ホント、ちゃんと知らなかった「フランケンシュタイン」。
子供の頃に初めてその名を聞いた時は、ゴツゴツといびつな異常に大きな頭、潰れかけた目、クビには鉄のボルトが貫通していて、身体は継ぎはぎという怪物が、変わり者の科学者によって造られた人造人間である、という子供にはかなり怖いイメージがインプットされた
フランケンといえば、怪物。人を襲い、殺し、生みの親である博士に復讐をしようと執拗に追い回す凶悪な生き物。実はそれ以上の事はほとんど知らずに大人になってしまった。10年近く前だったか、ケネス・ブラナー氏が「原作に忠実なフランケンシュタインを」と言う事で撮った映画「Mary Shelly's Frankenstein」が話題になった時、このゴシックな話の原作がうら若いイギリス人女性であった事、そしてフランケンシュタインというのは怪物ではなく、それを造った博士のほうの名前だという事を知った。この映画も実は私は観なかったのだ。でもこの時に、「フランケンシュタイン」という話は実は凶悪モンスターが暴れ回るというものではなく、実験によって生を与えられた孤独な男が暖かい愛情を求め続けて、裏切られる度に心が歪められていった悲しい人間劇なのだという事を読んだ。
今National Theatreで上演中の「Frankenstein」はこの原作を舞台化した新しい本で、演出は映画「The Beach」や「スラムドッグ・ミリオネア」で知られるDanny Boyle氏。この舞台版は、フランケンシュタイン役の俳優と、クリーチャー(怪人)役の俳優が2つの役を両方交代で演じる事で話題になった。2人は見た目のイメージも全く違うタイプの役者だ。Benedict Cunberbatchは色白で背がヒョロ高く痩せ形。切れ長の目がちょっと宇宙的な印象を与える。去年BBCテレビで新しいシャーロック・ホームズを演じた。何を考えてるか解らない不思議な容貌におそろしくキレの良い頭、という現代のホームズが好評だった。一方のJonny Lee Millerはもう少し小柄で、決して太めではないけれどがっしりした(Stocky)タイプ。
どちらの博士、どちらの怪物で観るかを検討して、(本当は両方見たかったけれど、なにせチケットを取った時は金欠まっただ中だったので、泣く泣くチョイスした)エキセントリックな感じのCunberbatch氏がフランケンシュタイン博士で、筋肉質なMiller氏がクリーチャーを演じる日を選んだ。いつもなら一枚のチケットなら良い席がサックリと取れるのだけれど、今回はかなりの売れ行きだったようで、しかたなくサークル席の最前列ど真ん中を取った。場内はまさに天井近くの席までぎっしり埋まっている。
こんな話だったとは・・・・始めの10分程は台詞はまったく無い。誕生したクリーチャーが、舞台の上で「生き物」から「人」になって行く。まず裸で転がったところから、手足を震えさせ、全身の筋肉に少しずつ力を入れて動く。もがくと言った方が良い。なんの力もない状態から手で身体を支え、さらに全身の力を込めて身体を起こそうとする。そして這いずり、次第に足に力を入れて四つん這いから立ち上がる、、、まさに、生まれたばかりの赤ん坊が少しずつ立ち上がって歩けるようになっていくのと同じ。違うのは、それを手伝い、励ます優しい母親が側にいない。
立ち上がり、歩いた次には風を切って走り回る。喜びの雄叫びをあげながらはしゃぎ回る この間、役者はずっと全裸で身体中の筋肉の一つ一つを使ってその過程を見せて行く。無垢なままの生き物だ。本当に無邪気な赤ん坊のような素直さなのだが、悲しい事に身体中つぎはぎで、その顔は壊れかけて化け物のように醜い。彼を生み出したフランケンシュタイン博士は、そのクリーチャーのあまりの形相と、自分が果たしてしまった実験の罪の深さにおののいて、彼を置き去りにしてしまう。まさに親に捨てられてしまった子供だ。
言葉も、物の善悪も、食べ物を取る事も調理する事も何も知らない彼が最初に覚えたのは、自分を見る度に恐怖の悲鳴を上げて逃げて行く人々と、次には自分を石で打ち、こん棒で殴り、ののしって追い払う人達の口汚い言葉だった。始めて優しく接してくれた盲目の老人が、言葉を教え、人と語らう事や作法を教えてくれた。自分の姿が見えない人だけが優しくしてくれるのだと知る一方で、理由もなく自分を打ちのめし、罵る人間に対しての憎悪も膨らませてゆく。そして随所に出て来る「失楽園」(ミルトン)の引用。
