見つけもの @ そこかしこ

ちょっと見つけて嬉しい事、そこら辺にあって感動したもの、大好きなもの、沢山あるよね。

ロンドン演劇事情

Les Liaisons Dangereuses - リベンジ鑑賞


やっと観て来た、シアターライブのアンコール上映、Les Liaisons Dangereuses(危険な関係)。 前回はリアルタイムのライヴ上映で楽しみにしてたのに、映画館の中継レシーバーの不具合でまともに観られず、返金してもらってトボトボ帰ってきたのだった、、、

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本当にね、革命数年前のフランスで皆が表紙を隠して読んでいたというのがよく解るわ〜〜
私がこの芝居を最初に観たのは86年の初演、ヴァルモンは先日亡くなったアラン・リックマン、 マルテュイユ夫人はリンゼイ・ダンカンというキャスティングだった。

何よりもこのクリストファー・ハンプトンの戯曲はその後に映画化されたヴァージョンがすごく良い。ジョン・マルコヴィッチとグレン・クロースのコンビは観ていてゾクゾクする程非情でセクシーで、貴族の恋愛ゲームのいやらしさ満開だった。同じ戯曲は世界中で翻訳されて、(日本でも上演されたはず)中には設定をもっと現代風したプロダクションもあったみたいだけれど、今回のDonmar Warehouseの芝居は本が書かれた18世紀の 貴族の館をセットにしていて、衣装といい、シャンデリアといい、館の小部屋での室内劇=Chamber Playのような空気を再現している

マルテュイユ夫人は男に恋をして甘える女ではない。男に恋をさせて自分にひざまずかせる事に喜びを見いだす女だ。そして聡明で、美しく、 セクシーで毒を持つ。同じように女を次々と落として恋愛ゲームを楽しむヴァルモンと、初めは同等のようでいて、やがてそれが崩れて行く様は、数年後に起こる貴族社会の崩壊を暗示するかのようだ

心をもてあそび、元彼への当てつけに純真な少女の純血を奪う。貞淑な妻の心を砕き、本心を押し隠して残酷な仕打ちをする、そして最期に滅びたのは男のほうだ。

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マルテュイユ役のJanet McTeerはまさにはまり役。映画のグレン・クロースを超えられるか、、、?と密かに思っていたのだけれど、素晴らしかった。いや、美貌でいえばむしろグレンに勝っている、、?ヴァルモン役のDominic Westは以前に他の芝居で観たときにはあんまり、、、と思ったのだが、これまた凄く良くて、かつチャーミングだ。セシル役のMorfydd Clarkとテュルベル夫人のElain Cassidyのお二人は、修道院学校出の純情な15歳 / 信仰厚い貞淑な妻から、ヴァルモンの手に堕ちるや一転して、艶やかな、夜を待つ女のような顔になる変貌ぶりが目を見張る

Donmar Warehouseはその名のとおり、客席200に満たないスタジオ劇場だ。その空間の中で繰り広げられる恋愛・性愛ゲーム。やっぱり舞台で直接観たかったなあ、、、でも中継上映でも充分このプロダクションの魅力は味わえる。

好きなのよねえ〜〜この芝居!

もともとラクロの原作小説は「手紙の寄せ集め」という形式で描かれている。物語を綴るのではなく、登場人物達の間でやり取りされる手紙の内容によってストーリーが繋がっていく。私は初演を観た後に英語版で読み始めたけれど、あの当時はまだイギリスに来て1年目、ちょっと古めかしい言葉遣いだし、誰から誰への、いつの日付の手紙なのかを把握しながら読むのに結構 時間がかかってしまって、半分くらいで中断していた。そうしたら映画版ができて、なんだか「危険な関係」といえばハンプトン氏の戯曲、という意識になってしまった

ちゃんと本で読んでみようかな。だってこんなにセクシーで残酷な恋愛ゲームを 、人の手紙を盗み読む事で追っていくなんて、やっぱりゾクゾクしちゃうものがあるよね。マリー・アントワネットの図書室にもカバーを隠してあったというのは有名な話。堕落した貴族達の貞操観念がそのまま貴族の滅亡(革命)に繋がっていったのかも・・・・

復活のLazarus / ドリアン・グレーの肖像


聖書の中にある、イエス・キリストがラザロ(ラザラス)という男を死後4日目にして蘇らせたという話は有名だ。ボウイーの死後、彼の50年近くに渡るキャリアに対するフィードバックが白熱している。70年代、80年代が青春期だった人達にとって、彼の影響力は計り知れないものがあった。音楽だけでなく、ファッションや金融、インターネットと、常に時代を先取りしてきたアーティストとして、好き嫌いはあるにせよ、彼の残した足跡の大きさは皆が認めている。

亡くなった週末のUKチャートでは、遺作のBlackstarがロケット並みの売り上げで1位となり、トップ40に10枚、トップ100に19枚のアルバムがチャート入りするという凄い現象が起きた。そしてアメリカでも初のアルバム1位に。まあ、これも亡くなった勢いというものだけれど、2週目になっても、一位は変わらず、トップ40に9枚(と41位)、トップ100に 19枚のアルバムが入っている。チャートの20%を一人のアーティストが占めるなんて尋常じゃないよ、、、ボウイーらしい「ラザロの復活」だ

さて、今年初の芝居は座席数100のトラファルガー・スタジオでの「The picture of Dorian Gray
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オスカー・ワイルドの代表作だが、これは元々戯曲ではない。最初に文芸雑誌に掲載された際には、当時は違法だった同性愛の色が出ているという事で、編集者によって添削されてしまった

今回の台本は、ワイルドの孫でもあるマーリン・ホランド氏の協力でオリジナル原稿から削除されてしまった部分を取り入れた新しい本という事だった。
この配役、ヘンリー卿とドリアンのキャラクターが、見ての通り実際のワイルドと恋人だったダグラス卿に瓜二つ

