がすごく見ものなのだが、今回は何本も高く作られた木に魔女たちが上ったり生首がかかってたりと、高さをよく使っていた。ただ、最終シーン間近、まさに木をかぶった兵士たちが近づいてきて「森が動く」というそのシーン、途中で回転舞台が動かなくなってしまった!

「なんかこのシーン遅いな」と思っていると、舞台監督らしき人が出てきて「申し訳ありません、テクニカルプロブラムで中断します」 と挨拶。こういうハプニングは本当に珍しいので、拍手喝采。アンフィシアターは幕がないので、裏が全部見える。
どうやら手動ではなんとか動くらしく、スタッフやその場に出てない役者も出てきて、手動で舞台を回して無事続行。 滅多にないハプニングに遭遇できました。

ちょっとびっくりしたのが、、「この人もいいな」と思ったマクベス夫人の侍女役のNadia Albinaという 女優さん、右腕が肘までしかない事に途中で気づいた。あれ?と思ってからも、角度で見えないのかな?と思ったのだけれど、確かに右腕の肘から手がない。身体的なハンデをもつ役者が普通の舞台に出ているのを見たのは初めてだったので、これは結構印象に残った。プロフィールをみると、舞台でも映像でもあちこちで活躍している。新鮮だった。

去年日本行きと重なって見られなかったNINAGAWA Macbethがやっぱりみたいな。私がイギリスに来た頃に、ちょうど話題になっていた作品だ。初演は平幹二朗さんと栗原小巻さん、この二人のポスターの絵はよく見たなあ。DVDになってる再演版を買ってみるかな、、、、 


3月も半ば過ぎたというのに、週末は2日間雪!だった、、、!!
やっと今日は太陽が出て、室内から外を見る限りでは春のような日差しの良いお天気なのだが、、、 実は気温は1度程で風がビュビューと吹き止まない。なんという寒さ!
3月でこんな気候というのは初めてだ。そういえばまだ私が小学生の頃、東京に「3月の大雪」が降った事があったっけ。あの時以来かなあ〜。それでもあの時だってもっと3月初めだったと思うけどね〜

オリンピックも終わって、パラリンピックが始まってるけれど、やっぱりこちらの方は放映が少ない。なぜかいつもテレビをつけると車椅子カーリング。こちらはスウィープは無いのね。

さて、とても評価が高かったので急遽観てきた芝居。「Beginning
パーティーが終わった後、知り合ったばかりの、なんとなく惹かれあった40近い男女が、初めての出会いの会話から少しずつ二人の関係を初めていきそうなところまで、深夜から明け方までの会話劇だ。

出演者はローラとダニーの二人だけだ。ローラのフラットで週末パーティーが終わった所。直接の知り合いではなく、ローラの友人の友達としてパーティーにやってきたダニーは初めて会った彼女に惹かれて、みんなが帰っていくのになんとなく最後まで残ってしまう。壁の時計は夜中の2時半を指している。「タクシーを呼ぼうか」と言うローラと、なんとなくこのまま別れてしまいたくなくて、たわいのない話を続けようとするダニー。
Unknown-1

そしてローラの方も、まだよく知らないダニーに何かを感じて別れがたく思って話し続ける。二人はティーンエイジャーではない。ダニーには別れた妻と娘がおり、ローラにもそれなりの過去があって今は一人でいる。そんな二人がお互いに探りながら、迷いながら、でも何かを始めたくて、ぎこちなく会話を続けていく。若い時のように、「パーティーの勢いでワーっと盛り上がって一夜限りを楽しんで終わり!」と言うようなエネルギーはもうない、、、でも誰かと新しい関係を始めたくて、でもそれが良いのかどうか迷い、踏み込む勇気が絞り出せない。

大人二人のとてもぎこちなくて、とても正直な会話が続く。

ベッドに行かない?
その後は?
一緒に眠るの。
朝になったら?
、、、、朝ごはん食べに行こうか
それから、、、?
、、、、
「じゃあね!」って別れてもう2度と会わないってか?
、、、そうじゃなくて、、、、


もう若くないから、慎重になってしまう。でもお互いに惹かれている。今の波風立たない毎日を変えるのは怖い。そんな葛藤が不器用な会話になり、またはやけっぱちな大胆さになって夜が老けていく。少しずつ自分たちの事を語る中に、普通の30 somethingの人生が垣間見えて、時にユーモラスにそしてシリアスに語り合う。

