見つけもの @ そこかしこ

ちょっと見つけて嬉しい事、そこら辺にあって感動したもの、大好きなもの、沢山あるよね。

カテゴリ: ロンドン演劇事情


久しぶりに日曜マチネ。場所がウェストエンドじゃないから、仕事の後にはなかなか行かれないので、このスタジオーMeniere Chocolate Factoryに行くときは日曜マチネが多い。そもそも日曜に上演している芝居はとても少ないので珍しいケースだが。

イギリスで愛される作家といえばシェイクスピアとジェーン•オースティン。オースティンの小説は6作しかないにもかかわらず、「高慢と偏見(Pride and Prejudice)」や「分別と多感(Sense and sensibility)」「エマ(Emma)」なんかは何度も映画やドラマになり、その度にキャストが話題になっている。彼女の作品は貴族ではない田舎の地主・有力者の家庭が主で、この「平民だけれどお金と教養があるGentry階級」の娘達の、貴族や将校達と結婚するまでを描いたものがほとんどだ。「誰に嫁ぐか」が大問題のお年頃の娘達の目を通して、いろんな男性像や周りの家族達の価値観等を面白おかしく描いている。


この「The Watsons」は比較的早い時期に描き始めた小説だが、なぜか未完のままオースティンは別の話を書き始め、とうとう書き上げる事は無かった作品だ。なぜ途中で打ち捨てられたのかはもちろん明確ではないけれど、だからこそこれに続きをつけた「完結版」と称する作品がたくさん書かれている。

予備知識なしで観たこの芝居、途中からの展開が予想外だった!

grace_molony_

軸になるのは田舎のジェントリー階級の「ワトソン家=題名のThe Watsons」の末娘、エマ。リッチな叔母の元で育てられたエマは他の姉達よりも良い環境で教育を受けてきた。その叔母が再婚するにあたって実家に戻されてきたのだ。父は病床にあって、姉のエリザベスが面倒を見ている。他の姉達にとっても、重要事項は「結婚」のこと。このエリアで一番の貴族「オズボーン家」のパーティーにやってきたエマは、そこでトム•マスグレイヴや牧師のMrハワード、そしてオズボーン家の若き当主、オズボーン等と出会う。 マスグレイヴは娘達の間で話題のいわゆる「たらし」!。自分こそが一番女にもてて当然、のような色気振りまき男。そして堅実で(聖職者だから)誠実な大人のハワード。オズボーン卿は若き当主だが思い切りぎこちなくてまともに女性と会話もできなそうなタイプ。でもこのパーティーでエマはそれぞれの男達に好印象を与えた模様。パーティーの翌日、エマの元にマスグレイヴがやってくるが、彼女は「たらし」には興味がない。続いてやってきたのが不器用なオズボーン卿。しどろもどろで、それでもありったけの勇気を振り絞ってエマに求婚の意想を伝える。

お城に住む貴族のオズボーン卿からの求婚にエマが「イエス」と答えようとしたその時、ワトソン家の若い召使の娘がストップをかける。ジェーン•オースティンの筆はこのプロポーズのあたりで止まっていて、ここからがこの芝居の始まりと言っていい。

召使の娘は実は現代のオースティン研究家のローラ(実際にこの芝居の台本を書いたのがLaura Wade)で、ローラはエマに「あなた達は実在の人間ではなく、書きかけの小説の登場人物にすぎない。この小説は終わりがなくて、でも作者が家族に話した粗筋ではあなたはオズボーン卿ではなくハワード氏と結婚することになっている」と語り出す。登場人物全員がその話を聞いて驚き、混乱し、不安になり、エマ達とローラの会話は現代と19世紀初めのギャップが炸裂する。
merlin_146366793_95c0d647-3f09-42ab-a12b-e5a2b7dc5567-superJumbo
初めはローラが主導権を握って残された資料に鏤められたオースティンの考えたプロットにみんなを引き込もうとするのだが、やがて終わりのないストーリーの中に放り込まれたキャラクター達は「私たちにだって意志がある。書き上げなかった作者の意向なんてどうでもいい」とばかりに反乱精神を起こす。筋書き通りにはならないぞ、と思い思いが勝手な行動に走るのだが、、、、

勝手に結末を付け加えるよりもずっと面白い手法で本が書かれている。放り出されたキャラクター達がどうするのか?ここまでしか描かれなかったキャラクター達が本当はどんな自分でいたいのか?

エマとローラはやがて終わりのないストーリーを繋げていく道を探し出す。

ローラ•ウェイドの本は個々のキャラクターが本の中と外でそれぞれに生かされていて、セリフもウィットに富んでいて笑いを誘う。オースティンが生きたのはもう200年前だ。その頃とは男女のあり方も結婚の仕方も違うとはいえ、どの時代にも属さない価値観の持ち方は今でも十分楽しめる。シェイクスピアが時代を超えて愛されているのも、人間の中身そのものに焦点を当てているからだ。

10人ほどのカンパニーというのもまとめやすいし、本のほとんどは創作なのに、どこかしらジェーン•オースティンらしくてとても楽しい作品だ。半分作者のオースティンは今ではこの国の紙幣(10ポンド札)に描かれている。これをローラがエマに見せるのも笑った!

ちなみにこのメニエールというスタジオはチョコレート工場をスタジオ劇場とレストランにした建物で、行く度に舞台の作り方が違う。客席が周りを囲む造りの時もあったし、スタジオならではの、変形舞台の時もあった。今回は劇場式の舞台の作りで、この狭い空間にそれでも客席400は作っていたかな、、、満杯の客席と舞台の距離感がすごく良くて、スタジオ劇場ならではの熱気で楽しかった。

ちょっとシリアスに考える場面もあったし、何より「これをどうやって収集つけるんだろう?」と思いながらずっと観ていられる。オースティンのように作家になろうと決めたエマはペンを取って自らの続きを書き始める、そしてその小説の主人公もまた作家になって新たなストーリーを、、、、未完の作品が永遠に続いていくのを予感させて静かに幕が閉じられた。

 


3ヶ月ぶりの芝居!! 日本行きで散財したのと、夏の間はあまりピンとくるものが無かったのでちょっと我慢していたけれど、秋にはいくつか観たいものがあって、まずは楽しみにしていたFlorian Zeller氏の新作、「The Son」。
DSC_1355
これはゼレール氏の「The Mother」「The Father」に次ぐ3作目という事になっているけれど、別にストーリーや人物設定に関係があるわけではない。あくまでもタイトルだけの話。前回に観た「The Height Of The Storm」では突然妻を無くした半分認知症の父と事後処理(家の売却と父の施設入り)にやってきた娘たちの話で、心に問いかける作品を打ち出した。それに続いて今回は作者自身がインタビューで「今回は、はっきりと言いたいことがあって書いた」と語っている。

