見つけもの @ そこかしこ

ちょっと見つけて嬉しい事、そこら辺にあって感動したもの、大好きなもの、沢山あるよね。

カテゴリ: 舞台・芝居全般


いや〜〜、しつこいのなんのって!!
今回の風邪、丸2週間も経つのにまだくすぶってる・・・熱が出たわけでもないのに、体力消耗で毎日帰宅後はソファーで布団かぶってカウチポテト。おかげで、最近あんまり観なかったテレビを観っぱなし。ネットしてるとテレビを観ないし、テレビの前で寝そべってるとネットをしない・・・というわけで、あっという間の1週間だった。

それでも風邪をおして観てきました「The Tempest」。

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シェイクスピアの最期の戯曲とされているこの作品は、本でも読んでたし映画版では観た事あったけれど、実は舞台で観たのは始めてだ。Ralph Fiennes=レイフ・ファインズのプロスペローは楽しみにしていた。シェクスピア劇もいろんなパターンの演出があって、すっかり現代風の衣装やセットになっていたり、逆にセットらしいものに凝らずに空間劇にしてみたり、とプロダクションによって様々だけれど、私としてはやっぱりオリジナルの時代背景をなるべく壊さない演出が好きだ。

今回の演出はシェイクスピア演出の大御所=トレバー・ナン氏なので、オーソドックスなものになるだろうとは思っていたけれど、すごく丁度良い感じ。というのは、重厚過ぎず、それでいて魔法のくだりも大仕掛けでなく、自然に入っていける。このHaymarketという劇場は奥行きが深い。宙づりやリボンアクロバットを多く使って、仕掛けによる壮大さよりもダンサー達の身体の動きで魔法を表現する演出は芝居を観客の手から離れてしまわない距離に留めている

以前観た「The Road of the Rings」なんかは大掛かりな特殊効果/仕掛けで完全に舞台をスペクタクルなものにしてしまっていたけれど、シェイクスピアの時代の泥臭さを残しているあたりがトレバー・ナンらしい。実際シェイクスピアの時代に演じられた時は今のような舞台仕掛けは無かっただろうから、様々な魔法の場面も観客のイマジネーションによる所が大きかったのだろう。ポエティックな台詞はそのイマジネーションを呼び起こすために書かれたのだから、、、

弟の裏切りによってミラノを追われた元大公のプロスペローは、かろうじて流れ着いた無人島で娘と暮らしながら、魔術の研究をしている。12年後、ナポリ王=アロンソや自分を追放して大公の座に付いた弟=アントーニオ達を乗せた船が航海中と知ると、空気を司る妖精アリエルを使って大嵐を起こさせる。遭難した船からバラバラに島に辿り着いた一行は、陰謀、恋、反逆を企てながら、アリエルや、以前に島を支配していた魔女の息子のキャリバンの導きで、やがてプロスペローの元へ集まってくる事になる。

この一行のグループ分けが、アロンソ、アントーニオ達の暗殺/地位略奪計画組、アロンソの息子=ナポリ王子のフェルディナンドとプロスペローの娘=ミランダの恋物語、キャリバンの、道化達をそそのかしてのプロスペローへの復讐という3つのプロットが交互に進行していく。最期にはプロスペローは弟達を許し、娘とフェルディナンドとの結婚を祝福し、観客の拍手によって魂の呪縛から解き放たれていく。


この時代、魔術や呪術といったものは危険な存在だった。魔法術を研究しているだけでも逮捕されたり死刑になったりしたというのに、この芝居では生身の人間であるプロスペローが学問として身につけた魔術を大っぴらに使っている。妖精のアリエルを忠実な下僕とし、魔女の息子で元々はプロスペローに魔法を教えたキャリバンを奴隷として支配している。それでも芝居はあくまでもロマンティックコメディーで、プロスペローの使う魔法も決して悪魔的なものではない。研究家達の中には、このテンペストという芝居には裏の隠された意図やメッセージがあり、シェイクスピアが秘密結社のメンバーだったという説がまことしやかにささやかれている。それでもこのマジカルな世界をあくまでも人間的なものに創り上げたシャイクスピアの手腕はさすがだ

妖精やマジシャンならなんでもできそうなのに、アリエルもキャリバンもプロスペローの支配下にいる。それでいてボスに不満を持つ平社員よろしく、陰でぶつぶつと不満もたれているのだ。今までの人生で生身の人間は父とキャラバンしか見た事がないミランダは、若くハンサムな王子フェルディナンドと出会うなりあっという間に恋に落ちてしまう。道化が登場するコミックシーンだけでなく、随所にユーモアが溢れていて、おどろおどろしさは全く無い。

