見つけもの @ そこかしこ

ちょっと見つけて嬉しい事、そこら辺にあって感動したもの、大好きなもの、沢山あるよね。

カテゴリ: ロンドン演劇事情


ネットで色々と観られる劇場ライヴ/アーカイヴがよりどりみどりなのは嬉しいけれど、実際に2時間macの前に座ってみるものは厳選している。TVでもYourubeは観られるのだけれど、ロックダウンで彼と二人とも家にいるようになってからは暗黙の了解で、テレビは彼、Macは私の領域になっている、、、

シェイクスピア祭りのようになってきて、あっちもこちもシェイクスピアなのだが、私は新作を観たい。
去年だったか、タイトルと宣伝は観たものの、子供向けのファミリードラマかと思ってパスした舞台が「A Monster Calls」だった。ロンドンではThe Old Vicで上演されていたのは知っている。ちょうど今年の2月から全国をツアーのはずだったのが、 コロナウィルスの影響で、3月には中止になってしまっていた。原作は確かに青少年向けに書かれた本ではあるけれど、とても心に響く素敵な舞台になっている。
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13歳のコナーは母と二人暮らし。父親は今では別の人と再婚してアメリカに住んでいるようだ。「おはよう、よく眠れた?」「大丈夫だよ、ママ」といういつもと同じ会話で始まる日々には、それぞれが取り繕っている恐怖にも似た思いが隠されている。母は末期の癌で、治療はどうもうまくいっていない様子だ。けれどその事実を息子には告げずに笑顔を作っている。一方コナーはうわべの「大丈夫」とは裏腹に、母を失うかもしれない恐怖を抑え込んで、夜になると悪い夢を見ている。さらに学校ではいじめに遭っているのだが、これまた友人にも先生にも相談することを拒否して自分の中に閉じ込めている。

ある夜から、夢のように夜の12時過ぎになると家の前にある老大木のモンスターが現れて、コナーに3つの物語を聴かせる。このモンスターは、3つのストーリーが終わったら今度はコナーが4つ目の話を自分に聴かせろと言う。3つのストーリーはどれも謎かけのようで、良い人が悪事を行ったり、信じなければいけないものの為に信仰を捨ててしまったり、人間の中にある葛藤を顕すものばかりで、コナーはますます混乱する。

やがて母の容態は悪化し、最後まで「大丈夫」と言い張っていたコナーの中で、モンスターの言葉が膨れ上がっていく。「真実を話せ!正直に話せ!」と、、、、

簡素な舞台にセットらしきものはなく、組紐体操のような紐を使って大木とその精のようなモンスターを表現し、日常の家族や学友たちを演じるアンサンブルがパイプ椅子を巧みに使ってシーンを作る。バックの音楽も生演奏の姿が見えるようになっている。

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 初めは傷つけない、傷つかない為に本音とは違うことを言う。けれど本当の心との葛藤がどんどん膨れていくにつれ、やがて正直な気持ちを言わなくてはならない。良いも悪いも、残酷さも寛容も、無欲もずる賢さも、一件反対の全てを併せ持つ人間のストーリーを聞いた後で、コナーが話さなければならない最後のストーリーは、、、、、本当の心。

とてもデリケートな13歳のコナー役を演じているMatthew Tennysonは9年前にデビューして「Best Newcomer=最優秀新人賞」を獲っている。母を失うのを恐るあまり口に出せずにいるコナー、クラスでいじめに遭っても抵抗する気もなければ戦う気もない抜け殻のような態度、アメリカから久しぶりにやってきた、今は他に家庭を持つ父への複雑な気持ち、どうしても合わなくて打ち解けられない祖母との突然の同居、どうしても認めたくない母の迫りくる死、それらの複雑な思いを抱えた13歳をとてもナチュラルに演じている。

簡素なセットと照明はむしろファンタジーのような不思議な空間を作り出し、真夜中のモンスター(それはコナーの夢かもしれない)とのシーンはグイグイと心に迫ってくる。
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ちょっとお説教めいた理屈が語られるのはやっぱり原作が青少年用に書かれた本だからなのだろう。でもそれを差し引いてもよくできた作品だと思う。とても心に響く。生きていく為に、様々な矛盾を乗り越えていかなくてはならないすべての人にとって、シンプルでありながら一番困難なことを幻想的に描いている。良い芝居を観てしまった。子供向けかと思って劇場で観るのをパスしてしまったのが悔やまれる。ツアーがいつか再開されてまた上演されるのを願っている。
 


ネットで毎日のようにいろいろなものを漁っていると、かなり前の物も見つかる。 
今回見つけたのは1993年のDonmar Warehouseのプロダクション「Cabaret=キャバレー」だ。何故かはよく覚えていないけれど、これは観ていない。 そうか、ちょうど今も続けている仕事の国家資格試験の年で、結婚もした年だ。資格取るまでの三年間ってほとんど芝居も行かなかったからなあ〜〜、、、今になってこれを見つけるとは!! (Youtubeはこちら
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この「キャバレー」はその後97年にブロードウェイに渡り、メンデス氏とロブ•マーシャルの共同演出で再制作され、ここでもエムシーを演じたカミング氏始め4つのトニー賞を取っている。なんと!この時のサリーがナターシャ•リチャードソンだったんだ〜〜!!ちょっとイメージ違う気もするけれど、彼女もこれでトニー賞を取っている。若くして事故で亡くなってしまったのは惜しかった、、、、

キャバレーの舞台といえば、86年か87年のロンドンリバイバル版を観た。劇場も演出ももちろん違って、この時のは映画で知っていたキャバレーのイメージに近かったように記憶している。 

このメンデス氏のキャバレーはミュージカルというより芝居の要素が強い。歌のシーンでも「どんな心情でこの歌を歌っているのか」という演技が重視されているように思う。 ジェイン•ホロックスはこの前に「リトルヴォイス=The rise and fall of Little Voice」で絶妙な歌唱力と幅の広い声質を披露しており、その歌唱力は誰もが知るところ(映画版の「リトルヴォイス」でも堪能できる)。でもこのキャバレーでは「巧く歌おう」とはしていない。それはアラン•カミングも同様だ。もちろんみなさん歌唱力は素晴らしいのだけれど、それ以上に小さな小屋だからこそ、綺麗に歌い上げるよりも役者から迸る感情がダイレクトに伝わってくる。