両親が離婚した時期から少しずつ精神的に不安定になってしまった息子=ニコラス。閉じこもり、一人でぐるぐると歩き回ったり落書きしたり、そうかと思うといきなりキレたりという完全に鬱状態の彼を親として案じる両親。離婚の原因は夫のピエールに愛人ができたからで、結局妻と息子の元を去ってその愛人=ソフィアと再婚してしまったのだ。学校で問題を起こしたニコラスの事を相談しにピエールの元を訪ねた母親のアンは、親としての責任と一人では抱えきれない状況を訴える。
ソフィアも含めて話し合った結果、ニコラスはピエールとソフィアの所で暮らす事になり、学校も転校して新しい生活を始めてみる。 父親と暮らし、ソフィアとも少しずつ話をするようになっているかに見えても、ニコラスの心の病みは頑なに彼を支配している。一生懸命に両親やソフィアに取り繕うとしたこともあったが、転校以来実は一度も登校せず、毎日学校へ行くふりをしては時間を潰して帰ってきていたのだ。
DSC_1358
母親としてニコラスを守り、立ち直らせたいとは思うものの、自分も生活の為に仕事に出なくてはならず、一人では抱えきれずに苦しむアン、結婚していながらも、一人の男性としてソフィアを愛して新しい人生を選んだ事を正直に話して聞かせるピエール、父親の元愛人・現在の妻という立場に引け目を感じる事なく、素の自分でニコラスに接するソフィア。大人たちにも其々の考えや愛情の示し方があり、みんながそれなりにニコラスの事を何とかしてあげたいと思っているのはわかるのだが、ニコラスの病んだ心は癒えず、とうとう自殺を図ってしまう。
DSC_1357
 命を取り留め、病院で精神鑑定を受けたニコラスについて、精神科の医師ははっきりと「今家に帰すのは大変危険です」と告げる。時間をかけて、しっかりと治療をするのが先決だと。もしどうしても家に連れて帰るなら、「何があっても病院側は一切の責任を追いかねる」という書類にサインをしてもらいます、という医師の強い言葉を聞いて、アンもピエールも流石にまた自殺騒ぎを起こしてはいけないと、ニコラスに治療を受けるように説得しようとする。それに対してニコラスは子供のように必死に「家に帰りたい」と懇願する。「ここはみんながおかしいんだ、こんな所にいたら自分もおかしくなっちゃう、こんなところに僕をおいていかないで」と泣き叫ぶように哀願するニコラスに、心を鬼にして「ここに残って治療を受けるんだ」と突き放そうとするピエールとアンだったが、スタッフに押さえつけられ、まるで犯罪者が引き立てられるかのように病棟に連行されて行くニコラスの悲鳴のような叫びを聞いて、最後の最後でとうとう書類にサインをしてニコラスを家に引き取って帰ってくる。

久しぶりに親子3人で家にいる嬉しさを隠せないニコラスは、子供の頃の3人での思い出を話して少し落ち着いたかに見えたが、、、「お風呂に入ってくるね」と言って消えて行った浴室から、一発の銃声が、、、、、

大人たちに罪があるわけではない。父も母も、個人としての人生があり、責任があり、何よりも息子を愛している。それでも深い傷を負った子供の心は出口を見つけられずに苦しみ続けてしまう、、、、とても苦しい現実がある。助けたい、でもどうすればいいのか、助けたいという思いが気持ちでは届いていても救いにはなれない。

作者が言っていた「はっきりと言いたかった事」ではないかと思うセリフが後半にあった。精神科医が、ニコラスを病院に残すか家に連れて帰るか迷う両親にきっぱりと言った。「愛しているだけではダメなんです。=Love is not enough」。はっきりと心に残るセリフだった。心の病は病気であって、きちんと時間をかけて治療法を模索し、投薬やカウンセリング等、医学として必要な治療を施さなければ治せないのだ、と。劇中で何度も言われるセリフ、「It's going to be all right」でも決して大丈夫ではないのだという現実をひしひしと突きつける。

とても現実的で、日常的で、だからこそ考えている人たちにはっきりと苦しい現実を突きつけるような芝居だ。前作の「The Height of the storm」のような、見た人に考える余韻を与える作品と少し違って、厳しいインパクトがある。芝居の最期はもっと寂しい。息子を救えなかったピエールは少しずつ後悔と罪の意識に苛まれて、慰めるソフィアの腕の中で、彼自身も心を病み始めているのだ、、、、、

まだやっと40になったばかりのゼレール氏の筆の勢いは止まらない。翻訳はいつものクリストファー・ハンプトン氏。このコンビもすっかり定着した。そういえはハンプトン氏自身の書く芝居はなかなか新作が出ないなあ〜〜。翻訳もので忙しいのかな。
PhotoPictureResizer_190926_003511251_crop_2592x3961-1036x1583
すっかり名コンビになりつつあるお二人のツーショット。いつものように休憩なしの2時間そこそこの芝居。結末がキツイから、ちょっと苦しい感じも残ったけれどど、劇中のセリフの掛け合いは面白い。場面の終わりと次の場面の始まりが少しオーバーラップするような演出もスムーズで、大きな転換でなくても場面の切り替わりが繋がっていた。少ない登場人物の芝居は一人一人の比重がバランス良くて、見ている方も何かしら共感できる部分が必ずある。時代も国も関係なく上演できる芝居だからいろんな国で翻訳されるといいな。





 

ハロルド・ピンターの芝居を「ハロルド・ピンター劇場」でシリーズ上演している。観てきたのは 「Betrayal」。私は知らないのだけれど、主要キャストの一人は「アヴェンジャー」ものの映画で人気の人らしい。どうりで劇場は満杯、今回はサークル席の最前列を取ったのだけれど、見回すと後ろのギャラリーに立見が出ている。ああ、だからBox officeの前に長蛇の列ができてたんだね。「お客さま」が多いのかなあ〜??とちょっと不安。

主要キャストは3人。タイトルの Betrayal(裏切り)はこの比較的シンプルな芝居の中で多用に絡まってくる。まあ、簡単にいうとダブル不倫、いや、トリプル不倫というやつだ。
エマ(Zawe Ashton)とロバート(Tom Hiddleston)は夫婦で二人の子供もいる。そしてロバートの長年の親友、ジェリー(Charlie Cox)も家族もちで、お互いに長い友人関係を持っている。で、このジェリーとエマは7年間に渡る不倫関係を2年前に清算したのだが、今になって、ジェリーはエマからロバートと離婚することになったと聞かされる。

離婚の原因はロバートに何年も前から愛人がいたことが発覚したからなのだが、これをきかっけに、実はロバートはエマとジェリーの関係を4年も前から知っていたこと、ロバートが知っているという事を知っていたエマはそれをジェリーに話さなかったことが明かになる。