50代に入ったRalph Fiennesのプロスペローは思ったよりも土臭くて温かみがあった。若い頃の彼は金髪とガラスのような青い目がどことなく冷えた感じを出していたのだけれど、最近は深みが出て来たなあ〜〜。長年の孤島での暮らしでボロボロではあるけれど、それでも前ミラノ大公というノーブルな気品をちゃんと保っている。魔術を研究/信仰する中でも人として/父として地に足が付いているのだ。
レイフはこの前に観た「The god of Carnage」では現代の仕事マンだったけれど、彼はちょっと重い役が似合う。オイディプスも凄く良かったし、やっぱり彼の声は劇場で聴くのがいいなあ〜。彼の舞台声がとても好きなので・・・これは映画じゃ解らない

余談ですが、The god of Carnage、ローマン・ポランスキー監督で映画になったそうで、もうすぐ公開。ケイト・ウィンスレットとジョディー・フォスターが母親2人をやってるそうな。映画版のタイトルはCarnageだそう。数日前にケイトがインタビュー番組に出ていてクリップも紹介されたけど、う〜〜ん、アメリカン・コメディー路線になっちゃったのかなあ??ポランスキー監督は大好きなんだけど、ちょっと印象が違ったような・・・

テンペストは本当はもっと上演されてもいいんじゃないかって思う。こんなに面白い芝居だったんだ・・・というのが率直な感想。もっといろんなヴァージョンが観てみたい。役柄もバラエティーに富んでるからどのシーンも飽きがこないしね。役者としてはどの役でもやり甲斐があると思う。若手もベテランも揃って楽しめるはず。このプロダクションでは妖精にダンサーを数名投入して躍動感を出していたけれど、シェイクスピアという人はやっぱり役者を愛して芝居を書いた人なんだなあ〜・・・。

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2ヶ月振りの芝居はArnold wesker(アーノルド・ウェスカー)の「The Kitchen」。人気レストランの厨房での1日に焦点を当てた1959年の作品だ。NT(ナショナルシアター)での作品はほとんどハズレがないので楽しみにしていた。(前回のがちょっとハズレだったから、、?)

この「キッチン」、現代風にアレンジしてあるかと思ったけれど、舞台全体に作られた厨房は昔ながらの旧式のガス台やオーヴンが並んでいる。朝出勤してきたスタッフがすべてのガス台とオーヴンに火を入れるところからこのレストラン、Tivoliでの1日が始まる。厨房スタッフやポーター、ウェイトレス総勢30人のキャラクターがまるでオーケストラのように働く。コック達はそれぞれ持ち場が決まっていて、肉、魚、揚げ物、グリル、ブッフェ、デザート等、芝居の中で自分が作っている料理をマイムで表現していく。これは見事にリアルだ。初めは実際に料理するのかとおもったけれど、そうなると多人数に加えて食材なんかでごちゃごちゃになるのだろう。もしかしたら、料理して行く過程は役者がマイムで演じる、というのは演出より台本指定なのかな、、? 卵を割って、泡立てて、だんだんそれが硬くなって重くなって行く様子が、腕の微妙な力の入れ具合でちゃんと表現されている

1幕の前半はみんなランチの仕込みをしながら、昨夜の仲間内での喧嘩の真偽を話合う。働いているスタッフ達は多国籍。この前半の流れの中で、彼等の国籍や、誰が仲が良くて、誰と誰がいがみ合っていてだれが恋人同士なのか、、というような事が観客に解るようになっている。ドイツ人、ギリシャ人、トルコ人、イタリア人、外国人役の役者達はみんなそれなりのアクセントで英語を話す。これもまた凄くリアル。舞台にいる役者達は常に10~15人だけれど、会話の中心が移動すると、そのキャラクター以外はスローモーションやストップモーションになるので、観客が会話の流れを聞き逃さないように演出されている。1幕後半は修羅場と化したランチタイムの喧騒をこれまたオーケストラのような振り付けで30人の役者を見事にさばいている

2幕は地獄のランチタイムが終って、ディナータイムまでのつかの間のブレイク。外に出て行ってしまった人も多い中、数人が厨房に残って夜の仕込みをしたり、ただギターを弾いてくつろいだり、つかの間でも寝ようとしたりしてる。短気でけんか腰のドイツ人ペーターは、この毎日繰り替えされるレストランでの日々に、刑務所に捕われているようなプレッシャーを感じているのだ。「お前達の夢はなんだ?」と同僚達に問いかける。

ある朝仕事に来てみたらこのキッチンが無くなってるんだ、、さあ、お前ならどうする? 何がしたい?