不穏な空気が世間に漂い始めた第二次大戦直前のベルリン。この先どうなるかわからない運命の中にそれぞれがどの生き方を選択していくのか。この後に起こったベルリンの様子を今の時代だからこそ知っている私たちに、最後は重くのしかかる。ちなみにラストシーンでMCが着ている強制収容所の格子服には3つのマークがついている、ユダヤ人の黄色、政治犯の赤、そしてゲイのピンク。それらがぜーんぶ詰まったKitKat clubの煙くさい空気が漂う舞台だ。これは実際に舞台を観たかったなあ〜〜

Donmarでの芸術監督以降、ロンドン、ブロードウェイ、さらには映画でも大活躍のメンデス氏。私は彼の映画の作り方も好きだ。メンデス氏の映画は好きなものが多い。

芝居とミュージカルの違いを私の中であげるとすれば、基本的に同じ芝居は何度も観ない。(違うプロダクションは別)でもミュージカルは同じものを何度も観るという事がある。映像になっていれば尚更だ。ロンドンに来て、4−5回同じ劇場に行って観たのが、La Cage Aux Follesだった。午後にフラっとレスタースクエアーの半額チケットのブースに行って、安く良い席を買っては観に行ったっけ。
Cabaretも何度も観やすい作品だ。こんな匂いのする芝居が好きだなあ〜〜

今気がついたけれど、2月に観たベケットのEndgameではカミング氏とジェイン•ホロックスの共演だったんだね。またフラっと観たいから、Youtubeから消えないといいな。
 


ロックダウンしてもうすぐ2ヶ月になる。劇場も映画館もロックダウンの前日にはもう閉まっていたから、新しいプロダクションは全て中止だ。そんな中、ロックダウンだからこそのウェブカメラで撮ったショート映画のような作品が出ている。

セットも作れないし場面転換も難しいとあれば、どうしても規模は限られる。今やネットの時代、会わなくてもパソコン一つで顔を見ながら話もできるし、録画もできる。私が子供の頃は「テレビ電話」というのがまさにSFの世界の出来事だったのだから、本当にこのコロナ騒ぎでの自粛が今の時代で良かったよ。

人気のスタジオシアター、Donmar warehouseが公開している一人芝居、「Midnight your time」の前宣伝が面白そうだったので観た。公開は5月20日までyoutubeにてフリーで観る事ができる。それ以降は有料になるのか、配信されなくなるのかはちょっと不明。Youtubeサイトはこちら


たった今ニューイヤーの乾杯をしました、といった様子のジュリーがビデオ通話を娘のヘレンにかけている。ヘレンは不在で仕方なくジュリーはビデオメッセージを吹き込んでいる。どうやらヘレンはパレスチナに住んでいて、設定も今から10年ほど前のようだ。最初のメッセージで「いないのね、まあいいわ、これ観たら連絡頂戴ね、」とごく普通の留守電メッセージを置いてほろ酔いのジュリーはベッドへ。
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次に映るのは、またしてもジュリーからヘレンへの留守電ビデオ。ヘレンが連絡をしてこないので気になっている。そして次のメッセージ、そしてまた次、、、とジュリーからヘレンへの一方通行のビデオが続く。どうやら二人はクリスマスに会った時に言い争いになってしまったらしい。娘のヘレンは何かと自分の人生に干渉してくる母親を相当「うざい」と思っている様子。実際ジュリーの話す内容から、彼女は元法律家で、仕事を辞めることになったのは意に反した状況だったようだ。今も地域での人権問題に意見したりや婦人会に顔を出して政治的発言をしたりしている、ちょっと押しの強い、干渉型の母親のようだ。

ヘレンは全く返信してこない。毎週木曜日に決まってジュリーはビデオメッセージを残すのだが、 娘は母親とのコミュニケーションを拒否している。ビデオのトーンは回を追う毎に変わっていく。始めは「元気でいてくれればいいのよ」と取り繕っていたものの、数週間のうちには娘の不通に怒り、苛立ちを隠せない。涙ながらに真夜中に連絡を乞う母の姿となり、、、、
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やがて、ジュリーはヘレンが自分でなく父親に通じて誕生日に本を送って欲しいと頼んでいた事を知って激怒する。どんな喧嘩だったのか、とにかく今の時代の親子のコミュニケーションの断切を、とても現実的に、それでいて感情的に見せていく。やっとヘレンがジュリーと話をするまで3ヶ月もかかるのだ。

演じているのはDiana Quickという女優一人で、演出はドンマーのMichael Longhurst。この芝居自体は2011年に舞台で演じられていて、だから設定がその頃なのだろう。それを今回配信用にリモートカメラで収録したそうだ。3ヶ月にわたる、母から娘へのビデオレターは、親子関係の現実や、母としての様々な感情の側面を見事に描いている。取り繕って笑う様子、イライラしながら見えない相手に愚痴る様子、絆を修復できない悲しさと寂しさ。さらには絶望感、そしてちょっと親の権限で脅してみたり、、、とたったの30分なのに盛りだくさんの芝居が観られる。

やっとのことでヘレンと会話した後のビデオで、別人のように生き生きとはしゃいで喋るジュリーは、愚かしくもまた元のお節介焼きで干渉家の母親に戻ってしまいそうな気配を見せて幕を閉じる、、、、
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モノローグ芝居と聞いたときは、ちょっと「飽きるかも、、?」と思ったのだが、30分の作品だというので観てみたら、もうずっと最後まで引き込まれてしまった。余計なセリフはなくても、聞いていれば自然と背景がわかる台本で、「ああ、そういうことか」と思いながらジュリーの心情についていくことができる。ダイアン•クイックのセリフ術は言わずもがな。舞台で観るよりこの方が良いのでは無いか、とさえ思う。

実は先週、NHKがリモート制作した3夜ドラマも観たのだけれど、1話目はなんとか観たものの、2話目からはなんだかもう観ていられなかった。同じウェブドラマでもこんなにクオリティーが違うのか、、?もちろんロックダウン中だから、カラッと楽しく漫画の世界のような作品もありだ、とは思うけれど、芝居としてのクオリティーの違い、、、