二人が深い関係になって、それをロバートが知ってから今まで知らぬ顔でジェリーと親友づきあいをしてきた様子、エマとジェリーの関係が少しずつ薄れていって終止符を打つ流れを時間を遡りながら台詞だけで見せていく。

methode-times-prod-web-bin-4fb17e18-45e7-11e9-924d-9729bcd51a7f

何もない舞台にあるのは二つの椅子だけ。これを回り舞台の構造をうまく生かして3人の微妙な心理のずれや表裏を表す演出がなかなか上手い。演出のジェイミー・ロイドの舞台は今までいくつか観たけれど、私の中で好き嫌いが二分されている。今回は本よりも演技よりも演出が光る。

台詞の中に絶妙な静止と静寂が随所にちりばめられている。台詞を畳み掛けるのではなく、返事を返すまでの少しの間にお互いの顔を見つめることで返事の一言の感情を何倍にも膨らませているのだ。この間の取り方が絶妙で、意味を持たせるギリギリのタイミングを維持しつつ、芝居のペースも崩さない。とてもデリケートな演出だ。

もう2年前に関係をやめたエマとジェリーが、久しぶりに飲みながら始まる開幕のシーンはぎこちなく、それでいてかつての親密さも隠せず、同じことを何度も聞いたり取り繕うとして見たり、、、、自分達がロバートを裏切っていたはずが、実はロバートもエマを何年も前から裏切っており、さらにロバートが二人の関係を知っている事をジェリーには知らせずにいたエマの裏切り。そして不倫を知っていながらジェリーと親友として振る舞ってきたロバートの仮面。遡る形で戻っていく過去のシーンは、「今思うと、、」という目線で見ることになるので、繊細な演技が求められる。ここでも抑えた言い回しやセリフの間の数秒の間合いが心理描写に効果的に使われている。

B-12

もう一つ、演出で目を引いたのが舞台の後ろに映る影だ。ほぼ白い空間なので3人の陰が後ろの壁に綺麗に映るのだが、そこでもまた見えない心のセリフが呟かれているかのような効果を出している。時々、写っている影は別の動きをしているんじゃないかと思わず錯覚してしまうような鮮明な影絵。
最近は小さい劇場だとサークル席の最前列というのが結構お気に入りだ。今回もサークル最前席だったので、舞台上の役者の姿と後ろの影が重ならないでちゃんと見えたので正解だった、2重の回り舞台を使っ手の、お互いが行き来したり交差したりする様子もサークル席からの方がよく見えた。

ハロルド•ピンターというとちょっとひねくれたような「不条理劇」に分類される作品も有名だけれど、映画の「日々の名残」(カズオ•イシグロ)や「フランス軍中尉の女」等の脚本も手がけていて、このBetrayalも7年間の3人の関係をとても繊細に書いている。もちろん会話上の掛け合いから生まれる言葉の面白さも充分あるので何気ない会話に笑いも起こる。

休憩なしの1時間半はちょっと疲れた土曜日の仕事の後にはちょうど良い。劇場を出たらまだ薄明るさが残っていた。結婚生活に幾つのBetrayalがあるのかは人それぞれだ。別に不倫だけの話じゃない。心のどこかで、きっとお互いに必ずあるはずのBetrayal。大人の芝居はいいなあ〜〜


Unknown

小さなスタジオでの小さな宝石のような芝居が好きで、最近はなんだかスタジオ式の劇場でばかり芝居を観ている気がする。
ピカデリーサーカスの一本裏通り、いかにもポッシュな紳士向け高級テイラーメイドの店が並ぶJermyn Streetにある劇場、多分普通に歩いていたら見過ごしてしまう。座席数70のスタジオだ。こんな小さなスタジオでの芝居なのに、大御所演出家のトレバー ナン氏の演出作が上演されるのがロンドンの面白い所。しかも今回の芝居は120年前に書かれたのに、一度も上演されなかった、まさに時代に埋もれていた本だという。

ストーリーは実は単純だ。まだ17歳の時に(おそらくは家同士の取り決めで)年上の作家である夫と結婚したアグネスは、画家として自立したい思いと自由を求めて家を捨て、今はデンマーク人の男友達でやはり画家のオットーと同居している。オットーとは今までは男女関係は持っていない様子、、、。最近になって彼女の元に届く手紙で彼女の様子がおかしいと気づいたオットーが事情を聞くと、アグネスはオットーに初めて自分が結婚している事、そして夫が毎日のように「戻って来るように」という手紙を執拗に送って来る事を打ち明ける。また、アグネスの事を慕う若いアレキサンダーも彼女との甘い時間を夢見て時おりやって来てはオットーを不機嫌にさせている。やがて彼女は夫の執拗な説得を振りきってオットーと供にフランスに移住する。そこでは二人は絵を描きながら「夫婦」として暮らしている。(法的にではないが)次第に男友達から恋人になったオットーとの関係にも変化が訪れ、アグネスは自分自身の人生を探そうと揺れる。そして今一度、自分の意思で新しいパートナー(アレキサンダー)を選んでオットーのもとから巣立っていく。

単純に会話が進んでいくのだけれど、重要なのは、この芝居が1900年に書かれたという事だ。まず、登場してすぐにアグネスはいわゆる上流家庭の女性だと分かる。それは彼女の物腰や何と言っても話し方だ。イギリスではその人の話す英語で家庭階級や教育の背景が解ってしまうのだ。絵の具で汚れていても、アグネスが「上流夫人」であることは明白で、一緒に暮らすアーティストのオットーとのバックグランドの差が少し見えるのだ。そして彼女に言い寄る年下の若いアレキサンダーも家庭環境は上流なようだ。

image


そんな背景が、語られなくとも会話しているだけで見えて来るのが面白い。夫がいるのに他の男と暮らしているという事が当時はどんなにスキャンダラスだったか、というところから成り立っている芝居だ。要するに、当時の女性の自立、というより男の所有物からの解放とでも言うべきか、自己と自由な恋愛を求めて歩いていく女性というのは今なら当たり前でも当時は大変な反社会的な存在だったのだ。

作者のHarley Granville-Barkerは1877年にロンドンで生まれている。キャリアとしてはまず役者として多くの作品に出演している。そして演出も手がけるようになり、シェイクスピアも何本も手がけている。戯曲も書くようになり、20世紀初頭のロンドン演劇界ではかなり斬新なアイデアで新しいタイプの演劇人として活躍していた。そんな彼が23歳の時に書いたこの芝居を、彼は一度も上演しなかった。むしろ残された手書きの原稿には「こんなのはゴミだ」と書きなぐってあったらしい。当時はイプセンが「人形の家」等で自立しようとする女性を描いて上演禁止になっていたのだから、この題材の芝居を彼が「成功するわけない」と思ったのも無理はない。

