見つけもの @ そこかしこ

ちょっと見つけて嬉しい事、そこら辺にあって感動したもの、大好きなもの、沢山あるよね。

カテゴリ: ロンドン演劇事情


ホント、ちゃんと知らなかった「フランケンシュタイン
子供の頃に初めてその名を聞いた時は、ゴツゴツといびつな異常に大きな頭、潰れかけた目、クビには鉄のボルトが貫通していて、身体は継ぎはぎという怪物が、変わり者の科学者によって造られた人造人間である、という子供にはかなり怖いイメージがインプットされた

フランケンといえば、怪物。人を襲い、殺し、生みの親である博士に復讐をしようと執拗に追い回す凶悪な生き物。実はそれ以上の事はほとんど知らずに大人になってしまった。10年近く前だったか、ケネス・ブラナー氏が「原作に忠実なフランケンシュタインを」と言う事で撮った映画「Mary Shelly's Frankenstein」が話題になった時、このゴシックな話の原作がうら若いイギリス人女性であった事、そしてフランケンシュタインというのは怪物ではなく、それを造った博士のほうの名前だという事を知った。この映画も実は私は観なかったのだ。でもこの時に、「フランケンシュタイン」という話は実は凶悪モンスターが暴れ回るというものではなく、実験によって生を与えられた孤独な男が暖かい愛情を求め続けて、裏切られる度に心が歪められていった悲しい人間劇なのだという事を読んだ

今National Theatreで上演中の「Frankenstein」はこの原作を舞台化した新しい本で、演出は映画「The Beach」や「スラムドッグ・ミリオネア」で知られるDanny Boyle氏。この舞台版は、フランケンシュタイン役の俳優と、クリーチャー(怪人)役の俳優が2つの役を両方交代で演じる事で話題になった。2人は見た目のイメージも全く違うタイプの役者だ。Benedict Cunberbatchは色白で背がヒョロ高く痩せ形。切れ長の目がちょっと宇宙的な印象を与える。去年BBCテレビで新しいシャーロック・ホームズを演じた。何を考えてるか解らない不思議な容貌におそろしくキレの良い頭、という現代のホームズが好評だった。一方のJonny Lee Millerはもう少し小柄で、決して太めではないけれどがっしりした(Stocky)タイプ

どちらの博士、どちらの怪物で観るかを検討して、(本当は両方見たかったけれど、なにせチケットを取った時は金欠まっただ中だったので、泣く泣くチョイスした)エキセントリックな感じのCunberbatch氏がフランケンシュタイン博士で、筋肉質なMiller氏がクリーチャーを演じる日を選んだ。いつもなら一枚のチケットなら良い席がサックリと取れるのだけれど、今回はかなりの売れ行きだったようで、しかたなくサークル席の最前列ど真ん中を取った。場内はまさに天井近くの席までぎっしり埋まっている

こんな話だったとは・・・・始めの10分程は台詞はまったく無い。誕生したクリーチャーが、舞台の上で「生き物」から「」になって行く。まず裸で転がったところから、手足を震えさせ、全身の筋肉に少しずつ力を入れて動く。もがくと言った方が良い。なんの力もない状態から手で身体を支え、さらに全身の力を込めて身体を起こそうとする。そして這いずり、次第に足に力を入れて四つん這いから立ち上がる、、、まさに、生まれたばかりの赤ん坊が少しずつ立ち上がって歩けるようになっていくのと同じ。違うのは、それを手伝い、励ます優しい母親が側にいない

立ち上がり、歩いた次には風を切って走り回る。喜びの雄叫びをあげながらはしゃぎ回る この間、役者はずっと全裸で身体中の筋肉の一つ一つを使ってその過程を見せて行く。無垢なままの生き物だ。本当に無邪気な赤ん坊のような素直さなのだが、悲しい事に身体中つぎはぎで、その顔は壊れかけて化け物のように醜い。彼を生み出したフランケンシュタイン博士は、そのクリーチャーのあまりの形相と、自分が果たしてしまった実験の罪の深さにおののいて、彼を置き去りにしてしまう。まさに親に捨てられてしまった子供だ

言葉も、物の善悪も、食べ物を取る事も調理する事も何も知らない彼が最初に覚えたのは、自分を見る度に恐怖の悲鳴を上げて逃げて行く人々と、次には自分を石で打ち、こん棒で殴り、ののしって追い払う人達の口汚い言葉だった。始めて優しく接してくれた盲目の老人が、言葉を教え、人と語らう事や作法を教えてくれた。自分の姿が見えない人だけが優しくしてくれるのだと知る一方で、理由もなく自分を打ちのめし、罵る人間に対しての憎悪も膨らませてゆく。そして随所に出て来る「失楽園」(ミルトン)の引用。

彼が欲しかったのは、父親(博士)の愛情と、自分を愛して一緒にいてくれる女性の存在だったのだ。どんな人間にだって、愛してくれている人が一人はいるだろう。父親?母親?兄弟?、、、だれかせめて一人くらいは・・・寒さよりも、打たれた痛みよりも、空腹よりも、もっと彼を苦しめたのは「誰からも愛されていない」事だったのだ。Jonny Lee Miller氏はこの無垢なクリーチャーを本当に丁寧に表現している。途中で見ているのがつらくなり、思わず抱きしめてあげたくなるような孤独感を見事に演じていた

舞台の証明が美しい。決してきらびやかではなく、でもとてもとても美しい。博士の出番は後半に集中している。前半で完全にクリーチャーが主役なので、ここからエキセントリックなインパクトの強い科学者とのぶつかり合いが観たいところ。今回残念だったのは、Cumberbatchの博士が昨日はアンダースタディーに代わっていた。面白いと思ったのは、プログラムをチェックしてみると、アンダースタディーは博士とクリーチャーに各々一人ずつ付いている。そしてどう見ても容貌的には博士のアンダーはCunberbatch氏にそっくりで、クリーチャーのアンダーはMiller氏のタイプだ。ということは、イメージ的にはやはりこの組み合わせだったのだろうか?あえて2人を交互にダブルキャストにしたのは、違うなりの面白さがあったからだろうか、、

自分が造ってしまったもののおぞましさを嫌い、それでもクリーチャーから「自分にもパートナーを」と言われると、もう一つ「完璧な生き物」を造りたいと思い始めてしまう、科学者としての欲と葛藤が博士役の見せ所。一見しただけでは代役とは気が付かないくらいBumberbatch氏に似たタイプの役者さんだけれど、どうしても今ひとつクリーチャーとのぶつかりが弱い、、かな。Bumberbatch氏の去年のシャーロック・ホームズでの演技を思い出すと、「ああ、もうちょっとこんな感じかな、、?」というのが何となく解るけれど。代役の事は別に取り立ててアナウンスもされず、買ったプログラムに紙1枚がはさまっていただけだ。だから、代役だと気が付かない人も沢山いたんじゃないだろうか。

