見つけもの @ そこかしこ

ちょっと見つけて嬉しい事、そこら辺にあって感動したもの、大好きなもの、沢山あるよね。

カテゴリ: ロンドン演劇事情


案内のe-mailでこれを目にして、観る!と即決した。 
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まずはスティーヴン・バーコフの本である事、そして演出がナイジェル・ハーマン。

Steven Berkoff 氏は俳優として映画やテレビで悪役やちょっと癖のある役であちらこちらに出ているけれど、実は映像での彼を私は観た事が無い、か、出演作を観ていたとしても普通に見過ごしている、、、
私が彼を観たのは、彼が演出・ヘロデ王役だったオスカー・ワイルドの「サロメ」だった。台詞も動きもスローモーションなこのプロダクションは、それまでに何度か観た「サロメ」の中で、一番印象に残っている美しい舞台だった。冷え冷えとした空気が漂うような白い月の中で、台詞が美しく散りばめられていて、「こうなるのか!」と目を見開いて舞台に魅入っていた。その後も彼の演出、脚本の舞台をいくつか観て、鬼才=バーコフ氏のファンになった。彼の本なら面白いこと間違いない!

一方、今回の演出はNigel Harman、彼は元々子役出身でミュージカルにも出ている舞台畑の役者だ。でも彼の名前をお茶の間に広めたのは、何と言ってもBBCの看板ソープドラマ「Eastenders」だった。Eastendersを離れてからはまた舞台に戻り、Shrekというミュージカルでローレンス・オリヴィエ賞の助演男優賞を取った。ちなみにEastendersから卒業?していった俳優達が結局その後はほとんど名前も聞く事が無い中で、ここまで舞台で活躍している人はいない。その彼がバーコフ氏の本を演出するというのでとても興味が湧いた。

どんな芝居なのかは全く知らない。そして会場は劇場というより、スタジオだ。俳優が動ける距離は、幅7歩、奥行きは3歩(実際に確かめた)で、コの字に囲む客席は100席程の空間しかない。でもこういう身近な空間での芝居がまた私は好きだ。私が観た日はハロウィーンの月曜日という事もあってか、客数は40人程だったので、おそらく役者は観客一人一人の顔を意識していたと思う。

この芝居は実は2本の一幕ものが一つとして上演されている。どちらも45分程なので、これを一幕、2幕として上演していて休憩無しの90分だ。バーコフ氏は最初の「Lunch」を1983年に、2幕となる「The Bow of Ulysses」を2002年に執筆した。そして後者はまさにLunchの続編で二人の20年後を描いている。
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海辺のピアにあるベンチでランチタイムに偶然出会った男と女。男は彼女を一目見て強烈に惹かれる。なんとか話しかけようとしては怖じ気づき、でも頭には彼女を讃えるありとあらゆる形容詞が飛来して、長い独白で彼女への募る思いを吐く。やがてぎこちなくも話を始める初対面の二人。女の方は表面上は興味なさそうに男を観察しているが、やがて男が仕事でやりきれない思いを吐き出し始めると、少しずつ相手になる。出会った二人は見知らぬ同士のまま、やがて心の奥底にある闇のような思いをさらけ出し、ベンチで身体を合わせ、そして見知らぬ同士としてひと時の出会いに別れを告げる。

膨大な台詞の量だ。そして、とても叙情的でポエッティックで長い長い独白の応酬はシェイクスピアにも至適する。掛け合いではなく、当たり障りの無い会話の合間に胸の内の本音を長い台詞で描いて行く。凄い本だ。これだけの台詞で心のうち=本音を語るのは挑戦でもあり冒険だ。
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一幕の終わりではそれで分かれたと思った二人が、暗転して2幕になると、同じベンチに少しくたびれたレインコートを着て座っている。前半とは逆の位置に座った二人。1幕から20年が経っている。あの日から付き合い始めてこの20年を一緒に過ごしてきた同じ男と女が、この20年でどんなに二人の関係が失望し、疲れ果て、初めから間違っていたのではないかと、これまた膨大は独白台詞の応酬で語り合う。そこに描かれているのは、ごく普通にありそうな男女の苦しくても現実的な本音だ。生々しい言葉はリアリティーがある、だからこそ「それを言っちゃあ、、、」「そこまで言うか?」と思いつつも、観ていると心の内から裸にされるような奇妙なリアリティー。

リズミカルで詩的な台詞は美しく語られる。必ずしも言葉が奇麗なのではない。聞くに堪えないような単語が並んでいても語られる様が美しい。それはそこに現実があるからなのか、、、、まさにバーコフ氏が鬼才と呼ばれる所以か。「痛い」。耳にも胸にも痛い本音が延々と語られて、どんな大人でもなにかしら「まいったなあ〜〜、、」と思わずにはいられない。こんな本があったなんて・・・・

シェイクスピア張りの本もさることながら、演じる役者の力量には唸ってしまう。決して名の知られた役者ではない。でもこれだけの台詞をあんなにもリアリスティックに、20年という歳月の二人の関係を吐き出して語れるのは凄い事だ。たまに日本に帰った時に芝居を観ると、内容よりもやっぱり役者の技術的な力の差を感じてしまう。声、滑舌、呼吸、身体の動き、感情を微妙な空気で言葉に重ねて表現する技は、何が違うのだろう、、、訓練の仕方か?美しく書かれた叙情詩を、美しく観客の耳に届ける事がどれほど至難の技か・・・

ハーマン氏の演出は、この狭い空間の中、ベンチの周りで二人が語り合って、あるいは責め合って、そして挑発し合って、最後には絶望的な関係になっている様を最小限の動きで聞かせている。目の前にいる(まさに目の前だ)私たちは、二人の言い分をじっと聴き、時に笑い、共感し、そして一緒に失望していくのだ。