夫ある身で同じ画家の外国人(オットーはデンマーク人ということになっている)と暮らし、家に戻るようにという執拗な夫の誘いを振り切ってノルアンディーで夫婦(同様の)生活を始める二人。初めは同居人だったのが、ここから愛人に変わって行く。この関係の違いはやがてオットーとの生活にも影響して来る。「肉体的な男女の関係」というものが、台詞では現代劇のようにはっきりとは表現していないところがいかにも120年前の本だ。それでもアグネスは「そういった事」にも自分の生き方を見つけようとしているのだ。オットーと夫婦として暮らしながらも、彼が他の女性にキスをした事実を知り心が揺れるアグネス。

夫婦と愛人の、お互いに対する権利と規制はどこで決まるのか?まあ今でも議論のタネじゃないですか、身体の関係さえなければ浮気にならないのか、、、とか?。 アグネスは再び自分の人生を変える決意をする。ずっと年若いアレキサンダーと新たな道へ歩いて行くことにするのだ。愛しているのか好きなのかはよく解っていなくても、、、、
Unknown-1


単純なのだけれど、時代背景を考えてみると、今の時代にも変わらないものがある。舞台の広さは幅が歩いて7−8歩、奥行きは3歩も無いくらいの空間だ。役者の位置は絵を描いているカンバスの前と反対側の椅子、あるいはノルマンディーの部屋ではテーブルと周りの椅子だ。これだけの空間で2時間のセリフ劇の演出はやっぱりなかなか難しい。トレバー•ナン氏ならでは、か、、、、

実は見ていて本に書かれているのか、それともナン氏の演出なのか、分かりかねる部分も多い。どこまで作者が意図して描いた動きや設定なのか。ブリティッシュライブラリーで見つかったオリジナル原稿は鉛筆書きで、この上演に当たって戯曲家のRichard Nelsonが「Rivisor」としてクレジットされているので、手書きの原稿から書き起こしたのだろう。

登場人物5人の芝居。作者本人は「ゴミ」と思ったのかも知らないが、21世紀に観ても結構面白かった。ものすごく感動する、というような本ではないけれど、忘れられていた小さな宝石のような作品だ。実を言うともう少し広い舞台でもいいかも。せめてキャパ200くらいの、、、地味な作品だけれど、掘り出した価値があると思う。ナン氏の演出にも拍手。


待ってました!今一番旬なフランスの若手戯曲家、 Florian Zeller氏の新作。英語への翻訳はもうすっかりお馴染みのChristopher Hampton。これまでの彼の作品も全てハンプトン氏の英語台本だ。フランス語の原題は「Avant de S'envoler」、英語でのタイトルは「The Height of the storm」。前回見た彼の作品はシチュエーションとしてはコメディーな心理描写だったけれど、今回は少し違ったトーンだ。
the_height_of_the_storm-publicity_3-_h_2018_0

50年間連れ添った愛する連れ合いが突然いなくなってしまったら、、、、?

作家のアンドレの所に娘達がやってきて、色々なことを処理・整理しようとしている。アンドレはもう半分認知症が入っていて、時々訳のわからないことを言ったり物事の理解に苦しんだりしているのだが、そうかと思えば突然正気で話し出したりする。 

始まってすぐに「母=アンドレの妻、マデレーンが死んだ」という設定なのは明らかなのだが、アンドレの頭が混乱しているのと、娘が(おそらく心で)母と会話していたりする様子が出てくるのでちょっと「ん、、、?」 と思う事何度か、、、一時は死んでいるのはアンドレの方か、、?思ってしまうほど、そのあたりの微妙な持って行き方が巧い。会話を聞いていないとわからなくなるので観客はいやでも舞台に集中する。

売れっ子作家だったアンドレも今や年老いているので、マデレーンが色々な書類にまつわる仕事をこなしていたのだろう、それを久しぶりに実家にきた長女が整理しようとするのだが、これがなかなか大変だ。一方次女も得体の知れない彼氏(?)を呼ぶのだが、これがどうやら不動産屋で、娘たちはこの生まれ育った田舎の家を処分して,父を施設に入居させようとしているのだ、、、が、、、やはりそれがとても小出しにされている。

4405

父を傷つけないように施設行きを提案するのだが、アンドレは半分解っていない。アンドレとマデレーンが50年間添い続けた夫婦である様子や、母と娘たちとの関係がわかるようなシーンが、マデレーンが生きている場面として出てくる。これが最初はちょっと混乱するのだが、状況をはっきりつかめば解りやすい。突然居なくなる、、、それは突然の事故だったり心臓発作かも知れない、いつ誰に起こるか、本当は誰にもわからない現実だ。

私の伯母もシャキシャキとして元気な人だったのだが、ある日お風呂に入りに行ったきりバスルームから出てこなかった、、、私は日本でのお葬式には行かれなかったけれど、家のことを全て取り仕切っていたのはおばさんなので、従兄弟たちは残された伯父さんが着る喪服の場所がわからず、家中を探し回ったとか。 

アンドレを演じているのはイギリス(というよりウェールズ)のベテラン、ジョナサン•プライス。舞台、映画、ミュージカルと幅広く世界的に活躍している実力者だ。この現実と混乱の間を行き来するアンドレの演技は本当に素晴らしい。 じっと座って居てもかすかに震えている手や口元、かすれ声から怒鳴り声まで、見事に表現されていて、私は前から5列目で見て居たのだけれど、顔の皺まで演技しているのかと思ったほどだった!!

マデレーン役はDameの称号を持つEileen Atkins。ロンドンだけでなくブロードウェイでも何度もトニー賞の候補になったりイギリスでは ローレンス•オリヴィエ賞を数回受賞している。プライス氏と共にもう70代だ。この二人の共演という事で公演の情報を得てすぐにチケットを取っておいて本当に良かった。それでフローリアン•ゼレールの本なのだから贅沢な舞台だ。

とはいえ、上演時間は休憩無しの1時間20分。でもこういうドラマは一気に観られるのが良いね。それにしてもゼレール氏は本当に快進撃を続けているなあ〜〜この後の最新作(英語題はThe Son=息子)が今年パリで上演されて、イギリスでも来年には上演されることになりそうだ。彼の作品はThe Father, The Motherというのもあるので、次はThe Daughterか?? なあ〜〜んて、、、、 彼はまだ40にもなって居ない。そうだなあ、日本で野田秀樹さんが出てきた時みたいな感じなのかな?

