見つけもの @ そこかしこ

ちょっと見つけて嬉しい事、そこら辺にあって感動したもの、大好きなもの、沢山あるよね。

ロンドン演劇事情

舞台版Venus in Fur - 毛皮のヴィーナス


数年前にポランスキー監督の映画を観て、元の舞台版が観たいと思った芝居、Venus in Fur(毛皮のヴィーナス)がロンドンで上演されている。
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脚本はDavid Ives、初演は2010年にオフ•ブロードウェイで、後にブロードウェイに乗っている。ポランスキー監督が映画にしたのが2012年だから、映画化としては早い方か、、、 本来の原作はザッハー•マゾッホで、マゾヒズムの語源になったという。
話の展開は映画を見た時の感想に書いたので、ちょっと端折ってしまおう。こちらを参照してください

映画版はパリの小さな劇場でのオーディションという設定だったけれど、本来の舞台版は、アメリカで書かれている。今回の演出で面白かったのは、一応アメリカでの話という事で、トマもヴァンダも素で話す時はアメリカンな英語で喋っている

演じている俳優はもちろん二人ともイギリスの役者なのだが、実はこの二人、ナタリー•ドルマーもデヴィッド•オークスもアメリカのテレビドラマや映画にも出演していて、なかなかナチュラルなアメリカンを話す。そしてオーディション内の役柄、クルジェミスキーとヴァンダを演じている時は、設定がクラシックでヨーロッパという事なのだろう、イギリス英語でセリフが語られていく。だからオーディションとして台本を読んでいる時と、作・演出家と女優に戻った時の会話のやり取りが、芝居と素の状態が聞いているだけで区別できて解りやすい

映画を見た時はフランス語のセリフを英語のサブタイトルで観ていたのだけれど、今回全編英語で聞いてみると、台詞にかなり笑える要素が散りばめられている。 結構コメディーっぽい掛け合いもあるので、セクシャルでダークなイメージが気恥ずかしくなるという事が無かった。

最初からヴァンダはピチピチの女王様スタイルで黒いパンティー丸見えなので、男性じゃ無くてもやっぱりむき出しの足やお尻に目がいってしまうのは仕方ない、という事か••••• う〜〜ん、スタイル抜群で女性としてはひたすら羨ましい限り 映画版よりは二人ともずっと若い。ヴァンダ役のナタリーは一見可愛い顔でキュートな笑顔を持ちながら、男を自分のペースに巻き込むパワフルな魅力を持っている。そしてトマ役のデヴィッドは知的で素直な笑顔が魅力的で、あまりダークな秘密は表に出さない演技 がナチュラルだ。

映画版は最後の最後がなんだか「ん、、??よくわからない、、?」と思いながら突然終わってしまった感じだったけれど、今回はそのあたりは収拾がついた。それでも、一体このヴァンダと名乗るとんでもないゴリ押し女優は何者なのか??というあたりはなんとなくミステリアスなままだ。首に縄をかけられ、柱に縛られたトマが叫ぶ、「お前は一体誰なんだ

最初からまだ出回っていないはずの上演台本を持っていたり、トマが求める役とは真反対のイメージで登場しながら、本読みを始めると思った通りの役柄を演じてみせる。またやたらとプライベートな事=トマの奥さんの履歴まで知っていたり、(後で、「実は奥さんとはジムで知り合ったのよ」と言っていたが、真相は不明??)一体この女は何者なのか??!

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夢、あるいは幻という言葉が合うかどうかはわからないけれど、もしかしたらこれはトマの妄想、いや願望なのではないだろうか?自分が書いた脚本のオーディションに来た女優たちはどれもハズレで、失望にも似た気分の中でトマは妄想する、、、、こんな女がオーディションに飛び込んで来たら、、、こんな女が自分の書いた芝居を完璧に理解して役を理想的に演じてくれたら、、そして自分の奥底にある真実の願望と欲望に目覚めさせてくれたら、、、、 

嵐の夜の、劇場の片隅で一人の男が見た幻想、、、?

それにしても二人の役者のケミストリーが素晴らしい。映画版も好きだったけど、やっぱり舞台での芝居だね。日本ではやれる人がいるかなあ〜?と思ったけれど、稲垣吾郎さんと中越典子さんで上演されたそうだ。う〜〜ん、なかなかいいかも、中越さんならこの役、いいだろうな。そして稲垣さんの知的で素朴なイメージは結構あってるかも。

休憩なしの1時間半、グイグイと観客を引っ張りながらちょっと怪しい摩訶不思議な空間に連れていってくれた感じ。 テレビに、映画に、舞台にと幅広く活躍する役者同士、かなりレベルの高い演技を見せてくれた

Lootーだからオートンの芝居って好き

3年前にオープンした時、いろんな役者達がこぞって「また面白い場所ができた」と集まり話題を よんだFinsbury ParkのPark Theatre。スタジオ式の空間は一応ギャラリーも3列あって、総席数は200程、Donmar Werehouseくらいの空間かな。ウェストエンドの劇場とは違う芝居空間が妙に安心感があって私は好きなのだ。

今回はジョー•オートンのLootという芝居。オートンについては前にこちらで書いたとおり、60年代、労働党政権のイギリスに爆風を起こしてあっという間に消えて(死んで)行ってしまった劇作家だ。
このLootは彼の3作目の芝居で、これが大ヒットとなり、いくつかの賞を受賞している。
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場面は葬儀屋の準備室、舞台中央にはこれから葬儀という棺桶。亡くなったのはマクレヴィー夫人で、彼女の葬儀の準備をするのは夫のマクレヴィー氏と夫人の看護師だったフェイ。フェイは早速亡くなった夫人のスリッパを自分で履いていたり、これからの人生をまた生きなくてはと、マクレヴィー氏に再婚(自分との)薦めたりと、気後れもなくちゃっかり自分の立場を確保する手段を進めている。

実はこの前日に葬儀屋の隣にある銀行に強盗が入った。やったのはマクレヴィーの息子ハルと、この葬儀屋 で働くハルとは幼馴染(で恋人?)のデニスだ。二人は盗んだお金を棺桶を保管している部屋のクローゼットに隠している。いつまでもクローゼットに入れておけないということで、二人は棺桶の中にお金を移すことにする。そうなると棺桶に横たわる母親=マクレヴィー夫人をクローゼットに移さなくてはならない、、、そうこうするうちに刑事のトラスコットが銀行強盗の事を調べに水道屋と偽ってハルに話を聞きに来る。嘘がつけないハル、「本当に刑事か??」と最後まで疑いたくなるような強烈なキャラのトラスコット、彼らの銀行強盗の事を感づき、山分けに参加するフェイ、妻の残したお金で薔薇園を作りたいと語るひたすら善良なマクレヴィー氏。