こんな芝居が観られるなんて、、、この本はほとんど上演される事の無い二つの一幕ものだけれど、芝居としては小さな宝石のような輝きがある。観た後になんだか「痛い所を突かれた」ようなちょっと気まずい気持ちで席を立つカップルが多いはず。この日の40人程の観客も年齢層は40~50代で、夫婦連れがほとんどだった。私もうちの彼と一緒じゃなくてよかったかも、と密かに思ってしまったよ、、、

芝居って、こういうものなんだよなあ〜〜、、と、ちょっとまた演ってみたくなってしまう舞台だった。






 


時差の関係で寝不足になりがちなリオ五輪も終わった〜〜。前回のロンドンからもう4年も経ったという事が信じられない。連日寝不足になりながら(日本はもっと大変だった?)も、チラチラといろんな競技を観た。今回のチームGBは、メダルテーブルでなんと 中国を抜いて2位

オリンピックってやっぱりその国の活躍選手を追いかけるので、日本選手達の活躍がなかなか観られなかったけれど、英国もメダルに関わった体操やテニス、陸上では日本の選手が観られた。今までいちどもちゃんと 観た事がなかったフィールドホッケーも初めて観たし。(イギリスが金)

さて、夏に芝居を観に行くのが楽しみなのは、ナショナルシアター(NT)。テムス沿いのサウスバンクになるNTだと幕間の時間にもまだ明るくて、テラスからテムズ沿いのロンドンが見渡せる。
今回は久しぶりの「三文オペラ」。

三文オペラは数年前に日本で宮本亜門氏演出の三上博史さんのヴァージョンを観て以来。ロンドンで最期に観たのはえ〜っと、、、94年、もう12年前かあ〜〜!!実はこの時のDonmar Warehouse のヴァージョンがとっても好きで、オリジナルキャストのCDもダウンロードしてよく聞いていたので、すっかり歌詞をこのヴァージョン で覚えていたのだけれど、実は「三文オペラ」の原語はドイツ語なので、英語での上演もプロダクションによって訳が違う。私が耳慣れている94年版はかなりストレートでちょっとお下品な部分もあるのだけれど、今回のはもうちょっとソフトで解り易くて、この演出に合っていた。

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全体のイメージとしては1920年代の大道芸という感じ。幕開けはブラスを中心にしたミュージシャン達が舞台の上で大道芸のように奏でるOvertureで始まる。役者とミュージシャンが入り交じっていて全体でのパフォーマンスという創りはなかなか良い。この戯曲のドイツでの初演は1928年なので、考えてみればこの空気が巧くはまるのも当然か。舞台装置もパネルや骨組みを巧く使って、完全に奇麗な絵としては仕上がっていない感があって、それが結構良い。NTに4つある劇場の中でも、このTheatre Olivierは舞台全体を2重に回せる装置があるのが特徴。それを巧く使っている
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こういう空気というか、匂いって結構好きだなあ。幕開けで言っているとおり、これはたかだか3文のCheapな芝居。ちなみに英語でCheapというのはただ値段が安いという意味だけでなく、質も安っぽいという意味合いがある安かろう悪かろう、がcheapなのだ。質が良いものが特別価格で安くなっている場合は、「It's cheap!」とは言わない方が良い。

日本語訳だとメッキー・メッサーだけれど、この名前、英語版ではあくまでも三文オペラのオリジナル=Begger's Operaのキャラクター、Macheath(マックヒース)で通っている。実はこの舞台、あまりマックが目立たない。というと語弊があるけれど、マック独りが主役という創りじゃないのだ。あくまでもざわついた大道芸、マック役はその中の一人。そしてこの役者がこのイメージには良いんだけど、私としてはマックにはもっとワルの色気が合って欲しいのだが・・・・魅力はあるんだけど、セクシーさがちょっと足りない?、、、、対して、色気があったのはタイガーブラウン。軍隊仲間だったマックになんとか情をかけてやりたいという男心が垣間見えて良かったなあ。

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今回のポリーはちょっとお固い秘書みたいな感じで、ピーチャムの娘としては堅物な感じ。でも本来の堅物が恋をすると突っ走っちゃうんだよね、、、、2幕での女二人の対決=ポリーとルーシーの歌合戦は、黒人女優(ルーシー)の大声量とポリーの高ソプラノで、拍手を取っていた。
キャストを見て気がついたのは、12年前に観たヴァージョンでポリー役をやっていた人が今回の舞台でジェニーを演じていた事。CDで聞いていたポリーでの声より12年経って、ぐっと大人な深みがあった。
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そういえば、前回日本で観たときの感想をもう一度読み返してみたけれど(こちら)、やっぱりどうしても日本人がやると匂ってくるようなセクシー感をなかなか出せないんだよね。だから亜門さんのあのブリブリなポリーやキティーちゃんの演出がとても日本っぽくて成り立っていたっけ。
映画、舞台でこの三文オペラも4−5回観たかな。いつも楽しみだけれど、この舞台も面白かったよ。1回休憩の3時間。個人的にはやっぱり12年前のTom Hollanderのマックに軍配が上がってしまうかなあ〜〜。これは歌唱力が大きいかも。セクシーなワルの魅力があったしね

オリンピックが終わって、次はパラリンピック。そうしたら夏も終わるなあ〜〜〜





 


連日Brexitで大騒ぎな中、一転二転して無事に新しい首相が誕生した。サッチャー氏以来の女性首相の誕生だ。Brexit勝利の時には、真っ先に首相候補として元ロンドン市長で離脱派を率いたジョンソン氏が上がっていたのに、 親友官僚の裏切りにあって出馬を断念。ところが新内閣に「外務大臣」として就任するというドラマさながらの展開だった。本来は新首相が決まるのは10月と見込まれていたのが、首相選に残ったのがメイ女史だけ=そのまま決定、という事で、あっという間にキャメロン首相は10番地から引っ越す羽目に・・・・ニースのテロ、トルコの反逆劇と、メディアはまさに大忙し