代役だからって芝居は変わらない。役者が変わっても創り上げた舞台/芝居は変わらないのだ。「観客からいつも同じお金を取る、というのはこういうことだのだ」といつも思う。でも、、う〜〜ん、やっぱり本命の役者で観たかったなあ〜。それだけに、クリーチャー役のMiller氏が強烈に印象に残っている。身のこなし、細かい体中の筋肉の使い方は、やはり役者は肉体的に鍛え抜かれていなければいけないと今更ながら思わせる。身軽だ。飛び降りても足音が「コトン」としかしない。素っ裸で雨にも濡れて、大変だ・・・途中で思わず涙出てしまった、、

休憩無しの2時間弱で収まる芝居は集中して観られる。この本は新作で今回がプレミアだけれど、随所に笑えるユーモアもあり、とても良い本なので、こういう芝居がこれからもいろんな演出、解釈で上演されるといいな。いろんなヴァージョンが観てみたい作品だ。

メアリー・シェリーがこの物語のプロットを思いついたのは、スイスの湖畔でバイロンの別荘に滞在していた時、雨の夜に集まった人達(皆詩人や小説家)で一作ずつ怪奇小説を披露しようというゲームのような事を言い出したのきっかけだと言う。この一夜は、むかし「ゴシック」という映画になっていた。ケン・ラッセル監督のちょっとエグい、でも色彩の美しい摩訶不思議な映画だった・・・・結構好きなんだよね、ゴシックな感覚って

というわけで、今更ながらケネス・ブラナーの「Mary shelly's Frankenstein」を観てみますかね。携帯にダウンロードできるAmazonのKindle(電子書籍)にも原作がある。しかも無料だわ! カサノヴァの自叙伝といい、クラシックな本が無料で読み放題って素晴らしい! 重い
本を持ち歩く代わりに携帯で本を読む毎日・・・




リリアン・ヘルマンという人の戯曲「子供の時間」の事は役者をやっていた頃に知っていた。けれど上演されたものは舞台も映画も観た事がなかった。2人の女性教師が経営する寄宿制女子校が舞台で、子供の嘘によって大人達の人生が崩壊していくという怖〜〜い話なのだ、、という事が頭に残っていた

今年の初芝居はこのリリアン・ヘルマンの「The Children's Hour」を楽しみにしていた。2人の女性教師はキーラ・ナイトリー(Kiera Knightley)とエリザベス・モス(Elizabeth Moss) この2人の名前と顔が宣伝用にはもっぱら使われているけれど、影の主役はこの2人を崩壊させる病的な嘘つき少女だ。

カレン(キーラ・ナイトリー)とマーサ(エリザベス・モス)は2人でプライベートな寄宿女学校を開き、学校の経営も軌道にのってきた所。学校では少女達を寄宿制で預かり、勉学と作法を教えている。カレンには長年の婚約者で医者の=ジョーがいて、彼の仕事も軌道に乗って来たのでいよいよ結婚という所まで話が煮詰まっている

少女達というのはなんだろう、、時々とても残酷で胸が悪くなるくらいbitchyな所がある。私は男女共学校の出身だけれど、どうしても女の子達のグループというのが嫌いで、いつも男子達と一緒にいた。この芝居の序盤でも、少女達のイノセントな好奇心と同時に、相手を探っては弱みを突くというすごく「いやらしい」特性が見事に芝居に現れていて、見ていて気分が悪くなりそうだった。私は共学校に行った事を本当に感謝している。女の子同士という事で考えれば、誰にでも思い出があるような、「そうそう、女の子ってこうだよね」とうなづいてしまう自然なノリであり、空気であり、、、それは私にもとても納得できるものだし、だからこそ笑える部分も多いのだけれど、私は好きじゃない空気なのだ。でもこの序盤がすごく生きていて、この中で、友情という仮面の下にある、計算や支配欲や駆け引きが見事に表現されている

病的な嘘つき娘、メアリーを演じているのはBryony Hannahという女優さんで、この人がもうゾッとする程巧い!! SICKなのだ。大人達にはすぐに嘘だと解る事を必死になってまくしたてる。嘘だといわれても絶対に屈しない。全身全霊で嘘をつき、それを自分にとっての真実にしてしまう・・・ 見ていると、ひっぱたいてやりたくなるのだけれど、それが本当に病的で凄いものがある。女優さん自身の年齢がわからないカンジだ。他の生徒役の人達はやっぱり20歳そこそこといったところか、、、でも彼女は、10代にもみえるし、そうかと思うと30代かもしれない、、、とも思える。実際は26歳だそうで、プログラムを見てみるとRADA出身の人だ。やっぱりね、、、巧いよ。キーラとエリザベスがハリウッド映画やアメリカのTVドラマで文字通り「スター」なのに対して、この全く無名のブリオニーは、なんと6年前まで地元のパブでバーメイドをしていたのだそうだ

立ち姿からして病的なカンジだ。屈折している。身体も表情も言う事も・・・
それでいて大好きなお祖母様には甘え上手。必死で嘘を訴える一途さと、友人を脅して口裏を合わさせる悪魔的な強引さ。美しく化粧していかにもスター的な2人の教師役とは全く逆の、地を這うような演技力だ。公演のポスターの2人がマネキンなら、このメアリーは泥人形といったところか・・・ところが、1幕ではほとんど舞台をさらっている。この病的な嘘の演技があるからこそ、2幕の、すべてを失ってしまった大人達の空虚さが浮き出て来る。

私も子供の頃は結構嘘をついた。親にはすぐ見破られているのに、それでも自分ではそれが真実だと真剣に思いながら「神様に誓って」嘘をついた。(おお、、今思えばなんと畏れ知らずな、、、神よ、お許しを!)これは本当に大人達をイライラさせたみたいで、それをどこか醒めた自分が見計らいながら彼等の反応を伺って、逃げ切る道を探しているのだ。だからああいう必死の嘘つきのする事はよくわかる。自分の心と身体が「これは本当だ」と信じて本気でぶつける嘘。それでいて醒めた目で計算している、、って、これぞ演技の原点なのだ。嘘つきは役者の始まり

少女がついた究極の悪意ある嘘は、学校を経営する2人の女教師が同性愛の関係にあるというスキャンダルだった。時代背景は1930年代。アメリカの地方にある小さなブライベートの寄宿女子学校。なんといっても学校の評判がものをいう。今とは違ってレズピアンなんてもってのほか、、しかも教育者が!! 2人がやっと築いた学校は閉鎖に追い込まれ、カレンとジョーの関係も、、、