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 よく言うと、完結でシンプル。大げさなエロティシズムや廃退的な空気は無くて、純真だったドリアンが快楽主義者のヘンリー卿に影響されてどんどん変わっていく、という従来の解釈とは少し違う。ヘンリー卿は確かにドリアンに新しい道を教えてしまうのだけれど、ドリアン自身が自分の悪を吸収してくれる肖像画を利用していく。

清らかで美しいドリアンの絵を描いた画家のバジルは、自分の愛(同性愛)のたけを込めて 最高の絵を描いたのに、どんどん変わっていってしまうドリアンに心を痛め、思いを打ち明ける。この部分が発刊時に削除されたようだ。

このドリアンは自分の夢の世界に生きる事を選んでしまったように思う。最初に恋した女優のシヴィルも、彼女自身ではなく、彼女の演じるジュリエットやオフィーリアに魅せられてしまったにすぎない。ヘンリー卿の言葉よりも、その思想を自分の中で幻想の世界として作り上げてその中で生きて行き、自身の肖像画にそのツケをなすり付ける、、、、

これが本当にオスカー・ワイルドが描きたかったドリアン・グレーだ」というホランド氏。今までのドラマチックで堕落なエロティシズム満載のドリアン・グレーとはかなり違う。ワイルド自身はこう言っていたそうだ、「僕自身は画家のシヴィル、ヘンリー卿は世間が僕だと思っているキャラクター、そしてドリアンは僕がなりたかった人物

なにせ客席100のスタジオだから、役者が動ける範囲はせいぜい5-6歩。その中で、少ない置道具を頻繁に転換しながら、シンプルな芝居に創っている。本来のドリアン・グレーが好きな人たちにはちょっと物足りないかもしれないね。でもちょっと違った見方ができて、初めてこの作品に触れる人には解り易いと思う

でもやっぱりもう少し、ヘンリー卿の名言を取り入れて、ワイルドらしい怪しい空気があっても良かったんじゃないかなあ〜〜・・・

Mr Foote's Other Legー忘れられた18世紀の名優


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18世紀の中〜後半ヨーロッパには面白い人達が沢山いた。科学・産業が大きく進展していく直前、まだ電気もなく抗生物質も無い時代に、それでも当時の最高の能力・技術を生かして、後の産業革命や医学の発展に繋げていった時代だ。 そんな時代にロンドンで大人気だった俳優/コメディアンのSamuel Foote(サミュエル・フット)の事は実は今はほとんど知られていない。私も知らなかったし、イギリス人だって聞いた事が無い名前だ。「忘れられた名優」にスポットを当てた伝記を元に舞台化したのが、「Mr Foote's Other Leg」だ。

ピューリタン革命によって一時王政が廃止されてからは劇場でのパフォーマンスは禁じられていた。チャールズ2世の時に王政が復古すると、ロンドンのあちこちで貴族だけでなく民衆が手を叩いて喜べるコメディーや風刺劇が広まった。「三文オペラ」のオリジナル、「Beggers Opera」がその代表といえる。18世紀のロンドンではあちこちでコメディー劇やパントマイム(派手な化粧や衣装で、今でいう子供ミュージカルのような色の芝居)が演じられたが、シリアスなストーリーのドラマを演じる事ができたのは、国王からRoyalのタイトルを付ける事が許された3劇場のみだった。

借金の為に2度も刑務所に入った事のあるフットは、オックスフォード大学を、贅沢な金遣いや、規則を破っての度重なる外泊等によって除籍されてしまったという経歴の持ち主。それでもロンドンのコーヒーハウスで各方面で活躍するアーティスト達と出会い、独特の奇抜な色使いの服装と、皆を爆笑の渦に巻き込むウィットな会話で交遊の輪を広げて行く。プロの俳優になるべくチャールズ・マックリン(Charles Macklin)の元で学ぶうち、ロンドンの舞台に出るようになる。そしてそのユーモアのセンスで独自の戯曲も書き、コメディアンとしても俳優としても大人気を得て行く。特にハンサムというわけでは無いけれど、一度会ったら覚えているだろうな、という印象の肖像画がこちら

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当時、シリアスな名優として人気のあったデヴィッド・ギャリック(Daved Garrick)や女優のペグ・ウォッフィントンとチームを組んで、数々のショーで活躍する中、35歳の時に落馬事故で右足を負傷し、切断しなければならなくなった。麻酔も抗生物質も無い時代に大の大人の足を切断する手術が、いかに危険で、苦痛を伴う大仕事だったかは想像を絶する・・・・・

それでもフットは回復し、国王の外科医だったジョン・ハンター(John Hunter)によって作られた義足を付けて舞台に復活する。彼のユーモアのセンスは自分が片足を無くした事までネタにして笑いを提供した。この自分をネタに笑わせるというのは、イギリスのユーモアの特徴でもある。自分をバカにできない堅物は「ユーモアのセンスが無い」という事になるのだ。ちなみにまだ23歳の時に彼が最初に注目されたのは、自分の叔父同士が遺産がらみで相手を殺してしまった事実をネタに書いた本によってだった。

この芝居には俳優として人気のあったギャリックやマックリンの他にも、ベンジャミン・フランクリンや国王ジョージ3世も登場して、当時のロンドンの楽屋裏を見せてくれる。なによりも、フットはこの芝居が上演されているTheatre Royal Haymarketのオーナーでもあったのだ。落馬した時に乗っていた馬が国王の弟、エドワード王子のものだった為、片足を無くしたフットに国王は(しぶしぶ?)ロイヤルライセンスを許可したのだった。こうしてRoyalの名称をもらったHaymarket劇場で、今私たちがこの芝居を観ているというのは何とも感慨深い
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主演のRuss Simon Bealeはローレンス・オリビエ賞を始め、英国での数ある演劇賞を一度は取ったであろうベテランだ。カツラを替え、女物のドレスを着、化粧を変えて「舞台でのフット」をいくつも演じる。ギャリックやペグとの友情、科学者フランクリンからの影響、熱気の籠る劇場楽屋での話し合いや舞台裏で、お客を楽しませる芝居に情熱を込めた彼らの姿が生きている