政治はさておいて、レビューで絶賛されているコメディーを観て来た。「The Truth
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嘘をつくのと本当の事を言わないのは違う、なんてよく言うけれど、今回観た芝居は、「真実を話そうかどうしようか?」から 始まって、実は知らなかった事がどんどん吐き出されてくる、、というもの。
不倫をしているカップル。実は旦那同士は親友という事で、彼女の方は「いつまでもコソコソ会わなきゃならないのはいやだから、私たちの事を話そうか」と言い出したから、男は大慌て、、、という所から始まる。 

登場人物は2カップルの4人。不倫カップルはアリスとミシェルで、アリスの夫=ポールとミシェルは長年の親友。女医のアリスとビジネスに忙しいミシェルは、いつもミシェルのビジネスミーティングの合間にホテルで抱き合うという関係をもう数年続けているのだが、そんな刹那な関係に疲れ気味のアリスが、「もっと二人の時間を持ちたいわ、旅行にでも行かない?いっその事ポールとローランス(ミシェルの妻」に私たちの事を打ち明けない?」と言い出したものだから、ミシェルは仰天。とりあえず次のミーティングを「具合が悪い」とキャンセルしてアリスと午後いっぱい過ごした後、家に戻ってみるとミーティングに参加しなかった事が妻にバレている、、!思いつく知恵を振り絞って取り繕ったものの、妻は実際には「もっと知っている」様子・・・ 

お互いにパートナーに嘘をついて週末の夜を一緒に過ごそうと出かけて来たものの、家からかかってきた電話で話すうち、嘘がバレないかと肝を冷やす羽目になる。誰がどこまで事実を知っているのか、知っているのに知らない振りをしているのか、自分の撒いた種なのに、状況が変わるにつれて逆ギレするミシェルと、実は虎視眈々と相手に逆襲する機会を待っていたかのようなポール。一言の台詞で立場が一転する、という連続で、ちょっと恐い爆笑コメディーになっている

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脚本はフランスで大人気らしい若手のフローリアン・ゼラー。まだ30代半ばだ。そして翻訳にはクリストファー・ハンプトン。 フランス作家のハンプトン訳で似たようなタイプの芝居と言えば、何年か前に観た「God of Carnage」がある。会話していくうちに状況が変わって怪しんだり逆ギレしたり、という展開も良く似ている。展開によって弱気になったり勝者になったり、実は裏切られていたり、真実=The Truthが出てくる度に立場が逆転していく、という作りはハロルド・ピンターの作品にも近いものがある。

普段は女医としてキビキビと仕事しているアリスが、二人の時には「もっと甘えたい女」になったり、一見やり手のビジネスマンで女や妻には口が巧いミシェルが、嘘がバレているのでは、、と思い出した途端にみっともないくらいに慌てたり怒り出したりするのが見事に面白い。対照的に、ポールは今は失業中でちょっと冴えない感じだけれど、実は長年の金融マンとしてのキャリアと落ち着きがあり、口には出さないけれどじっくり状況を見据えている感じがある。ミシェルの妻のローランスも良妻賢母タイプでありながら、「実は知っていて知らぬ振り」をしているような、本音を隠しているタイプだ。

アリスとミシェル、そしてポールとローランスという陽と陰のような対照的なカップル、、、いや、本来のカップルはアリスとポール、ミシェルとローランスなのだが・・・・

会話はどんどん真実を表し、最期にはどうやらアリスとミシェルの事は双方のパートナーはもうずっと前から知っていて、それどころかポールとローランスも不倫関係にあった、、 毎週のテニスで何年もずっとポールに勝ち続けていたミシェルだけれど、どうやらそれもポールがわざと負け続けていたのかも、、??まさに「真実や如何に、、?」という感じの終わり方だ。

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最期は、どうやらポールがスウェーデンで新しい仕事に就く事になったようで、「これで不倫もおしまいだ、また二人でやり直そう」と妻を抱きしめるミシェルだけれど、ローランスの顔は複雑。「ポールとの関係なんて無かったわ!」と堂々と夫に言い切ったものの、その顔は明らかにポールが遠くへ行ってしまう事のショックと、そして本当にこれからこの夫と幸せにやっていけるのか、という疑問と、夫の言葉を信じていいのかという迷いと、、、、見事に複雑な表情を見せて幕が下りる

休憩無しの2時間弱という芝居が私は好きだ。台詞の展開でついていける丁度良い長さ。才能のある若い作家がどんどん活躍してくれるのは本当に楽しみだ。これから時代を超えて何度でも上演されていくような新しい作品の一つになるといいね。 


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久しぶりのミュージカルは、1997年にブロードウェイで初演され、その年のトニー賞で5部門を制覇した「Titanic」。初演時はセットも大掛かりで、同じ年に大ヒットした映画版の「タイタニック」と並んで、米国は映画・舞台とタイタニックの年だったと言える。
2013年にロンドンでの上演の際に本を修正し、セットも余分なものを削ぎ落として、人びとのストーリーがもっと見えてくるように手直しがされたそうで、今回の舞台もこのロンドン版の再演だ。

今やだれもが知っている豪華客船「タイタニック」の悲劇を、多くの人達の「叶わなかった夢」として語っている。産業革命の頂点とも言える11階立ての超豪華客船。イギリスからアメリカへ、大西洋を渡る1週間の旅に夢と希望を託した登場人物は大きく3つに分けられる。船の設計者、所有者、船長。船で働くスタッフ達。そして乗客。 さらに乗客はクラスによって一等客室から三等客室の乗客達がいる。
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この船に乗った人たちには其々の大いなる夢と希望があった。 船の設計者・所有者・船長は世界一の豪華船を実際に創り上げ、大西洋を渡る「海に浮かぶ町」を自分たちの力で運行するという栄誉を人生で最大の功績だと信じている。一等客室の富豪階級は、自分たちの身分に世界一の豪華船での船旅という新しい特権を得て、これからもこんな豪華な人生が続くものと期待している。セカンドクラスの中流階級はこの船旅でさらに上のクラスの人達と交流し、アメリカでもっと上の社会に合流できる事を夢見ている。そして3等客室の人達は、階級制度の無いアメリカで、自分の能力が認められてもっと良い暮らしができると希望に満ちてこの船に乗ったのだ。
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この本では、登場人物は実際に乗船していた人達をモデルにしていて、名前もそのまま使い、生存した人からの話をリサーチして書かれたという事だ。全てが事実という事ではなく、あくまでも実際に船に乗っていた人たちを登場させる事で、その瞬間に生きていた人達のストーリーを描いている。