とにかく台詞の応酬がオートンらしく「あり得な〜〜い!!」の連続だ

夫人の遺体はミイラ加工されていて、その死体を隠したり、服を脱がせたり義眼を取り出したり、社会的な良識からは考えられないような事が実におかしく繰り広げられる。葬儀に行く途中で車が事故にあったり、刑事のトラスコットに問い詰められたハルが嘘がつけずに銀行強盗を白状したのに、今度はトラスコットがそれを信じなかったりと、今までのやりとりがいきなりひっくり返ったりする展開は唸りたくなるほど軽快で絶妙な台詞の掛け合いだ。実はフェイには過去に7回の結婚歴があり、その夫達はみんな不審な死を遂げたり行方不明になっているのだった。最後にはトラスコットまでお金の山分けに参加することになる
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正直者は一人もいないのかあ〜!と思う反面、みんなそれで納得して大笑いしているのだから 、この空気をどう説明したものやら、、、、

他の芝居ではもしかしたら人形(マネキン)を使うのかもしれないが、実は死体のマクレヴィー夫人もちゃんと役者が演じている。これが本当に影の主役。一言のセリフもなく、自分で動くことも一切ない「死体」を見事に演じていて、これが演出で一番だったかも。クローゼットに逆立ち状態で入れられたり、服を全部脱がされて、シーツでぐるぐる巻きにされた状態で車椅子に乗せられたり、 棺桶の下に足で押しやられたり、、、それでもひたすらミイラの役だ。
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笑い、というものの意味をこんなにも皮肉な形で芝居にすることができたジョー•オートンの作品をもっと沢山観てみたかったね。銀行強盗を見逃してお金を山分けしようという刑事や、死者であり母への冒涜を恐れないハルの振る舞い、結婚しようとプロポーズしながらしっかりホモ/バイセクシャル なデニス、
7人の夫殺しの上、もしかして夫人を死なせたのも、、、?と思わせるトンデモ女のフェイ、これだけ揃えばもう怖いものなしで世の中を渡っていけるような気さえしてくる

このPark Theatreはカフェバーも劇場とは違って、ちょっとクリエイティヴな感じの空間だ。フィンズベリーパークの周辺は結構アーティストも多いエリアなので、役者やミュージシャン、ダンサーなんかも住んでいる。まあ、駅裏のガード下にはホームレスも住んでいるようだけれど、、、
ロンドンらしい環境でのイギリスらしい芝居、こんな時間がやっぱりすごく好きだなあ〜〜
 

The Tempest ー21世紀のシェイクスピア


本当は蜷川さん追悼公演のマクベスを観るつもりでいたのだが、日本に行く2週間の休みを取れる時期が折り合わず、結局マクベスは諦める事になってしまった。
で、代わりというか、久しぶりでバービカンでRSCのシェイクスピアを観ることにした。
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このThe Tempestは本拠地のストラトフォードで上演された時から話題になっていて、インテル社の協力のもと、舞台全体が3Dのプロジェクターで 大掛かりな仕掛けが施されている。
シェイクスピアのThe Tempestは妖精たちや魔女の息子が出てきたり、魔術で嵐を起こしたりと、現実のは少し外れたファンタジーの世界観を持つ話だ。

弟一味の陰謀でミラノを追われたもと大公のプロスペローは、無人島で娘と二人で暮らしている、彼には魔術を操る力があり、妖精のアリエルを家来のように使い、裏切った弟やナポリ王の一行が乗った船が近くを航海していることを知ると、大嵐を起こさせて、一行を島へおびき寄せる。

実は前回この芝居を見たのは、レイフ•ファインズのプロスペローでトレバー•ナン氏の演出だった。解りやすい芝居だし、視覚的な見応えもあって面白かったので、今回のスペクタクルな21世紀のテクノロジーを駆使した舞台がどんなものか楽しみだった。

さて、あらすじ等は前回のこちらのブログを参考にしていただく事にして今回はちょっと省きます。この舞台、幕が開いた瞬間から「大掛かり」がやってくる。大嵐のシーンが、まず船の枠組みに大波、大風、と3Dプロジェクターで本当にリアルだ。そういえば前に観た「Lord of the Rings」も大掛かりな視覚装置でファンタジーの世界を描いていた。
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よく観ると、アリエル(空気を司る妖精)の体の動きが3Dでプロジェクターに反映する仕組みになっていて、マジカルなパワーがいっぱいだ。次から次へと目を奪われるような壮大な世界が展開する。

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そして途中でふと気づいた。「あれ、、この芝居って、もう少し面白かったんじゃないかな、、、」
視覚効果が大きいのは見応えあるのだが、逆に本来の芝居の持つ面白さがその分薄れてしまっているような気がしてくるのだ。

プロスペロー役のSimon Russell Bealeは実力派のベテランで、RSCの役者達は皆さん力量は確かだ。でもシェイクスピアらしい面白さが、なんだか薄れているような、、、これが演出の違いによるものなのか、、?
前に観たトレバー•ナン氏の演出では、魔術のシーンは仕掛けよりも、リボンダンサーやアクロバット的な宙吊りにダンサー達を使って肉体で躍動感を出していた。もともとシェイクスピアの時代には仕掛けなんてできなかったのだから、それを補うためにシェイクスピアは台詞を書いたのだ、それを役者がきかせる事で、観客にイマジネーションを与え、想像を膨らませていたのだ。

この舞台をシェイクスピアが観たら何というだろうか?まずびっくり仰天するに違いない。もしかしたら台詞を3分の1ほど削ってしまうかもしれない。(描写の必要がないかも)21世紀のテクノロジーのおかげでCGがどんどんリアルになり、だからハリー•ポッターシリーズも映画化することができたわけだし、エンターテイメントということでは本当に進化している。でも元々の「本」にあった言葉達がなんだか薄れてしまうような感じでちょっと疑問を感じる。