そして100%嘘だった筈なのに、ここにきて、マーサはカレンへの今まで隠し続けてきた同性愛の感情を告白する、、、2人の関係は全くなかったとはいえ、マーサの告白に動揺しながらも受け入れられないカレン。とうとうマーサは自ら命を絶ってしまう。その後になって、孫のついた嘘を信じて学校を告発したメアリーの祖母が、あれは嘘だったという事を知り、2人を訪ねて来るが既にマーサは自殺してしまった後の事。一人で取り残されたカレンは今までの怒りとやり切れなさを爆発させるが・・・

ポスターのスター女優2人が目当ててこの芝居に来た人が大半だろう中で、メアリー役のブリオニーはもちろん、その祖母役のEllen Burstynだって、アメリカではアカデミー賞、ゴールデングローブ賞、舞台でトニー賞とすべて取っているベテランだ。(なんと〜〜!あのオリジナル「エクソシスト」のお母さんではないですか!!)他の共演者達も強力だ。役者達は英国、アメリカ、オーストラリアの役者さんもいて、本はとってもアメリカっぽいのだけれどそのミックス感が良い。

見ごたえあった、、!
本としては好きな芝居ではないけれど、これは強力なチームですよ、、、


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久しぶりのDonmar Warehouse。最近のドンマーのプロダクションはウェストエンドの劇場で客席規模を広げて上演される芝居が多かったから、実際のウェアハウスでミュージカルを観たのは本当に久しぶりだ

スティーヴン・ソンドハイム氏のミュージカル、「Passion」。初演はブロードウェイで1994年に上演され、トニー賞を取っている。ロンドンでは一度1997年にMichael Ball 主演で上演されているけれど、私は観てなかった。日本では上演されていないようだけれど、こういう小作品でもソンドハイム氏の音楽はキラッと光るものがある。彼の曲が役者/ミュージシャン泣かせなのはいわずもがな、、、でもこのミュージカルでの曲はそれほど複雑なメロディーじゃなかったかな。

怖い話。折しも観たのはハロウィーンの夜。お化けものではないけれど、執拗なまでの愛が思わずゾゾっとさせられてしまうストーリーだ。オリジナルはイタリア映画の「パッション・ダモーレ=Passione D'amore

若くハンサムなイタリア将校のジョルジオは、美しいクララとの激しい恋に身も心も燃やしていた。ところがある日彼はいたって辺鄙な国境街の部隊へ転属になってしまう。恋しいクララには毎日手紙を書くと約束し、クララもまたジョルジオに手紙を書き続ける。ジョルジオは上官の館に滞在し、そこで他の将校達や街の医師との交流が始まる。そしてその館に上官の従妹だという女性=フォスカが同居している事を知る。まだ見ぬ彼女は「醜く、病気がちでヒステリック、誰も彼女を愛する男はいないだろう」と言われ、時折彼女があげる嬌声が館中に響いていた。

都会と違って何も無い田舎。夜はディナーを囲み、カードをする、、ジョルジオにとっては退屈で面白く無い日々だ。そしてある日、病気でひきこもっていたフォスカがディナーのテーブルに現れる。初めて彼女に接したジョルジオは、思ったよりも彼女が親し気に話をしてくるので少し驚く。お互いに本が好きだという事で、彼女はにこやかに彼に話しかけるのだった。

ここからのフォスカはどんどんジョルジオにつきまとっていく。「友達でいよう」と言っても、「自分には心を捧げた恋人がいる」と言っても「もう付いて来ないでくれ」と言っても「君には何の感情もない」と面と向かって叫んでも、彼女はジョルジオを愛する事をやめない。まさにストーカーだ。背後霊のように「あなたを愛しているの」とつきまとう。とうとうジョルジオは夜にうなされ、病気になるまでに追いつめられていく。

あな恐ろしや、醜女の怨念・・・!と思いきや、本題はちょっと違う。実は美しく愛しいクララは人妻で、母親なのだ。ジョルジオとの関係は決して実を結ばない。輝かしい恋に身を焦がしていたジョルジオも、次第に「制限つきのクララとの愛」と「何も求めずにひたすら自分に愛をぶつけてくるフォスカの思い」の間で揺れ始める。フォスカに結婚していた過去があり、それがどんなに残酷に彼女を壊してしまったかを上官から聞かされて、ジョルジオはますますフォスカの情念から逃れられなくなっていくのだ。

最後にとうとうフォスカは愛を勝ち得る。それは「愛している」という以外になんの打算も条件も制限もつけない、ひたすら相手に自分の思いを届け続けた情熱の賜物だ。

エレナ・ロジャー(Elena Roger)のフォスカは怖い、、、彼女は150cmそこそこの小柄な役者だ。枯れ枝のように細い身体を縮めて、土色のメイクに大きな目だけが浮き上がった姿はまさにゾンビのよう・・・それでいて弱々しく話し、笑う。「ピアフ」の時は、小さな身体からもの凄い声がほとばしり出て凄かったけれど、今回の役では声を細く綺麗に使った歌声を聴かせてくれる。独特のなまりがある英語も(彼女はアルゼンチンの人)、むしろそれがフォスカの病的なキャラクターに生きているし、台詞はとても聞き取り易い。醜いはずのフォスカが愛を見せる時にはとても誇らし気で綺麗に見える。

フォスカと対称的なのが、クララの美しさだ。冒頭のジョルジオと愛し合うベッドでのシーンから、まず彼女の美しさに目が離せない。コルセット姿の背中から腰の綺麗なライン、ブロンドの巻き毛、これは男なら絶対に落ちる。女だってそれを認めざるを得ない。ハンサムなジョルジオは、私としては髭は綺麗に剃ってた方がよかったかも、、、でもイタリア的感覚の「良い男」はああなのかしら、、?

良いミュージカルは大仕掛けである必要は無いのだ。巨大なセットや仕掛けや40人のダンサー達がいなくても、良いミュージカルは作れる。前回観た「サロメ」では、ちょっとヤリ過ぎだと思ったジェイミー・ロイドの演出も、今回は洗練されてて良い。アンサンブルの将校達の動きが無駄が無く、場面転換も含めた巧い振り付けになっている。

フォスカの従妹役の役者は、先月初めに、決闘シーンでの小道具のアクシデントで目を怪我したという記事を見ていたのでどうしたかと思ったけれど、どうやら公演は数日キャンセルした後にまた再開している。ドンマーのプロダクションではアンダースタディーを立てていないという事で、今でも彼は右目を覆っていた。海賊のような黒いパッチで右目を覆っているので、それがキャラクターなのだと思わせる。この役も、芝居の中で只一人フォスカをかばい続ける兄のような役回りで良かった