確かに装置は2階に分けたデッキだけで、ごちゃごちゃした華やかさは出していない。けれどなんといっても皆知っているストーリー、映画やドキュメンタリーを見た事のある人ならその豪華な背景は容易に想像しながら観る事ができる。それよりも、目の前(舞台の上)で、この船に集まって来た人びとの沢山の大きな夢が、叶う事なく暗い海に沈んでいってしまうのは、観ていて胸が痛くなる。

この中には運良く助かった人達もいる。実際の登場人物はもっと多いのだが、それを20人の役者達が2−3役を演じていて、これが「上流階級でも下層階級でも人びとの思いに違いは無い」という印象だ。このミュージカルの作曲者、Maury Yestonはアメリカ生まれで他にも数々のヒットミュージカルを書いているが、英国系の子孫だそうだ。タイタニックの悲劇があった1912年には彼のおじいさんがロンドンのコヴェントガーデンでマーケットに店を出していたという。そんな思い入れもあって書いた作品だと語っている。彼自身の中のイギリスとアメリカを結ぶ意味でも、実際の乗客をモデルにしたというイエストン氏の哀悼の意図がみえる。

ちなみに上演されている劇場はCharing Crossというロンドンでも大きな鉄道駅の真下にあり、時折、テムズ川を渡って駅に入ってくる電車の音が聞こえる。これがまたゴ〜〜ン,ゴゴゴ〜、、、という地鳴りのような音で、特に2幕に入ってからは、沈みかけた船がきしむような不気味な効果音の役目を果たしていて妙にマッチしていた。 

どの曲も耳に心地良くて、観ている間は「いい曲だな」と思ったのだけれど、そうかといって、劇場を出てもメロディーが耳に残っているというわけでもない。壮大なメロディーというよりも、同じ船に夢を持って乗っていた人達のストーリーを語るような、心に響いてくるミュージカルだった。 


ファウスタス、ファウスト、、、ゲーテの戯曲やトーマス・マン、さらにはオペラや映画、、と、何度も語られて来た「ファウスタス博士」の話。悪魔に魂を売ってこの世に於けるあらゆる快楽や名声を手に入れようとした男の話は古くからヨーロッパ各地にあった逸話が元になっていると言われる。
今回はクリストファー・マーロウのDoctor Faustusだというので、是非観たいと思って 早々にチケットを取ってあった。
 
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最初に記録されているファウスタスの話は1587年にヨーロッパで出版され、英語訳がイギリスに入ってきたのが1592年という事だ。そしてマーロウが初めて戯曲にして上演されたのが1594年という事だから、数あるファウスト劇の中でもこれが最も古い芝居という事になる。「古典で神秘的でマジカルな芝居」を期待していたのだけれど、、、これが全く期待していたものと違ったのよ

まず私が知らなかったのは、ファウスタスを演じるKit Harringtonという役者が、人気シリーズ、Game of Thronesで人気者になった人だという事。そして初めは気がつかなかったのが、脚本にChristopher Marlowと一緒にもう一人、Colin Teevanという名前が並列されている事。さらに賭けだったのは、演出がJamie Lloydだという事だ・・・・ Oh My Goodness!!

古典的な背景は全く無しにして、舞台は現代のジョン・ファウスタスのアパート。ファウスタスはフッド付きのジャケットを着たミュージシャンを目指す男という設定。開演前からロックが流れていて、なんか雰囲気が違う。さらに劇場に着くや客層の違いが目に付く。なんとなくミーハーなお客様が沢山いるのだ。アメリカンな英語もあちこちで聞こえるので、これはロンドンまでキット・ハリントン氏を観に来た人達か、、??とちょっと驚いてしまった。

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「悪魔に魂を売る」という事を現代に置き換えるとはどういう事なのか??

この脚本は悪魔と契約をする辺りまではいいのだけれど、中盤のストーリーを全く違うものに差し替えている。つまりそれがColin Teevan氏による本という事なのだ。ファウスタスは魂を売って、ミュージシャン/マジシャンとしてセレブな地位を手に入れ、ラスベガスで大成功する。まあ、魂を売って名声を、、の現代版という事ならセレブに置き換えるのが一番解り易いよね

一幕での神や天使達はみんな下着や素っ裸の格好で、なんだかゾンビのような感じなのだ魂が無い、という事を表しているのだろうか。そしてロイド氏の演出でお馴染みの地響きのようなノイズがず〜〜と鳴っている。ロイド氏の演出は私が今まで観たものでも好き・嫌いが別れてしまう。斬新な解釈と挑戦的な演出は、大好評の時もあるのだけれど、彼は「汚す」のが大好きらしい。今回も舞台にはいろんな物が散り、血が吹き出したり、役者の口から白い物や黒い物が吐き出されたり、果てはう○こ(?)を食べる場面まで出てくるのだ・・・・舞台も役者の衣装もどんどん汚くなっていく。

 Running until 25 June 2016 CREDIT Marc Brenner

キット・ハリントンは悪くないけれど、まず声が半分擦れている。潰れるまではいっていないけれど、擦れがちな声を響かせようと発声すると滑舌が前に出てこない。最初の3分で、「ああ、台詞が聞き取り難い」と思ってしまった。その上にゾンビもどきがゾロゾロと登場し、パンツ一丁のルシファー(悪魔)にスッポンポン(全裸)のコーネリアスが出て来て、違和感満載だ。ルシファーのメッセンジャーとしてファウスタスの元に来るメフィストフェレスは女性が演じている。原作では召使い役のワグナーも女優がトロイのヘレンの役割も兼ねていて、まともな人物は彼女だけだ。