部屋の時計が4時になる頃、二人はフィッシュフィンガーサンドイッチを食べ、そのまま一緒に眠って明日の朝食を一緒に食べることにする、、、、迷いに迷った会話の後に、やっと見えてきた二人の「始まり=Beginning」
Unknown


とてもデリケートな会話シーンの連続で、二人だけで1時間40分の会話劇を持たせるのは大変だ。最初は「いい大人が何をもたもたやってるんだ、、」と思いながら観ているのだけれど、いや、大人だから勢いで恋愛を始められないのが現実なのだ。過去のこと、今の自分の生活、そしてこれを変えてしまうだろうこれからの事、新しい恋愛を始めたいのに戸惑ってしまう二人。

新しい人に出会ったとき、これから二人がどうなっていくのか、その関係を始める事が正しいのか、すぐには解らないし決められない。どこにでもいる、平凡な普通の男女の心境だ。

場面や状況に展開はないし、ただ部屋の中で話しているだけの設定なので、役者たちの正直な演技だけが頼りだ。でも飽きる事なく、なんとなく「わかるなあ〜」と思いながら時間が過ぎていく。最後には「頑張れ!一歩踏み出せ!」と応援してしまっていた。

今回のAmbassadars Theatreはもしかしたら私は初めてだったかも、、、、?30年以上ロンドンで芝居を観ているというのに、まだ来ていない劇場があったのか、それとも、もうずっと前に来たのを忘れていたか、、、? (実は他にも私が一度も行っていない劇場がこの隣で、66年のロングランを続けるアガサ・クリスティーの「Mouse Trap」をやっているSt. Martins Theatreだ。)

派手さはないけれど、とても共感できる大人の恋愛へのBeginning。小劇場でも良いかもしれないね。スタジオみたいな空間でも良い芝居になるかも。小さな短編小説を読んだような気分にさせられた。
 


不条理劇」と言う分野にサミュエル•ベケットの「ゴドーを待ちながら」やハロルド•ピンターの作品がよくあげられる。日本では別役実さんなんかも似た作風のものを描いていた。(芝居を始めた頃に別役実氏の芝居を観て、一緒に観た仲間と延々と話し合ったことがある)
今年初シアターはThe Birthday Party、ハロルド•ピンターの作品。ピンター氏の本は、理論的に筋が通っていようがいまいが、感情を揺さぶって強引に展開していく。時として「何故なのか」「誰なのか」「本当なのか嘘なのか」解らないままに怒ったり怯えたりする状況が繰り広げられる

6361-1509627409-bday500x500

海辺の少し古びた感じのB&B(民宿)のような家。経営しているのは主人のピーティーとメグの初老夫婦。でも泊り客は1年程前にふらりとやってきて以来居ついている、スタンリーだけだ。スタンリーは30代後半くらいか、、? メグとの話の中で、昔はピアニストとしてあちこち演奏して回っていたらしい事がわかる。なんとなく半分息子のようなスタンリーに対して、メグはランドレディーというよりは、母親、あるいはもう少し親密な(?)態度で接している。

散歩から戻ったピーティーは、街で会った二人の男達に宿を提供する事にしたから、午後には彼らがやってくると告げる。そしてやってきた二人組のゴールドバーグとマッカーン。でも何故かこの二人の来訪を知ってからスタンリーの様子がおかしくなる
その日はスタンリーの誕生日だと言うことで、気乗りしない当人をよそに、メグやゴールドバーグ達は密かにパーティーを計画する。ところが次第にスタンリーはやってきた二人におびえ始め、パーティーが進むうちにどんどん追い詰められていき、遂には精神的に壊れてしまう•••••
event-gallery-image_14728

何故この二人がやってきたのか、彼らは誰なのか、また、スタンリーの過去は本当なのか、何故二人は彼を責め立てて追い詰めるのか、そして最後に正気を失ったスタンリーを何処へ連れて行ったのか、、、、??? 
それらに答えはない。解らないまま芝居は進み、感情を揺さぶられ、観ているこちらも言い知れぬ恐怖感を覚えずにはいられない