けれどペーター自身も含めて、誰もこの問いかけに自信を持って答えられるものはいない。イギリスでは仕事仲間はcolleague, 何度が会った事がある知り合いはacquaintanceと呼び、friend=友達とは区別する。毎日朝 から夜遅くまでランチとディナーの2回戦を戦う厨房仲間は「友達」ではないという感覚だ。じゃあ、同僚は友達にはなれないのか?、、、もちろんそれだって ありだ。でもよく考えたら、同僚達がどんな夢を持って生きているのかなんて何も知らなかったのだ。このペーターはウェイトレスのひとりと不倫関係にあり、2人の間もちょっとぎくしゃくしている。

ちょっと時代としては古いかもしれないけれど、この芝居の根底にある社会背景というのは今のイギリスにも充分通用する。戦後15年程のイギリスという設定だけれど、ちょうど旧大英帝国の名残で、各国からの移民が急激に増えた時代でもある。「お前ら、ここはイギリスだ!英語を話せ!!」と怒鳴られる。オーナーもヘッドシェフもスタッフ達を信頼していない。この信頼関係の溝は働く者達にとっての不必要なフレッシャーにもなるのだ。増え続ける外国人、不況での高い失業率、日々の仕事の繰り返しで息つく間もない生活、知り合い以上で友達になれない職場の人間関係、それらの大いなるプレッシャーがひしひしと募っていく現実は、今のイギリスにもそのまま当てはまる

朝から夜まで動けなくなるまで働く、キッチンという狭い舞台での話、でもここだけの話ではないのだ、というリアルさ。2幕でのペーターは、溜まりに溜った日々のプレッシャーにとうとう切れて爆発してしまう。それでも現実にはスタッフが一人クビになるだけの事なのか、、、?あまりにも何だか理不尽だ。ラストシーンで、包丁を振りかざす騒ぎを起こしたペーターにオーナーは詰め寄る。

俺はお前達に仕事を与え、良い給料を払っている。それ以外に何が要るっていうんだ? まだ望むものがあるのか?いったい何があるって言うんだ!?」 ペーターが答えを叫ぶ直前に舞台は暗転してしまう・・・

この芝居、確か数年前に蜷川さんの演出に成宮寛貴さんのペーターで上演されたと思ったけど、これって日本でやって解るんだろうか、、、?それとも演出で根底にある社会背景は抜きにして、殺人的に忙しいレストランの厨房での人間関係、みたいな芝居にしたんだろうか・・・? 30人の役者達のオーケストラで踊るような振り付けが素晴らしかった。ハチャメチャに早く忙しくバタバタしてるのに、混乱はなく見事に揃った舞台

今回プログラムで面白かったのは、役者達の経歴の部分に、レストラン/カフェで働いた経験の有無が載っていた事。短い人は1ヶ月のマクドナルド、ウェイター/ウィエトレス、キッチンで働いた人から、コルドン・ブリューのディプロマを持っている人まで! なんと30人中18人がケータリングの経験有りという事。ちなみに演出家も。まあ、役者でケータリングのアルバイト経験が無い人のほうが少ないだろうねえ〜〜


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大劇場のミュージカルもロンドンの目玉だけれど、最近はむしろ「面白い芝居」を観たい。もしロッタリーチケットが当たればもう週に2回くらいは芝居を観て歩く生活をしたいものだけれど、現実はそうはいかない。なんたってお高いのよ! せいぜい月に1本が良い所なので、どうしても厳選してしまう。レビューはかなり参考にはなるけれど、やっぱり当たり外れは観てみないと解らない。新作の本ならなおさらだ。

Bette and Joan」、これは戦前のハリウッドを代表する2大スター、ベティ・デイヴィスジョーン・クロフォードの事だ。育った背景や4度の結婚、同時期に銀幕のスターとなり、共にアカデミー賞を穫る等共通点があるにもかかわらず、性格的には全く相容れず犬猿の仲だったというこの2大女優が、50代になって初めて競演する事になった映画での楽屋話。上演されているのはWestEndの中でもスタジオタイプの小劇場、Arts Theatre。最近はこういった小空間劇場で面白い芝居に出会う事が多い。

ポーズを取って完璧な魅力をカメラに向ける事が第一、というタイプのジョーンは、撮影所での日課も規則正しく、すべて優雅に美しく、ファンにはにこやかに、スタッフにもねぎらいの言葉を忘れない。一方10代の頃から女優になるべく野心を燃やし、ブロードウェイでデビューした後にハリウッドに渡って映画女優になったベティは、むき出しの演技力こそが女優の力と信じておべっかをつかわず、感情の振り子に素直になってありのままの飾らない自分で勝負するタイプ

当然の結果が2人のライバルにさえならない敵対意識。ジョーンにとってベティは「下品で、我が儘で、機嫌が悪いとあいさつもろくにしないあばずれ」そしてベティにとってジョーンは「演技の勉強もろくにした事がない、見てくれだけのポーズ屋。皆に良い子ぶる態度がすこぶる不愉快」という事なのだ。ところが2人共もう50代で、最近はハリウッドももっと若い女優達に注目が移り、さすがに落ち目という現実から脱皮するためにとうとう長年拒んでいた「競演」を果たす事になったのだ。撮影所の楽屋でそれぞれが自分を自画自賛して相手をこき下ろす独白台詞の応酬で芝居は進んで行く。実際当時のこの2人の犬猿ぶりは有名で、撮影中の不協和音もかなり聞こえていたらしい