歌唱力は皆さん揃っていてソンドハイム氏の曲を見事にこなしている。浪々と声を張り上げて歌うという曲は特になく、全体に歌が台詞と巧く融合している。片思いをした事は何度もあるけれど、「こんなにも一途な片思い」はできなかった・・・嫌われても諦めない、愛する事をやめないフォスカは、「愛し方を知らないのよ」と言いながら思いをぶつけていく。Passion というよりObsessionだ。でもそれが最後に愛を手に入れる・・・考えてしまった

休憩無しの1時間45分、客席キャパシティー250程の、ミュージカルとしては小振りだけれど、最近観た大仕掛けのミュージカルにも負けない良さが確かにある。良いミュージカルを観た・・・!楽しいハロウィーンナイト



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幸せ!!、、、大好きなんだ彼女

Frances Ruffelleのショウにやっと行けた。(フランセス・ルッフェルと発音しますが、日本語表記だとフランシス・ラッフェルになるみたい、、どっちでもいいか)このBeneath The DressというJazzyなショウは去年キャバレースタイルのクラブでやっていたのだけれど、行かれなかった。今年のエジンバラ・フェスティバルに参加して、その後ロンドンの劇場で一回だけ再演が決まった。本当はエジンバラまで行きたいくらいだったので、ロンドンでやる、しかも日曜日の夜という事でチケットをゲット

フランセスは元々子供の頃からショウビジネスの世界にいる人で、80年代にミュージカルで一躍スターになった。一番の代表作は「レ・ミゼラブル」のオリジナルでのエポニーヌ役。ロンドンに続きブロードウェイでも演じてトニー賞を受賞した。もっと前にはローラースケートで歌い踊るオリジナルの「スターライト・エクスプレス」で食堂車/ダイナを演じている

彼女を初めて「レ・ミゼ」で観た時の強烈な印象は忘れられない。というより、私は芝居を観に行ってあんなに大泣きした事は他にない。可哀想な役というだけでなく、彼女のが忘れられなかった。一度聞いたら頭から離れないような、そんなSomething very specialなものを感じた。「レ・ミゼラブル」の舞台自体素晴らしかったけれど、彼女は私の中で特別なお気に入りになってしまった。

その後も舞台で何度かフランセスを観たけれど、舞台/ミュージカル女優としてではなく、シンガーとしても活動している事は知っていた。彼女の声は元々とてもハスキーで、ジャジーなので、キャバレースタイルにはぴったりだ。なにかのインタビューで言っていた。「若い頃は自分のハスキーな声が嫌いで、訓練して息が混ざらない発声をマスターしました、そして生まれたのがエポニーヌの声でした」

確かに「風邪ひいてる?」と思うようなハスキーな声での歌と、ビリビリと響く少女のような声での歌と、同じ声なのに空気が違う。でもどちらも彼女の声なのだ。声だけじゃくて、表情にも多面性がたっぷりあって、彼女のショウはセクシーで、小悪魔的で、可憐で、お茶目で、あばずれで、無邪気でそしてすばらしくプロフェッショナルだった

小柄な彼女は45歳なのにどうみても27-8にしか見えない。なんといっても身体が若い。さりげなく歌いながらグランドピアノに乗る時も、両腕で身体を持ち上げて、そのまま両足をピンと伸ばしたままで90度にスウっとあげてお尻からスルッとピアノに乗ってしまった。歌いながら・・・すごい腹筋だ、、、!!このさりげなさ!! 歌いながら指の先、足のつま先まで神経が通ってる。すごいなあ〜〜・・・

1時間15分程のコンサートだったけど、すごく楽しかった! バンドの男性チームもクールだったし。「お客様を楽しませてます!」っていう見え見えな空気が全くなくて自然体。嫌みが全くない。こういうアーティストは珍しいよね。頑張りが主張されてないっていうのかなあ、、

女性アーチストで、「私大好きなんだ〜!」と自然に言える人って実はとても少ない。そうだなあ、、、矢野顕子さんと彼女くらいかな。自然体で飾らない天才的な才能、という意味では共通しているお二人。

45であれなら、私だってまだまだイケルかも・・・なんて思わず元気になってしまった。骨の髄までプロなんだろうなあ〜〜、そんな事は自分では考えもしない程・・・すごいなあ
一曲一曲がそれぞれ物語のようになっていて、いろんな女をいろんな表情で演じて行く。休み無く。前の曲とはガラッとかわって違う女になっているあたりはやっぱり女優。さりげないようでいて実はとてもうまく構成/演出されているのだ

3日前に発売されたばかりのCD=Imperfectly Meをダウンロードして聞いている。早速のお気に入りだ。でもCDは、はっきり言って彼女には役不足。彼女の声はCDで聞くより舞台で聴いた方が10倍はパワフルだから。

オリジナルの「レ・ミゼ」のOn My Ownを久しぶりに聴いてみる。もう24年前かあ〜〜・・・Youtubeから引っ張ってきました



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久しぶりで日曜マチネの芝居を観て来た。何度も言いますが基本的にこちらの劇場は日曜日はお休み。でも観光客が入りそうなミュージカルの一部を中心に日曜日にマチネ公演を行っている芝居も最近はちらほら出てきている。もちろんまだまだ少数だけれど。

さて、またしてもフランス革命がらみ。この繋がりはなんだろうね。この芝居は日本ではあまり上演されていないんじゃないかな、「Danton's Death=ダントンの死」ジョルジュ・ダントンの最後の数カ月の話だ。

フランス革命初期から活躍し、革命政府の一主導者として新しいフランスを創る情熱に燃えていたダントンは、だんだん革命が「恐怖政治」化していって、どんどん血なまぐさい姿になって行く事に疑問を持ち始める。時のリーダーであるロベスピエールは混乱の時代に「恐怖政治の必要性」を主張し、情け容赦なく反抗する者達をギロチンに送る。そしてその矛先は同志として革命に命を捧げてきたダントンにも向けられる事になる

志を同じくして来た筈の仲間同士で次第に意見がすれ違っていく不安定な時代、自分の意見を主張するためには嘘の罪状を造り上げても平気なロベスピエールと、無用な流血に疑問を持ち、自分達のやり方が正しいかどうかを自問するダントン。ロベスピエール派にはサン・ジュスト、ダントン派にはカミーユ・デムーランがつき、後半は裁判でのパワフルな演説合戦となる

実際のダントンは非常に大声の持ち主で、雷が落ちるごとく雄弁を振るったと言われているが、この芝居においても役者達(ダントンのみならず、ロベスピエールもサン・ジュストも)の見事に嵐のような演説/台詞合戦が堪能できる

今の時代だって、政治家の言う事なんておよそ真実じゃない事が多い。それでも彼等は言葉巧みに、声色豊かに聴く人達を説得するべく話術を駆使する。ストーリーとしてはある時代のある一時期だけのものなので、フランス革命が血塗られていった経過をある程度知っていないと解り難いかもしれない。でもこの本が書かれたのは、1834年という事で、まだフランス革命はヨーロッパの人々の記憶に生々しく、余計な事を説明する必要はなかったのだろう