1幕目は穏やかにで、セリフのトーンも間もゆっくりと進む。ピーティーとメグの会話はお互いに同じ事を繰り返したり、あらかじめ相手が何を言うかわかっているかのように聞いていなかったりする。客というよりは居候のようなスタンリーに対して、いつまでも起きてこない息子(といってもいい大人)に朝食を用意したり起こすタイミングを気にしたりしているメグの様子はもちょっとヘンだ。

パーティーになるとゴールドバーグとマッカーンに威圧感がどんどん増していく。明らかにスタンリーは彼らにおびえている。何故なのか、、、??解らないままにパーティーは進み、二人組の態度はどんどん冷酷になって行き、スタンリーはとうとう取り乱し、メグの首を締めようとまでする。ところが酔っ払っていたマグは次の朝には覚えていなくて、「楽しいパーティーだったわ〜」と夢うつつになっていて、一夜にしてスタンリーが壊れてしまった事には気づかない•••••

ハロルド•ピンター氏は2005年にノーベル文学賞を受賞した。受賞の理由は「日常の何気ない無駄話の下に潜む危機感を浮き彫りにし、人間の抑圧され、閉じられた空間に押し入っていった」というもの。
この芝居でも、ストーリーに沿って気持ちが動くのではなく、曖昧な状態でも感情を揺さぶり、精神を壊すことができるのだという事を観客に納得させてしまう

嘘か本当か、夢か現実か、何も起こっていないのに過剰反応していく人間の心理、観ているうちになんとも怖くなってくるのだ。

でも、これも特別な事ではないのだ思う。例えば、私はいつも電車の駅までバスで行くのだが、バス停から駅のホームまで、何気なく駆け足すると、なんと後ろからみんな走り出す。別にまだ時間は大丈夫なのだが、必ず、100%皆んなが走り出すのだ。訳もなく、一人が走り始めたから不安になって焦り、なんだか必死になって皆んな走るのだ。決して非現実的ではない心理。

言葉の繰り返しと間がなんとも言えない。この芝居の初演は不評で、わずか1週間ほどで終わってしまい、そのあと、ピンター氏自身の演出で再演されたという。最初の演出家をピンター氏は気に入らなかったようだ。本をどう理解するか、、、理解できない本を納得させるにはどうするか、という事なのだろう。
ダークで、でもコミカルで、よく料理された舞台だった

 


とうとう今年も終わってしまう。本当に早かった。今年の前半はマヨルカのホリデー以外にほとんど記憶がない。でも秋頃から少しずつ来年に向けて進み始めた感じもする

今年最後の舞台は私の好きなHampstead theatreでの公演。いつも良い演目でレベルも期待はずれだった事がほとんどない。演目は「Cell Mates」解りやすく訳すと要するに「務所仲間」という意味だ。

CellMatesV2List


イギリスでは大きなスキャンダルになってその名を残した1950年代のダブルエージェント=二重スパイだったジョージ•ブレイクと、そのブレイクと刑務所で知り合って後にブレイクの脱獄を助け、後にソビエトで合流するアイルランド人のショーン•バークの話。イギリス諜報部に身を置きながら、ソ連のKGBに情報を漏洩するダブルエージェントである事が明るみに出て、ブレイクは42年の刑を受けていた。刑務所の図書室で知り合ったショーンは軽犯罪の常習犯で、刑事に爆発物を送りつけたかどで、ブレイクと同じ刑務所に入っていた。ショーンの方は刑も軽かったので、先に出所していたショーンは他にも刑務所内で知り合った3人と協力してジョージの脱獄を手助けする

脱獄という緊張と、逃げる際に怪我をして異常に神経質なジョージを、ショーンは励まし、慰めて隠れ家でのジョージの面倒をみる。そして二人の間には切り難い強い絆が生まれて行く。その後、ジョージを無事にモスクワまで脱出させた後、アイルランドに帰るつもりだったショーンはジョージのたっての願いで「1週間のホリデー」のつもりでモスクワの彼と合流する。

cellmates1


モスクワに着いて再開を喜び合う二人。だがその後、どうやらKGBに疑われているらしいショーンは徐々に囚われの身になって行く。1週間のつもりが、どうも半年は出国を許されそうにない。そしてモスクワで編集者としての仕事もKGBから与えられる。本当は一刻も早くアイルランドに帰りたいのに、ジョージの友人として時々やってくる二人のKGBオフィサーは地を這うような重苦しいトーンで、ショーンに「ここにいて欲しいんだよな」と再三告げる。やがて半年が過ぎて今度こそは国に帰れると思ったショーンにジョージは告げる、「KGBはあと5年、君にここに留まるようにと言っている」と。そして「5年ならまだましなんだ、君を殺さないように僕が哀願したんだから」、、、、たまらなくなってショーンは ジョージの家から逃げ出してしまう