この芝居でジョージ3世役を演じているのは、この芝居の脚本と、オリジナルになったフットの伝記を書いたイアン・ケリー(Ian Kelly)自身だ。私はこの芝居を観て初めてサム・フットの事を知ったので、早速AmazonのKindleで見つけたケリー氏による伝記本をダウンロードして読み始めた。脚本も面白かったけれど、この本がまた当時の18世紀の空気満載で面白いそういえば、カサノバがロンドンにいた時期にも重なる。

またまた18世紀の掘り出し物に出会った感じ。まだまだ面白い事が見つかりそう、、、、



The Winter's Tale -Kenneth Branagh Theatre company


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ケネス・ブラナーといえば、やっぱり一番にシェイクスピアだ。もちろん他にもいろんなキャラクターで映画にも舞台にもそして演出・監督としても活躍しているけれど、シェイクスピアでの彼は「帰って来た」評される。
この秋から来年の冬までKenneth Branagh Theatre Companyと称して3ヶ月ずつ6作品をGarrick Theatreで続けて上演すると発表されたのが今年の春。その第一弾がシェイクスピアの「The Winter's Tale=冬物語」だ。この6公演はそれぞれにスタークラスの役者が出演し、さらに年齢層の広いキャスティングで早くから話題になっていた

意外と見た事がなかった「冬物語」だ。この本はコメディータッチでもあり、シェイクスピアの作品としてはロマンス劇に入るが、「問題劇」だという人もいる。オセローのような嫉妬心と猜疑心に取り付かれ、ハムレットのように自問自答しながら激情のあげくに自分を見失っていくシシリーの王が中心の一幕。2幕では農夫や道化、詐欺師達が歌い、踊りながら繰り広げる、ボヘミアの王子と羊飼いの娘の恋が中心。重すぎず、軽すぎず、難しすぎず、丁度良いバランスで飽きのこない作品だ

シシリー王のレオンティーズは幼なじみのボヘミア王のポリクシニーズを久しぶりに迎えていたが、「もう少し滞在していってくださいな」としきりに言う妻(王妃ハーマイオニー)と、その言葉に従って1日、2日と滞在を延ばすポリクシニーズが不倫関係にあるのではないかと疑い始める。嫉妬というのは恐ろしいもので、疑いだしたら一気に確信に代わり、どんどん高揚していって、家臣に「あいつを殺せ」とまで言い出してしまうのだ、、、、命を受けた家臣のカミローは、さすがに王の誤解だと解っているので、ポリクシニーズと共に密かにボヘミアへ出立する。身重のハーマイオニーは王の激情によって監禁され、生まれた子供は別の家臣アンティゴーナスに「捨ててくるように」と託されてしまう
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実はこの捨てられた王女がやがてボヘミアで羊飼いに拾われて美しく成長し、ボヘミアの王子(ポリクシニーズの息子) が彼女に恋をする、、、まあ、最期は二人の王は仲直りし、若き王子は シシリーの王女だと解った羊飼いの娘と婚約し、獄中で死んだと思われていた王妃もアンティゴーナスの妻に匿われていきており、16年振りにハッピーエンドとなるのだった

とまあ、ごった煮のようなストーリーだけれど、やっぱりブラナー氏の解釈・演出でとてもポエティックなメルヘンに仕上がっているのだ
この舞台でブラナー氏と共に話題になっているのがアンティゴーナスの妻、ポーリーナを演じているジュディ・デンチ(Dame Judi Dench)だ。家臣なのだけれど、ハーマイオニーを16年間も密かに匿って世話をし、また時にはの語り部のような役も担っている。正気をなくした王に対してもへりくだらない、母親のような強いオーラを放っている。80を過ぎて、目も見えなくなってきている(AMD=加齢黄斑変性)というのに、圧倒的な存在感だ!

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演出はケネス・ブラナーとロブ・アッシュフォードで、舞台全体がとてもロマンチックに冬の色を出している。それにしても若い頃のケネス・ブラナーといえば「ローレンス・オリビエの再来」と言われたものだ。凛とした声に強い目力、「演じている」という不自然さを全く感じさせないシェイクスピアの役のこなし方。解釈と演出のセンスの良さ。一時は「肥えたなあ〜〜、、」と思った時期もあったけれど、 奇麗に絞られていました。そしてベテランと若手の役者達の力量のバランスが凄い。カンパニーとして成功している。見応えのある面白い芝居を観た後の気持ち良さは格別だ。まさに、冬の夜にピッタリ。
 
この王子役の人、最近テレビドラマになった「ジキルとハイド」に主演していた人(Tom Bateman)だ。ハイド役の時のあまりのモンスターぶりに、見ていてあっけにとられてしまったけれど、濃い役者はやっぱり舞台が丁度いいのかも。テレビだと濃過ぎるんだね

シェイクスピア劇はRSCやグローブ座ではいつもやっているわりに、その他のプロダクションは意外と少ない。この「冬物語」だって、ウェストエンドで観たのは初めてだ。クリスマスにはバレエの「くるみ割り人形」があるように、冬にはこんな芝居が付き物でもいいんじゃないか・・・・

 

病んだ心に天使の声=Farinelli and The King


カストラート、一度その歌声を聴いてみたいと思ったものの、今ではそれはかなわず、一番近い所でカウンターテナーの声を探した時期があった。
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今回の芝居は18世紀初めのスペイン王、フェリペ5世とヨーロッパ一の歌声で大スターだったカストラートのカルロ・ファリネッリのお話。国王は極度の躁鬱病にかかっており、王妃(2度目の)イザベラ(エリザベッタ)や宰相達を手こずらせている。主治医から精神の安定には音楽が良いのではと助言された王妃は、当時のヨーロッパ一の歌声で大人気だったカストラート、ファリネッリをスペイン宮廷に呼び寄せる。国王はファリネッリの歌声で病んだ心に安らぎを見いだし、ほどなく国王にとってファリネッリの存在そのものが必要不可欠な程になっていく。