「言葉、言葉、言葉だ、、」とシェイクスピアが本に詰め込んだ幻想的でマジカルな世界観が、言葉から離れすぎてしまうのは芝居の面白さを奪ってしまわないだろうか••••
今回の演出は5年前からRSCの芸術監督をしているグレゴリー•ドーラン氏。前任のトレバー•ナンやピーター•ホール同様、シェイクスピアへの愛情を感じる舞台を多数演出している。元々はRSCに役者として入ったのが、後に演出に移った人だ。RSC以前から劇団を作ったりしていた人なので、役者としてよりも、舞台演出をやりたかったのかも。

このテンペストは観る価値は十分にある。こんなにもマジカルな世界を舞台に出せるなんて思ってもいなかった。だけど、私が好きかどうかという観点で見ると、実は前回のナン氏の演出の舞台の方が解りやすくて芝居として面白かったと言える。視覚が言葉を遮らない範囲でみせてくれていた。

こちらの感想←と比べてみてください。

 

新釈サロメ


新しい解釈の「サロメ」というのに興味が湧いて観てきた。久しぶりのナショナルシアター。毎年この時期にはテムズ沿いのサウスバンクが気持ちが良い。ロイヤルフェスティバルホールの側は人が多いし、レストランやバーでザワザワしてるけれど、ウェストミンスターブリッジを超えた側のナショナルシアターのテラスは穴場だ!NTのテラスは広くて、各階にあまり人のいない隠れ家的なテーブルが沢山あり、一人でものんびりできるスペースを確保できる、とっておきの場所だ

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さて、「サロメ」と言えば、オスカーワイルドの戯曲によるイメージが有名で、ユダヤのヘロデ王の娘、サロメが王の前で官能的なダンスを踊り、その褒美として宣教者、ヨハネの首を要求する、というのが定着している。ワイルドの戯曲では、サロメは囚われた預言者のヨカナーン(ヨハネ)を自分に振り向かせようとするのだが、彼から拒絶され、呪いの言葉を浴びせられた彼女は、銀の盆に乗って運ばれてきたヨカナーンの唇に口付ける、、、というエロスと眩惑的な空気に満ちたストーリーだが、これは必ずしも史実ではない。

ヘロデ王の娘(正確には義理の娘)が踊りの褒美にヨカナーンの首を求めたのは聖書に出てくる話だ。でも聖書には実はサロメという名は出てこない。1世紀のローマ時代に古代ユダヤの歴史を記したヨセフスという人の記述の中に、ヘロデ王の義理の娘でサロメという名の王女が出てくるため、これが聖書の人物と同一と理解された。そして彼女の踊りに「七つのヴェールの踊り」と付けたのはワイルドの戯曲で、それでも内容については記述されておらず、あたかも衣服を一つずつストリップの様に脱いでいくダンスであるかの様に定着したのはその後だ。 

この新しい「サロメ」はワイルドのサロメの一部も残しつつ、新しい解釈に仕上げている。サロメを歴史から名前を消された女として 、当時のローマに征服されていたユダヤの政治的な危うさと反発を象徴するものとして描いている。若く美しいサロメは言葉を発さない。義理の父を始め、男たちに陵辱されても声をあげず、自分の意思ではなく周りの状況に翻弄される。そして彼女の言葉を代弁するのが、名無しの女。彼女はサロメと呼ばれる女の声として、侵略され、押しやられたユダヤのことを語る。 

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政治的な解釈は面白く、演出も目を奪う場面があって、「面白い」と思う反面、時々 なんだか退屈になってしまう場面もあり、休憩なしの1時間45分がギリギリ、、という印象だった。もう少し、一気に進んで欲しかった気もするし、でもそれなりにのめり込める部分もあって、これって本なのだろうか、演出なのだろうか、、、

NTのオリヴィエシアターは舞台が何重にも回る装置がついていて、これを本当に上手く使っていた。奥行きも広く使えて、見応えは十分ある。本を書いたYael Farberは南アフリカ出身の40代の女性だ。ゲイだったワイルドの描くサロメは女嫌いが見え隠れしていると感じたそうだ。
聖書にも少し書かれているけれど、多くのユダヤの信者を持っていたヨハネの首をはねるのは、ヘロデも躊躇したという。Farber氏はそこに支配者=ローマと反発するユダヤの分裂を描きたかったらしい。サロメは反勢力のきっかけになった、でもやがて歴史から名前を消された女とし、彼女の声を、自身の口から出なく、名無しの女=歳をとったサロメに語らせる。

実は6月にロイヤルシェイクスピアカンパニーがオスカーワイルドのサロメを再演していたのだけれど、こちらはストラトフォードでの公演で、今のところロンドン公演の予定はなさそう。見比べてみたかったなと思いつつ、史実にある聖書の逸話というのは、いろいろな解釈ができる題材の宝庫かもしれないな、と改めて思う。

モーゼの十戒、アダムとイヴ、カインとアベル、ノアの箱舟、聖書の話を史実として裏付ける調査はいろんな形で行われているし、本も書かれている。私もそういう本は大好きで、Graham Phillips氏の本に立て続けにハマった時期がある。この新しい芝居も、もう一つの「サロメ」として定着するだろうか、、??

 

母、息子、愛人の3角関係=Love In Idleness


 
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ありそうであまりなかったかもしれない、、、、

この芝居は1944年=世界大戦の最後の年に書かれ、初上演されて以来一度も再演されていなかったという。 作者のTerence RattiganはLess Than Kindというタイトルでこの芝居の元本を書いたそうだが、これはそのまま上演されることはなかった。そして当時のスター俳優を主演に上演することになった際、その役者の為に政治的要素をかなり削ってホームドラマタイプの本に書き換えタイトルも、Love In Idlenessに変えて上演された。今回この埋もれた作品を上演するにあたり、演出のトレバー•ナン氏はこの二つの本を付き合わせ、初演時に削られた政治思想的なやり取りの部分も適度に復活させて本を仕上げたそうだ。

終戦も間近なロンドン、オリヴィア•ブラウンはいかにも上流層な家でハイソな友人たちをパーティーに招くべくあちこちに電話しては連絡を取っている。彼女は、大金持ちのビジネスマンで政治家=軍事大臣でもあるジョン•フレッチャーのいわゆる愛人。と言ってもスキャンダラスな関係ではなく、妻との結婚が事実上破綻しているジョンはオリヴィアを新たなパートナーとして 、落ち着いた大人の生活を築こうとしているのだ。ハイソな奥様風情がなかなか板に付いたオリヴィアだが、実は彼女はもともと庶民の未亡人で、以前は歯科医だった夫と一人息子と小さなアパートで暮らしている普通の奥さんだったのだ。