演じているのはグレタ・スカッキ(Greta Scacchi)アニタ・ドブソン(Anita Dobson)。グレタの事は日本でも知られているだろうか?80年代後半から90年代にかけていろんな映画に出ていたけれど・・・「推定無罪=Presumed Innocent」とか「ジェファーソン・イン・パリ=Jefferson in Paris」とか「エマ=Emma」とか、、?実は私は当時の彼女がとても好きだった。役者としてというより、イタリアとイギリスのハーフで目のパッチリとした顔立ちがスクリーン向きで可愛かったし、何といっても身体が綺麗だった!! 彼女はいろんな映画で結構惜しげもなく脱いでいたので、いつも「綺麗だなあ〜」とうらやましいというか、憧れというか、、そんな思いで観ていたっけ。

アニタの事はおそらく日本ではほとんど知る人はいないかも・・・彼女は80年代半ばに始まって今なお人気を誇るBBCの看板ソープドラマ、「EastEnders」(東ロンドンのイーストエンドの一角に住む人々)でパブのランドレディー役で80年代に人気者になった。今でもアニタ・ドブソンといえばイギリスに住む人にとっては役名の「アンジー」で認識される。プライベートではバンドQUEENのギターリスト、ブライアン・メイ氏の奥さんなので、そういった方が解り易い人もいるかも・・・ 「イーストエンダーズ」以来、他ではほとんど大きな仕事は聞こえてこないけれど、私は以前に彼女を舞台で2度観ている。

こういう構成でのプロダクションの場合、当然「ベティとジョーン」「グレタとアニタ」という2組の対比を考えないわけにはいかない。ともすると、本の台詞と同様に実際に演じている女優達の間にも火花がバチバチ・・! という事にもなり易いと思うのだけれど、これがうまくかわされている。本としては確かに面白い独白/台詞の掛け合いがあり、ユーモアと皮肉もたっぷりで笑い処も多い。でも全体的に軽めに抑えているような感じだ。本来この2人は子供の頃から育った家庭環境が不幸だったり、愛した男性と結ばれないかと思えば4度も結婚したり、一世を風靡した時期が去って主演としての価値も下がり始めている時期で、その辺の心の闇や痛みを後半でもっと引き出す事も可能だった。

でもanton Burge氏の台本は、その「奥底の痛み」をちょっと浮き出させて観客に解らせる程度で収まっている。これが芝居としてちょっと物足りないと感じるか、重くなりすぎないと取るかが微妙な所。私はギリギリ後者として成功していると思った。2つの相反するキャラクターをコミカルに描く事で、演じている2人の女優達をBette and Joanに被らせないですんでいる。アニタとグレタはひたすらベティとジョーンをそのイメージ通り(伝説の通り)に演じる事に集中していて、お互いの間に苦々しい火花はない。むしろ本来仲良しの2人の女優が犬猿の仲をコミカルに演じているという印象だ

左が映画撮影当時のベティとジョーン 右が今回のポスター写真のアニタとグレタ
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大嫌いな相手の事をず〜っと悪口を言ったり、いやみを言ったりするちょっとBitchyな気分の良さ。そういう意味ではもちろん2人ともお互いに負けては いない。それにしても、、グレタの体型の変化はかなりのショックだったわ! 以前は憧れた彼女も50歳。さすがにおばさん体型で顔もっぽっちゃり・・・アニ タがまた痛々しい程に痩せっぽちだから、余計にグレタがデカく見えちゃって、、、しばらくショックから醒めなかったわ〜〜、、、でもベティ・デイヴィスに そっくりだった

50代以降の女優2人が楽しんで演じられる芝居だ。日曜マチネに丁度良い・・・



リリアン・ヘルマンという人の戯曲「子供の時間」の事は役者をやっていた頃に知っていた。けれど上演されたものは舞台も映画も観た事がなかった。2人の女性教師が経営する寄宿制女子校が舞台で、子供の嘘によって大人達の人生が崩壊していくという怖〜〜い話なのだ、、という事が頭に残っていた

今年の初芝居はこのリリアン・ヘルマンの「The Children's Hour」を楽しみにしていた。2人の女性教師はキーラ・ナイトリー(Kiera Knightley)とエリザベス・モス(Elizabeth Moss) この2人の名前と顔が宣伝用にはもっぱら使われているけれど、影の主役はこの2人を崩壊させる病的な嘘つき少女だ。

カレン(キーラ・ナイトリー)とマーサ(エリザベス・モス)は2人でプライベートな寄宿女学校を開き、学校の経営も軌道にのってきた所。学校では少女達を寄宿制で預かり、勉学と作法を教えている。カレンには長年の婚約者で医者の=ジョーがいて、彼の仕事も軌道に乗って来たのでいよいよ結婚という所まで話が煮詰まっている