フランスの太陽王=ルイ14世の孫として生まれたフェリペ(フィリップ)はフランスのヨーロッパでの勢力拡大の為に王位継承者選びで困っていたスペインに新国王として即位することになる。(当時のヨーロッパ王家はなんらかの血縁関係があり、王位継承権は何通りも考えられた)スペイン語も話せないのに王になってしまった自分の運命を、フェリペは「自身で選んだ訳ではない」とファリネッリに話す。

一方のファリネッリは10歳の時に父が死んだ後、家族を経済的困難から救うため、兄の取り決めによって去勢され、カストラートとして生計を立てるべく訓練される。この芝居は、権力と名声を手にしながらも、どちらも「自分で望んで選んだ人生ではなかった」という共通点を持つ二人の友情と、夫をあくまでも国王として献身的に支え続ける王妃の3人の結びつきが描かれる。

フェリペ5世はファリネッリと王妃の3人だけで森の中での生活を夢見てマドリッドの宮廷から出てしまう。森の木の上に家を作り、農夫のような姿で夜の月明かりの下でファリネッリの天使の歌声を聴き、少しずつ精神が安定していくように思えた、、、、

実際にファリネッリはスペインに行ってからは国王と王族の為だけに歌い、錯乱のひどい王が昼と夜逆の生活になってからは、朝の5時半頃まで数曲のアリアを繰り返し歌っていたという。ヨーロッパ中から脚光を浴びていた大スターが、スペイン宮廷に20年以上も留まっていた。18世紀初めにはスペインではオペラはまだ広がっておらず、ファリネッリの力でやがてスペインにもオペラ劇場が建てられるようになる。
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実際に国王が森の中で暮らしたかどうかは定かでないが、音楽が精神の病に与える影響というのは実際に研究されてきた。統合失調症やアルツハイマー、強度の鬱病や躁鬱病、記憶喪失などにも音楽を用いたセラピーは効果を示しているという

劇中ではファリネッリが歌うシーンになると、ファリネッリ役の役者の横に影のようにもう一人、カウンターテナーのシンガーが登場して歌う。ファリネッリの台詞の中で、「歌う時は、自分の声なのにもう一人別の自分がいて、そこから声が出ているような感じがする」と言っているのもあり、このシャドウのようなシンガーの登場はあまり違和感は無い。

宮廷サロンにいるような、ゆったりとした夜のひと時、といった雰囲気の芝居だ。この本を書いたクレア・ヴァン・カンパンは実は戯曲家というよりは音楽家だ。Royal college of Musicを出ており、シェイクスピアのグローブ座で音楽担当もしている。また物書きとしては音楽関係の本もいくつか書いており、舞台の音楽も数多く担当しているので、この芝居の台本を書くに至ったという。
戯曲としての完成度は有名な劇作家達のような筆の技法は無いけれど、シンプルで穏やかなストーリーにバロックのアリアがちりばめられていてとても美しい作品になっている

こういう、サロン風の芝居も秋の夜長にはゆったりとしていて良い。スペインでの日々を終えた晩年のファリネッリの影で歌われるヘンデルのLascia ch'io piangaはとても美しい....
米良美一さんやPhillipe JarousskyのLascia ch'io piangaがとても好きだ。この芝居のラストにまさにふさわしい一曲。せっかくなので米良さん版を映画「ファリネッリ=カストラート」に合わせたヴァージョンをどうぞ。

ハムレットの調理法


一年以上前にチケットを取ってあったベネディクト・カンバーバッチ氏のハムレット。3週間程前になってやっと届いたチケットには「入場には写真付きIDが必要」と但し書きがついていたのだが、結局誰も何もチェックしなかったよ・・・

実はプレビューの頃から楽屋口にたむろす世界中からのミーハー的なファンが多いらしく、カンバーバッチ氏自身が「お願いだから公演中に携帯で写真やビデオを撮るのは やめてください、舞台から客席のあちこちに赤いライトが見えて気になります」みたいな事を言っていたので、「こりゃ、ちょっと雰囲気ちがうかな」と心配 していたのだけれど、別にそんな事はなく、観客はマナーを守って楽しんでいた

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今年は同じバービカンで5月に蜷川さん演出のハムレットを観たけれど、ほとんど別の作品のように違う舞台だ。今までに舞台やスクリーンで10本以上観ているこの芝居は、もちろんいつも違うのだけれど、今回のは一番が印象に残る。舞台セットの全貌が現れた時には思わず素晴らしさに息を飲んだ。この公演チケットは他と比べると異常に高くて、「なんでこんなに高いんだよ〜〜!」と内心カンバーバッチのせいか?、、と思っていたのだが、この舞台を観たら「こりゃ、お金かかってるわ、、、」と納得。

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ハムレットが何度観ても飽きないのは、やっぱりプロダクションによってその調理法が違うからだ。時代設定や人物の解釈はもちろんの事、それ以前に台本が毎回違う。1603年に初版が出版されてから30数年の間に7版ものヴァージョンがでている。その他にシェイクスピアが執筆するために書き溜めたノートに含まれた台詞やシーンもあって、一番長いヴァージョンだと軽く4時間を超える舞台になってしまう。現代の演劇事情ではこれはやっぱり長過ぎるので、どこかを削って3時間から3時間15分までに抑えるようにしているのが普通だ。

今回の設定は現代とまではいかないけれど、蓄音機や旧式のカメラを使っているので、1900年代前半といった感じ。まず冒頭のベルナルドとフランシスコのシーンがバッサリ切られている。その代わりハムレットが冒頭の「Who's there?!」の台詞を言って、現れたのはホレイショー。そのままホレイショーが帰って来た場面に続く。確かに亡霊云々はその後のベルナルドとマーセラスがハムレットに報告に来るシーンで理解できる。その他にも台詞を違う役に振ったり、米つきバッタ=オズリックを役名無しで女性が演じて余計な部分を削ぎ落としたりしている。宮廷なので、それらしく召使いや護衛が脇を固めていて、出演は総勢23人。これはかなり多い。