終戦の気配が見えてきた頃、カナダに学生疎開していた一人息子のマイケルがロンドンに戻ってくる。泣く泣くカナダにやったときは13歳だった マイケルも今やほぼ18歳になっている。そして戻ってきたマイケルは、なかなか母親の「今の状況」が飲み込めない。今のオリヴィアが政治家の愛人として囲われの身になっていると知ると、オリヴィアを挟んで息子と義理の父(になりたい男)の三角関係のコメディーが繰り広げられる。

母の転身に驚き、怒り、傷つき、ジョンに嫉妬するマイケルはハムレットよろしく混乱してみせる。一方ジョンには敵対心や、ましてやオリヴィアを権力で囲い者にしているというような意識は全くない。純粋に彼女とこれからの人生を共にしたいと思っているのだ。
この50近い男と18歳の若者のやり取りがおかしく、理想主義の左翼的なマイケルと実利的で保守派のジョンの意見の対立が最初のLess Than Kindに書かれていた政治的な要素なのだろう。ほどよく取り込んで二人の対立に拍車をかけている。

そして二人の間で引き裂かれそうになるオリヴィア。ジョンのことも息子のことも愛しているのに、相入れてくれない二人の間で右往左往する。さらにジョンと離婚協議中の妻、ダイアナまでが現れて余計にややこしく、、、このダイアナ、ジョンよりも20歳ほども年の離れた上流階級のお嬢さんで、どうやら本来ならいけ好かないタイプのはずなのに、マイケルはなぜか彼女に惹かれてしまう、、、??

結局ハムレットばりの苦悩をぶつけて母に詰め寄ったマイケルが勝利し、オリヴィアは身を切られる思いでジョンと別れ、マイケルと二人、元の安アパートに戻って質素な生活を始めるのだった。

が!?、それでは終わらない。二人のアパートにある日ジョンがやってくる。マイケルが出かけたのを見計らってオリヴィアに会いにきたのだ。そしてどうやらマイケルにも最近付き合ってる女の子がいるらしい。そして、マイケルの相手が実はダイアナだと判明、、、
初めは突っぱねていたマイケルだが、やがて母とジョンの関係を認めるべく、ジョンに歩み寄る。(どうやら、ダイアナにマイケルを誘惑するように頼んだのはジョン、、、??)最後には3人での新しい生活が始まりそう、というシーンで終わる。

母を巡って義理の父と息子の火花が散るというのは、ありそうであまりなかったかもしれない。人間の感情によるコメディーだ。人生で何を求めるのか、それがどうして許せないのか、正しいと思って前に進もうとするのに、過去の感情に罪の意識を感じたり、あるいはお金と地位以外に興味はなかったり、、、こういう本は時代に左右されずに受け入れられるのに、今まで上演されてこなかったのが不思議だ。

演出のTrever Nunnはイギリスでは最も幅広く舞台を作ってきた人だ。まだ20代の時にロイヤルシェイクスピアカンパニーの芸術監督になり20年以上RSCの顔だった。そのあとはナショナルシアターの芸術監督になり、イギリス演劇を代表する二つの大役を務めた人だ。古典だけでなく、「キャッツ」や「レミゼラブル」のようなミュージカルの演出も手がけ、今までにイギリスのローレンス•オリヴィエ賞やブロードウェイでのトニー賞をいくつも受賞している。 シェイクスピアに関しては、蜷川幸雄さんがあと3作、、で成し遂げられなかった37作全作品の演出を達成している。

新作ももちろんだけれど、こういった埋もれていた作品に目をつけて掘り出すというのは演出家としての目利きなのだろう。今現在も毎年数作品を演出している。

数人のカンパニーでの芝居は観やすい。オリヴィア役のEve Bestは賞もいくつも採っている女優さんだ。ハンサムで悩めるマイケルも、大人で物静かなのだけれどちょっと画策的なジョンも、あっけらかんとして深く考えていなさそうなダイアナも、それぞれの役がとてもわかり易い。日本で上演しても面白いんじゃないかな。シンプルだけど見応えがあって、やっぱり役者たちの技量がモノを言ってる。

考えて作られてるなあ〜〜と思わず唸っちゃうよね。 

ローゼンクランツとギルデンスターンは、、、なぜ、、死んだ?


久しぶりに観たRozencrantz and Guildenstern are dead。シェイクスピアの「ハムレット」では脇役のこの二人を主人公にしたハムレット•スピンオフとして有名なTom Stoppardの戯曲。
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ハムレットと幼少時代の友人なのだけれどホレイショーのように友情と信頼を寄せられているのではなく、国王にハムレットの監視役を命じられ、狂気を演じてイングランドへ送られることになったハムレットを共に船に乗る。けれどイングランド王が自分を殺すように仕向けた仇の叔父・国王の手紙を見たハムレットは内容を書き換え、代わりにローゼンクランツとギルデンスターンがイングランドで処刑されてしまう

ハムレットではほんの小さな役だが、私も以前思ったのだ、確かにこの二人はちょっとバカで論理的にも感情的にも地に足がついていない感じで、それがちゃっかり国王の手先(という自覚が本人達にはない)になってハムレットの行動を監視・報告する役目担ってしまうのだが、本人達にとってはハムレットの為を思っての事なのだ。悪気は全くないし、むしろ単純バカの典型のようなキャラクターだ。それなのになぜ、ハムレットは自分の代わりに彼らを処刑するようにとイングランド王に手紙を書いたのか、、殺さなくたって良かったじゃないか、、??