状況を把握するのにちょっと頭を使いながら台詞を聞いていると、随所に面白い会話があって、重い場面なのにちょっと笑ってしまったりするセンスの良い本だ。考えてみたら誰でもいつかは遭遇することになるシチュエーションに、自分を妻としてみるか、娘としてみるか、夫としてみるか、、、観客にとっても 実は人ごとではない話だ。

観終わったあとに思わずじっと舞台を観ながら、今見たいろんな場面を考えてしまった。私の両親ももう来年には90になる。昔は遠くに思っていた「その時」も、実はいつ来てもおかしくない、、、良い芝居だった。フローリアン氏の次作も楽しみだわ。


役者がキレた!!

キャパ200のスタジオシアターで、3−4列ほどの客席がステージ空間を取り巻いている状態で、携帯が鳴る、、、最初は10回程して鳴りやんだのだが、流石に2回目の時には役者が芝居を止めて「頼むから携帯をチェックしてくれ!皆んな確認してしてくれよ、それまで待つから!!」と大声でで訴えたのだ。舞台と客席がとても身近な空間だからこその出来事に、客席からは「よく言った!」のかけ声と拍手が起こった。もちろん私も同意の拍手。当然だよね。

なんだかとってもリアリティーのある芝居を観てしまった。親子3人と若い愛人の4人芝居「Honour」

DnSnsISXsAAh9uI


シチュエーションは、いわゆる「よくある話」。32年間連れ添った夫婦で、特に夫婦仲に問題があるわけでも他に理由があるわけでもなく、単に50過ぎのおやじが老いらくの恋に走ってしまって家庭が崩壊してしまう、、、、、

人気ライター・コラムニストのジョージと妻のアナーは大学生の娘・ソフィーとなんの支障もなく愛し合って幸せな生活に満足している。ところがある日ジョージをインタビューしに来た若いライター志望のジャーナリスト、クローディアの出現で状況は一転してしまう。

ジョージのファンだという彼女は若く(まだ29)独立心があり積極的で、そんな彼女に50代半ばのジョージは若かりし日の情熱を呼び起こされて恋に走ってしまうのだ、、、、、

妻のアナーは元々才能のある詩人作家だったのだが、ジョージと結婚してからは家庭に入り、ひたすら妻として母として支えてきたのだった。

安定した平和な日々をひっくり返そうとするジョージにアナーは驚き、傷つき、そして怒りをぶちまける、、、「君に不満があるわけじゃない、でも無くしたものを取り戻したいんだ、それは、情熱だよ!」「じゃあ、情熱は愛なの!?」

新しい季節の突風のように自分の中に入り込んできたクローディアに、このまま老いるのではなくもう一度生きている情熱を取り戻したい、という実にクラシックな老いらくの恋、、、、

アナーは始めは信じられず、混乱し、そして傷つき悲しみ、それでも怒りを通り越して離婚が具体的になってくると、自身のこれからを考えければならなくなる。結婚前のアナーの作品の大ファンだというクローディアは、「彼と別れてまた素晴らしい本を書くことがあなたにはふさわしい」と持ちかける。

仲の良い両親の元で愛されて育ったソフィーは、よもや自分の両親が別れることになるとは思いもしなかった。しかも父の新しい愛人は自分と4ー5才しか違わないという、、、、クローディアに会いに行ったソフィーは、物事をクリアに見つめて迷わないクローディアに、自分の不安な気持ちを打ち明ける。「私をいつも愛して守ってくれていたものが壊れてしまう」

ひとつひとつの会話はとてもリアルで、見ているほうは随所でうなづいてしまう。この小屋はキャパ200のスタジオで、客席は舞台の4方をかこんで設置されている。とても身近な空間だ。今日の観客は9割り方が40代から60代のカップルという感じだ。32年経っていきなり違う人生を考えるという現実をリアルに理解できるのだろう。

クローディアは色仕掛けで誘惑するわけではなく、彼女自身もジョージに惹かれての事だったのだが、やがて彼女も気づくのだ。「自分は愛される事を愛しているのだ」と、、、

結局4人は別々に歩き出さなければならなくなる。でもみんな其々が前向きに。アナーはまた新しい本を書き、ソフィーの大学の卒業式にジョージと揃って出席する。今はよき友人として。

結婚して数十年も経つと確かにもう生活に大きな変化は望まなくなるのかもしれない。年齢と共に安定を求める、、?子供がいればなおさらだ。この作品のタイトルは「Honour」作者はオーストラリアの人だそうでスペルがイギリス式なのだが、妻の名前はHonor=アナーなのだ。実はプログラムを見るまで「Anna=アナ」だと思って聞いていた。

若いソフィー役の人以外の3人はみんなイギリスでの演劇賞を受賞したことのある実力派だ。そんな役者たちがこんな小さなスタジオシアターにいるというのがロンドンで芝居を観る特権なのだが、リアルな会話が時に可笑しく、時に悲しく、時は考えさせられてしまう。本が書かれたのは90年代とのことだけれど、こういうテーマは時代を選ばない。

最初に書いた携帯事件はジョージが娘に自分の気持ちを説明しようとするシーンで起きた。並んで話し出した所で2度目の携帯音が聞こえて、流石にこの後の感情的なシーンに集中したかったのだろう。時間をにしたらほんの30秒ほどだったけれど、すぐに何事もなかったように芝居を続けた。休憩後、2幕の前に舞台監督から確認の注意があって、2幕は事なきで進んだ。

私にとってもなんだか考えてしまう芝居だった。今の人生でこのままでいいのか、、、??今から新しい自分を生きたいと思ってしまうことも現実にはあるよね。人生が半分を過ぎたのだと思うとよけいに、、、こんな芝居を見て、わけもなく「別れよう」なんて思ってしまう人もいるのかもしれない。(私だけか、、??)

「愛している」ってどういう事なのか、、、そこにあるもの、与えるもの、見つけるもの、包まれるもの、奪うもの、無くすもの、

まあ、長年夫婦をやってる人なら誰でも多少は思ってるんじゃないかな、
あ〜〜、一人になりたい!! って、、、、??



79歳のイアン•マッケラン氏のリア王の舞台は是非見ておきたいと思ったのだが、そうなのだ、「リア王」は長い、、、開演時間が7時。私の仕事は6時までだが、時間きっちりに終わることはあまり無く、都心に出るには45~50分、いつもの7時半開演の芝居なら、なんとかコーヒーとサンドイッチくらいはお腹に詰め込んで行かれるのだが••••• 

躊躇している間にもチェックするたびにチケットはどんどん無くなっていくし、「どうしようかな」と思っていたら、またシアターライヴでやるという。家の近くのシネマだと、帰りも楽だし、本当は劇場で観たかったけれど、一歩譲ってシネマライヴのチケットを取った。

images

「リア王」と言えば、数ヶ月前にBBCがアントニー•ホプキンス氏でテレビ版を放映していたのが記憶に新しく、比べてみるのも面白いと思っていた。そのブログ記事はこちらへどうぞ