日本のテレビでは舞台を観たくてWOWOWなんかをチェックしている 石原さとみさんの「密やかな結晶」は面白かった。原作がちょっと架空の世界の設定なので、「どうかな」と思ったけれど、とても独特の空気の漂う芝居だった。
実は石原さとみさんはまだ出たての頃、「赤い疑惑」のリメイク版での一生懸命な演技を見て「いい女優さんになる」と思ってはいたけれど、あまり観る機会がなくて、ドラマを数本しかみていない。でもいつもキチッと演じているのでいつか舞台を見たいな、と思っていた。「いろんなものが一つずつ消滅していく世界」で、消滅したものを忘れずにいられる編集者の男と作家の女性。彼女の方は(普通に)消滅したものを忘れていく中で、最後には身体・命が消滅していくという世界。面白い本を芝居にしたな、と同時に何か感じさせるものを重く残す芝居だった。

さて、これからもサイモン•マクバーニーのCompliciteの作品ややDonmarの昔の「キャバレー」、日本では蜷川さんのシェイクスピアと、まだまだロックダウンが続いて欲しい毎日だ。


 


サミュエル•ベケットの芝居をエンジョイするには、彼の芝居が好きでないと「訳がわからない、、!」という人もいるのだろう。同じ場面の繰り返しがあったり、会話として噛み合っていないセリフの応酬があったりする。「ゴドーを待ちながら」は彼の代表傑作だけれど、今回観てきた「Endgame」はゴドーの後に書かれた作品だ。

The Old Vicの今回の企画はベケット2本立ての芝居。初めは「Rough for Theatre II」とあるように、芝居上演の為のラフノート=下書きとのこと。滅多に上演されることのない本だそうだけれど、20分という短い作品だ。
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幕が開くと、正面の大きな窓の枠に立って、今にも飛び降りようとしているかのような男がいる。そしてその部屋に入ってきた二人の男がまるで検事と弁護士かのようにその男についての検証を始める。事務室のような部屋は二人の机とテーブルライトがあり、二人は書類の束をひっくり返して男について語り、議論する。その間窓枠の男は身動ぎもせず、そして最後まで、実際に男が飛び降りるのかどうかわからずじまいなのだ、、、 

20分の芝居の間、話の展開になるようなことはほとんどない。ただ、その日が満月の前日でとても月が明るい事が語られたり、デスクのライトがついたり消えたりする事で逆上したりする。蝋燭を持って部屋の中を探したりと、暗くなって行く部屋の中で使われる明かりが印象的だ。

男二人だけの台詞の掛け合いで、キャラクターが見えてくる。窓枠に立っている男を語る事で、この二人のキャラクター、一人は冷静できちんと整理して物事を運ぶタイプ、もう一人は集中が切れるとキレやすいタイプのようだ。

正直、この前半の小芝居はまああってもなくてもよかったのかなあ〜と思った。めったに上演されないというのも納得、でもベケットらしいとは言える。

メインになっているのが2幕目の「Endgame」のほうだ。1幕で演じた二人が今度は全く違うキャラクターで演じている。ちなみにこの芝居のダブル主演はアラン•カミングとダニエル•ラドクリフ。Endgameというタイトルに、二つの意味を感じる、一つはゲームで使う「ゲームの終盤」の意味、そして、なんとなく空気の中に漂う世紀末的な終わりの雰囲気。始まった時から、実はこのシーンはもうずっと何度も繰り返されてきたのではないかと匂わせている。

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Endgameの方はもっとベケットの芝居らしい。なんだかこの世の終焉のような空気の中、わがままで横暴な主人(足が動かず、目も見えない)とその彼に奴隷のようにこき使われているのに、出て行かれない男(=下男であり、執事であり、息子のような存在でもあり、奴隷のようでもある )、そしてなぜかゴミ箱の中に住んでいる両親らしい老人夫婦。

目と足が不自由なハムは終始怒鳴ったり呟いたりしている、下男のクローヴを事あるごとに呼びつけてはろくでもないことを言いつけ、クローヴはその度に我慢の限界すれすれにキレながらも彼の命令に背けない。「出ていってやる、出ていってやる」と繰り返しては、ハムに丸め込まれるようにまたつまらない用事を言いつけられる。これの繰り返しだ。ドラム缶=ゴミ箱の中に入って暮らしている老人達はどうやらハムの両親らしいが、ハムと父親は衝突しがちで会話が噛み合わず、母親(とははっきり語られていない)は夢見心地の様子で年老いた父親とラヴラヴだ。

この老人二人を演じているのが、 カール•ジョンソンとジェーン•ホロックス。この4人のキャストとベケットということで私はチケットを取った。

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カミング氏のハムは横暴で、支配的で、わがままで、でもクロヴの事を「絶対に自分からは離れていかない」と思っている。クロヴを我慢のギリギリまで追い詰めておいて、それでいてクロヴはどうしても本当に出ていくことができずにいる。おそらくもうかなり長い間、こんな繰り返しの日々だったのだろうと判る。家の外、という感覚が全く感じられない、世界が終わりに近づいているという空気らしい。

最後になって、とうとう出ていく決意をしたクロヴがそれでもコートを着てスーツケースを持った姿で再び部屋に入って来る。見えないハムに気づかれないようにそっと入って来るのだが、ハムはすぐに彼の気配を嗅ぎ取っているようだ。そのまま身動きせずにいるクロヴ、彼がその後出ていくのどうかは演じられない。

「ゴドー」同様に、 この本も元々はベケットがフランス語で書いたものだ。その後本人が英語版に書き換えている。ハムのフラムボヤントで有無を言わせぬ支配力は見ていても息苦しくなって来る。だからこそ、我慢の限界で足をひきずって歩くクロヴのちょっと壊れかけた精神が見えて来るのだ。それでいて本当はお互いが必要な存在、、、、

ベケットの芝居には起承転結が定まっていない。もしかしたら最後の場面の後はまたクロヴは出ていくことをやめて明日も明後日も同じような日々が繰り返されるのではないだろうか、、、とこれは「ゴドーを待ちながら」と似たような印象の終わり方だ。

非現実的なようでいて、実は劇中のキャラクターの心理は理解できるのがベケットの芝居の面白いところだ。人気の役者が揃った舞台はちょっとチケット代が高いのだが、(どう見ても舞台セットその他でお金がかかってるとは思えないから、、、)観客層も「お客様」があまり多くなくて安心した。ダニエル•ラドクリフもすっかりハリー•ポッターからは脱皮している。今回の収穫はジェーン•ホロックスだった。老女の役なのに少女のようで、やっぱり巧いなあ〜と感心する。出番は少ないんだけれどね。