何と言ってもこの舞台では行間の埋め方がとても丁寧だった。この演出は、台本にはない場面と場面を繋ぐ登場人物の心情を、場面転換の空白の時間に巧く表現していて話の繋がりが自然に理解できる。実際にはハムレットが狂ったふりをするシーンは短いのだが、おもちゃの兵隊さんの格好でいかにもイカレタハムレットが模型の城に籠ったりと、行間を埋めている。ふらふらと出て行くオフィーリアを見送った王妃が彼女の残した写真が詰まったトランクを開けて、不吉なものを感じて後を追うシーンは、次のオフィーリアの死を告げる場面に巧く繋がっていた。

カンバーバッチ氏のハムレットは、もっとクールで距離感のある役作りになりそうな気がしていたのだが、これは嬉しい期待はずれだった。とても温度を感じるハムレットで、間の取り方や声の使い方で観客が心情についていける。

私はいつも役者を観るときに「演技者」と「表現者」を観てしまう。イギリスではしっかりとした技術に基づいた力量のある演技者としての役者は多い。そのレベルはやっぱり日本とはだいぶ違う。皆、プロとしてのしっかりとした訓練をして来た人達だ。でもその中でも、胸の中が揺さぶられるような表現力を持った役者は実は少ない。私にとって「良い役者」と「好きな役者」はそこに境界線がある。

テレビやスクリーンで観たカンバーバッチ氏は良い役者だと思っていたけれど、「フランケンシュタイン」の舞台で観て以来、「好きな役者」でもある。というより、その中間をバランスよく持っていると思う。表現者=アーディスとして、演じている事をいかに表現できるか、これは役者の永遠の課題だ

今回はハムレットが狂った振りをする場面が行間を埋める演出で面白く描かれている。このハムレットの「狂ったふりの演技」と、オフィーリアの「本当に狂った演技」の違いが印象に残った。台詞の行間にあるオフィーリアの狂った様子の表現は今まで観た中でも一番説得力があったと思う。間をたっぷり使ってピアノを弾いたりして。

実はこの芝居、はじめはかの「To be, or not to be」の台詞を芝居の冒頭に持ってくるという実験的・挑戦的な演出になっていたそうだ。

日本の演劇公演はどれも1ヶ月そこそこなのでこういう形態はとられていないが、こちらでは必ずプレビューと呼ばれる「試演期間」がある。劇場で演じられる最初の2-3週間はあくまでも試演期間で、チケット代も安く観られる。これは、できあがってきた芝居が実際に観客の前で演じてみてうまく機能するかどうか見ながら、修正・変更する大事なプロセスだ。やはり芝居は観客がいて初めて生きるのだと言う事で、これはやっぱりあって当然の重要なリハーサル期間。稽古場で積み重ねて来た事が正しいかどうかを見極めて、必要とあれば大幅に変更する事もある。実際に毎日観客が入っている公演なのだけれど、この期間はどのメディアも劇評の対象にはしない。
作り上げた舞台は本公演の初日に各メディアを招待して披露し、翌日か翌々日には一斉に劇評が載る。そして一度固めたらそれを長期間の公演中維持し続けていくのがプロの仕事だ。

ところが今回、The Times紙がこのプレビューの段階で批判的なレビューを載せてしまい、その事自体を批判する記事が出たりして話題になった。結局To be , or not to beの台詞も元の位置に戻されていた。

蓄音機からシナトラやナット・キング・コールが流れて来たり、オフィーリアの趣味が白黒写真の撮影だったり、ホレイショーが首にTatooを入れたバックパッカーの学生だったりと、「おや、、?」という演出もあったけれど、おもしろく調理された演出で、面白かった。レアティーズ役が黒人の役者で妹のフィーリアが色白の女の子という見た目の矛盾も観なかった事にする・・・・ちなみに、ハムレットのアンダースタディーに配役されているのもマーセラス役の黒人の役者だ。

それにしても今回の舞台セットは良かったよ、、、どこにもセット全体の写真が見当たらないので載せられないのが残念だわ、、、


The Importance Of Being Earnest


オスカー・ワイルドの傑作、The Importance of Being Earnest、私がまだ劇団に入る前に戯曲で読んだ時の日本語タイトルは「真面目が大切」だった。調べてみるとどちらかというと「真面目が肝心」の訳のほうが一般的なようだけれど?、、、、

この本はワイルドの作品の中でも最高傑作の声が高いが、私もとりわけ大好きな作品だ
タイトルからして駄洒落になっている。日本語では真面目という語が使われているEarnestには正直で誠実=真面目という意味と、男性の名前=アーネストの2つの意味があり、この芝居はまさに、誠実である事を薦めていると同時に名前がアーネストであるという事に重要な意味がある。
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田舎で大きな屋敷に住んでいるジャック(ジョン)は退屈な毎日に飽きるとロンドンに出て来て自由奔放な数日を過ごす。彼はアーネストという名のちょっと無法者で問題児の弟がいるという設定を作り上げ、彼がまた何かしでかしたという口実でロンドンに出てくるのだ。ロンドンでは彼自身がちょっとワルなアーネストになって二重生活を楽しんでいる。また、ロンドンでの彼の親友、アージェノンは貴族の叔母の相手をするのを逃れる口実に、病弱で田舎で静養中の架空の友人、バンブリーを見舞いに行かなければならないと嘘をついては堅苦しい週末から逃げ出している。(この、口実を使う事を彼は「バンブリーする」と言っている)