今回の演出は元々Chechesterという地方都市のキャパ300の劇場での上演用として創られたので、ロンドンに持って来る際に、大降りにならないように留意したのだそうだ。上演されているDuke of Yorkは小ぶりな劇場だから、その意図は十分生かされていると思う。シアターライヴで何が良いかというと、役者の表情をアップで見る事ができる。反対に、あまりにカメラの寄りが多いと、「もっと舞台全体が観たい」とも思うのだが。

ケント役に女性を持ってきたのは変わっていた。そしてケントが変装してリアに付き添う際には思いっきりのアイリッシュアクセントになっている。ケントと三女のコーディリアが話の初めてでリア王の逆鱗に触れて「縁切り」の目にあうのだが、コーディリアのキャスティングだけが、どうもなんと無くしっくりこなかった。他の2人の娘も、グロースター、その息子のエドガーとエドモンドもすごく良かったので、余計に気になってしまった。

2014

今回コーディリアを演じたのは黒人の女優さんだ。こちらでは最近は肌の色に関係なく、黒人の役者達の普通にあちこちに配役されている。「家族だろう!?」と突っ込みたくなる事もあるのだけれど、親子、兄弟でもブラックの役者さんが配役されていることはままある。

演技的にはもちろん何も問題ないし、気にならない事の方が多いのだが、今回のこの女優さんは、話し方と首の振りにとても癖があって、それが気になってしまった。いわゆる「黒人訛り」と言えばいいのか、、、目をつぶっても「黒人だ」とわかってしまう滑舌なのだ。顎の骨格なのか、歯並びなのかはわからないけれど、すぐに解る。そして一生懸命話そうとするからか、首を振りながらセリフを粒立てようとしてしまうので、これが演技を邪魔してしまう。すごく気になってしまった。黒人でも普通に滑らかに話す役者もたくさんいるし、むしろロンドンの舞台ではそれが基準だったので、ちょっと驚いた。

それにしてもイアン•マッケラン氏は本当にプロ中のプロだと改めて凄いなと思ってしまった。もちろん彼はリアを何度も演じているし、まるで「もうセリフなんて体に染み付いています」という感じの自然さでシェイクスピアのセリフを紡ぐ。声も息も、そして目の動きまで、ちゃんと解って演じている感じだ。

48a604baefc9d8038bc1116d4d14caf2


愛嬌のある役者さんなので、くるくると動く目だけでセリフが何倍にも膨らむ。巧いよ、、本当に名優だ。雨のシーンでは全身ずぶ濡れになって上着だけでなく中のシャツまでびしょ濡れだった。79歳で舞台に立ってこんなシーンを物ともせずにやり過ごす体力はすごい。そうだ、蜷川さんの最後のハムレットでクローディアスを演じた時の平幹二朗さんの時もそう思った。役者は体力勝負。頭も身体も声も揃っていなくては舞台には立てない。

1680


やっぱり劇場で観たかったなあ〜〜、でもそれでも観られて良かった。そのうち日本でも上映されるようだったら是非おすすめです。

さーて、いよいよ明日1日働けば日曜の朝には機上の人となる!!
でも、、、台風がやばい!本当にやばいことになってるよ、、、羽田に着くのが1日の朝7時の予定なのだが、台風真っ最中じゃないのか、、、ちゃんと降りられるんだろうか、ドキドキです。



 


あまりに暑くて地下鉄でロンドン市内に出るなんて自殺行為に等しかったので、芝居を観るのも久しぶりな気がする。実はあまりピンとくるものがなくて、イマイチ躊躇していた。Broadwayで絶賛されたThe king and I(王様と私)もパレディアムで上演中だけれど、最近は大ぶりなミュージカルに食指が動かなくなっている。渡辺謙さんが大健闘して賞賛を浴びているのも知ってるけれど、もう3回は観ているプロダクションなもので、、、、、、

で、今回行ったのは、Finsbury Parkにある Park Theatreの小さい方。まだ新しいこの小劇場はキャパ200のPark200とキャパ90のPark90の2つのスタジオ式の劇場だ。前に行ったのはオートンの「Loot」をPark200の方で観た。今回はPark90の方だ。休憩込みでも2時間ほどの「Spiral

キャストは4人、そして観客は数えたところきっちり30人で幕をあける。席は自由で、最前列に座っても良かったんだけど、なんだか役者がよろけたら足を踏まれそうな感じなので、2列目に座る。 
トムとジルの中年夫婦は、数ヶ月前に15歳の一人娘が行方不明になってしまい、家出なのか、事故なのか、事件なのかも分からずに苦しい日々を過ごしている。娘の事を知りたいと、トムは娘の友人だった高校生女子を順番に呼んで話を聞こうとしたところが、「未成年女子に性的興味を示した」容疑で訴えられてしまう。もちろんトムにはそんなつもりは全くないのだが、世間の関心がそんな噂を立て始めると、妻であるジルも疑心暗鬼になっているのだ。純粋にティーンエイジャーの娘を思うトムは、制服姿で会ってくれるようにという要望でエスコート嬢のリーアを雇う。

エスコートガールというのはまあ行ってみれば娼婦なのだけれど、ただベッドで相手をするというのではなく、例えば一緒に観劇や食事に行ったり、パーティーや 集まりでパートナーとして同伴したりという仕事も含めて時間と自分を売る女性たちの事だ。リーアとトムはただ会って話をするうちにお互いに誠意を感じて打ち解け合うようになる。もちろん性的な関係は一切無く、親子ほどの年の差の友人のような関係だ。リーアにはヒモ兼彼氏のマークがいるのだが、これが完全に支配欲の塊のような男で、独占欲と支配欲で彼女を縛り付けているような関係だ。時には暴力も。愛情の影に常につきまとう脅迫と恐怖。

すっかりトムのことが信用できなくなってしまったジルと、執拗にリーアを監視してトムの事を突き止め、嫉妬で怒り狂うマーク、そんな中でひたすら友情を貫くリーアとトム、、、、やがてリーアの妊娠が分かる事で展開が変わる。


身近にいる、愛している人を信じられなくなってしまったら?、、、、娘の蒸発に端を発した疑心暗鬼。そもそもこの娘は家出だったのか、事件だったのか?、、、、途中、警察から身元不明の遺体発見の知らせを受けたジルはそれが娘では無かったと知って泣き崩れる。 怯えながらもマークから離れられないリーアは「家庭内暴力から逃げられない女」の典型だし、マークは本当に見ていて怖くなるくらいにリーアを心理的に縛り付けるのが上手い、、、この芝居で一番パワフルな役だ。巧かったし怖かったわ〜〜!リーアをマークから助けてやろうと、トムは別居を決意したジルが去った家に彼女を匿ってやる。でもリーアの携帯に追跡アプリを忍ばせておいたマークはトムの家に侵入して、リーアを脅す。