ベケットはちゃんと本で読んでみるともっと面白いのかもしれないね。戯曲を読むことって、もう今は全くなくなってしまったけれど、本で読んでみようかな。


1月は同僚のM嬢 が3週間のホリデーを取っていたので、時間通りに仕事が終われない日が続くと想定して芝居のチケットを取らなかった。何せ、芝居をみるには仕事の後は時間きっかりに職場を出ないといけないもので、、、

今年最初の芝居はコメディー!以前にも見たMischeif Theatreという劇団の作品で、以前にツアーをやっていたのは知っていたけれど、今回またウェストエンドに戻ってきた。タイトルは「The comedy about a Bank robbery」銀行強盗が題材というのはこれはあれこれ面白い展開が期待できる。
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舞台になるのはアメリカ50年代のミネアポリス。服役中のリッチとニールはミネアポリスのシティーバンクにハンガリーの国王から巨大なダイアモンドが預けられる事になったと知り、刑務所を脱走してこれを盗み出そうと計画する。芝居のしょっぱなからセリフの掛け合いにダジャレが入り、最初の2分で観客を30回程笑わせてくれる。言葉の取り違えや意味の勘違いといったセリフ上での笑いはともすると途中で飽きてしまうのだが、これがあくまでも最初だけで、すぐに違う笑いに持っていく手法はすごい。刑務所の脱走は絶対の秘密が定番なのに、ニールのおかげで、看守達や所長にまで知れ渡り、何故かみんなから「ダイアモンド強奪、楽しみにしてるよ〜!」などと煽られる始末。

何とか脱走に成功してミネアポリスにやってきた二人。シティーバンクの頭取はフリーボーイズ氏。彼の娘、カプリースはミッチ の元カノなのだが、彼女は幾多もの男達を手玉にとっている。銀行で働くモナハン夫人の息子、サムはあちこちで万引きや詐欺をしてはオカンを心配させている。このサムと知り合ったカプリースは 医者、弁護士、ラバイ等と名乗っているイカサマ師のサムに早速アプローチ。アパートに連れ込んでいるところに帰ってきたミッチと遭遇し、サムもこのダイヤモンド強盗に加わることに。
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とにかくコメディーに必要なすべての要素が詰め込まれている。このMischief Theatreはロンドンの演劇養成所の卒業生達が結成した劇団で、最初の「The Play that goes wrong」 が大ヒットになったことで一気にウェストエンドの仲間入りを果たした。彼らの芝居については私も2度見ている。その時のブログはこちらへ
The Play that goes wrong Light! Camera! Improvise!  クリックすると飛びます

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最初にみたThe play that goes wrongの頃は何となくまだアマチュアの劇団のような空気が残っていて、それが親しみ易かったのもあるけれど、今回はもっと洗練されて、プロのドタバタコメディーになっている。セリフのおかしさだけでなく、身体的にもかなり高度。50年代という設定で、時折場面で歌が入るのだが、モナハン夫人役の女優さんはじめ、本当に巧い。アカペラでのコーラスもそうだし、見事に雰囲気を出している。そしてロープを使ったアクロバティックなシーンなどもあり、あちこちで役者の身体能力がうかがえる。


聞き違い、勘違い、すれ違い、見間違い、それらを巧みに組み合わせるためのタイミング!本当に0.5秒も狂えないタイミングで芝居が進む。こういうコメディーはヘタをすると学芸会のようになってしまいがちで、昔の芝居にはそんな危なっかしさも見えたのだけれど、今ではすっかり洗練されている。

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誰が最後まで生き残るのか、そしてダイアモンドを手にするのか、、??!

かき集められた配役ではなく、劇団というのもあるのだろう。誰が主役とかスターとかではなく、集団としてのパワー。どの役もしっかり生きているのは台本の力だ。元同窓生が集まって本を書き、芝居を作る。90年代に三谷幸喜さん達、東京サンシャインボーイズが大人気になっていったのと似ているかもしれないね。

この数年の間に、「〜goes wrong」の芝居は数本作られ、私は知らなかったのだけれど、BBCテレビでもgoes wrongシリーズが放映されたらしい。いくつかのエピソードはBBCのオンディマンドにあるみたいだから探してみよう。役者達の反応は本当に素晴らしいケミストリーで包まれている。全くの即興で1時間半近い芝居を連日その場で作って上演できる能力のある人たちだから、お互いの信頼関係が絶大なのはよくわかる。

日曜日のマチネで見たのだが、何とこの日は嵐がきていて大変だった!でもそんな日曜日の午後を、笑い倒して過ごすのは本当に楽しい。本来はコメディーよりもシリアスな芝居の方が好きなのだけれど、やっぱり舞台に関わっていた人間としては、この舞台を寸分の狂いなく連日上演するということの凄さが解るので賞賛せずにいられない。

たまには2時間半爆笑しっぱなしというのも気分が発散できて良いなあ〜!



 


久しぶりに日曜マチネ。場所がウェストエンドじゃないから、仕事の後にはなかなか行かれないので、このスタジオーMeniere Chocolate Factoryに行くときは日曜マチネが多い。そもそも日曜に上演している芝居はとても少ないので珍しいケースだが。

イギリスで愛される作家といえばシェイクスピアとジェーン•オースティン。オースティンの小説は6作しかないにもかかわらず、「高慢と偏見(Pride and Prejudice)」や「分別と多感(Sense and sensibility)」「エマ(Emma)」なんかは何度も映画やドラマになり、その度にキャストが話題になっている。彼女の作品は貴族ではない田舎の地主・有力者の家庭が主で、この「平民だけれどお金と教養があるGentlemen階級」の娘達の、貴族や将校達と結婚するまでを描いたものがほとんどだ。「誰に嫁ぐか」が大問題のお年頃の娘達の目を通して、いろんな男性像や周りの家族達の価値観等を面白おかしく描いている。


この「The Watsons」は比較的早い時期に描き始めた小説だが、なぜか未完のままオースティンは別の話を書き始め、とうとう書き上げる事は無かった作品だ。なぜ途中で打ち捨てられたのかはもちろん明確ではないけれど、だからこそこれに続きをつけた「完結版」と称する作品がたくさん書かれている。

予備知識なしで観たこの芝居、途中からの展開が予想外だった!