実はアーネストが本当はジョンという名で田舎では18歳の娘の後見人として堅実な生活をしている(=彼もまたバンブリーしている、)という事を知ったアージェノンは、ジョンが面倒を観ているという娘、セシリーにまだ会わずして興味を持つ。
ジョンはアージェノンの従妹で貴族のグウェンドリンに恋していて、2人きりになると思いを打ち明ける。するとなんとグウェンドリンも彼にぞっこんだと大喜び。ところが、実は彼女がジョンを愛しているのは「アーネスト」という名前(ロンドンでは皆そう思っている)だからだという事らしい。腑に落ちないジョンが試しに「もし僕が他の名前だったら、、、?」と聞いてみると、アーネスト以外は考えられないと言い張るのだ。

名前に恋されていると知って戸惑うジョンにとって、更なる難関は彼女の母親、口うるさい貴族のブラッくネル夫人だ。彼女はジョンを試験のようにインタビューして、実は彼は赤ん坊の時にバッグに入れられてヴィクトリア駅に置き去りにされていた孤児だと知ると、まるでゴキブリでも見たかのような反応でジョンを追い返してしまう。ジョンは慈善事業に関わっていた紳士にひきとられて、今の名前と邸宅を受け継いだのだった。

セシリーに興味津々のアージェノンはジョンがロンドンにいる間に、自分が彼の架空の弟、アーネストを演じてセシリーに会いに行く。ところが、バンブリーするのをやめようと決意したジョンは架空の弟、アーネストが突然パリで死んだという事にして予定より早く屋敷に戻ってくる。戻ってみると、彼の弟=アーネストだと名乗るアージェノンがいて、以前からジョンに聞かされていたちょっと無法者のアーネストとの空想愛を日記に綴っていた乙女チックなセシリーは空想から出て来た彼に夢中になってしまう。

アージェノンをアーネストだと思い込んでいるセシリーと、ジョンをアーネストだと信じているグウェンドリンが「アーネスト」をめぐる女の戦いを繰り広げる中で、やむなくジョンとアージェノンは「実はどちらもアーネストでは無い」と白状せざるを得なくなる。そこへブラッくネル夫人がやってきて、セシリーの教育係のプリズム婦人を見るなり、彼女が過去に妹(=アージェノンの母)の赤ん坊と行方を眩ませてしまった事を追求する。

プリズム婦人が小説の原稿の代わりにバッグに入れてビクトリア駅に置いて来てしまった赤ん坊こそがジョンであり、さらに彼の本当の名前が実はアーネストであったと判明する。架空の弟の代わりに、アージェノンが実の兄である事が解り、晴れてジョンはグウェンドリンとの結婚を認めてもらい、さらにはアージェノンもセシリーと婚約するというお決まりのハッピーエンド

台詞の粋の良さにヤラレル芝居だ。これは本で読んだときからそうだったし、映画版やドラマ版も観たけれど同じ台詞でも演出でいろんなニュアンスがあって、これも何度観ても飽きない芝居だ。

日本での上演を調べてみたけれど、ミュージカル風に作り替えられた宝塚版しか出てこない、、、あまり上演されていないんだろうか、、、英語での言葉遊びの要素が多い芝居だから?日本語訳でも十分に面白いのに。

毎回この芝居では主演の男二人の他にブラックネル夫人が注目される。口やかましい貴族のオバンなのだが、今回はDavid Suchetが演じるというので話題になった。スーシェ氏はアガサ・クリスティーの探偵ポワロシリーズでよく知られている。デカダンなブラックネル夫人で顔をしかめ、唾を飛ばしながらの演技に場内が湧いていた
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この芝居の登場人物は皆個性があって、そこここに見せ場がある。演出・演技次第でどんどん笑いを誘う事ができるし、実際後半にはあちこちの場面で拍手が起こるくらい盛り上がった

ワイルドの戯曲の中でも一番評価が高く人気がある、とはいうものの、この作品は初演の1895年以降、彼の存命中に再演される事はなかった。この初演時に、オスカー・ワイルドの恋人だったダグラス卿の父、クイーンズベリー侯爵が芝居を妨害しようとした話はワイルドを知る人にはお馴染みだ。

当時、同性愛は違法だった。息子との仲をよく思わなかったクイーンズベリー侯爵がワイルドを「ソドミー」と暴露した事がきっかけで、ワイルドは侮辱されたと裁判にしたものの、結局裁判では彼の同性愛ぶりがどんどん暴露される結果になり、やがてワイルドは逮捕されてしまう。
出所後も、彼の死後まで、オスカー・ワイルドの名前は不名誉なものとなってしまった。今ならば絶大な支持を得ただろうに・・・・

ちなみに私がお薦めする映画版は1995年にルパート・エヴェレット(アージェノン)とコリン・ファース(ジャック)が演じたバージョンだ。この時のブラックネル夫人はジュディ・デンチでこの人の解釈も大好きだ。DVDになってるかと思って探していたら、なんと「アーネスト式プロポーズ」というちょっとインテリジェンスに欠ける邦題で出ている
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DVDのカバーもなんだか安っぽいB級ラブコメみたいで、オスカー・ワイルドらしくないんですけど、、、!!?
でもワイルドのオリジナル原稿から舞台化される際にはしょられたシーンもこの映画版には含まれていて、台詞もほぼ戯曲どおりで映像による幅の広さを生かした映画になっているのでお薦め

こういうインテリジェントでウィットなコメディーがもっと日本でも上演されるといいのにね。

The Beaux's Stratagem -伊達男達の策略?