6週間が過ぎ、ボロボロになったショーンが戻ってくる。森の中に身を隠して野宿していたのだ。絶望したショーンにジョージは真実を告げる、本当はKGBはショーンの帰国を規制していなかった事、5年どころか、半年もいなくてよかったのだ。「君に行って欲しくなかったんだ、、、」「ここにいて欲しかったんだ」と。

この二人の関係については、明確な答えが出されていない。同性愛的な感情があったのか、あくまで律儀で友情に厚い親友なのか、祖国を持たない寂しさを埋める存在だったのか、、、、

ジョージ役のGeoffrey Streatfieldはなんとなくゲイっぽい雰囲気を醸し出している。ブレイクには妻と子供たちもいたが、服役後に離婚が成立している。一方のショーンは、どうして悪名高いスパイだったジョージの脱獄を手助けし、危険を冒して匿い、モスクワまで逃したのか。彼には恋人はいなかったのか?モスクワのジョージの家のメイドとは仲良くなって、「家族みたいだ」と言ってはいたけれど、恋人関係ではないようだ。この二人の関係をあえて明確にしない事で、タイトルの「Cell mates」に意味を持たせているのか、、、??

前半の、脱獄してきて混乱し、弱って傷ついたジョージを懸命に面倒見るショーンと、モスクワで、すっかり二重スパイらしい冷酷さと威厳を取り戻したジョージと、KGBの圧力に酒量が増えていくショーンの精神的立場の逆転が見事に出ている。ジョージの嘘はショーンを追い詰め、決別へと向かって行く。まっすぐにジョージを親友と信じているショーンと、どこかしらスパイらしい冷めた表情を時折見せるジョージの微妙な関係。

ジョージ•ブレイクは英国籍だけれど、生まれはオランダで、ブレイクという姓もイギリスに来てから変えたものだ。父はユダヤ系のエジプト人で10代の頃はカイロの親戚の所で育った。17歳でオランダに戻ったが第二次大戦が始まり、ドイツ軍が侵略してくるとイギリスに逃れた。そしてブレイク氏は95歳の今もロシアで暮らしている。「私は英国を裏切ったとは思っていない。自分を英国人だと感じたことはない。裏切る為にはまずそこに所属していなくては裏切れない」と語っている。

実はこの芝居は95年に初演された。最初は小劇場から始まって、地方をツアーした後、ウエストエンドで幕を開けた。ジョージ役にはイギリスでも人気で時の話題人でもあったスティーヴン•フライが配役されていたのだが、地方公演を終えてウエストエンドに来てわずか三日で逃げてしまった。文字通り突然海外に行ってしまって舞台を放り出してしまったのだ。この時は大事件で、当人のうつ状態が取りざたされたりして、数日メディアを沸かせたものだ。代役がたったのものの、結局1ヶ月ほどで幕を閉じてしまった。

だから今回の再演は大きな意味がある。この芝居の本当の魅力をきっちりと描き出して、評判は5つ星が並ぶ。状況によって変わって行く人間の心理と立場。主役以外の3人は前半と後半で二役を演じて、これがまた演出上成功している。とてもエモーショナルで、それでいて微妙な曖昧さを残して終わるあたり、見ごたえありながらデリケートな作品になっている。

今年もこうして終わって行く。
来年はもっと明確なビジョンを持って一年を送りたい。また新たに進まなくちゃね

皆様も、良いお年をお迎えください


 


数年前にポランスキー監督の映画を観て、元の舞台版が観たいと思った芝居、Venus in Fur(毛皮のヴィーナス)がロンドンで上演されている。
VIF_Haymarket-Web-Buttons_276x425-NEW

脚本はDavid Ives、初演は2010年にオフ•ブロードウェイで、後にブロードウェイに乗っている。ポランスキー監督が映画にしたのが2012年だから、映画化としては早い方か、、、 本来の原作はザッハー•マゾッホで、マゾヒズムの語源になったという。
話の展開は映画を見た時の感想に書いたので、ちょっと端折ってしまおう。こちらを参照してください