少女達というのはなんだろう、、時々とても残酷で胸が悪くなるくらいbitchyな所がある。私は男女共学校の出身だけれど、どうしても女の子達のグループというのが嫌いで、いつも男子達と一緒にいた。この芝居の序盤でも、少女達のイノセントな好奇心と同時に、相手を探っては弱みを突くというすごく「いやらしい」特性が見事に芝居に現れていて、見ていて気分が悪くなりそうだった。私は共学校に行った事を本当に感謝している。女の子同士という事で考えれば、誰にでも思い出があるような、「そうそう、女の子ってこうだよね」とうなづいてしまう自然なノリであり、空気であり、、、それは私にもとても納得できるものだし、だからこそ笑える部分も多いのだけれど、私は好きじゃない空気なのだ。でもこの序盤がすごく生きていて、この中で、友情という仮面の下にある、計算や支配欲や駆け引きが見事に表現されている

病的な嘘つき娘、メアリーを演じているのはBryony Hannahという女優さんで、この人がもうゾッとする程巧い!! SICKなのだ。大人達にはすぐに嘘だと解る事を必死になってまくしたてる。嘘だといわれても絶対に屈しない。全身全霊で嘘をつき、それを自分にとっての真実にしてしまう・・・ 見ていると、ひっぱたいてやりたくなるのだけれど、それが本当に病的で凄いものがある。女優さん自身の年齢がわからないカンジだ。他の生徒役の人達はやっぱり20歳そこそこといったところか、、、でも彼女は、10代にもみえるし、そうかと思うと30代かもしれない、、、とも思える。実際は26歳だそうで、プログラムを見てみるとRADA出身の人だ。やっぱりね、、、巧いよ。キーラとエリザベスがハリウッド映画やアメリカのTVドラマで文字通り「スター」なのに対して、この全く無名のブリオニーは、なんと6年前まで地元のパブでバーメイドをしていたのだそうだ

立ち姿からして病的なカンジだ。屈折している。身体も表情も言う事も・・・
それでいて大好きなお祖母様には甘え上手。必死で嘘を訴える一途さと、友人を脅して口裏を合わさせる悪魔的な強引さ。美しく化粧していかにもスター的な2人の教師役とは全く逆の、地を這うような演技力だ。公演のポスターの2人がマネキンなら、このメアリーは泥人形といったところか・・・ところが、1幕ではほとんど舞台をさらっている。この病的な嘘の演技があるからこそ、2幕の、すべてを失ってしまった大人達の空虚さが浮き出て来る。

私も子供の頃は結構嘘をついた。親にはすぐ見破られているのに、それでも自分ではそれが真実だと真剣に思いながら「神様に誓って」嘘をついた。(おお、、今思えばなんと畏れ知らずな、、、神よ、お許しを!)これは本当に大人達をイライラさせたみたいで、それをどこか醒めた自分が見計らいながら彼等の反応を伺って、逃げ切る道を探しているのだ。だからああいう必死の嘘つきのする事はよくわかる。自分の心と身体が「これは本当だ」と信じて本気でぶつける嘘。それでいて醒めた目で計算している、、って、これぞ演技の原点なのだ。嘘つきは役者の始まり

少女がついた究極の悪意ある嘘は、学校を経営する2人の女教師が同性愛の関係にあるというスキャンダルだった。時代背景は1930年代。アメリカの地方にある小さなブライベートの寄宿女子学校。なんといっても学校の評判がものをいう。今とは違ってレズピアンなんてもってのほか、、しかも教育者が!! 2人がやっと築いた学校は閉鎖に追い込まれ、カレンとジョーの関係も、、、

そして100%嘘だった筈なのに、ここにきて、マーサはカレンへの今まで隠し続けてきた同性愛の感情を告白する、、、2人の関係は全くなかったとはいえ、マーサの告白に動揺しながらも受け入れられないカレン。とうとうマーサは自ら命を絶ってしまう。その後になって、孫のついた嘘を信じて学校を告発したメアリーの祖母が、あれは嘘だったという事を知り、2人を訪ねて来るが既にマーサは自殺してしまった後の事。一人で取り残されたカレンは今までの怒りとやり切れなさを爆発させるが・・・

ポスターのスター女優2人が目当ててこの芝居に来た人が大半だろう中で、メアリー役のブリオニーはもちろん、その祖母役のEllen Burstynだって、アメリカではアカデミー賞、ゴールデングローブ賞、舞台でトニー賞とすべて取っているベテランだ。(なんと〜〜!あのオリジナル「エクソシスト」のお母さんではないですか!!)他の共演者達も強力だ。役者達は英国、アメリカ、オーストラリアの役者さんもいて、本はとってもアメリカっぽいのだけれどそのミックス感が良い。

見ごたえあった、、!
本としては好きな芝居ではないけれど、これは強力なチームですよ、、、

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久しぶりで日曜マチネの芝居を観て来た。何度も言いますが基本的にこちらの劇場は日曜日はお休み。でも観光客が入りそうなミュージカルの一部を中心に日曜日にマチネ公演を行っている芝居も最近はちらほら出てきている。もちろんまだまだ少数だけれど。