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シェイクスピアから約100年後、アイルランドからロンドンに出て来たジョージ・ファーカー(George Farquhar)の手による喜劇、The Beaux's Stratagemを観て来た。

初演は1707年で、王政復古後のこの時期の演劇作品はRestoration Comedyとも呼ばれている。
ピューリタン革命でチャールズI世が処刑されて以来、イングランドはオリバー・クロムウェルを中心とする共和制が敷かれた。その間、劇場でのエンターテイメントは全て禁止されていたのだが、1660年にチャールズII世によって王政が復活すると、国王は演劇の上演を後押しする。シェイクスピア時代には女優はいなくて、すべての役は男優が演じていたというのは知られた話だが、この王政復古以降は、はじめて女優が登場する。

Restoration comedyは貴族やアッパークラスはもちろん、もう少し庶民に近いいわゆるミドルクラスの観客からも人気を集め、ちょっとおしゃれで色気の入ったコメディータッチの作品が数々上演される事になる

ロンドンでの放蕩ぶりがたたって借金まみれになってしまった貴族の男二人が、お金持ちの娘と持参金目当ての結婚をする事でなんとか身を持ち直そうと企み、イングランドの田舎町、Litchfieldにやってくる。

二人(エイムウェルとアーチャー)は、貴族(子爵)とその従僕という役割を演じて街一番のお金持ち貴族のバウンティフル夫人の娘、ドリンダに目を付ける。(本当はエイムウェルは次男坊で子爵の称号は兄のものなのだ)
従僕を装ったアーチャーは、巧みな会話で宿屋の娘、チェリーをたちまちのうちに夢中にさせ、同時に自身はドリンダの義理の姉(バウンティフル夫人の息子の嫁)ケイトの美貌と人柄に強烈にひかれて行く。ドリンダを落として持参金を、、と企んだエイムウェルはドリンダに本気で一目惚れし、一生懸命に思いを伝えようとするのだが、ドリンダ身持ちが固く、兄夫婦の不幸せな結婚を目の当たりにしているために、なかなか心を開いてくれない。

ドリンダの兄、スレンは飲んだくれのいささか退屈な男で、妻のケイトとは全く折りが合わない結婚生活を送っている。お互いを軽蔑しあっているというのに、結婚という鎖で繋がれた典型的な不幸な夫婦だ。

本当は身分ある二人の男が演じるBeaux(ちょっと粋でおしゃれな伊達男、とでも訳すとしっくりくる)、普段は本音を言う事もできずにひたすら従僕として使えているバウンティフル夫人のバトラー、ケイトが夫に嫉妬させようと当て馬に使われるフランス人将校や、エイムウェルとアーチャーを「なんだか怪しい」と疑う宿屋の主人、ならず者を追う警官等が織り成すコメディーだ

この芝居は策略というプロットの上に成り立つ喜劇と同時に、当時の風習についても痛い所を突いている。ケイトの不幸な結婚は、なんといっても当時の貴族階級の女性達にとってはよくある話なのだ。結婚と同時に彼女の財産はすべて夫のものとなってしまい、文字通り身も金も夫に捧げる事を強いられたお嬢さん達。彼女は言う、「女が国を治める時代でありながら女はいまだに奴隷でなければいけないの?」(この時期はアン女王の時代で、初演時の1707年にはスコットランドとイングランドが合併し、グレートブリテンが誕生した)

結局、最期になってエイムウェルは家督を継ぐはずだった兄が死亡した事によって、本当にエイムウェル子爵となり、ドリンダに求婚する。そしてお互いが不幸だと解りきっていながら夫婦でいなければいけなかったスレンとケイトは、合意の上で離婚する事に、、、、
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実際にはイングランドはヘンリー8世の時から離婚という制度ができたものの、あくまでも離婚できるのは夫が妻をなんらかの咎で離縁するというのが決まりだった。もちろん離婚した後の女性は財産は全て元夫に没収され、再婚する事は禁じられていたので、余生が悲惨な事は目に見えていた

けれどもこの芝居のラストは、ケイトとスレンの「合意による離婚」が認められ、されにはその後のアーチャーとケイトとの再婚を示すかのようなハッピーエンドになっている。これは当時の社会では夢のような展開で、コメディー芝居の中にこうした社会に対するアピールを盛り込んでいるのがファーカーの本の面白い所。

ちょっと調べてみた限りでは、日本での上演記録が見当たらない。こういう喜劇は演出次第で時代や国を選ばずに楽しめるので、日本で上演しても面白いんじゃないかな。シェイクスピアのように長台詞が続くわけでもないし、テンポよくコミカルな作品になると思う。

おしゃれなスケコマシはいつの時代にもやっぱり魅力的なのだ

The Vote


昨日はイギリスの総選挙だった。6週間前に始まった選挙活動で、各党は全国を飛び回って相変わらず現実味のない政策をこれまた曖昧な表現で繰り返して必死になっていたよ、、、テレビでの党首討論会に首相が出るの出ないのととやかく言われたり、5年前には聞いた事もなかったマイナーな小党が一躍話題をさらったり・・・

私は政治の事なんてブログには書くつもりはない。でも昨日の投票日、ちょっと面白い企画があった。Donmar Warehouseがテレビ局のチャンネル4と提携して行った劇場中継だ。芝居のタイトルは「The Vote」選挙の投票は全国の投票所で朝7時から夜10時まで一斉に行われる。その一日の最後の1時間半で、「ロンドン市内の某投票所」を舞台に投票締め切りの10時きっかりまで実際に劇場で演じられている芝居を同時テレビ中継するというもの。
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2週間程前から実際にDonmar Warehouseで上演されていて、これは5月7日の中継に向けてのリハーサルといった感じでいろんな役者が代わる代わる登場していたようだ。架空の投票所で丸一日投票に来た人たちを確認し、投票用紙を渡して不正がないままに投票箱に用紙が入れられるのを見届ける役員3人を中心に、投票に来たいろんな人たちの様子を描いたコメディーだ。ちなみに投票所はPolling stationという。

選挙の投票は、前もって登録した人に確認票が郵送され、それを持って指定された投票所に行き、本人確認をしてから投票用紙をもらう。この、一人数分しかかからない時間が役員達には延々と15時間続くわけだ

酔っぱらってやって来た人、ボケていて、さっき投票したのにまた来てしまったおじいちゃん、床で滑ってころぶおばちゃん、初めて投票に来て、書かれている候補者の事を全く解っていない女学生(イギリスは18歳から投票できる)、母娘が同じ名前なのに、一人の名前しか登録されていなくて「この名前はどっちか」でもめる親子。(イギリスでは子供に親と同じ名前をつける事もよくある)