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軸になるのは田舎のジェントリー階級の「ワトソン家=題名のThe Watsons」の末娘、エマ。リッチな叔母の元で育てられたエマは他の姉達よりも良い環境で教育を受けてきた。その叔母が再婚するにあたって実家に戻されてきたのだ。父は病床にあって、姉のエリザベスが面倒を見ている。他の姉達にとっても、重要事項は「結婚」のこと。このエリアで一番の貴族「オズボーン家」のパーティーにやってきたエマは、そこでトム•マスグレイヴや牧師のMrハワード、そしてオズボーン家の若き当主、オズボーン等と出会う。 マスグレイヴは娘達の間で話題のいわゆる「たらし」!。自分こそが一番女にもてて当然、のような色気振りまき男。そして堅実で(聖職者だから)誠実な大人のハワード。オズボーン卿は若き当主だが思い切りぎこちなくてまともに女性と会話もできなそうなタイプ。でもこのパーティーでエマはそれぞれの男達に好印象を与えた模様。パーティーの翌日、エマの元にマスグレイヴがやってくるが、彼女は「たらし」には興味がない。続いてやってきたのが不器用なオズボーン卿。しどろもどろで、それでもありったけの勇気を振り絞ってエマに求婚の意想を伝える。

お城に住む貴族のオズボーン卿からの求婚にエマが「イエス」と答えようとしたその時、ワトソン家の若い召使の娘がストップをかける。ジェーン•オースティンの筆はこのプロポーズのあたりで止まっていて、ここからがこの芝居の始まりと言っていい。

召使の娘は実は現代のオースティン研究家のローラ(実際にこの芝居の台本を書いたのがLaura Wade)で、ローラはエマに「あなた達は実在の人間ではなく、書きかけの小説の登場人物にすぎない。この小説は終わりがなくて、でも作者が家族に話した粗筋ではあなたはオズボーン卿ではなくハワード氏と結婚することになっている」と語り出す。登場人物全員がその話を聞いて驚き、混乱し、不安になり、エマ達とローラの会話は現代と19世紀初めのギャップが炸裂する。
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初めはローラが主導権を握って残された資料に鏤められたオースティンの考えたプロットにみんなを引き込もうとするのだが、やがて終わりのないストーリーの中に放り込まれたキャラクター達は「私たちにだって意志がある。書き上げなかった作者の意向なんてどうでもいい」とばかりに反乱精神を起こす。筋書き通りにはならないぞ、と思い思いが勝手な行動に走るのだが、、、、

勝手に結末を付け加えるよりもずっと面白い手法で本が書かれている。放り出されたキャラクター達がどうするのか?ここまでしか描かれなかったキャラクター達が本当はどんな自分でいたいのか?

エマとローラはやがて終わりのないストーリーを繋げていく道を探し出す。

ローラ•ウェイドの本は個々のキャラクターが本の中と外でそれぞれに生かされていて、セリフもウィットに富んでいて笑いを誘う。オースティンが生きたのはもう200年前だ。その頃とは男女のあり方も結婚の仕方も違うとはいえ、どの時代にも属さない価値観の持ち方は今でも十分楽しめる。シェイクスピアが時代を超えて愛されているのも、人間の中身そのものに焦点を当てているからだ。

10人ほどのカンパニーというのもまとめやすいし、本のほとんどは創作なのに、どこかしらジェーン•オースティンらしくてとても楽しい作品だ。半分作者のオースティンは今ではこの国の紙幣(10ポンド札)に描かれている。これをローラがエマに見せるのも笑った!

ちなみにこのメニエールというスタジオはチョコレート工場をスタジオ劇場とレストランにした建物で、行く度に舞台の作り方が違う。客席が周りを囲む造りの時もあったし、スタジオならではの、変形舞台の時もあった。今回は劇場式の舞台の作りで、この狭い空間にそれでも客席400は作っていたかな、、、満杯の客席と舞台の距離感がすごく良くて、スタジオ劇場ならではの熱気で楽しかった。

ちょっとシリアスに考える場面もあったし、何より「これをどうやって収集つけるんだろう?」と思いながらずっと観ていられる。オースティンのように作家になろうと決めたエマはペンを取って自らの続きを書き始める、そしてその小説の主人公もまた作家になって新たなストーリーを、、、、未完の作品が永遠に続いていくのを予感させて静かに幕が閉じられた。

 


3ヶ月ぶりの芝居!! 日本行きで散財したのと、夏の間はあまりピンとくるものが無かったのでちょっと我慢していたけれど、秋にはいくつか観たいものがあって、まずは楽しみにしていたFlorian Zeller氏の新作、「The Son」。
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これはゼレール氏の「The Mother」「The Father」に次ぐ3作目という事になっているけれど、別にストーリーや人物設定に関係があるわけではない。あくまでもタイトルだけの話。前回に観た「The Height Of The Storm」では突然妻を無くした半分認知症の父と事後処理(家の売却と父の施設入り)にやってきた娘たちの話で、心に問いかける作品を打ち出した。それに続いて今回は作者自身がインタビューで「今回は、はっきりと言いたいことがあって書いた」と語っている。