ローゼンクランツとギルデンスターンは舞台袖にいる。そう、彼らはなんだか舞台袖で出番を待っているエキストラ俳優ような感じだ。常に二人のたわいのない掛け合いが続く。彼らの周りでは大ドラマが繰り広げられていて、一国の宮廷にまつわる陰謀と復讐が織り成されているというのに、彼らは事の次第をきっちりと理解していなくて、コインを放って裏表を当てたり、話の進展の全くない言葉の掛け合いで会話したりしている。この、何も起こらない中で会話の応酬が続くあたりは、ベケットの「ゴドーを待ちながら」ともちょっと似ている、、、

「ハムレット」でも、ローゼンクランツとギルデンスターンは取り違えられがちだと解らせる場面がある。要するに、どっちがどっちでもあまり重要ではないような二人なのだ。背丈も見栄えもなんとなく似た感じの2人の役者がこの役を演じるのが常なのもその為だ。 こちらの本でも初めからなんども二人の名前がごっちゃになるので、はっきりとギルデンスターンがローゼンクランツを「ローゼンクランツ!」と呼ぶまで確信できない位だった。ちなみにこの二人は背丈が似ているのだが、他の出演者達よりも小さい。この「小さい二人」というのもなんとなくキャラクターを反映しているように見える。

でも確かにキャラクターには違いがある。ギルデンスターンの方がセリフが多く、なんとか筋道を立てようとあれこれ考えて喋っている。そしてローゼンクランツは合いの手を入れながらどんどんそれに乗っていくタイプだ。 相手の意見を覆すような討論じみた会話は一切無い。ハムレットのことも、アレヨアレヨというまに宮廷に呼び出されて、久しぶりに会ったのだが、特に命がけで友を守ろうというような熱い思いもないし、殺人騒ぎが起きても大した危機感も持っていない。ようは流れに乗っているのに周りの状況が把握できていないのだ。

それでもその表舞台の袖でひたすら無意味な会話の応酬を繰り返し、コインを放る姿はなんだか憎めないから不思議だ。

そしてこの芝居でもう一人、脇役から主役級に抜擢されているのが旅芸人たちの座長だ。ハムレットの劇中劇で前国王暗殺の様子を演じることになった旅役者一座。この一座と二人が宮廷に行く前に旅の途中で出会っていて、さらにはイングランド行きの船にも隠れて乗りこんでいうるという設定。座長は芸術と現実について語る。彼は舞台劇の核となるのは弁論技術はもちろんのこと、芝居で血が流れなければいけないと信じている。すべてのものは死につながるのだと。 
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あまりインパクトのあるキャラではない主役二人の代わりにこの座長役が多いに語る。そして二人はまたそれを袖で聞いていて流れに乗る、、ということの繰り返しだ。座長を演じたのはDavid Haig。古典劇からミュージカルまで幅広く活躍するベテランだ。私はThe Madness of  George III でこの人の国王を観た。演じる座長が主張する通り、セリフ術に長けた役者さんで、今回の役も(馬鹿馬鹿しい)説得力十分だった。コミカルで大げさで、愛嬌がある

ローゼンクランツはようやくハリー•ポッターから脱出した感じのダニエル•ラッドクリフ、ギルデンスターンはジョシュア•マグアイアー 。ダニエルは深く考えずに相槌を打つうちにどんどん流れに乗って行ってしまうローゼンクランツの能天気なキャラをユーモアラスに演じている。ギルデンスターンの方が先のことを考えて不安がったりするのだが、独白のようなセリフが上手い。この辺りは座長のいうレトロリックか。(チェックして観たらRADA出身の人だ)

クスクス笑ううちに、終盤ではこの二人の残酷な運命に気づかされる。ハムレットの原作では最後は「ローゼンクランツとギルデンスターンは死にました」という報告のセリフだけで終わってしまう二人の人生だが、最後にギルデンスターンは呟く、、「こうなる前に、どこかで、NOという機会があったんじゃないか、、??」 それでも運命の流れのままイングランドで待ち受ける死を受け入れてしまったらしい二人が哀れに思えてくる。そうだよ、殺さなくたって良かったんじゃないの?

こんな単純でお人よしの二人組を、仇の国王のパシリになったという事で殺すように仕向けたハムレット、、、この芝居を初めて観たのはかなり昔のことだけれど、これを観てからは「ハムレット」の見方が変わったのは確かだった。そしてこの二人とは大違いの信頼と愛情ををハムレットから 寄せられるホレイショーのことも、もっと深く見るようになったっけ。

でも、要するにNoと言うきっかけを逃してしまったのがいけなかったのだ。もっと周りで起こっていることに集中して目を凝らしていれば、異国の地で死ぬことはなかったのにね。原作のハムレットがシリアスなキャラクターだからこそこの二人組に意味があったとも言えるけれど。シェイクスピアがハムレットを書いた時には何を想定してこの役を作ったのか?もちろん当てて書いた役者がいたのだろう。似た者同士でみんなからちゃんと個人として見てもらえない二人の役者がいたのだろうか?でも「ハムレット」ではコメツキバッタほどのインパクトも無いような二人なんだけど、、、

ハムレットを全く知らないで見ると面白さは半減するけれど、これだけでも面白いセリフ劇だ。ボケとツッコミのような二人の延々と続く掛け合いは、テンポの良いリズミカルな演出で観客を引っ張る。 舞台袖を、さらに舞台裏から見ているような芝居。
やっぱり面白い

ワイルド!ワイルド!=The Wild Party


久しぶりのミュージカル。なんだか最近はミュージカルよりももっぱら芝居の方が面白くて、なかなか「観たい!」と思う ミュージカルに出会わなくなっている。今だってもちろんミュージカルも好きなのだけれど、なかなか新作でピンとくるものが少ないのだ。大掛かりな(いわゆる観光客がお土産に観にくるタイプのもの)舞台は再演ものがほとんどで、しかも異常なほど値段が高い 最近観たのはミュージカルでも小劇場ものが多い。
で、行って来ました。The Wild Party
-Photo-Credit-Scott-Rylander


原作は1928年にJoseph Moncure Marchという人が書いた物語詩で、ポエムの形で書かれたのだが、あまりにも過激な内容で、発禁処分になってしまったそうだ。この作品が2000年に、ほぼ同じ時期にブロードウェイとオフ•ブロードウェイで2つのミュージカル作品になって上演されている。今回ロンドンで初演となったのは、ブロードウェイで公開されたMichael John LaChiusaのヴァージョン。
クイーニーは、ブロンドの踊り子で 、パートナーのバーズは同じヴォードビルショウに出演している芸人だが、少しヴァイオレントで危険なタイプの男。クイーニーとも時々激しく争う関係だが、クイーニーはおそらくこういう少し乱暴で危険な男が好きなのだ、、、ある日、二人はお互いの関係をリフレッシュするためにも、久しぶりにワイルドなパーティーを開くことにする。
少しさわりを、、、


 

パーティーのゲストが次々とやってくる。 レズのストリッパーと彼女の新しい恋人で重度のモルヒネ中毒のサリー、sexは誰でも何でもOKでお金持ちのジャッキー、オスカーとフィルは近親相関風な怪しい仲良しの兄弟。プロデューサーとしてアップタウンへ行こうとしているユダヤ系の二人組、黒人ボクサーと白人妻、その妹のナディーンはブロンドに憧れる16歳、、、、
ワイルドなパーティーが始まり、みんなで浴びるように飲み、踊り、コカインを吸いまくって大盛り上がりだ。そこへクイーニーの長年のライバルでもあり親友でもあるケイトがジゴロのブラックという男を連れてやってくる。