役員達は次々と来た人たちをさばいていくものの、間違って用紙を渡してしまった事に気づいて、その埋め合わせをしようと2重・3重の取り繕いに追われる、、、舞台になっている投票所はローカルな学校の体育館という設定で、卒業生が懐かしげに思い出話を始めたり、と、1時間半の間に様々な人たちがやってくる

テレビドラマシリーズで人気の役者も何人か出ていたし、ジュディ・デンチも終盤の見せ場をかざり、さらに、一瞬入って来て一言だけの台詞で去って行く「一発屋」の役でジュード・ロウも登場。クレジットを確認したら総勢47人の出演だった。
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芝居のタイミングはドンピシャリで、きっちり8時半に始まった芝居は10時の鐘と共に投票所が閉まる事で無事終了。満場の拍手喝采を浴びていた。

実際の選挙は18年ぶりにTory(保守党)が単独過半数を確保(ホントにすれすれだったけどね)。そのかわりにLabour(労働党)と、今まで連立内閣を担ってきたLiberal-democrats(自由民主党)が惨敗した。Lib-Demは、5年前の時にToryにもLabourにも愛想をつかしていた人達がテレビ討論会で良い所を見せたハンサムなニック・クレッグに流れて、過半数を取れなかったToryと手を組んで連立政権になったという、まさに棚ボタだったのだから、この5年間で実績無しと判断されて切られても仕方ないよね

超躍進したのが、スコットランドのSNP(Scotland National Party)だ。今までスコットランドの議席は労働党とほぼ2分だったのに、今回今までの労働党の議席をほとんど全て奪ったといっていい。去年の国民投票では「スコットランド独立」には至らなかったものの、あれ以来、躍進している。なんと、59席のスコットランド圏の議席のうち、56を確保という大進撃だ。このまま安定して将来のスコットランド独立に向けて走り出すのか、はたまた、今回は「Labourよりこっちにやらせてみるか」と皆の期待を受けたものの5年後にはまた「やっぱり安心できない」と元のもくあみになるのか・・・??

とりあえずは18年ぶりの保守党政権が始まる。カメロン首相には、是非EU脱退に向けて舵を取っていただきたいものだ
かくいう私はイギリス国籍を有していないので実は投票権は無い。でもあったらどうするかな、、、UKIPにでもいれるか(爆)


Man and Superman=(コメディーと哲学)


長かったよ、、、バーナード・ショウの「Man and superman(人と超人)」。
久しぶりのNTは今回はLittleton。(ナショナルシアターには3つの劇場がある)
バーナード・ショウといえばノーベル文学賞受賞の劇作家。成人後の活躍は英国内だったけれど、アイルランド人だ。彼の持つ辛辣な風刺精神はアイルランド人ならではともいえる

副題に「コメディーと哲学」とあるだけあって、風刺に満ちた哲学的人間論が炸裂。これがなんとハムレット並みの3時間40分の芝居とあって、いささか頭使い過ぎた感じ・・・・でもストーリー的にあれこれといろんな事が起こる訳ではない。

斬新な革命的思考のジャックは「結婚は男の墓場」と豪語しているものの、柔和で女性に優しい友人オクタヴィウスと結婚すると思っていた幼なじみのアンが、実は自分との結婚を狙っていると知り驚く
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結婚とは女が男を支配しようとするもの、との考えを主張するわりに、実は彼もアンの事が本当は好きなのだという矛盾から逃れるべく、ジャックは運転手と一緒にスペインへと逃げる。この運転手、上流階級ではないものの、高等教育を受けて、メカニックの資格も取ったもっと現実的で常識ある教養者

スペインで、彼らは金持ちそうな車が通りかかると誘拐して金を巻き上げるギャンググループに捕まってしまう。社会主義者、無政府論者、国籍も混ぜ合わせのこのグループのボスはメンドンザ。ジャックは身代金ならいくらでも払うと安請け合いをしてメンドンザと意気投合するする。
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2幕前半(台本の上では3幕)ジャックの夢の中という設定で、この部分はバーナード・ショウがドン・ファンのストーリーに基づいて書いたという部分だ。現実にはアンという女性に追われているジャックが、夢の中では女性を追い回すドン・ファンになっていて、地獄に落とされたドンファンが、恋人だったドンナ・アンナや殺してしまった彼女の父の石像、地獄の悪魔達と延々と哲学的・宇宙的・人間的思考を討論し合う
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これが長い、、、掛け合いの中で延々と哲学的な言葉が語られるので、かなり疲れた、、、、この芝居が上演される際、この3幕をまるまる飛ばして上演する事も多いそうだ。確かに無くても話は繋がる。でもこれが他の3幕と対になっているのも確かだ。

かくしてジャックは結局アンナの押し(というよりは、自分が本当は彼女を欲しているという歪んだ本音)に負けて彼女と結婚する事になるのだ

これは芝居というより、本で読むと面白いかもしれない。それにしても膨大な台詞量だ。ジャック役のレイフ・ファインズ氏は本当に主人公の矛盾を巧く表現している。第一彼の声が、ほかの役者と比べても反響の仕方が違う。
私はいつもレイフの声は劇場で聞くのが一番と思っているのだけれど、普通の役者の声が舞台からmonoスピーカーのように聞こえてくるのに対して、彼の声はドルビーステレオで反響する。どんなに小さい声でも・・・映画では観られない彼の役者としての魅力だ。

皮肉で辛辣な台詞が的を得ているので笑いの連続。当然イギリス人をこき下ろす台詞も多々あり、ここでも爆笑の連続だ。哲学思考はさておいて、今度は本として読んでみようか。さすがに集中して聞いていたのでちょっと疲れる観劇だった。芝居は観る方も多少頭を使うような本が面白いのだけれど、今回はさすがに目一杯だったよ・・・・


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