両親が離婚した時期から少しずつ精神的に不安定になってしまった息子=ニコラス。閉じこもり、一人でぐるぐると歩き回ったり落書きしたり、そうかと思うといきなりキレたりという完全に鬱状態の彼を親として案じる両親。離婚の原因は夫のピエールに愛人ができたからで、結局妻と息子の元を去ってその愛人=ソフィアと再婚してしまったのだ。学校で問題を起こしたニコラスの事を相談しにピエールの元を訪ねた母親のアンは、親としての責任と一人では抱えきれない状況を訴える。
ソフィアも含めて話し合った結果、ニコラスはピエールとソフィアの所で暮らす事になり、学校も転校して新しい生活を始めてみる。 父親と暮らし、ソフィアとも少しずつ話をするようになっているかに見えても、ニコラスの心の病みは頑なに彼を支配している。一生懸命に両親やソフィアに取り繕うとしたこともあったが、転校以来実は一度も登校せず、毎日学校へ行くふりをしては時間を潰して帰ってきていたのだ。
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母親としてニコラスを守り、立ち直らせたいとは思うものの、自分も生活の為に仕事に出なくてはならず、一人では抱えきれずに苦しむアン、結婚していながらも、一人の男性としてソフィアを愛して新しい人生を選んだ事を正直に話して聞かせるピエール、父親の元愛人・現在の妻という立場に引け目を感じる事なく、素の自分でニコラスに接するソフィア。大人たちにも其々の考えや愛情の示し方があり、みんながそれなりにニコラスの事を何とかしてあげたいと思っているのはわかるのだが、ニコラスの病んだ心は癒えず、とうとう自殺を図ってしまう。
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 命を取り留め、病院で精神鑑定を受けたニコラスについて、精神科の医師ははっきりと「今家に帰すのは大変危険です」と告げる。時間をかけて、しっかりと治療をするのが先決だと。もしどうしても家に連れて帰るなら、「何があっても病院側は一切の責任を追いかねる」という書類にサインをしてもらいます、という医師の強い言葉を聞いて、アンもピエールも流石にまた自殺騒ぎを起こしてはいけないと、ニコラスに治療を受けるように説得しようとする。それに対してニコラスは子供のように必死に「家に帰りたい」と懇願する。「ここはみんながおかしいんだ、こんな所にいたら自分もおかしくなっちゃう、こんなところに僕をおいていかないで」と泣き叫ぶように哀願するニコラスに、心を鬼にして「ここに残って治療を受けるんだ」と突き放そうとするピエールとアンだったが、スタッフに押さえつけられ、まるで犯罪者が引き立てられるかのように病棟に連行されて行くニコラスの悲鳴のような叫びを聞いて、最後の最後でとうとう書類にサインをしてニコラスを家に引き取って帰ってくる。

久しぶりに親子3人で家にいる嬉しさを隠せないニコラスは、子供の頃の3人での思い出を話して少し落ち着いたかに見えたが、、、「お風呂に入ってくるね」と言って消えて行った浴室から、一発の銃声が、、、、、

大人たちに罪があるわけではない。父も母も、個人としての人生があり、責任があり、何よりも息子を愛している。それでも深い傷を負った子供の心は出口を見つけられずに苦しみ続けてしまう、、、、とても苦しい現実がある。助けたい、でもどうすればいいのか、助けたいという思いが気持ちでは届いていても救いにはなれない。

作者が言っていた「はっきりと言いたかった事」ではないかと思うセリフが後半にあった。精神科医が、ニコラスを病院に残すか家に連れて帰るか迷う両親にきっぱりと言った。「愛しているだけではダメなんです。=Love is not enough」。はっきりと心に残るセリフだった。心の病は病気であって、きちんと時間をかけて治療法を模索し、投薬やカウンセリング等、医学として必要な治療を施さなければ治せないのだ、と。劇中で何度も言われるセリフ、「It's going to be all right」でも決して大丈夫ではないのだという現実をひしひしと突きつける。

とても現実的で、日常的で、だからこそ考えている人たちにはっきりと苦しい現実を突きつけるような芝居だ。前作の「The Height of the storm」のような、見た人に考える余韻を与える作品と少し違って、厳しいインパクトがある。芝居の最期はもっと寂しい。息子を救えなかったピエールは少しずつ後悔と罪の意識に苛まれて、慰めるソフィアの腕の中で、彼自身も心を病み始めているのだ、、、、、

まだやっと40になったばかりのゼレール氏の筆の勢いは止まらない。翻訳はいつものクリストファー・ハンプトン氏。このコンビもすっかり定着した。そういえはハンプトン氏自身の書く芝居はなかなか新作が出ないなあ〜〜。翻訳もので忙しいのかな。
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すっかり名コンビになりつつあるお二人のツーショット。いつものように休憩なしの2時間そこそこの芝居。結末がキツイから、ちょっと苦しい感じも残ったけれどど、劇中のセリフの掛け合いは面白い。場面の終わりと次の場面の始まりが少しオーバーラップするような演出もスムーズで、大きな転換でなくても場面の切り替わりが繋がっていた。少ない登場人物の芝居は一人一人の比重がバランス良くて、見ている方も何かしら共感できる部分が必ずある。時代も国も関係なく上演できる芝居だからいろんな国で翻訳されるといいな。





 

ハロルド・ピンターの芝居を「ハロルド・ピンター劇場」でシリーズ上演している。観てきたのは 「Betrayal」。私は知らないのだけれど、主要キャストの一人は「アヴェンジャー」ものの映画で人気の人らしい。どうりで劇場は満杯、今回はサークル席の最前列を取ったのだけれど、見回すと後ろのギャラリーに立見が出ている。ああ、だからBox officeの前に長蛇の列ができてたんだね。「お客さま」が多いのかなあ〜??とちょっと不安。

主要キャストは3人。タイトルの Betrayal(裏切り)はこの比較的シンプルな芝居の中で多用に絡まってくる。まあ、簡単にいうとダブル不倫、いや、トリプル不倫というやつだ。
エマ(Zawe Ashton)とロバート(Tom Hiddleston)は夫婦で二人の子供もいる。そしてロバートの長年の親友、ジェリー(Charlie Cox)も家族もちで、お互いに長い友人関係を持っている。で、このジェリーとエマは7年間に渡る不倫関係を2年前に清算したのだが、今になって、ジェリーはエマからロバートと離婚することになったと聞かされる。

離婚の原因はロバートに何年も前から愛人がいたことが発覚したからなのだが、これをきかっけに、実はロバートはエマとジェリーの関係を4年も前から知っていたこと、ロバートが知っているという事を知っていたエマはそれをジェリーに話さなかったことが明かになる。

二人が深い関係になって、それをロバートが知ってから今まで知らぬ顔でジェリーと親友づきあいをしてきた様子、エマとジェリーの関係が少しずつ薄れていって終止符を打つ流れを時間を遡りながら台詞だけで見せていく。

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何もない舞台にあるのは二つの椅子だけ。これを回り舞台の構造をうまく生かして3人の微妙な心理のずれや表裏を表す演出がなかなか上手い。演出のジェイミー・ロイドの舞台は今までいくつか観たけれど、私の中で好き嫌いが二分されている。今回は本よりも演技よりも演出が光る。

台詞の中に絶妙な静止と静寂が随所にちりばめられている。台詞を畳み掛けるのではなく、返事を返すまでの少しの間にお互いの顔を見つめることで返事の一言の感情を何倍にも膨らませているのだ。この間の取り方が絶妙で、意味を持たせるギリギリのタイミングを維持しつつ、芝居のペースも崩さない。とてもデリケートな演出だ。