悪魔と契約後のファウスタスはオリジナルとは全く違って、ショウビジネスの世界になる。大統領や政治家が登場し、セレブの世界でもっとのし上がろうとするファウスト。エアギターを披露し、マジシャンとして盛大なショウを展開する。テレビシリーズの「ゲーム・オブ・スローンズ」で人気俳優になったキット・ハリントンをショウビジネスのセレブにのしあがったファウスタスに起用したのは面白いけれど、彼自身は力のある役者だと思うので、なんだか皮肉印象になってしまったのが残念。

終盤はまたマーロウのオリジナル戯曲が中心になるが、最期に献身的だったワグナーを刺し殺した上にレイプという、これまた残虐なシーン・・・・もちろん、こういった演出は挑戦的だし、問題提議の意味もあるのだけれど、やっぱり私は汚くて耳障りな舞台は好きじゃないな・・・アングラというのとも違う。グチャグチャ・ドロドロで雑音のようなリズム音の意図が伝わらないのよ。マーロウの台詞はシェイクスピア時代の古典英語で、中盤は現代英語というのも、その使い分けの意図が解らないし。

光っていたのはメフィストフェレス役のジェナ・ラッセルだった。ツンツンショートヘアーにシュミーズ姿というメフィストなのだが、支配的になったり低く忍び寄るような声で誘惑したり、主役のファウスタスよりも光っていた。彼女はシンガーとしてコンサートツアーもやったりしているそうで、2幕の幕開けにはクリフ・リチャードのDevil WomanやミートローフのBat out of Hellを歌って、これが素晴らしかった。 

ジェイミー・ロイドの舞台はいつも注目されるし、実際に高い評価を得たものも多い。賞も取っているし、ジェイムス・マカヴォイを起用した「マクベス」も絶賛された。でも今回は、なんとなく意図外れな感じがする。ちょっと各新聞の劇評をチェックしていたら、どれも2つ星、、、、そうだよねえ〜〜。挑戦的な絵を描くつもりが、汚い落書きになってしまった、という印象だ。

仕方が無い、マーロウ戯曲の「Doctor Faustus」はまたの機会を楽しみにするとしましょうかね。そういえば、数年前に蜷川さんも舞台にしたんだっけ。観られなかったけれど、野村萬斎さんはじめ、強力なキャスティングだったはず。DVDの話は聞いていないから解らないけれど、きっと全く違う舞台だったんだろうな〜〜。蜷川さんといえば、どうやら来年追悼公演があるらしいので楽しみにしましょ


やっと観て来た、シアターライブのアンコール上映、Les Liaisons Dangereuses(危険な関係)。 前回はリアルタイムのライヴ上映で楽しみにしてたのに、映画館の中継レシーバーの不具合でまともに観られず、返金してもらってトボトボ帰ってきたのだった、、、

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本当にね、革命数年前のフランスで皆が表紙を隠して読んでいたというのがよく解るわ〜〜
私がこの芝居を最初に観たのは86年の初演、ヴァルモンは先日亡くなったアラン・リックマン、 マルテュイユ夫人はリンゼイ・ダンカンというキャスティングだった。

何よりもこのクリストファー・ハンプトンの戯曲はその後に映画化されたヴァージョンがすごく良い。ジョン・マルコヴィッチとグレン・クロースのコンビは観ていてゾクゾクする程非情でセクシーで、貴族の恋愛ゲームのいやらしさ満開だった。同じ戯曲は世界中で翻訳されて、(日本でも上演されたはず)中には設定をもっと現代風したプロダクションもあったみたいだけれど、今回のDonmar Warehouseの芝居は本が書かれた18世紀の 貴族の館をセットにしていて、衣装といい、シャンデリアといい、館の小部屋での室内劇=Chamber Playのような空気を再現している

マルテュイユ夫人は男に恋をして甘える女ではない。男に恋をさせて自分にひざまずかせる事に喜びを見いだす女だ。そして聡明で、美しく、 セクシーで毒を持つ。同じように女を次々と落として恋愛ゲームを楽しむヴァルモンと、初めは同等のようでいて、やがてそれが崩れて行く様は、数年後に起こる貴族社会の崩壊を暗示するかのようだ

心をもてあそび、元彼への当てつけに純真な少女の純血を奪う。貞淑な妻の心を砕き、本心を押し隠して残酷な仕打ちをする、そして最期に滅びたのは男のほうだ。

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マルテュイユ役のJanet McTeerはまさにはまり役。映画のグレン・クロースを超えられるか、、、?と密かに思っていたのだけれど、素晴らしかった。いや、美貌でいえばむしろグレンに勝っている、、?ヴァルモン役のDominic Westは以前に他の芝居で観たときにはあんまり、、、と思ったのだが、これまた凄く良くて、かつチャーミングだ。セシル役のMorfydd Clarkとテュルベル夫人のElain Cassidyのお二人は、修道院学校出の純情な15歳 / 信仰厚い貞淑な妻から、ヴァルモンの手に堕ちるや一転して、艶やかな、夜を待つ女のような顔になる変貌ぶりが目を見張る

Donmar Warehouseはその名のとおり、客席200に満たないスタジオ劇場だ。その空間の中で繰り広げられる恋愛・性愛ゲーム。やっぱり舞台で直接観たかったなあ、、、でも中継上映でも充分このプロダクションの魅力は味わえる。

好きなのよねえ〜〜この芝居!