ゲストの一人一人を紹介する形で、役者たちが交互に歌い踊る。とにかくタイトル通りのワイルドなパティーだ。乱痴気騒ぎとはまさにこのこと!役者たちは所狭しと歌い踊り、そのパワーがとにかく凄い
このThe Other Palaceという劇場は以前はSt.James Theatreと呼ばれていたのだが、最近ロイド•ウェバー氏が買い取り、創造的なミュージカルの発信地になるような場所にしたい、と再オープンした。このThe Wild Partyは新しくなったThe Other Palaceのこけら落とし公演となる。舞台は半プロセニアム型(=舞台から客席が階段状にせり上がっていく形)で、段差が高めなので、どこに座っても前の人の頭で舞台が遮られることがない。これは本当に見やすくてありがたい。客席数は300ちょっとで、舞台と客席が一体感を感じられる空間だ。役者たちのエネルギーが劇場全体の空気になって客席を包む。良い劇場だわ〜〜

主演のクイーニーを演じるフランセス•ルフェルを始め、役者たちの力量がめちゃくちゃ高い。どの役者も一流の演技者で、シンガーで、ダンサーだ。もともとブロードウェイ版を作った時に、最高の技量を持つ役者たちが集まる事を前提として企画したそうだ。

パーティーは派手に続く、、、、お酒とドラッグで日常の仮面が剥がれていくにつれ、あちらこちらで淫らな乱行が始まる。今欲しいものを目の前で捕まえて、誘い、奪い、ジンのお風呂にコカインを撒き散らし、ほとんどオージーパーティーだ。その結果、皆がパートナーと言い争いになり、嫉妬と激怒で怒鳴り合い・殴り合いになっていくのだ。最後にはsexだけでなく、本当にロマンチックな関係になりそうなクイーニーとブラックにキレたバーズがピストルを持ち出す••••

人間の仮面を引き剥がすような、スキャンダラスな話だ。パーティーに集まってきた、かなり変な人間達が、やがてお酒とドラッグで日常の関係とは全く違う関係に発展していってしまう。メチャクチャな乱痴気騒ぎのあとには、昨日とは違う現実が待っているような終わり方で、前半の汗が飛び散るようなパワーが、後半ではジワジワと心が寒くなるような怖い空気になっていく。人間って、、こんなに簡単に揺さぶられてしまうのか、、、??

パワフルで、セクシーで、スキャンダラスなミュージカル。上に貼ったビデオでも、雰囲気を感じていただけると思う。エネルギーをもらえる舞台は本当に良いね!それでいて人間の心の闇を少し覗いてきたような気分。スキャンダラスな舞台って、大好きだわ〜〜


 

Art - おじさん達の儚き友情


今年初の芝居は笑えるドラマで外れる確率の低いもの、、ということで楽しみにしていたのが、ヤスミナ•レザの「Art」。

ところが思いっきり予定外だったのが、ロンドン地下鉄のストライキ!今回は地下鉄のチケットオフィスのクローズや駅のスタッフ削減に反対しての大ストライキで、なんとロンドン中心部は全ての駅が閉まるという大掛かりなもの。ロンドンでの芝居、ほとんどの開演時間は7時半だ。6時に北ロンドンで仕事を終えて、いつもなら7時前にはウェストエンドに出て、軽くサンドイッチとコーヒーをとる時間もあるのだが、今度ばかりはやばい!!

少しでも早く、、でも早退は不可能ということで、とりあえず5:55の電車(地下鉄ではない)に乗れるように少しだけ早く上がらせてもらう事にした。ところが いつもの終点駅は閉まっているため、電車はキングス•クロスへ。キングスクロスは主要駅なので、もう駅の周りはバス待ちの人々で凄い事になっている、、、

なんとかバスに乗ったはいいけれど、道が全く進まない。本来なら10分ほどの所まで30分かかったところで、思い切ってバスを降りて走る事にした、、、直線で約800m程。Waterloo bridgeにかかるところで丁度劇場に一番近いところまで行くバスが来たので、再び飛び乗る。この時すでに開演12分前、、、バス停からまたも走って劇場に文字通り飛び込んだのが、7:29だったよ

全く、、今の職場に移ってからこの11年、ストとは無関係の生活だったので、久しぶりにえらい目にあったもんだ、、、よく10年以上もウェストエンドで仕事してたよなあ〜〜〜

さて、芝居の話。このArtはレザ女史の20年ほど前の作品。実はロンドンでも長い間上演されていてオリヴィエ賞も取った作品なのだけれど、私は初演の時には見ていなかった。なんでだろう、、?あの頃はあまりコメディー芝居に興味なかったのかな?レザ女子の芝居は「God of carnage」を初めて観て大好きになったので、今回は年の初めに楽しい芝居を、、と思っていた。
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男3人の芝居。3人ともおじさん。そのうちの一人=サージ(原作はフランス語なのでセルジュだと思うけど、英語だとサージ) が白い背景に白い線が描かれているだけの絵を10000ポンドで買ったことから、15年来の友人だった3人に亀裂がはいってしまう。その聞いたこともない画家の白+白の絵を観て、そんなお金を出す価値があるか、芸術として認める価値があるか、そしてその価値観の違いを正直に言い合う事がどう友人関係に影響するのか。言葉で言い合ううちにどんどん深みにハマってしまう可笑しさが見事なセリフで展開する。

仲の良い友人というのは、何が基準なのだろう、、?意見の食い違いから議論になった時に、どこまで相手の意見を聞いて認める事ができるか、そしてその時に感情的になって相手を非難し始めたらどうなってしまうのか、、 サージに絵を見せられたマークは思わず笑ってしまう。「これ、、?これに、、金を払ったわけじゃないよな、、?」と。そしてさらには、「こんなクソに10000ポンドも出したのか?」と今度は嘲笑してしまう。芸術審美眼のセンスを傷つけられたサージは「お前は芸術センスがないし、時々高みから見下ろすような態度をとるよな!」とやり返してしまう。

マークからサージの絵の事を聞かされていたアイヴァン(これも言語だとイヴァンだと思う)はいざその絵を見せられると、マークが取ったような反応もできず、かといって賞賛もできず、ただ「うん、、、うん、、、」とうなづいてしまう。アイヴァンは結婚を控えているのだが、伯父の文房具店の仕事を始めたばかりな事もあり、式の準備にストレスが募っている。アイヴァンにも婚約者のキャサリンにも、其々実母と養母がいて、式の招待状をお互いの2人の母親に出す/出さないで大もめになっているのだ。ところが
絵の事でギクシャクしている所なので、サージとマークもアイヴァンに親身になってあげられない。

意見・価値観の違いを本音で言い合う事が、相手を認めて思いやる気持ちを無くしてしまうなら、友情とは何なのか?子供の仲直りはおじさん達にはできなくなっているのか、、、自分の意見が違う時、どの程度まで言えば良いものなのか、、?