もう2年前に関係をやめたエマとジェリーが、久しぶりに飲みながら始まる開幕のシーンはぎこちなく、それでいてかつての親密さも隠せず、同じことを何度も聞いたり取り繕うとして見たり、、、、自分達がロバートを裏切っていたはずが、実はロバートもエマを何年も前から裏切っており、さらにロバートが二人の関係を知っている事をジェリーには知らせずにいたエマの裏切り。そして不倫を知っていながらジェリーと親友として振る舞ってきたロバートの仮面。遡る形で戻っていく過去のシーンは、「今思うと、、」という目線で見ることになるので、繊細な演技が求められる。ここでも抑えた言い回しやセリフの間の数秒の間合いが心理描写に効果的に使われている。

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もう一つ、演出で目を引いたのが舞台の後ろに映る影だ。ほぼ白い空間なので3人の陰が後ろの壁に綺麗に映るのだが、そこでもまた見えない心のセリフが呟かれているかのような効果を出している。時々、写っている影は別の動きをしているんじゃないかと思わず錯覚してしまうような鮮明な影絵。
最近は小さい劇場だとサークル席の最前列というのが結構お気に入りだ。今回もサークル最前席だったので、舞台上の役者の姿と後ろの影が重ならないでちゃんと見えたので正解だった、2重の回り舞台を使っ手の、お互いが行き来したり交差したりする様子もサークル席からの方がよく見えた。

ハロルド•ピンターというとちょっとひねくれたような「不条理劇」に分類される作品も有名だけれど、映画の「日々の名残」(カズオ•イシグロ)や「フランス軍中尉の女」等の脚本も手がけていて、このBetrayalも7年間の3人の関係をとても繊細に書いている。もちろん会話上の掛け合いから生まれる言葉の面白さも充分あるので何気ない会話に笑いも起こる。

休憩なしの1時間半はちょっと疲れた土曜日の仕事の後にはちょうど良い。劇場を出たらまだ薄明るさが残っていた。結婚生活に幾つのBetrayalがあるのかは人それぞれだ。別に不倫だけの話じゃない。心のどこかで、きっとお互いに必ずあるはずのBetrayal。大人の芝居はいいなあ〜〜


Unknown

小さなスタジオでの小さな宝石のような芝居が好きで、最近はなんだかスタジオ式の劇場でばかり芝居を観ている気がする。
ピカデリーサーカスの一本裏通り、いかにもポッシュな紳士向け高級テイラーメイドの店が並ぶJermyn Streetにある劇場、多分普通に歩いていたら見過ごしてしまう。座席数70のスタジオだ。こんな小さなスタジオでの芝居なのに、大御所演出家のトレバー ナン氏の演出作が上演されるのがロンドンの面白い所。しかも今回の芝居は120年前に書かれたのに、一度も上演されなかった、まさに時代に埋もれていた本だという。

ストーリーは実は単純だ。まだ17歳の時に(おそらくは家同士の取り決めで)年上の作家である夫と結婚したアグネスは、画家として自立したい思いと自由を求めて家を捨て、今はデンマーク人の男友達でやはり画家のオットーと同居している。オットーとは今までは男女関係は持っていない様子、、、。最近になって彼女の元に届く手紙で彼女の様子がおかしいと気づいたオットーが事情を聞くと、アグネスはオットーに初めて自分が結婚している事、そして夫が毎日のように「戻って来るように」という手紙を執拗に送って来る事を打ち明ける。また、アグネスの事を慕う若いアレキサンダーも彼女との甘い時間を夢見て時おりやって来てはオットーを不機嫌にさせている。やがて彼女は夫の執拗な説得を振りきってオットーと供にフランスに移住する。そこでは二人は絵を描きながら「夫婦」として暮らしている。(法的にではないが)次第に男友達から恋人になったオットーとの関係にも変化が訪れ、アグネスは自分自身の人生を探そうと揺れる。そして今一度、自分の意思で新しいパートナー(アレキサンダー)を選んでオットーのもとから巣立っていく。

単純に会話が進んでいくのだけれど、重要なのは、この芝居が1900年に書かれたという事だ。まず、登場してすぐにアグネスはいわゆる上流家庭の女性だと分かる。それは彼女の物腰や何と言っても話し方だ。イギリスではその人の話す英語で家庭階級や教育の背景が解ってしまうのだ。絵の具で汚れていても、アグネスが「上流夫人」であることは明白で、一緒に暮らすアーティストのオットーとのバックグランドの差が少し見えるのだ。そして彼女に言い寄る年下の若いアレキサンダーも家庭環境は上流なようだ。

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そんな背景が、語られなくとも会話しているだけで見えて来るのが面白い。夫がいるのに他の男と暮らしているという事が当時はどんなにスキャンダラスだったか、というところから成り立っている芝居だ。要するに、当時の女性の自立、というより男の所有物からの解放とでも言うべきか、自己と自由な恋愛を求めて歩いていく女性というのは今なら当たり前でも当時は大変な反社会的な存在だったのだ。

作者のHarley Granville-Barkerは1877年にロンドンで生まれている。キャリアとしてはまず役者として多くの作品に出演している。そして演出も手がけるようになり、シェイクスピアも何本も手がけている。戯曲も書くようになり、20世紀初頭のロンドン演劇界ではかなり斬新なアイデアで新しいタイプの演劇人として活躍していた。そんな彼が23歳の時に書いたこの芝居を、彼は一度も上演しなかった。むしろ残された手書きの原稿には「こんなのはゴミだ」と書きなぐってあったらしい。当時はイプセンが「人形の家」等で自立しようとする女性を描いて上演禁止になっていたのだから、この題材の芝居を彼が「成功するわけない」と思ったのも無理はない。

夫ある身で同じ画家の外国人(オットーはデンマーク人ということになっている)と暮らし、家に戻るようにという執拗な夫の誘いを振り切ってノルアンディーで夫婦(同様の)生活を始める二人。初めは同居人だったのが、ここから愛人に変わって行く。この関係の違いはやがてオットーとの生活にも影響して来る。「肉体的な男女の関係」というものが、台詞では現代劇のようにはっきりとは表現していないところがいかにも120年前の本だ。それでもアグネスは「そういった事」にも自分の生き方を見つけようとしているのだ。オットーと夫婦として暮らしながらも、彼が他の女性にキスをした事実を知り心が揺れるアグネス。