舞台はシンプルで余計なセットや道具は殆ど無い。役者達の台詞にすべてがかかってると言って良い。「新しい国をつくるのだ」という使命感に燃えた若者達の情熱、それがたとえ主張は違っても、命をかけるという炎のような思いに違いはない。「自分達のしている事は本当に正しいやり方か」という自分に対する問いかけに苦悩するダントンと、そんな自問すらしないロベルピエールの対比は僅か2時間弱のこの芝居の緊張感を引っ張る

この本を書いたゲオルグ・ビューヒナーは当時わずか21歳。彼自身も革命思想のためにお尋ね者になっていたという。確かに芝居には若さ故のエネルギーと、時代を変えるという夢、理想、そして現実が詰まっている。もちろんこれだけではないのだろうけれど、この芝居に於いてはロベスピエール&サン・ジュスト=冷酷非道な恐怖政治家ダントン&デムーラン=恐怖政治による流血を止めさせたいと思い始めた人道派、という対比がはっきりと打ち出されている。後半の裁判では役者達の発声、滑舌、説得力の力量が問われる

とてもパワフルで解り易い舞台だ。特にダントン役のToby Stephensは、強い意志と共に、自問して苦悩するダントンの姿を見事に表現していて素晴らしい。
imagesちょっと驚いたのは、この舞台のダントンがとてもハンサムだという事
よく知られているダントンの肖像画
、これは私も実際にパリで観て来たけれど、35歳にはちょっと、、、 といったカンジ。革命家達の肖像画を見ると、まあハンサム派に入るのが、デムーラン、ロベスピエール、で、失礼ながらも不細工派に入るのがミラボー、ダントンあたりなわけですが、今回のキャスティングは結構現実離れしてるわ〜〜!


だって、この人を演じているのはイギリスの名女優マギー・スミスの息子、Toby Stephens。今年41歳のまさに成熟したカンジのある俳優さんだ。数々のシェイクスピアをこなし、実年齢よりも若く見える、大人の色気のある役者だ

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ね、、ちょっと無理があるっていうか・・・

まあだからこそ余計に苦悩するダントンは色っぽくて思わず観ているほうが味方になっちゃうわけですが・・・ ちなみにカーテンコールでは、ロベスピエールはブーイングを受けていた。役者は笑ってたけど、(演技としては成功なわけだから)こういう所がイギリスの観客のユーモアなんだよね。

日曜マチネって結構良い雰囲気だ。客層の平均年齢は高い。4〜50代か。日曜日の昼間に休憩無し一幕の芝居っていいなあ。それにしても、最後のシーンで次々とギロチンにかけられる場面、あのトリックはどうなってたんだろうか、、、? どう見ても、役者が実際に横になって首を固定された所にギロチンの刃が落ちて来て頭がゴロリ・・・だったんだけど、、、立て続けに4人。どんな仕掛けがが気になってしまったよ〜〜〜!

それにしても、嵐のような演説台詞を聴いていて、どうしてこんな声が出るんだろう、、とすら思ってしまった。日本の役者がこんな力強い声で、民衆を押しくるめるような説得力を発揮できるものだろうか、と・・・ 本当に怒濤のような、天地を揺るがすような発声なんだよね。下手したら数日で喉を潰しちゃうんじゃないかって心配になるくらい

実はタイムリーな事に、ブログ繋がりのゆみさん(←こちらへ)が英語と日本語の発声の違いというものを指摘していらして、「「おお〜〜、成る程そうだ〜〜!」と妙に納得してしまった。彼女は英語を指導するというプロの方なので、何故なのか、どうすれば、といった事を常に明確にしているのが面白いです。成る程、あの劇場を揺るがすような声で延々と語られる台詞は、日本語を話す発声じゃ難しいのかもしれない

実際、本を声に出して読もうとすると、英語の方が音読しやすいのよね。台詞の発声も同じだ。日本語で大声で何かを言おうとすると、ヘンに負担がかかってきっと喉を潰すのだろう。今回のような演説合戦で役者の声に力量が問われる芝居は、日本語だと弱くなっちゃうかもしれない。

けっして派手でもないし、感動的ストーリーというわけでもないけれど、情熱と苦悩のぶつかり合いが2時間弱の中に凝縮された芝居だった。日曜日の午後には丁度良い感じ。







厳しいよね、、、でも事実だから仕方ないでしょう。
やっぱりここはスルーせずにちゃんと書いたほうがいいと思うので、あえて惨敗と書きました

6月9日に幕が開いたばかりの宮本亜門氏演出の「Fantasticks-ファンタスティックス」が3週間も経たずに幕を閉じてしまった。

本来は9月5日まで既にチケットが販売されていて、この3ヶ月の評判次第ではそれ以降のロングランも、、、という事だったのに、この3ヶ月すら待たずに3週間弱でクローズというのはあまりにも悲惨、、、
私だって一応今月行くつもりでチケット取ってあったのに、これはあっさりとリファウンド。今までにチケットを取ってあった公演が打ち切りになって返金されたのは「風と共に去りぬ」とこれだけだ。

ニューヨークのオフブロードウェイからスタートしたこのミュージカルはその後ブロードウェイに上がって40年もアメリカの人達に愛されて来た。ロングランの記録を作って来たミュージカルなのに、何故かロンドンでは一度も当たっていない。今までにもロンドンで上演された事はあるのに、いつもヒットにならずに消えてしまっていたのだ

思うのだけれど、このミュージカルはあんまりイギリス人は好きじゃないかもしれない。確かにストーリーのプロットにはシェイクスピアなんかも使われてるんだけど、イギリス向けじゃないのだ。かくいう私も実はあんまり好きなミュージカルというわけではない。でもやっぱり日本人演出家が海外公演ではないロングラン公演を手がける、という事で観てみようと思っていた。

力も実績もある役者が出ているのだし、宮本さんもこの芝居は日本で何度も上演しているので、いろんなアイデアがあった事だろう。でも好かれる舞台というのはそれだけじゃないのだ。感性が合わないとね・・・

逆だってある。ロンドンでは絶賛されて大ヒットになった「Enron」という芝居が、最近ニューヨークに進出して見事にコケた。これはやっぱりこの芝居がニューヨーカー達に好かれなかったという事だ。ヒット作ならなんでも好きっていうわけにはいかない。そのへんを見越して企画するのはプロデューサーの腕なんだけど

だからこそ、この前観て来た「ヘアー」は巧くやったなと思った。もともとアメリカの芝居、初演当時にはイギリスでもその時代だからこそのメッセージとむき出しのパワーで大ヒットになったミュージカルを、今この時代にロンドン再演するのは冒険だ。単純な質問=「何故今Hairなのか?