休憩無しの90分。笑いながらも考えるところがあり、3人の俳優達も素晴らしかったよ。ただ、サージ役のRufus Sewell氏の声が掠れていた、、潰れたのか、今大流行りの風邪か、、? でも声は少し掠れていても演技に影響していないところが凄いなあ。普通、声が掠れてると芝居も弱くなるから私はダメなんだけど、今回はサージが風邪をひいているのか、という感じで見る事が出来た。

言語からの翻訳はお馴染みのクリストファー•ハンプトン氏だ。彼の翻訳もリズムがあって良いんだよね。特にアイヴァンが4人の母への招待状のことでもめているストレスを吐き出す時の長台詞は観客から拍手が出た。役者のセリフの技術もだけど、本の巧さ=リズムの良さもあっての拍手だった。

終わったのは9時過ぎ。さすがにこの頃には道も空いていたので、帰りのバスは普通に乗れた。遠回りだけど、家まで1本で帰れる電車駅まで出ると、30分に1本の電車が1分前に出たところだった、、!!何も食べてなかったので、駅構内のWasabiという日本食のTake away屋でおにぎりを2個買って次の電車を待つ。

長い一日だったよ、、、、

Lunch and the Bow of Ulyssesー叙情的で挑戦的な台詞


案内のe-mailでこれを目にして、観る!と即決した。 
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まずはスティーヴン・バーコフの本である事、そして演出がナイジェル・ハーマン。

Steven Berkoff 氏は俳優として映画やテレビで悪役やちょっと癖のある役であちらこちらに出ているけれど、実は映像での彼を私は観た事が無い、か、出演作を観ていたとしても普通に見過ごしている、、、
私が彼を観たのは、彼が演出・ヘロデ王役だったオスカー・ワイルドの「サロメ」だった。台詞も動きもスローモーションなこのプロダクションは、それまでに何度か観た「サロメ」の中で、一番印象に残っている美しい舞台だった。冷え冷えとした空気が漂うような白い月の中で、台詞が美しく散りばめられていて、「こうなるのか!」と目を見開いて舞台に魅入っていた。その後も彼の演出、脚本の舞台をいくつか観て、鬼才=バーコフ氏のファンになった。彼の本なら面白いこと間違いない!

一方、今回の演出はNigel Harman、彼は元々子役出身でミュージカルにも出ている舞台畑の役者だ。でも彼の名前をお茶の間に広めたのは、何と言ってもBBCの看板ソープドラマ「Eastenders」だった。Eastendersを離れてからはまた舞台に戻り、Shrekというミュージカルでローレンス・オリヴィエ賞の助演男優賞を取った。ちなみにEastendersから卒業?していった俳優達が結局その後はほとんど名前も聞く事が無い中で、ここまで舞台で活躍している人はいない。その彼がバーコフ氏の本を演出するというのでとても興味が湧いた。

どんな芝居なのかは全く知らない。そして会場は劇場というより、スタジオだ。俳優が動ける距離は、幅7歩、奥行きは3歩(実際に確かめた)で、コの字に囲む客席は100席程の空間しかない。でもこういう身近な空間での芝居がまた私は好きだ。私が観た日はハロウィーンの月曜日という事もあってか、客数は40人程だったので、おそらく役者は観客一人一人の顔を意識していたと思う。

この芝居は実は2本の一幕ものが一つとして上演されている。どちらも45分程なので、これを一幕、2幕として上演していて休憩無しの90分だ。バーコフ氏は最初の「Lunch」を1983年に、2幕となる「The Bow of Ulysses」を2002年に執筆した。そして後者はまさにLunchの続編で二人の20年後を描いている。
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海辺のピアにあるベンチでランチタイムに偶然出会った男と女。男は彼女を一目見て強烈に惹かれる。なんとか話しかけようとしては怖じ気づき、でも頭には彼女を讃えるありとあらゆる形容詞が飛来して、長い独白で彼女への募る思いを吐く。やがてぎこちなくも話を始める初対面の二人。女の方は表面上は興味なさそうに男を観察しているが、やがて男が仕事でやりきれない思いを吐き出し始めると、少しずつ相手になる。出会った二人は見知らぬ同士のまま、やがて心の奥底にある闇のような思いをさらけ出し、ベンチで身体を合わせ、そして見知らぬ同士としてひと時の出会いに別れを告げる。

膨大な台詞の量だ。そして、とても叙情的でポエッティックで長い長い独白の応酬はシェイクスピアにも至適する。掛け合いではなく、当たり障りの無い会話の合間に胸の内の本音を長い台詞で描いて行く。凄い本だ。これだけの台詞で心のうち=本音を語るのは挑戦でもあり冒険だ。
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一幕の終わりではそれで分かれたと思った二人が、暗転して2幕になると、同じベンチに少しくたびれたレインコートを着て座っている。前半とは逆の位置に座った二人。1幕から20年が経っている。あの日から付き合い始めてこの20年を一緒に過ごしてきた同じ男と女が、この20年でどんなに二人の関係が失望し、疲れ果て、初めから間違っていたのではないかと、これまた膨大は独白台詞の応酬で語り合う。そこに描かれているのは、ごく普通にありそうな男女の苦しくても現実的な本音だ。生々しい言葉はリアリティーがある、だからこそ「それを言っちゃあ、、、」「そこまで言うか?」と思いつつも、観ていると心の内から裸にされるような奇妙なリアリティー。

リズミカルで詩的な台詞は美しく語られる。必ずしも言葉が奇麗なのではない。聞くに堪えないような単語が並んでいても語られる様が美しい。それはそこに現実があるからなのか、、、、まさにバーコフ氏が鬼才と呼ばれる所以か。「痛い」。耳にも胸にも痛い本音が延々と語られて、どんな大人でもなにかしら「まいったなあ〜〜、、」と思わずにはいられない。こんな本があったなんて・・・・