もともとラクロの原作小説は「手紙の寄せ集め」という形式で描かれている。物語を綴るのではなく、登場人物達の間でやり取りされる手紙の内容によってストーリーが繋がっていく。私は初演を観た後に英語版で読み始めたけれど、あの当時はまだイギリスに来て1年目、ちょっと古めかしい言葉遣いだし、誰から誰への、いつの日付の手紙なのかを把握しながら読むのに結構 時間がかかってしまって、半分くらいで中断していた。そうしたら映画版ができて、なんだか「危険な関係」といえばハンプトン氏の戯曲、という意識になってしまった

ちゃんと本で読んでみようかな。だってこんなにセクシーで残酷な恋愛ゲームを 、人の手紙を盗み読む事で追っていくなんて、やっぱりゾクゾクしちゃうものがあるよね。マリー・アントワネットの図書室にもカバーを隠してあったというのは有名な話。堕落した貴族達の貞操観念がそのまま貴族の滅亡(革命)に繋がっていったのかも・・・・


聖書の中にある、イエス・キリストがラザロ(ラザラス)という男を死後4日目にして蘇らせたという話は有名だ。ボウイーの死後、彼の50年近くに渡るキャリアに対するフィードバックが白熱している。70年代、80年代が青春期だった人達にとって、彼の影響力は計り知れないものがあった。音楽だけでなく、ファッションや金融、インターネットと、常に時代を先取りしてきたアーティストとして、好き嫌いはあるにせよ、彼の残した足跡の大きさは皆が認めている。

亡くなった週末のUKチャートでは、遺作のBlackstarがロケット並みの売り上げで1位となり、トップ40に10枚、トップ100に19枚のアルバムがチャート入りするという凄い現象が起きた。そしてアメリカでも初のアルバム1位に。まあ、これも亡くなった勢いというものだけれど、2週目になっても、一位は変わらず、トップ40に9枚(と41位)、トップ100に 19枚のアルバムが入っている。チャートの20%を一人のアーティストが占めるなんて尋常じゃないよ、、、ボウイーらしい「ラザロの復活」だ

さて、今年初の芝居は座席数100のトラファルガー・スタジオでの「The picture of Dorian Gray
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オスカー・ワイルドの代表作だが、これは元々戯曲ではない。最初に文芸雑誌に掲載された際には、当時は違法だった同性愛の色が出ているという事で、編集者によって添削されてしまった

今回の台本は、ワイルドの孫でもあるマーリン・ホランド氏の協力でオリジナル原稿から削除されてしまった部分を取り入れた新しい本という事だった。
この配役、ヘンリー卿とドリアンのキャラクターが、見ての通り実際のワイルドと恋人だったダグラス卿に瓜二つ

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 よく言うと、完結でシンプル。大げさなエロティシズムや廃退的な空気は無くて、純真だったドリアンが快楽主義者のヘンリー卿に影響されてどんどん変わっていく、という従来の解釈とは少し違う。ヘンリー卿は確かにドリアンに新しい道を教えてしまうのだけれど、ドリアン自身が自分の悪を吸収してくれる肖像画を利用していく。

清らかで美しいドリアンの絵を描いた画家のバジルは、自分の愛(同性愛)のたけを込めて 最高の絵を描いたのに、どんどん変わっていってしまうドリアンに心を痛め、思いを打ち明ける。この部分が発刊時に削除されたようだ。

このドリアンは自分の夢の世界に生きる事を選んでしまったように思う。最初に恋した女優のシヴィルも、彼女自身ではなく、彼女の演じるジュリエットやオフィーリアに魅せられてしまったにすぎない。ヘンリー卿の言葉よりも、その思想を自分の中で幻想の世界として作り上げてその中で生きて行き、自身の肖像画にそのツケをなすり付ける、、、、

これが本当にオスカー・ワイルドが描きたかったドリアン・グレーだ」というホランド氏。今までのドラマチックで堕落なエロティシズム満載のドリアン・グレーとはかなり違う。ワイルド自身はこう言っていたそうだ、「僕自身は画家のシヴィル、ヘンリー卿は世間が僕だと思っているキャラクター、そしてドリアンは僕がなりたかった人物

なにせ客席100のスタジオだから、役者が動ける範囲はせいぜい5-6歩。その中で、少ない置道具を頻繁に転換しながら、シンプルな芝居に創っている。本来のドリアン・グレーが好きな人たちにはちょっと物足りないかもしれないね。でもちょっと違った見方ができて、初めてこの作品に触れる人には解り易いと思う

でもやっぱりもう少し、ヘンリー卿の名言を取り入れて、ワイルドらしい怪しい空気があっても良かったんじゃないかなあ〜〜・・・


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18世紀の中〜後半ヨーロッパには面白い人達が沢山いた。科学・産業が大きく進展していく直前、まだ電気もなく抗生物質も無い時代に、それでも当時の最高の能力・技術を生かして、後の産業革命や医学の発展に繋げていった時代だ。 そんな時代にロンドンで大人気だった俳優/コメディアンのSamuel Foote(サミュエル・フット)の事は実は今はほとんど知られていない。私も知らなかったし、イギリス人だって聞いた事が無い名前だ。「忘れられた名優」にスポットを当てた伝記を元に舞台化したのが、「Mr Foote's Other Leg」だ。

ピューリタン革命によって一時王政が廃止されてからは劇場でのパフォーマンスは禁じられていた。チャールズ2世の時に王政が復古すると、ロンドンのあちこちで貴族だけでなく民衆が手を叩いて喜べるコメディーや風刺劇が広まった。「三文オペラ」のオリジナル、「Beggers Opera」がその代表といえる。18世紀のロンドンではあちこちでコメディー劇やパントマイム(派手な化粧や衣装で、今でいう子供ミュージカルのような色の芝居)が演じられたが、シリアスなストーリーのドラマを演じる事ができたのは、国王からRoyalのタイトルを付ける事が許された3劇場のみだった。