そこでリーアが妊娠していることがわかるのだが、マークはリーアの子供の父親はトムだと思い込んで無理やり薬を飲ませて流産させようとする。このシーンの残酷極まりないマークの演技には心底怖くなったし、怒りが湧いた。上手いよ〜〜!
そしてこの時初めてリーアは本気でマークに逆襲し、婦人救済所に逃げ込んでマークとの関係を断ち切るのだ。最後まで友人として彼女をマンチェスターまで送ってやるトム。

数ヶ月のち、すべての疑惑がクリアになって訴えをすべて取り下げられたトムとジルは再び夫婦として出直そうと暮らしている、臨月近くになったリーアを友人として訪ねるトム、「もうマークとは完全に切れて、どこにいるのかも知らないわ」というリーアはお腹をさすりながら、穏やかな陽だまりの中で、トムと友人としてのひと時を過ごす、という暖かいシーンで終わったのが救いだった。

信じるという尺度はあるのだろうか、「ここまでは信じる」という基準は決められるのだろうか?初めから信じようともしない人にどうしたら話を聞いてもらえるのか?真実を言う勇気がない人の言葉は「嘘」と決めつけていいのだろうか?小ぶりながらも現実的でパワフルな芝居。

この本を書いたのはリーアを演じているAbigale Hoodで、マーク役のKevin Thomlinsonは演出にも携わっている。UKでの行方不明者は若者に多い。家出をしてしまって戻ってこなかった人たち、家族は生きているのか、死んでいるのか、分からないままに長い長い年月を過ごさなくてはならない。身元不明の遺体が出るたびに心が凍りつき、似た人を見かけると 取り乱し、、、、そんな中、リーア役のAbigaleがこの芝居を書くきっかけになったのは、ローカル新聞のMissing Peopleのコラムにある親御さんからのメッセージが載っていたのを見たことだという。「早く帰ってきて」「一度でいいから連絡を」というメッセージが並ぶ中にあった一文、

「愛しいスティーヴン、愛していますよ、あなたがいなくて寂しいです。どうかあなたが自分の探しているものを見つけることができますように」

どうやって、自分の息子は自分の望む人生を探しに出かけたのだ、というポジティブな考えに至ることができたのか、、?それともただの強がりなのか?そんな思いからこの芝居の案が生まれたのだという。
 
こういう芝居が好きだなあ〜〜 


ほとんど忘れかけてた!っていう位に久しぶりのフランス古典喜劇!! そうだよ、モリエールがいたじゃないか!、、、、、
iconsquare1382315287-124962-Tartuffe

初めはタイトルの「Tautuffe」 を見てもピンとこなくて、その下にMoliereという名を見てやっと、「あ! タルチュフだ〜〜!」と気づいた。モリエールの喜劇なんて、本当にもう30年以上観ていなかった。久しぶりに嬉しくなって、速攻で何もチェックせずにチケットを取った。前の日になって、帰りの電車の時間が気になったので終演時間を確認しようとしたところ、「バイリンガル•プロダクション」と記事に書かれてあって、「??」と思ったのだった。

モリエールは17世紀のフランスで活躍した劇作家。彼の劇団は旅公演だけでなく、王侯貴族たちからも援助を受け、社会風刺の効いた喜劇で人気を博していた。丁度太陽王、ルイ14世の時代だ。モリエールの喜劇は、同時代のラシーヌのようなギリシャ悲劇を元にした古典劇に比べると、題材が人間本来の感情や思考による間違いや勘違い等での面白さなので、時代にとらわれずに楽しめる。

今回のプロダクションも時代は現代のロサンゼルスという事になっているらしい。そして、本当に英語とフランス語がゴッチャに入り混じってのバイリンガル劇になっている、、、、しょっぱなから聞こえてきたのはフランス語の掛け合い。え、、?と思って見回すと、舞台上部、左右、そして前方の床の左右、と、5箇所の字幕スクリーンがある。こういう場合はサークル席とかの方が舞台と一緒に字幕も視界に入るのだけれど、私のいるストール(一階席)のしかも前方(つまりはものすごく良席)だと字幕を見るためには顔を背けなくちゃならない。せっかく良いテンポの芝居なのに、字幕追いが大変で、「これで最後まで持つのか、、?」と不安になった。

資産家のオルゴンとその母親は友人のタルチュフの事を善良で信心深い、人類の見本のような人物だと崇めている。オルゴンは彼を自分の家に泊めて、なんとか彼を見習って自分も立派な信心深い人間になりたいと思っているのだが、実はタルチュフの本性は偽善者そのもの、自分を信じきっているオルゴンを利用しようとしているに過ぎない。オルゴンの周りの人たち、妻のエルミールや息子のダミス、義兄のクレアント達はタルチュフの胡散臭さをなんとなく見抜いていて、オルゴンに忠告しようとするのだが、オルゴンは一向に耳を貸さない。そして、既に恋人ヴァレールとの婚約が決まっていた娘のマリアンヌを婚約解消してタルチュフに嫁がせようと考える。父にヴァレールではなくタルチュフと結婚するようにと言われたマリアンヌは、父には逆らうべきではないという自分の忠実な娘としての立場から反論できずにいる。マリアンヌの侍女のドリアンヌはもっと自分の意見を主張するべきだとマリアンヌを諭すのだが、とうとうマリアンヌに泣きつかれて彼女の味方になると約束する。マリアンヌの兄のダミスは、タルチュフが密かに母=オルゴンの妻であるエルミールに言い寄っているのを聞きつけ、なんとか父にタルチュフの本性を知らせようとするのだが、オルゴンは一向に息子の言葉を信じないばかりか、逆に信仰を逆手にとって、「自分は罪深い人間だ、許してくれ」というタルチュフにますます肩入れしてしまう。なんとかしてタルチュフの本性を暴こうとエルミールは自らタルチュフに誘いをかけ、自分にいいよる悪党の顔をしたタルチュフの姿を夫に見せる。家族一丸となってタルチュフの本性を暴き、流石のオルゴンも自分の盲目的な思い込みから目がさめる。ところが、マリアンヌと結婚させて、タルチュフに家屋敷と財産を譲ろうとしていたオルゴンは全ての書類が入った鞄がタルチュフの手に渡ってしまった事に気づいて愕然とする、、、、、

The-cast-of-Tartuffe-Photo-Helen-Maybanks-181

父に反抗できずにいるマリアンヌは当時(17世紀)の父親の家庭内での権力を示している。その後に、恋人のヴァレーヌと愛し合っているのに喧嘩になってしまったり、ダミスが必死に本当の事を告げて忠告しているのに、信じないばかりか逆に息子を勘当してしまうオルゴンのバカっぷりは本当に笑える。