シェイクスピア張りの本もさることながら、演じる役者の力量には唸ってしまう。決して名の知られた役者ではない。でもこれだけの台詞をあんなにもリアリスティックに、20年という歳月の二人の関係を吐き出して語れるのは凄い事だ。たまに日本に帰った時に芝居を観ると、内容よりもやっぱり役者の技術的な力の差を感じてしまう。声、滑舌、呼吸、身体の動き、感情を微妙な空気で言葉に重ねて表現する技は、何が違うのだろう、、、訓練の仕方か?美しく書かれた叙情詩を、美しく観客の耳に届ける事がどれほど至難の技か・・・

ハーマン氏の演出は、この狭い空間の中、ベンチの周りで二人が語り合って、あるいは責め合って、そして挑発し合って、最後には絶望的な関係になっている様を最小限の動きで聞かせている。目の前にいる(まさに目の前だ)私たちは、二人の言い分をじっと聴き、時に笑い、共感し、そして一緒に失望していくのだ。

こんな芝居が観られるなんて、、、この本はほとんど上演される事の無い二つの一幕ものだけれど、芝居としては小さな宝石のような輝きがある。観た後になんだか「痛い所を突かれた」ようなちょっと気まずい気持ちで席を立つカップルが多いはず。この日の40人程の観客も年齢層は40~50代で、夫婦連れがほとんどだった。私もうちの彼と一緒じゃなくてよかったかも、と密かに思ってしまったよ、、、

芝居って、こういうものなんだよなあ〜〜、、と、ちょっとまた演ってみたくなってしまう舞台だった。






 

夏の夜の大道芸=「三文オペラ」


時差の関係で寝不足になりがちなリオ五輪も終わった〜〜。前回のロンドンからもう4年も経ったという事が信じられない。連日寝不足になりながら(日本はもっと大変だった?)も、チラチラといろんな競技を観た。今回のチームGBは、メダルテーブルでなんと 中国を抜いて2位

オリンピックってやっぱりその国の活躍選手を追いかけるので、日本選手達の活躍がなかなか観られなかったけれど、英国もメダルに関わった体操やテニス、陸上では日本の選手が観られた。今までいちどもちゃんと 観た事がなかったフィールドホッケーも初めて観たし。(イギリスが金)

さて、夏に芝居を観に行くのが楽しみなのは、ナショナルシアター(NT)。テムス沿いのサウスバンクになるNTだと幕間の時間にもまだ明るくて、テラスからテムズ沿いのロンドンが見渡せる。
今回は久しぶりの「三文オペラ」。

三文オペラは数年前に日本で宮本亜門氏演出の三上博史さんのヴァージョンを観て以来。ロンドンで最期に観たのはえ〜っと、、、94年、もう12年前かあ〜〜!!実はこの時のDonmar Warehouse のヴァージョンがとっても好きで、オリジナルキャストのCDもダウンロードしてよく聞いていたので、すっかり歌詞をこのヴァージョン で覚えていたのだけれど、実は「三文オペラ」の原語はドイツ語なので、英語での上演もプロダクションによって訳が違う。私が耳慣れている94年版はかなりストレートでちょっとお下品な部分もあるのだけれど、今回のはもうちょっとソフトで解り易くて、この演出に合っていた。

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全体のイメージとしては1920年代の大道芸という感じ。幕開けはブラスを中心にしたミュージシャン達が舞台の上で大道芸のように奏でるOvertureで始まる。役者とミュージシャンが入り交じっていて全体でのパフォーマンスという創りはなかなか良い。この戯曲のドイツでの初演は1928年なので、考えてみればこの空気が巧くはまるのも当然か。舞台装置もパネルや骨組みを巧く使って、完全に奇麗な絵としては仕上がっていない感があって、それが結構良い。NTに4つある劇場の中でも、このTheatre Olivierは舞台全体を2重に回せる装置があるのが特徴。それを巧く使っている
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こういう空気というか、匂いって結構好きだなあ。幕開けで言っているとおり、これはたかだか3文のCheapな芝居。ちなみに英語でCheapというのはただ値段が安いという意味だけでなく、質も安っぽいという意味合いがある安かろう悪かろう、がcheapなのだ。質が良いものが特別価格で安くなっている場合は、「It's cheap!」とは言わない方が良い。

日本語訳だとメッキー・メッサーだけれど、この名前、英語版ではあくまでも三文オペラのオリジナル=Begger's Operaのキャラクター、Macheath(マックヒース)で通っている。実はこの舞台、あまりマックが目立たない。というと語弊があるけれど、マック独りが主役という創りじゃないのだ。あくまでもざわついた大道芸、マック役はその中の一人。そしてこの役者がこのイメージには良いんだけど、私としてはマックにはもっとワルの色気が合って欲しいのだが・・・・魅力はあるんだけど、セクシーさがちょっと足りない?、、、、対して、色気があったのはタイガーブラウン。軍隊仲間だったマックになんとか情をかけてやりたいという男心が垣間見えて良かったなあ。

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今回のポリーはちょっとお固い秘書みたいな感じで、ピーチャムの娘としては堅物な感じ。でも本来の堅物が恋をすると突っ走っちゃうんだよね、、、、2幕での女二人の対決=ポリーとルーシーの歌合戦は、黒人女優(ルーシー)の大声量とポリーの高ソプラノで、拍手を取っていた。
キャストを見て気がついたのは、12年前に観たヴァージョンでポリー役をやっていた人が今回の舞台でジェニーを演じていた事。CDで聞いていたポリーでの声より12年経って、ぐっと大人な深みがあった。
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そういえば、前回日本で観たときの感想をもう一度読み返してみたけれど(こちら)、やっぱりどうしても日本人がやると匂ってくるようなセクシー感をなかなか出せないんだよね。だから亜門さんのあのブリブリなポリーやキティーちゃんの演出がとても日本っぽくて成り立っていたっけ。
映画、舞台でこの三文オペラも4−5回観たかな。いつも楽しみだけれど、この舞台も面白かったよ。1回休憩の3時間。個人的にはやっぱり12年前のTom Hollanderのマックに軍配が上がってしまうかなあ〜〜。これは歌唱力が大きいかも。セクシーなワルの魅力があったしね

オリンピックが終わって、次はパラリンピック。そうしたら夏も終わるなあ〜〜〜





 
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