映画版はパリの小さな劇場でのオーディションという設定だったけれど、本来の舞台版は、アメリカで書かれている。今回の演出で面白かったのは、一応アメリカでの話という事で、トマもヴァンダも素で話す時はアメリカンな英語で喋っている

演じている俳優はもちろん二人ともイギリスの役者なのだが、実はこの二人、ナタリー•ドルマーもデヴィッド•オークスもアメリカのテレビドラマや映画にも出演していて、なかなかナチュラルなアメリカンを話す。そしてオーディション内の役柄、クルジェミスキーとヴァンダを演じている時は、設定がクラシックでヨーロッパという事なのだろう、イギリス英語でセリフが語られていく。だからオーディションとして台本を読んでいる時と、作・演出家と女優に戻った時の会話のやり取りが、芝居と素の状態が聞いているだけで区別できて解りやすい

映画を見た時はフランス語のセリフを英語のサブタイトルで観ていたのだけれど、今回全編英語で聞いてみると、台詞にかなり笑える要素が散りばめられている。 結構コメディーっぽい掛け合いもあるので、セクシャルでダークなイメージが気恥ずかしくなるという事が無かった。

最初からヴァンダはピチピチの女王様スタイルで黒いパンティー丸見えなので、男性じゃ無くてもやっぱりむき出しの足やお尻に目がいってしまうのは仕方ない、という事か••••• う〜〜ん、スタイル抜群で女性としてはひたすら羨ましい限り 映画版よりは二人ともずっと若い。ヴァンダ役のナタリーは一見可愛い顔でキュートな笑顔を持ちながら、男を自分のペースに巻き込むパワフルな魅力を持っている。そしてトマ役のデヴィッドは知的で素直な笑顔が魅力的で、あまりダークな秘密は表に出さない演技 がナチュラルだ。

映画版は最後の最後がなんだか「ん、、??よくわからない、、?」と思いながら突然終わってしまった感じだったけれど、今回はそのあたりは収拾がついた。それでも、一体このヴァンダと名乗るとんでもないゴリ押し女優は何者なのか??というあたりはなんとなくミステリアスなままだ。首に縄をかけられ、柱に縛られたトマが叫ぶ、「お前は一体誰なんだ

最初からまだ出回っていないはずの上演台本を持っていたり、トマが求める役とは真反対のイメージで登場しながら、本読みを始めると思った通りの役柄を演じてみせる。またやたらとプライベートな事=トマの奥さんの履歴まで知っていたり、(後で、「実は奥さんとはジムで知り合ったのよ」と言っていたが、真相は不明??)一体この女は何者なのか??!

venus-in-fur-production280-min


夢、あるいは幻という言葉が合うかどうかはわからないけれど、もしかしたらこれはトマの妄想、いや願望なのではないだろうか?自分が書いた脚本のオーディションに来た女優たちはどれもハズレで、失望にも似た気分の中でトマは妄想する、、、、こんな女がオーディションに飛び込んで来たら、、、こんな女が自分の書いた芝居を完璧に理解して役を理想的に演じてくれたら、、そして自分の奥底にある真実の願望と欲望に目覚めさせてくれたら、、、、 

嵐の夜の、劇場の片隅で一人の男が見た幻想、、、?

それにしても二人の役者のケミストリーが素晴らしい。映画版も好きだったけど、やっぱり舞台での芝居だね。日本ではやれる人がいるかなあ〜?と思ったけれど、稲垣吾郎さんと中越典子さんで上演されたそうだ。う〜〜ん、なかなかいいかも、中越さんならこの役、いいだろうな。そして稲垣さんの知的で素朴なイメージは結構あってるかも。

休憩なしの1時間半、グイグイと観客を引っ張りながらちょっと怪しい摩訶不思議な空間に連れていってくれた感じ。 テレビに、映画に、舞台にと幅広く活躍する役者同士、かなりレベルの高い演技を見せてくれた

3年前にオープンした時、いろんな役者達がこぞって「また面白い場所ができた」と集まり話題を よんだFinsbury ParkのPark Theatre。スタジオ式の空間は一応ギャラリーも3列あって、総席数は200程、Donmar Werehouseくらいの空間かな。ウェストエンドの劇場とは違う芝居空間が妙に安心感があって私は好きなのだ。