さて、またしてもフランス革命がらみ。この繋がりはなんだろうね。この芝居は日本ではあまり上演されていないんじゃないかな、「Danton's Death=ダントンの死」ジョルジュ・ダントンの最後の数カ月の話だ。

フランス革命初期から活躍し、革命政府の一主導者として新しいフランスを創る情熱に燃えていたダントンは、だんだん革命が「恐怖政治」化していって、どんどん血なまぐさい姿になって行く事に疑問を持ち始める。時のリーダーであるロベスピエールは混乱の時代に「恐怖政治の必要性」を主張し、情け容赦なく反抗する者達をギロチンに送る。そしてその矛先は同志として革命に命を捧げてきたダントンにも向けられる事になる

志を同じくして来た筈の仲間同士で次第に意見がすれ違っていく不安定な時代、自分の意見を主張するためには嘘の罪状を造り上げても平気なロベスピエールと、無用な流血に疑問を持ち、自分達のやり方が正しいかどうかを自問するダントン。ロベスピエール派にはサン・ジュスト、ダントン派にはカミーユ・デムーランがつき、後半は裁判でのパワフルな演説合戦となる

実際のダントンは非常に大声の持ち主で、雷が落ちるごとく雄弁を振るったと言われているが、この芝居においても役者達(ダントンのみならず、ロベスピエールもサン・ジュストも)の見事に嵐のような演説/台詞合戦が堪能できる

今の時代だって、政治家の言う事なんておよそ真実じゃない事が多い。それでも彼等は言葉巧みに、声色豊かに聴く人達を説得するべく話術を駆使する。ストーリーとしてはある時代のある一時期だけのものなので、フランス革命が血塗られていった経過をある程度知っていないと解り難いかもしれない。でもこの本が書かれたのは、1834年という事で、まだフランス革命はヨーロッパの人々の記憶に生々しく、余計な事を説明する必要はなかったのだろう

舞台はシンプルで余計なセットや道具は殆ど無い。役者達の台詞にすべてがかかってると言って良い。「新しい国をつくるのだ」という使命感に燃えた若者達の情熱、それがたとえ主張は違っても、命をかけるという炎のような思いに違いはない。「自分達のしている事は本当に正しいやり方か」という自分に対する問いかけに苦悩するダントンと、そんな自問すらしないロベルピエールの対比は僅か2時間弱のこの芝居の緊張感を引っ張る

この本を書いたゲオルグ・ビューヒナーは当時わずか21歳。彼自身も革命思想のためにお尋ね者になっていたという。確かに芝居には若さ故のエネルギーと、時代を変えるという夢、理想、そして現実が詰まっている。もちろんこれだけではないのだろうけれど、この芝居に於いてはロベスピエール&サン・ジュスト=冷酷非道な恐怖政治家ダントン&デムーラン=恐怖政治による流血を止めさせたいと思い始めた人道派、という対比がはっきりと打ち出されている。後半の裁判では役者達の発声、滑舌、説得力の力量が問われる

とてもパワフルで解り易い舞台だ。特にダントン役のToby Stephensは、強い意志と共に、自問して苦悩するダントンの姿を見事に表現していて素晴らしい。
imagesちょっと驚いたのは、この舞台のダントンがとてもハンサムだという事
よく知られているダントンの肖像画
、これは私も実際にパリで観て来たけれど、35歳にはちょっと、、、 といったカンジ。革命家達の肖像画を見ると、まあハンサム派に入るのが、デムーラン、ロベスピエール、で、失礼ながらも不細工派に入るのがミラボー、ダントンあたりなわけですが、今回のキャスティングは結構現実離れしてるわ〜〜!


だって、この人を演じているのはイギリスの名女優マギー・スミスの息子、Toby Stephens。今年41歳のまさに成熟したカンジのある俳優さんだ。数々のシェイクスピアをこなし、実年齢よりも若く見える、大人の色気のある役者だ

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ね、、ちょっと無理があるっていうか・・・

まあだからこそ余計に苦悩するダントンは色っぽくて思わず観ているほうが味方になっちゃうわけですが・・・ ちなみにカーテンコールでは、ロベスピエールはブーイングを受けていた。役者は笑ってたけど、(演技としては成功なわけだから)こういう所がイギリスの観客のユーモアなんだよね。

日曜マチネって結構良い雰囲気だ。客層の平均年齢は高い。4〜50代か。日曜日の昼間に休憩無し一幕の芝居っていいなあ。それにしても、最後のシーンで次々とギロチンにかけられる場面、あのトリックはどうなってたんだろうか、、、? どう見ても、役者が実際に横になって首を固定された所にギロチンの刃が落ちて来て頭がゴロリ・・・だったんだけど、、、立て続けに4人。どんな仕掛けがが気になってしまったよ〜〜〜!