夫婦と愛人の、お互いに対する権利と規制はどこで決まるのか?まあ今でも議論のタネじゃないですか、身体の関係さえなければ浮気にならないのか、、、とか?。 アグネスは再び自分の人生を変える決意をする。ずっと年若いアレキサンダーと新たな道へ歩いて行くことにするのだ。愛しているのか好きなのかはよく解っていなくても、、、、
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単純なのだけれど、時代背景を考えてみると、今の時代にも変わらないものがある。舞台の広さは幅が歩いて7−8歩、奥行きは3歩も無いくらいの空間だ。役者の位置は絵を描いているカンバスの前と反対側の椅子、あるいはノルマンディーの部屋ではテーブルと周りの椅子だ。これだけの空間で2時間のセリフ劇の演出はやっぱりなかなか難しい。トレバー•ナン氏ならでは、か、、、、

実は見ていて本に書かれているのか、それともナン氏の演出なのか、分かりかねる部分も多い。どこまで作者が意図して描いた動きや設定なのか。ブリティッシュライブラリーで見つかったオリジナル原稿は鉛筆書きで、この上演に当たって戯曲家のRichard Nelsonが「Rivisor」としてクレジットされているので、手書きの原稿から書き起こしたのだろう。

登場人物5人の芝居。作者本人は「ゴミ」と思ったのかも知らないが、21世紀に観ても結構面白かった。ものすごく感動する、というような本ではないけれど、忘れられていた小さな宝石のような作品だ。実を言うともう少し広い舞台でもいいかも。せめてキャパ200くらいの、、、地味な作品だけれど、掘り出した価値があると思う。ナン氏の演出にも拍手。


待ってました!今一番旬なフランスの若手戯曲家、 Florian Zeller氏の新作。英語への翻訳はもうすっかりお馴染みのChristopher Hampton。これまでの彼の作品も全てハンプトン氏の英語台本だ。フランス語の原題は「Avant de S'envoler」、英語でのタイトルは「The Height of the storm」。前回見た彼の作品はシチュエーションとしてはコメディーな心理描写だったけれど、今回は少し違ったトーンだ。
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50年間連れ添った愛する連れ合いが突然いなくなってしまったら、、、、?

作家のアンドレの所に娘達がやってきて、色々なことを処理・整理しようとしている。アンドレはもう半分認知症が入っていて、時々訳のわからないことを言ったり物事の理解に苦しんだりしているのだが、そうかと思えば突然正気で話し出したりする。 

始まってすぐに「母=アンドレの妻、マデレーンが死んだ」という設定なのは明らかなのだが、アンドレの頭が混乱しているのと、娘が(おそらく心で)母と会話していたりする様子が出てくるのでちょっと「ん、、、?」 と思う事何度か、、、一時は死んでいるのはアンドレの方か、、?思ってしまうほど、そのあたりの微妙な持って行き方が巧い。会話を聞いていないとわからなくなるので観客はいやでも舞台に集中する。

売れっ子作家だったアンドレも今や年老いているので、マデレーンが色々な書類にまつわる仕事をこなしていたのだろう、それを久しぶりに実家にきた長女が整理しようとするのだが、これがなかなか大変だ。一方次女も得体の知れない彼氏(?)を呼ぶのだが、これがどうやら不動産屋で、娘たちはこの生まれ育った田舎の家を処分して,父を施設に入居させようとしているのだ、、、が、、、やはりそれがとても小出しにされている。

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父を傷つけないように施設行きを提案するのだが、アンドレは半分解っていない。アンドレとマデレーンが50年間添い続けた夫婦である様子や、母と娘たちとの関係がわかるようなシーンが、マデレーンが生きている場面として出てくる。これが最初はちょっと混乱するのだが、状況をはっきりつかめば解りやすい。突然居なくなる、、、それは突然の事故だったり心臓発作かも知れない、いつ誰に起こるか、本当は誰にもわからない現実だ。

私の伯母もシャキシャキとして元気な人だったのだが、ある日お風呂に入りに行ったきりバスルームから出てこなかった、、、私は日本でのお葬式には行かれなかったけれど、家のことを全て取り仕切っていたのはおばさんなので、従兄弟たちは残された伯父さんが着る喪服の場所がわからず、家中を探し回ったとか。 

アンドレを演じているのはイギリス(というよりウェールズ)のベテラン、ジョナサン•プライス。舞台、映画、ミュージカルと幅広く世界的に活躍している実力者だ。この現実と混乱の間を行き来するアンドレの演技は本当に素晴らしい。 じっと座って居てもかすかに震えている手や口元、かすれ声から怒鳴り声まで、見事に表現されていて、私は前から5列目で見て居たのだけれど、顔の皺まで演技しているのかと思ったほどだった!!

マデレーン役はDameの称号を持つEileen Atkins。ロンドンだけでなくブロードウェイでも何度もトニー賞の候補になったりイギリスでは ローレンス•オリヴィエ賞を数回受賞している。プライス氏と共にもう70代だ。この二人の共演という事で公演の情報を得てすぐにチケットを取っておいて本当に良かった。それでフローリアン•ゼレールの本なのだから贅沢な舞台だ。

とはいえ、上演時間は休憩無しの1時間20分。でもこういうドラマは一気に観られるのが良いね。それにしてもゼレール氏は本当に快進撃を続けているなあ〜〜この後の最新作(英語題はThe Son=息子)が今年パリで上演されて、イギリスでも来年には上演されることになりそうだ。彼の作品はThe Father, The Motherというのもあるので、次はThe Daughterか?? なあ〜〜んて、、、、 彼はまだ40にもなって居ない。そうだなあ、日本で野田秀樹さんが出てきた時みたいな感じなのかな?

状況を把握するのにちょっと頭を使いながら台詞を聞いていると、随所に面白い会話があって、重い場面なのにちょっと笑ってしまったりするセンスの良い本だ。考えてみたら誰でもいつかは遭遇することになるシチュエーションに、自分を妻としてみるか、娘としてみるか、夫としてみるか、、、観客にとっても 実は人ごとではない話だ。

観終わったあとに思わずじっと舞台を観ながら、今見たいろんな場面を考えてしまった。私の両親ももう来年には90になる。昔は遠くに思っていた「その時」も、実はいつ来てもおかしくない、、、良い芝居だった。フローリアン氏の次作も楽しみだわ。

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