無意味にロンドン版として再演する代わりに、カメロン・マッキントッシュ氏は去年トニー賞を取ったブロードウェイのカンパニーをそっくり持って来た。初演時に青春時代を送った世代と、今上演している若い役者達と同年代の=噂に聞いていた伝説のミュージカルを観たい観客がどちらも楽しめる舞台として。そして今当たってるよね〜〜、流石は凄腕プロデューサー!

舞台が幕を閉じる原因はいくつもある。最終的にはプロデューサーが金銭的なプラスとマイナスを考えて決めるのだろうけど、90年代の不況の時期には、かなり面白いと思った舞台が次々と幕を閉じていった。まさに「幻の、、、」と名のつく作品はいくつもある。ファンタスティックスだってそのひとつにすぎない。演出が宮本亜門だったからクローズしたわけではないのだ

でもやっぱり残念だったね。いくつか読んだ評の中には、「日本人がウェストエンドのミュージカルを演出する」という事に初めから好感を持っていなかったと思われるものもあった。「誰が演出したか」じゃなくて「どんな演出だったか」でちゃんと評価できないのは書いた人の程度が知れる。まあそんな記事はほんの一部だけど

この前観た「サロメ」だって、演出家は他にいくつものヒット舞台を作っているし、私も観ている。ただあの芝居の演出に関しては同意できなかったという事だ。

宮本さんのファンタスティックスは秋にはまた日本で上演されるそうで、かなり落ち込んでいるだろうとは思うけれど、日本流のミュージカルとして日本のお客さんに好かれる舞台を作ってくれればいいんじゃないのかな。去年日本で観た「三文オペラ」だって、日本以外では到底当たらないとは思うけど、イマドキの日本だから面白いと思ったし・・・

厳しいけど、仕方ないよね。


前回アップしたと思ってたブログ、ワイン飲んでたんだねえ〜〜きっと!アップしてないじゃないの・・・
今さら載せてもねえ、、という事でそれはボツです。ちょっと間があいてしまいました。

おととい観て来た「Salome-サロメ」。オスカー・ワイルドのこの芝居が私は初めて観た時から好きだ。初めて観たのはまだ高校生の時、もちろん日本語訳だった。ちなみにこの芝居はフランス語ヴァージョンが先で、後にワイルド自身の英訳が出版された。この英訳については、彼の恋人だったダグラス卿が手がけたもののワイルドと意見が対立し、結局は自分で訳してそれをダグラス卿に捧げている

芝居=本として好きな戯曲なので今回も楽しみにしていたのだけれど、、ちょっと今回は違った!
セットは鉄パイプと黒い砂、タール色の水で、メタリックな色彩。兵士達の衣装も戦闘服に機関銃で、王=ヘロデは戦闘隊長というカンジだ。そして肝心のサロメもストレス多きティーンエイジャー

今回このサロメを観たかったのは、演出がJamie Lloydだったからだ。Donmer Warehouseの若手演出家として注目されている。私も去年彼の作品を2本観たけれど、今回のはちょっと冒険し過ぎた感が否めない

ず〜〜っとバックにリズムボックスのベースドラムのような音が鳴っている。これが躍動感や心臓の鼓動を表現しているのだろうけれど、私には壁の薄い家のお隣からミュージックのベース音が聞こえて来るようにしか思えなくて、これがなんとも耳障り

水、ワイン(のような飲料)タール、血、、、とビチャビチャ飛び散って、役者達もドロドロになって頑張っているのはいいけど、効果的というより、汚く見えてしまう。顔中に血だのタールだの塗りたくってるので表情だって見え難い。

このチームはHeadlongというカンパニーで、ヘロデ役のコン・オニールが座長だ。このコン・オニール、今でも20年以上のロングランになっているウェストエンドのミュージカル「Blood Brothers」の初演キャストだった人だ。おっさんになったなあ〜〜・・・(当たり前か)

モダンで冒険的な演出なのだけれど、本来この戯曲の持つ「」と全く噛み合っていないのが残念。なんだかMessyでnoisyだ

私がちょっとがっかりした一番の理由は、実は10年以上前に観た「サロメ」が、それはそれは美しい舞台だったからだ。

このプロダクションは鬼才Steven Berfoff(スティーヴン・バーコフ)の演出/ヘロデ王で、パントマイムのような曲線的な動きやスローモーションで役者達の動作がとても綺麗だった。セットや証明も冴え冴えとしていて、何よりも英語の台詞がとても美しく語られた。ゆっくりと語られる台詞は聞き取り易く、英語を美しいと思った芝居は初めてだった。神秘的で、情熱的で、エロティックなこのサロメが、私は今までに観た芝居のうちでも「一番美しいと思った舞台」だと思っている

だからサロメ=美しい芝居という印象でず〜っときていたので、今回の演出はなんだかちょっと何かが壊されてしまった印象だった。悪いとはいわないけれど、まとまっていないのも確かで、本としての魅力も出し切れていない。

予言者ヨカナーンはなんだか怪獣みたいだし(ブラックの役者さんだった)、サロメもヘロデもエロスというより性欲むき出しというカンジで美しさがない。オスカー・ワイルドの美学をもっと出して欲しかったのに。

スティーヴン・バーコフなんていっても日本の人は知らないよねえ、、と思ってちょっと見てみたら、なんとこの公演、日本でやってる・・・ DVDが出てるなんて知らなかった。このDVD、テレビ放映用に東京・銀座セゾン劇場にて収録ってある・・・ツアー公演だったのかな?テレビ用? これは観たい!買ってしまおう、、、同時期に上演したカフカの「審判」や「変身」も凄く面白かった

はじめに本ありきで始まる芝居は、いろんな解釈ができるわけで、それが面白いのだけれど、シェイクスピアのものでも、あまりにもちぐはぐなものになっちゃった作品もあるし、古い時代の作品を今上演するほうが難しいのかもしれない。でも、バイセクシャルが逮捕されて、キリストや聖書の話を芝居にする事も禁じられていた時代にワイルドが書いたこの本の持つ妖しい美は保って欲しかった

役者達はビシャビシャのドロドロになって頑張ってたんだけどねえ〜〜
今回はちょっとハズレでした。

Steven Berkoffの作品(本/DVD)はこちらを








伝説のミュージカル、「Hair=ヘアー」をやっと観た

やっとというのは、私の世代はオリジナルの舞台には間に合わなかったからだ。それでも私が芝居=舞台というものに傾いた時から「ヘアー」という反戦/ヒッピー/ロックミュージカルの事は聞いていたし、芝居としてだけでなく、ロック好きだった私にはその方面からも話題は入ってきた。80年代初めに日本でも公開された映画版で、話に聞いていた曲の数々をちゃんと聴いた時はかなりハマった