それにしても、嵐のような演説台詞を聴いていて、どうしてこんな声が出るんだろう、、とすら思ってしまった。日本の役者がこんな力強い声で、民衆を押しくるめるような説得力を発揮できるものだろうか、と・・・ 本当に怒濤のような、天地を揺るがすような発声なんだよね。下手したら数日で喉を潰しちゃうんじゃないかって心配になるくらい

実はタイムリーな事に、ブログ繋がりのゆみさん(←こちらへ)が英語と日本語の発声の違いというものを指摘していらして、「「おお〜〜、成る程そうだ〜〜!」と妙に納得してしまった。彼女は英語を指導するというプロの方なので、何故なのか、どうすれば、といった事を常に明確にしているのが面白いです。成る程、あの劇場を揺るがすような声で延々と語られる台詞は、日本語を話す発声じゃ難しいのかもしれない

実際、本を声に出して読もうとすると、英語の方が音読しやすいのよね。台詞の発声も同じだ。日本語で大声で何かを言おうとすると、ヘンに負担がかかってきっと喉を潰すのだろう。今回のような演説合戦で役者の声に力量が問われる芝居は、日本語だと弱くなっちゃうかもしれない。

けっして派手でもないし、感動的ストーリーというわけでもないけれど、情熱と苦悩のぶつかり合いが2時間弱の中に凝縮された芝居だった。日曜日の午後には丁度良い感じ。







前回アップしたと思ってたブログ、ワイン飲んでたんだねえ〜〜きっと!アップしてないじゃないの・・・
今さら載せてもねえ、、という事でそれはボツです。ちょっと間があいてしまいました。

おととい観て来た「Salome-サロメ」。オスカー・ワイルドのこの芝居が私は初めて観た時から好きだ。初めて観たのはまだ高校生の時、もちろん日本語訳だった。ちなみにこの芝居はフランス語ヴァージョンが先で、後にワイルド自身の英訳が出版された。この英訳については、彼の恋人だったダグラス卿が手がけたもののワイルドと意見が対立し、結局は自分で訳してそれをダグラス卿に捧げている

芝居=本として好きな戯曲なので今回も楽しみにしていたのだけれど、、ちょっと今回は違った!
セットは鉄パイプと黒い砂、タール色の水で、メタリックな色彩。兵士達の衣装も戦闘服に機関銃で、王=ヘロデは戦闘隊長というカンジだ。そして肝心のサロメもストレス多きティーンエイジャー

今回このサロメを観たかったのは、演出がJamie Lloydだったからだ。Donmer Warehouseの若手演出家として注目されている。私も去年彼の作品を2本観たけれど、今回のはちょっと冒険し過ぎた感が否めない

ず〜〜っとバックにリズムボックスのベースドラムのような音が鳴っている。これが躍動感や心臓の鼓動を表現しているのだろうけれど、私には壁の薄い家のお隣からミュージックのベース音が聞こえて来るようにしか思えなくて、これがなんとも耳障り

水、ワイン(のような飲料)タール、血、、、とビチャビチャ飛び散って、役者達もドロドロになって頑張っているのはいいけど、効果的というより、汚く見えてしまう。顔中に血だのタールだの塗りたくってるので表情だって見え難い。

このチームはHeadlongというカンパニーで、ヘロデ役のコン・オニールが座長だ。このコン・オニール、今でも20年以上のロングランになっているウェストエンドのミュージカル「Blood Brothers」の初演キャストだった人だ。おっさんになったなあ〜〜・・・(当たり前か)

モダンで冒険的な演出なのだけれど、本来この戯曲の持つ「」と全く噛み合っていないのが残念。なんだかMessyでnoisyだ

私がちょっとがっかりした一番の理由は、実は10年以上前に観た「サロメ」が、それはそれは美しい舞台だったからだ。

このプロダクションは鬼才Steven Berfoff(スティーヴン・バーコフ)の演出/ヘロデ王で、パントマイムのような曲線的な動きやスローモーションで役者達の動作がとても綺麗だった。セットや証明も冴え冴えとしていて、何よりも英語の台詞がとても美しく語られた。ゆっくりと語られる台詞は聞き取り易く、英語を美しいと思った芝居は初めてだった。神秘的で、情熱的で、エロティックなこのサロメが、私は今までに観た芝居のうちでも「一番美しいと思った舞台」だと思っている

だからサロメ=美しい芝居という印象でず〜っときていたので、今回の演出はなんだかちょっと何かが壊されてしまった印象だった。悪いとはいわないけれど、まとまっていないのも確かで、本としての魅力も出し切れていない。

予言者ヨカナーンはなんだか怪獣みたいだし(ブラックの役者さんだった)、サロメもヘロデもエロスというより性欲むき出しというカンジで美しさがない。オスカー・ワイルドの美学をもっと出して欲しかったのに。

スティーヴン・バーコフなんていっても日本の人は知らないよねえ、、と思ってちょっと見てみたら、なんとこの公演、日本でやってる・・・ DVDが出てるなんて知らなかった。このDVD、テレビ放映用に東京・銀座セゾン劇場にて収録ってある・・・ツアー公演だったのかな?テレビ用? これは観たい!買ってしまおう、、、同時期に上演したカフカの「審判」や「変身」も凄く面白かった