彼が欲しかったのは、父親(博士)の愛情と、自分を愛して一緒にいてくれる女性の存在だったのだ。どんな人間にだって、愛してくれている人が一人はいるだろう。父親?母親?兄弟?、、、だれかせめて一人くらいは・・・寒さよりも、打たれた痛みよりも、空腹よりも、もっと彼を苦しめたのは「誰からも愛されていない」事だったのだ。Jonny Lee Miller氏はこの無垢なクリーチャーを本当に丁寧に表現している。途中で見ているのがつらくなり、思わず抱きしめてあげたくなるような孤独感を見事に演じていた。
舞台の証明が美しい。決してきらびやかではなく、でもとてもとても美しい。博士の出番は後半に集中している。前半で完全にクリーチャーが主役なので、ここからエキセントリックなインパクトの強い科学者とのぶつかり合いが観たいところ。今回残念だったのは、Cumberbatchの博士が昨日はアンダースタディーに代わっていた。面白いと思ったのは、プログラムをチェックしてみると、アンダースタディーは博士とクリーチャーに各々一人ずつ付いている。そしてどう見ても容貌的には博士のアンダーはCunberbatch氏にそっくりで、クリーチャーのアンダーはMiller氏のタイプだ。ということは、イメージ的にはやはりこの組み合わせだったのだろうか?あえて2人を交互にダブルキャストにしたのは、違うなりの面白さがあったからだろうか、、
自分が造ってしまったもののおぞましさを嫌い、それでもクリーチャーから「自分にもパートナーを」と言われると、もう一つ「完璧な生き物」を造りたいと思い始めてしまう、科学者としての欲と葛藤が博士役の見せ所。一見しただけでは代役とは気が付かないくらいBumberbatch氏に似たタイプの役者さんだけれど、どうしても今ひとつクリーチャーとのぶつかりが弱い、、かな。Bumberbatch氏の去年のシャーロック・ホームズでの演技を思い出すと、「ああ、もうちょっとこんな感じかな、、?」というのが何となく解るけれど。代役の事は別に取り立ててアナウンスもされず、買ったプログラムに紙1枚がはさまっていただけだ。だから、代役だと気が付かない人も沢山いたんじゃないだろうか。
代役だからって芝居は変わらない。役者が変わっても創り上げた舞台/芝居は変わらないのだ。「観客からいつも同じお金を取る、というのはこういうことだのだ」といつも思う。でも、、う〜〜ん、やっぱり本命の役者で観たかったなあ〜。それだけに、クリーチャー役のMiller氏が強烈に印象に残っている。身のこなし、細かい体中の筋肉の使い方は、やはり役者は肉体的に鍛え抜かれていなければいけないと今更ながら思わせる。身軽だ。飛び降りても足音が「コトン」としかしない。素っ裸で雨にも濡れて、大変だ・・・途中で思わず涙出てしまった、、
休憩無しの2時間弱で収まる芝居は集中して観られる。この本は新作で今回がプレミアだけれど、随所に笑えるユーモアもあり、とても良い本なので、こういう芝居がこれからもいろんな演出、解釈で上演されるといいな。いろんなヴァージョンが観てみたい作品だ。
メアリー・シェリーがこの物語のプロットを思いついたのは、スイスの湖畔でバイロンの別荘に滞在していた時、雨の夜に集まった人達(皆詩人や小説家)で一作ずつ怪奇小説を披露しようというゲームのような事を言い出したのきっかけだと言う。この一夜は、むかし「ゴシック」という映画になっていた。ケン・ラッセル監督のちょっとエグい、でも色彩の美しい摩訶不思議な映画だった・・・・結構好きなんだよね、ゴシックな感覚って。
というわけで、今更ながらケネス・ブラナーの「Mary shelly's Frankenstein」を観てみますかね。携帯にダウンロードできるAmazonのKindle(電子書籍)にも原作がある。しかも無料だわ! カサノヴァの自叙伝といい、クラシックな本が無料で読み放題って素晴らしい! 重い
本を持ち歩く代わりに携帯で本を読む毎日・・・