60年代のラヴ&ピースや、ドラック、セックス、ロックンロールというのはやっぱりあの時代を象徴する大きな社会現象だったのだ。世界大戦が終わってから20年、戦後に生まれたアメリカの若者達に押し付けられたベトナム戦争は、アメリカの大きなミステイクだった。この破天荒なミュージカルがヒットしたのは、自由の主張、性意識の改革、魂をゆさぶるロックミュージックという、若者意識の変わり目の時期にタイムリーだった為だろう



ものすごいパワーだ。今回のプロダクションは去年ブロードウェイでリバイバルとして制作され、2009年のトニー賞(リバイバル部門)を受賞したオリジナルキャストをそのままロンドンへ引っ張って来たものだ。このあたりが流石はキャメロン・マッキントッシュ凄腕プロデューサーだ。ロンドンでも今までに再演版が作られた事もあったけれど、いづれも今ひとつ当たらなかったという。強いカンパニーをそっくり持って来るとは

実は2日前の週末はレスター・スクエアーでWest End Liveというのがあり、いろんなショウがそのまま野外のステージでライヴで演じられた。もちろん無料。当日レスタースクエアーに行かれた人はラッキーだね!ヘアーもこのライヴに参加したそうだ。

初演時にイギリスでもブロードウェイをしのぐロングランになったのには、これまたいくつかのタイムリーな要素があったらしい。イギリスでそれまで規制されていた舞台上での表現が解禁になったばかりで、フルヌードの役者達がドラッグに溺れてフリーセックスを表現するようなこの舞台が受け入れられた。最初の人種ミックスな舞台、最初のロックミュージカル、そして今は大スターとなったエレイン・ペイジやティム・カリーのウェストエンドデビュー、何とマッキントッシュ氏もまだ駆け出しでマーケティングを受け持っていたそうだ

とにかくはじめから終わりまで、カンパニーの隅から隅までが凄まじいエネルギーを放っている。このGielgud Theatreは大きく無いけれど高さがある。役者は舞台からそのまま客席の椅子の背を渡り歩き、ボックス席によじ上り、通路を駆け回る。舞台の正面から、奥から、横からも斜めからも上からも、役者達のパワーが降って来るのだ。これは凄い

実はこの「ヘアー」というミュージカル、起承転結なストーリーがあるわけではない。あるのは、自由を求め、愛と平和を訴えて戦争への招集に反発し、ロックのリズムとドラッグの妄想の中で、それでも生きる道を探そうともがいている若者達の姿だ。長髪を反体制の象徴として振りかざしながら。

次から次へと息つく間もなく歌い踊る役者達の歌唱力と見事な振り付け。カンパニーの隅々までが輝いている。誰一人として息を外していない。これはやっぱり全員をブロードウェイから輸入してきた一番の強みだ。だれがどの役にも回れるようなレベルの高さ。実際アンダースタディーで役がずれる事もあるのだろう。客席でも手拍子が起こり、膝をならし、一緒に歌っている。

客席にはアメリカンな人々も多い。そしてあきらかに50代以上の人達も。カーテンコールでは役者達が観客を舞台へと招き上げる。拍手していた人達が列をなして舞台に上がり、Let the Sunshine Inを歌い踊る。これは盛り上がった!私はほぼ中央の席にいたので、通路に人が多過ぎて上がれなかったけれど、その場で一緒に踊って来た

あきらかにオリジナルの時代に青春を過ごしたと思われる、今や半分白髪もはげ上がったおじさんが、ベトナム戦争後に生まれた若いアメリカ人の役者達と一緒に舞台で「Le~t the sunshi~ne! 」と歌い踊っているのは不思議な光景。時代や社会背景が変わっても、生きる道を探して叫び、反発し、愛し合い、助け合い、泣いたり笑ったりする若者達のエネルギーは充分に伝わる

ドラッグやフリーセックスやフルヌードが出て来るこの舞台に、人種差別や無意味な殺人やナイフを振りかざす通り魔は出て来ない。とても純粋だ。今の時代のほうが、何かが歪められてしまっている。ベトナム戦争はもう40年前の話だけれど、昨日のニュースで、アフガン以降のイギリス人兵士の死亡者が300人になった。
伝説のミュージカルの描く世界は、決してではない

去年のトニー賞授賞式より、今ロンドンでやってるのはこのキャスト


アンドリュー・ロイド-ウェバー氏の新作ミュージカル、「Love Never Dies」20年以上のロングランが今も続く大ヒット作「The Phantom of The Opera=オペラ座の怪人」の続編だ。初日後のレビューと私の観る前の期待度はこちらを←まずお読みください。

完全ネタバレのストーリーです。知りたく無い方はスルーしてください






設定はオリジナルのパリ・オペラ座から約10年後。オペラ座の怪人と呼ばれたファントムはニューヨークのはずれ、コニーアイランドの大型ファンフェア・パークのオーナーになっている。彼は表には出ずに謎のオーナーとして指示やショウの作曲を行い、実際にショウを取り仕切っているのは、かつてオペラ座でステージマネージャーをしていたマダム・ジリーだ。彼女の娘でかつてのクリスティーンの親友メグがスター女優として活躍していた。ビジネスは成功していたが、どうしてもクリスティーンの歌声を忘れる事のできないファントムは、プレジャーパークの目玉としてフランスからクリスティーンを呼び寄せて歌わせる企画を立てる。クリスティーンは夫のラウルと息子のグスタフと一緒にニューヨークへやって来る。ショウの打ち合わせにやってきたクリスティーンとラウルはそこでジリー親子と再会して喜ぶが、ラウルはショウの主催者がファントムである事を知って愕然とし、またスターとして頑張って来たメグはファントムがクリスティーンをわざわざ呼び寄せて歌わせる事にショックを受ける

ここからは、綱引きだ。クリスティーンを巡って夫のラウルとファントムが真っ正面から奪い合いになる。彼女がショウで歌うか歌わないかが男2人の賭けだ。かつてオペラ座で彼女の愛を争った2人。見た目の醜さだけでなく、歪められてしまった心で間違った愛し方しかできなかった、かつてのあわれなファントムはここにはいない。なんといってもビックリ仰天の新事実=クリスティーンとファントムはラウルとの結婚前に一度愛し合っていた! ファントムは今や借金まみれで酒浸りのラウルに、まさに敗者復活の挑戦状をたたきつけるのだ。究極の切り札=「お前の息子は実は俺の息子かもしれないぞ」をつきつけて・・・

身を裂かれそうな思いで、クリスティーンは「Love Never Dies」を歌う。初めは震えながら、戸惑いながら、そして最期には心の限りを込めて・・・

最期にはファントムはまるでヒーローだ。今までの自分を否定されたような切望感からピストルを持って叫びまくるメグをなだめるあたりは、今度は彼が2人の女から綱引きされている。そしてクリスティーンはファントムの腕の中で息を引き取り・・・・

そう、舞台も役者も音楽も素晴らしかった。でもね、、、

私はこんなストーリーは嫌だ!