今回はジョー•オートンのLootという芝居。オートンについては前にこちらで書いたとおり、60年代、労働党政権のイギリスに爆風を起こしてあっという間に消えて(死んで)行ってしまった劇作家だ。
このLootは彼の3作目の芝居で、これが大ヒットとなり、いくつかの賞を受賞している。
LOOT-10


場面は葬儀屋の準備室、舞台中央にはこれから葬儀という棺桶。亡くなったのはマクレヴィー夫人で、彼女の葬儀の準備をするのは夫のマクレヴィー氏と夫人の看護師だったフェイ。フェイは早速亡くなった夫人のスリッパを自分で履いていたり、これからの人生をまた生きなくてはと、マクレヴィー氏に再婚(自分との)薦めたりと、気後れもなくちゃっかり自分の立場を確保する手段を進めている。

実はこの前日に葬儀屋の隣にある銀行に強盗が入った。やったのはマクレヴィーの息子ハルと、この葬儀屋 で働くハルとは幼馴染(で恋人?)のデニスだ。二人は盗んだお金を棺桶を保管している部屋のクローゼットに隠している。いつまでもクローゼットに入れておけないということで、二人は棺桶の中にお金を移すことにする。そうなると棺桶に横たわる母親=マクレヴィー夫人をクローゼットに移さなくてはならない、、、そうこうするうちに刑事のトラスコットが銀行強盗の事を調べに水道屋と偽ってハルに話を聞きに来る。嘘がつけないハル、「本当に刑事か??」と最後まで疑いたくなるような強烈なキャラのトラスコット、彼らの銀行強盗の事を感づき、山分けに参加するフェイ、妻の残したお金で薔薇園を作りたいと語るひたすら善良なマクレヴィー氏。

とにかく台詞の応酬がオートンらしく「あり得な〜〜い!!」の連続だ

夫人の遺体はミイラ加工されていて、その死体を隠したり、服を脱がせたり義眼を取り出したり、社会的な良識からは考えられないような事が実におかしく繰り広げられる。葬儀に行く途中で車が事故にあったり、刑事のトラスコットに問い詰められたハルが嘘がつけずに銀行強盗を白状したのに、今度はトラスコットがそれを信じなかったりと、今までのやりとりがいきなりひっくり返ったりする展開は唸りたくなるほど軽快で絶妙な台詞の掛け合いだ。実はフェイには過去に7回の結婚歴があり、その夫達はみんな不審な死を遂げたり行方不明になっているのだった。最後にはトラスコットまでお金の山分けに参加することになる
TELEM


正直者は一人もいないのかあ〜!と思う反面、みんなそれで納得して大笑いしているのだから 、この空気をどう説明したものやら、、、、

他の芝居ではもしかしたら人形(マネキン)を使うのかもしれないが、実は死体のマクレヴィー夫人もちゃんと役者が演じている。これが本当に影の主役。一言のセリフもなく、自分で動くことも一切ない「死体」を見事に演じていて、これが演出で一番だったかも。クローゼットに逆立ち状態で入れられたり、服を全部脱がされて、シーツでぐるぐる巻きにされた状態で車椅子に乗せられたり、 棺桶の下に足で押しやられたり、、、それでもひたすらミイラの役だ。
4288


笑い、というものの意味をこんなにも皮肉な形で芝居にすることができたジョー•オートンの作品をもっと沢山観てみたかったね。銀行強盗を見逃してお金を山分けしようという刑事や、死者であり母への冒涜を恐れないハルの振る舞い、結婚しようとプロポーズしながらしっかりホモ/バイセクシャル なデニス、
7人の夫殺しの上、もしかして夫人を死なせたのも、、、?と思わせるトンデモ女のフェイ、これだけ揃えばもう怖いものなしで世の中を渡っていけるような気さえしてくる

このPark Theatreはカフェバーも劇場とは違って、ちょっとクリエイティヴな感じの空間だ。フィンズベリーパークの周辺は結構アーティストも多いエリアなので、役者やミュージシャン、ダンサーなんかも住んでいる。まあ、駅裏のガード下にはホームレスも住んでいるようだけれど、、、
ロンドンらしい環境でのイギリスらしい芝居、こんな時間がやっぱりすごく好きだなあ〜〜
 

↑このページのトップヘ