借金の為に2度も刑務所に入った事のあるフットは、オックスフォード大学を、贅沢な金遣いや、規則を破っての度重なる外泊等によって除籍されてしまったという経歴の持ち主。それでもロンドンのコーヒーハウスで各方面で活躍するアーティスト達と出会い、独特の奇抜な色使いの服装と、皆を爆笑の渦に巻き込むウィットな会話で交遊の輪を広げて行く。プロの俳優になるべくチャールズ・マックリン(Charles Macklin)の元で学ぶうち、ロンドンの舞台に出るようになる。そしてそのユーモアのセンスで独自の戯曲も書き、コメディアンとしても俳優としても大人気を得て行く。特にハンサムというわけでは無いけれど、一度会ったら覚えているだろうな、という印象の肖像画がこちら

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当時、シリアスな名優として人気のあったデヴィッド・ギャリック(Daved Garrick)や女優のペグ・ウォッフィントンとチームを組んで、数々のショーで活躍する中、35歳の時に落馬事故で右足を負傷し、切断しなければならなくなった。麻酔も抗生物質も無い時代に大の大人の足を切断する手術が、いかに危険で、苦痛を伴う大仕事だったかは想像を絶する・・・・・

それでもフットは回復し、国王の外科医だったジョン・ハンター(John Hunter)によって作られた義足を付けて舞台に復活する。彼のユーモアのセンスは自分が片足を無くした事までネタにして笑いを提供した。この自分をネタに笑わせるというのは、イギリスのユーモアの特徴でもある。自分をバカにできない堅物は「ユーモアのセンスが無い」という事になるのだ。ちなみにまだ23歳の時に彼が最初に注目されたのは、自分の叔父同士が遺産がらみで相手を殺してしまった事実をネタに書いた本によってだった。

この芝居には俳優として人気のあったギャリックやマックリンの他にも、ベンジャミン・フランクリンや国王ジョージ3世も登場して、当時のロンドンの楽屋裏を見せてくれる。なによりも、フットはこの芝居が上演されているTheatre Royal Haymarketのオーナーでもあったのだ。落馬した時に乗っていた馬が国王の弟、エドワード王子のものだった為、片足を無くしたフットに国王は(しぶしぶ?)ロイヤルライセンスを許可したのだった。こうしてRoyalの名称をもらったHaymarket劇場で、今私たちがこの芝居を観ているというのは何とも感慨深い
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主演のRuss Simon Bealeはローレンス・オリビエ賞を始め、英国での数ある演劇賞を一度は取ったであろうベテランだ。カツラを替え、女物のドレスを着、化粧を変えて「舞台でのフット」をいくつも演じる。ギャリックやペグとの友情、科学者フランクリンからの影響、熱気の籠る劇場楽屋での話し合いや舞台裏で、お客を楽しませる芝居に情熱を込めた彼らの姿が生きている

この芝居でジョージ3世役を演じているのは、この芝居の脚本と、オリジナルになったフットの伝記を書いたイアン・ケリー(Ian Kelly)自身だ。私はこの芝居を観て初めてサム・フットの事を知ったので、早速AmazonのKindleで見つけたケリー氏による伝記本をダウンロードして読み始めた。脚本も面白かったけれど、この本がまた当時の18世紀の空気満載で面白いそういえば、カサノバがロンドンにいた時期にも重なる。

またまた18世紀の掘り出し物に出会った感じ。まだまだ面白い事が見つかりそう、、、、




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ケネス・ブラナーといえば、やっぱり一番にシェイクスピアだ。もちろん他にもいろんなキャラクターで映画にも舞台にもそして演出・監督としても活躍しているけれど、シェイクスピアでの彼は「帰って来た」評される。
この秋から来年の冬までKenneth Branagh Theatre Companyと称して3ヶ月ずつ6作品をGarrick Theatreで続けて上演すると発表されたのが今年の春。その第一弾がシェイクスピアの「The Winter's Tale=冬物語」だ。この6公演はそれぞれにスタークラスの役者が出演し、さらに年齢層の広いキャスティングで早くから話題になっていた

意外と見た事がなかった「冬物語」だ。この本はコメディータッチでもあり、シェイクスピアの作品としてはロマンス劇に入るが、「問題劇」だという人もいる。オセローのような嫉妬心と猜疑心に取り付かれ、ハムレットのように自問自答しながら激情のあげくに自分を見失っていくシシリーの王が中心の一幕。2幕では農夫や道化、詐欺師達が歌い、踊りながら繰り広げる、ボヘミアの王子と羊飼いの娘の恋が中心。重すぎず、軽すぎず、難しすぎず、丁度良いバランスで飽きのこない作品だ

シシリー王のレオンティーズは幼なじみのボヘミア王のポリクシニーズを久しぶりに迎えていたが、「もう少し滞在していってくださいな」としきりに言う妻(王妃ハーマイオニー)と、その言葉に従って1日、2日と滞在を延ばすポリクシニーズが不倫関係にあるのではないかと疑い始める。嫉妬というのは恐ろしいもので、疑いだしたら一気に確信に代わり、どんどん高揚していって、家臣に「あいつを殺せ」とまで言い出してしまうのだ、、、、命を受けた家臣のカミローは、さすがに王の誤解だと解っているので、ポリクシニーズと共に密かにボヘミアへ出立する。身重のハーマイオニーは王の激情によって監禁され、生まれた子供は別の家臣アンティゴーナスに「捨ててくるように」と託されてしまう
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実はこの捨てられた王女がやがてボヘミアで羊飼いに拾われて美しく成長し、ボヘミアの王子(ポリクシニーズの息子) が彼女に恋をする、、、まあ、最期は二人の王は仲直りし、若き王子は シシリーの王女だと解った羊飼いの娘と婚約し、獄中で死んだと思われていた王妃もアンティゴーナスの妻に匿われていきており、16年振りにハッピーエンドとなるのだった

とまあ、ごった煮のようなストーリーだけれど、やっぱりブラナー氏の解釈・演出でとてもポエティックなメルヘンに仕上がっているのだ
この舞台でブラナー氏と共に話題になっているのがアンティゴーナスの妻、ポーリーナを演じているジュディ・デンチ(Dame Judi Dench)だ。家臣なのだけれど、ハーマイオニーを16年間も密かに匿って世話をし、また時にはの語り部のような役も担っている。正気をなくした王に対してもへりくだらない、母親のような強いオーラを放っている。80を過ぎて、目も見えなくなってきている(AMD=加齢黄斑変性)というのに、圧倒的な存在感だ!