それにしてもなぜ2ヶ国語なのか、本当によく分からない。英語部分の翻訳はお馴染みのクリストファー•ハンプトン氏だ。それも、キャラクターによってとか、場面によってというのではなく、普通の掛け合いの途中でいきなりフランス語と英語がシフトするのだから、なかなかついていくのが大変だった。

でも不思議なことに、意味はわからないのに、フランス語の台詞が耳に心地よい、、、おそらくあの時代の作品だから、シェイクスピアの英語と同じように、フランス語の台詞もリズムがあって書かれているのだろう。おまけに役者達は本当に良い芝居をしているので、字幕を見るのがもったいなかった。役者達はイギリス人、フランス人と混ざっているし、中の数人は実際にバイリンガルのようだ。

知らなくて得したのは、ちょうど今BBCでシリーズ3を放映中のドラマ「ベルサイユ」でルイ14世を演じているジョージ•ブラグデンがダミス役で出ていた事だ。3年前から始まったシリーズ物の「ベルサイユ」の大ファンで、「レ•ミゼラブル」の映画にも出ていたジョージのルイ14世をみて「一度舞台でもみてみたい人だな」と思っていたので。彼は子供の頃にフランスの学校に行っていたバイリンガルアクターだ。「ベルサイユ」のドラマは全て英語だけれど、制作はカナダ・フランスなので、インタビューなんかではかなりフランス語でも喋っていたっけ。

ドリアーンとオルゴンの母・ペルネル夫人を演じている2人のフランス人の女優さんが素晴らしい。そしてタルチュフ役のポール•アンダーソンは初めはアメリカ人の役者かと思った。ちょっと鼻にかかった投げやりな感じのロサンゼルスアクセントが偽善者の悪党ぶりを見事に表していて、決して攻撃的じゃないのに、「この悪党!」と思ってしまう憎らしさ!役者自身はイギリス人で、ちょっと驚いた。

最後はオリジナルから現代に変えていて、タルチュフを逮捕するのは国王ではなく、ドナルド•トランプというのがご愛嬌。
実はこの芝居、敬虔なキリスト教信者に見せかけた偽善者という設定から、当時の反宗教的要素を監視していた団体から圧力をかけられ、ベルサイユ宮殿で初演されたものの、その後、国王ルイ14世から上演禁止を命じられてしまう。(これは5年間で解かれている)

なんだか昔劇団時代に上演したフランス喜劇を思い出した。コメディー•フランセーズのレパートリーになっているジョルジュ•フェドーの喜劇達。笑いのテンポがやっぱりモリエールあたりが基本になっていたのだなあとちょっと思った。2ヶ国語ゴッチャの珍しい芝居だったけれど、それがなんだか耳に心地よくて楽しめたのだからまあ、成功していたと言っていいのかな。

でも次回はやっぱり全部分かる言葉で観たいなあ〜〜









 


BBCがまたも素晴らしく見応えのある番組を創ってくれましたよ!!
少し前からアントニー•ホプキンズのリア王の宣伝をしていたので、これは観なければ!と録画しておいた。

まずチームが素晴らしい。リアにアントニー•ホプキンズ、長女のゴネリルにエマ•トンプソン、次女のリーガンはエミリー•ワトソン、とまさに実力派揃い。おまけに脇を固めるグロスターに名ベテラン脇役のジム•ブロードベント、ケント役にはこれまたお馴染みのジム•カーター、そして何とエドガー役には「シャーロック」でのモリアーティー役の怪演が大インパクトだったアンドリュー•スコットという豪華顔ぶれ。

テレビ用脚本と演出はリチャード•エアー氏で、今回のヴァージョンはテレビドラマらしく2時間にまとめられている。シェイクスピアは舞台作品でも演出によって様々だ。現代を設定にしたものも多いけれど、やっぱりオリジナルのセリフが持つ古典のリズムを壊さないように設定を変えるのは演出家の腕次第だ。
背景は現代そのままで、ロンドンの夜景からロンドン塔=軍の司令部にカメラが移り、リアを取り巻く兵士たちも迷彩服にベレーで軍靴を響かせている。

リア王というと、領地を分け与える娘達に「自分を喜ばせる賛辞の言葉をより上手く言えたものから領地をやろう」と言われて、お世辞タラタラの挙句に後で父親を見捨てる上二人の娘と、お世辞を言えずに父を怒らせて勘当されてしまった末娘の真の愛情、みたいな部分が先行するけれど、この芝居はそれだけではない。兄を陥れてのし上がろうとする野心家のエドモンドは、結局リアの上の娘二人とも両天秤にかけるという悪党キャラだ。そして弟に陥れられた兄のエドガーは気がふれた男のふりをしてリアと出会い、また後には目の言えなくなった父親と再会する。

そう言えば、80年代の黒澤明監督の作品「乱」はこのリア王をモチーフにして、イギリスでも大絶賛された。私がロンドンの映画館で観たときも、終わりに拍手が沸き起こって、「映画館で拍手」というのは初めてだったのでびっくりした。

今回はシェイクスピアもリア王も知らない現代の若者がたまたまテレビを付けたらドラマをやっていたので観た、という流れでも十分楽しめるドラマになっている。老いて少しボケ始めた独裁的なおじいちゃんを当てはめても良い。平気で親を見捨てる家庭の絆の薄さ、兄弟でありながら兄を蹴落として自分を引き上げてもらおうという身勝手な若者、それらの構図は本当に何百年経っても変わらないのだ。改めて、シェイクスピアという人の人間を観察して描き出す筆の力は凄い、と痛感する。 

それにしても80歳になったホプキンズ氏の重厚な演技の素晴らしいこと。凛と響く声も鋭い眼力も健在だ。重いだけでなく、コーディリアと和解するあたりはそても柔らかく、 狂いかけて、スーパーのカートにゴミを山積みにして引き廻すあたりの力を抜いた演技も的確だ。

端折っているシーンもあったのだけれど、観ていてほとんど気にならなかった。(エドガーとグロスターのシーンがもう少し欲しかったけど)グロスターの目をくり抜くシーンは本当に目を覆いたくなるようなリアリティーがあり、エドモンドを挟んでのゴネリルとリーガンのビッチな火花のちらし合いもさすがはベテラン女優お二人。

まず、ホプキンズ氏の年齢を考えたら、もうこんなキャストでこんなドラマって作れないんじゃないか、、とさえ思ってしまった。2−3年前にやっぱりテレビ版で放映された「The Dresser」というドラマで、イアン•マッケルンとアントニー•ホプキンスがダブル主演していた時もそう思って、ドラマの質の高さに感動したのだけれど、、、、偶然か、今年の夏からマッケルン氏も舞台でリア王をやる。彼も79歳だ。

考えてみたら、私がずっと尊敬しているイギリスの名優達はみんなもう80代になっている、、、機会があるうちに是非観ておかなくては。

 

↑このページのトップヘ