なに、、密かに一夜を共にしていた? あの時確かに愛していた、、??
ちょっと待ってよ!

Love Never Diesっていうタイトルが、なんの愛の事なのかって実は期待していたのに・・・クリスティーンにとっての夫=ラウルへの愛なのか、歌うという事への愛なのか、、、彼女がどうしてもファントムを切り捨てられなかったのは、彼女の歌/音楽の導き手だったからだ。だから彼女が選ぶとしたら夫への愛歌う事への愛だと思ってたのに。それがここへきていきなり息子のグスタフが実はファントムの・・っていわれてもねえ〜〜?

曲は久々に大型ミュージカルらしい作品で、壮大でドラマティックな曲の数々は耳に残る。でも何故だろう?確かに良い曲なんだけれど、今ひとつ何かが足りないような・・・少し甘いっていうのかな、胸をさすような痛みが足りない・・?これってやっぱりサー・アンドリューの曲が丸くなってしまったって事なのだろうか?年齢と共に音楽もソフトになってしまうのか・・??!

主演キャストの歌唱力はこれ以上には望めないくらい素晴らしい。歌う中にも哀しみや迷いや、演技/台詞としての表現力があって、彼等の歌唱力で説得してしまう。ちなみファントム役のRamin Karimlooは3年前には「オペラ座の怪人」のほうでもファントムを演じている。アンドリュー氏のミュージカルも最近のいくつかはほとんど記憶にも残らないカンジだったので、ここへ来て「まだ才能は枯れていなかったか!」とこれまた復活の大御所

レーザー光線、プロジェクター、アニメーション、トリック、3Dビジュアル等を駆使した舞台美術も素晴らしい。アクロバットやダンスを受け持つアンサンブルも目を見張る。クールなマジックショウを観ているような仕掛けの数々は、2010年の今だから可能なテクノロジーによるもので、これもまた80年代半ばのオリジナルファントムとは一味違う。ちょっと雰囲気だけでも、、


ストーリー的にはべつに「オペラ座の怪人」の続きである必要はなかったと思う。実際、そのまま続いていると思ってしまうとあまりにも噛み合ない。だけど、曲調やちょっとゴシックな雰囲気や、手品仕掛け満載の舞台を考えると現代風な話で創るにはちょっと古めかしいのかな。でもストーリー的には

その昔、姿も心も醜い男が美しい歌姫に執拗に愛を寄せていました。彼女には愛する貴族の青年がいたのですが、男のあまりに執拗な愛にあわれみと同情を覚えるうち、彼女は自分の心が男に捕われているのを否めず、一度だけ結婚前に愛の一夜を持ってしまいました。それきり忘れようと彼女は貴族の青年と結婚し、男の子が生まれました。それから10年、夫は借金だらけで半分アル中になっていて、いまいち幸せとは言えません。そこへアメリカからショウでアリアを歌ってくれとのオファーがあり、行ってみるとその主催者はかつての男。夫はショウは取りやめにして今すぐパリに帰ろうと言い、男は今こそすべてを投げ打って自分の為に歌えと言います。身を裂かれそうな思いの中で、それでも彼女は歌わずにはいられません。最期には思いの丈を込めて男への愛を歌い上げ、遂にはそんな愛の罰を受ける事になります
これだけなのよね。これがファントムの続編である必要性を感じないという事なのだ

でもそんな疑問が、ステージ構成やドラマティックな曲や役者達の歌唱力で押さえ込まれてしまう舞台だった。これはこれで力のある舞台だから悪くはないんだけど、やっぱり私はこんな筋書きは嫌だったな。
最期は素直に拍手できなかったよ。役者がカーテンコールで出て来るまで・・・



うわ〜〜ビックリ!!
今日10時から発売だった芝居のチケット。仕事中は到底無理なので夕方帰宅してからチケットを取ろうと思ったら、なんと既にSOLD OUT!!

こんなのロンドンでは本当に無いよ〜〜! というのも、普通のウェストエンドの芝居はロングラン制だから、最初にチケットが発売になる時は半年くらい先の席まで選べる。でもこの芝居はわずか11日間の限定公演なのだ

Punchdrunkというちょと変わった名前のこの演劇集団の事を最初に知ったのは数年前。なんでも凄く面白い=実験的な演劇を試みている集団なのだそうだ。会場は普通の劇場ではなく、下町ロンドンの倉庫が立ち並ぶような場所になる建物。座席はいっさいなく、演じられている芝居を建物のいろんな場所から好きに動き回って観られるという事らしい

こういうのって、昔寺山修司さんが試みた市街劇みたいなカンジなのかな、と思っていた。2年程前に「ファウスト」をやっぱり東ロンドンの倉庫のような所でやっていたので観たかったんだけど、チケット取りに苦労して諦めた。今回の演目はジャコビアン悲劇(ミドルトンに続いてまたも、、?)のThe Duchess of Malfiということで、ENO(English National Opera)とのコラボだからすごく観たかったのに〜〜!

と、ここまで昨日書いてそのまま中断してしまった。

全く話変わってBGT=Britain's Got talentのグランドファイナルが行われた。今年は始めの段階でダンスチームがあまりに多くて驚いたけど、さすがにファイナルに残った人達はみんな違った個性があってレベル高かったね。今年は歌、ダンス、コメディー、ドラマー、動物、とバラエティーに富んでいて、観ていて楽しかった。皆さん本当に素敵だったけど、優勝したのはジムナスティックチームのSpelbound ダンスともちょっと違うチームプレーが素晴らしい!こちらは昨日のセミファイナルの演技。


彼等の優勝にはなんのクレームも無い。本当に素晴らしかった。ただ私なりの意見としては、このBGTでは、あくまでも隠れた才能=素人なのにびっくりという人達をRoyal Variety showに送って、ロイヤルファミリーの前で演技させてあげたい。X−Factorみたいに即プロになる歌手を育てるんじゃなくて、もっとHome Grown(家庭栽培)的な人達が勝ってくれるような番組になるといいなと・・・

セミファイナルに残った人達の中にはそういう人達も何人もいた。お母さんがキッチンでご飯を作ってる間に兄弟でリビングで踊ってた、みたいな・・・ ファイナルに残った犬のダンスも本当に素敵だった。でもやっぱり最終的にはどうしても完成度=レベルの高いものに評がいっちゃうよね。まあ仕方ないけど・・・

という事で、今回本当に微笑ましかった犬と飼い主のダンス。「Tina&Chandi」なんと犬のチャンディーは12歳。人間だったら100歳近いのよ・・・


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