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演出はケネス・ブラナーとロブ・アッシュフォードで、舞台全体がとてもロマンチックに冬の色を出している。それにしても若い頃のケネス・ブラナーといえば「ローレンス・オリビエの再来」と言われたものだ。凛とした声に強い目力、「演じている」という不自然さを全く感じさせないシェイクスピアの役のこなし方。解釈と演出のセンスの良さ。一時は「肥えたなあ〜〜、、」と思った時期もあったけれど、 奇麗に絞られていました。そしてベテランと若手の役者達の力量のバランスが凄い。カンパニーとして成功している。見応えのある面白い芝居を観た後の気持ち良さは格別だ。まさに、冬の夜にピッタリ。
 
この王子役の人、最近テレビドラマになった「ジキルとハイド」に主演していた人(Tom Bateman)だ。ハイド役の時のあまりのモンスターぶりに、見ていてあっけにとられてしまったけれど、濃い役者はやっぱり舞台が丁度いいのかも。テレビだと濃過ぎるんだね

シェイクスピア劇はRSCやグローブ座ではいつもやっているわりに、その他のプロダクションは意外と少ない。この「冬物語」だって、ウェストエンドで観たのは初めてだ。クリスマスにはバレエの「くるみ割り人形」があるように、冬にはこんな芝居が付き物でもいいんじゃないか・・・・

 


カストラート、一度その歌声を聴いてみたいと思ったものの、今ではそれはかなわず、一番近い所でカウンターテナーの声を探した時期があった。
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今回の芝居は18世紀初めのスペイン王、フェリペ5世とヨーロッパ一の歌声で大スターだったカストラートのカルロ・ファリネッリのお話。国王は極度の躁鬱病にかかっており、王妃(2度目の)イザベラ(エリザベッタ)や宰相達を手こずらせている。主治医から精神の安定には音楽が良いのではと助言された王妃は、当時のヨーロッパ一の歌声で大人気だったカストラート、ファリネッリをスペイン宮廷に呼び寄せる。国王はファリネッリの歌声で病んだ心に安らぎを見いだし、ほどなく国王にとってファリネッリの存在そのものが必要不可欠な程になっていく。

フランスの太陽王=ルイ14世の孫として生まれたフェリペ(フィリップ)はフランスのヨーロッパでの勢力拡大の為に王位継承者選びで困っていたスペインに新国王として即位することになる。(当時のヨーロッパ王家はなんらかの血縁関係があり、王位継承権は何通りも考えられた)スペイン語も話せないのに王になってしまった自分の運命を、フェリペは「自身で選んだ訳ではない」とファリネッリに話す。

一方のファリネッリは10歳の時に父が死んだ後、家族を経済的困難から救うため、兄の取り決めによって去勢され、カストラートとして生計を立てるべく訓練される。この芝居は、権力と名声を手にしながらも、どちらも「自分で望んで選んだ人生ではなかった」という共通点を持つ二人の友情と、夫をあくまでも国王として献身的に支え続ける王妃の3人の結びつきが描かれる。

フェリペ5世はファリネッリと王妃の3人だけで森の中での生活を夢見てマドリッドの宮廷から出てしまう。森の木の上に家を作り、農夫のような姿で夜の月明かりの下でファリネッリの天使の歌声を聴き、少しずつ精神が安定していくように思えた、、、、

実際にファリネッリはスペインに行ってからは国王と王族の為だけに歌い、錯乱のひどい王が昼と夜逆の生活になってからは、朝の5時半頃まで数曲のアリアを繰り返し歌っていたという。ヨーロッパ中から脚光を浴びていた大スターが、スペイン宮廷に20年以上も留まっていた。18世紀初めにはスペインではオペラはまだ広がっておらず、ファリネッリの力でやがてスペインにもオペラ劇場が建てられるようになる。
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実際に国王が森の中で暮らしたかどうかは定かでないが、音楽が精神の病に与える影響というのは実際に研究されてきた。統合失調症やアルツハイマー、強度の鬱病や躁鬱病、記憶喪失などにも音楽を用いたセラピーは効果を示しているという

劇中ではファリネッリが歌うシーンになると、ファリネッリ役の役者の横に影のようにもう一人、カウンターテナーのシンガーが登場して歌う。ファリネッリの台詞の中で、「歌う時は、自分の声なのにもう一人別の自分がいて、そこから声が出ているような感じがする」と言っているのもあり、このシャドウのようなシンガーの登場はあまり違和感は無い。

宮廷サロンにいるような、ゆったりとした夜のひと時、といった雰囲気の芝居だ。この本を書いたクレア・ヴァン・カンパンは実は戯曲家というよりは音楽家だ。Royal college of Musicを出ており、シェイクスピアのグローブ座で音楽担当もしている。また物書きとしては音楽関係の本もいくつか書いており、舞台の音楽も数多く担当しているので、この芝居の台本を書くに至ったという。
戯曲としての完成度は有名な劇作家達のような筆の技法は無いけれど、シンプルで穏やかなストーリーにバロックのアリアがちりばめられていてとても美しい作品になっている

こういう、サロン風の芝居も秋の夜長にはゆったりとしていて良い。スペインでの日々を終えた晩年のファリネッリの影で歌われるヘンデルのLascia ch'io piangaはとても美しい....
米良美一さんやPhillipe JarousskyのLascia ch'io piangaがとても好きだ。この芝居のラストにまさにふさわしい一曲。せっかくなので米良さん版を映画「ファリネッリ=カストラート」に合わせたヴァージョンをどうぞ。

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