はじめに本ありきで始まる芝居は、いろんな解釈ができるわけで、それが面白いのだけれど、シェイクスピアのものでも、あまりにもちぐはぐなものになっちゃった作品もあるし、古い時代の作品を今上演するほうが難しいのかもしれない。でも、バイセクシャルが逮捕されて、キリストや聖書の話を芝居にする事も禁じられていた時代にワイルドが書いたこの本の持つ妖しい美は保って欲しかった

役者達はビシャビシャのドロドロになって頑張ってたんだけどねえ〜〜
今回はちょっとハズレでした。

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伝説のミュージカル、「Hair=ヘアー」をやっと観た

やっとというのは、私の世代はオリジナルの舞台には間に合わなかったからだ。それでも私が芝居=舞台というものに傾いた時から「ヘアー」という反戦/ヒッピー/ロックミュージカルの事は聞いていたし、芝居としてだけでなく、ロック好きだった私にはその方面からも話題は入ってきた。80年代初めに日本でも公開された映画版で、話に聞いていた曲の数々をちゃんと聴いた時はかなりハマった

60年代のラヴ&ピースや、ドラック、セックス、ロックンロールというのはやっぱりあの時代を象徴する大きな社会現象だったのだ。世界大戦が終わってから20年、戦後に生まれたアメリカの若者達に押し付けられたベトナム戦争は、アメリカの大きなミステイクだった。この破天荒なミュージカルがヒットしたのは、自由の主張、性意識の改革、魂をゆさぶるロックミュージックという、若者意識の変わり目の時期にタイムリーだった為だろう



ものすごいパワーだ。今回のプロダクションは去年ブロードウェイでリバイバルとして制作され、2009年のトニー賞(リバイバル部門)を受賞したオリジナルキャストをそのままロンドンへ引っ張って来たものだ。このあたりが流石はキャメロン・マッキントッシュ凄腕プロデューサーだ。ロンドンでも今までに再演版が作られた事もあったけれど、いづれも今ひとつ当たらなかったという。強いカンパニーをそっくり持って来るとは

実は2日前の週末はレスター・スクエアーでWest End Liveというのがあり、いろんなショウがそのまま野外のステージでライヴで演じられた。もちろん無料。当日レスタースクエアーに行かれた人はラッキーだね!ヘアーもこのライヴに参加したそうだ。

初演時にイギリスでもブロードウェイをしのぐロングランになったのには、これまたいくつかのタイムリーな要素があったらしい。イギリスでそれまで規制されていた舞台上での表現が解禁になったばかりで、フルヌードの役者達がドラッグに溺れてフリーセックスを表現するようなこの舞台が受け入れられた。最初の人種ミックスな舞台、最初のロックミュージカル、そして今は大スターとなったエレイン・ペイジやティム・カリーのウェストエンドデビュー、何とマッキントッシュ氏もまだ駆け出しでマーケティングを受け持っていたそうだ

とにかくはじめから終わりまで、カンパニーの隅から隅までが凄まじいエネルギーを放っている。このGielgud Theatreは大きく無いけれど高さがある。役者は舞台からそのまま客席の椅子の背を渡り歩き、ボックス席によじ上り、通路を駆け回る。舞台の正面から、奥から、横からも斜めからも上からも、役者達のパワーが降って来るのだ。これは凄い

実はこの「ヘアー」というミュージカル、起承転結なストーリーがあるわけではない。あるのは、自由を求め、愛と平和を訴えて戦争への招集に反発し、ロックのリズムとドラッグの妄想の中で、それでも生きる道を探そうともがいている若者達の姿だ。長髪を反体制の象徴として振りかざしながら。

次から次へと息つく間もなく歌い踊る役者達の歌唱力と見事な振り付け。カンパニーの隅々までが輝いている。誰一人として息を外していない。これはやっぱり全員をブロードウェイから輸入してきた一番の強みだ。だれがどの役にも回れるようなレベルの高さ。実際アンダースタディーで役がずれる事もあるのだろう。客席でも手拍子が起こり、膝をならし、一緒に歌っている。

客席にはアメリカンな人々も多い。そしてあきらかに50代以上の人達も。カーテンコールでは役者達が観客を舞台へと招き上げる。拍手していた人達が列をなして舞台に上がり、Let the Sunshine Inを歌い踊る。これは盛り上がった!私はほぼ中央の席にいたので、通路に人が多過ぎて上がれなかったけれど、その場で一緒に踊って来た

あきらかにオリジナルの時代に青春を過ごしたと思われる、今や半分白髪もはげ上がったおじさんが、ベトナム戦争後に生まれた若いアメリカ人の役者達と一緒に舞台で「Le~t the sunshi~ne! 」と歌い踊っているのは不思議な光景。時代や社会背景が変わっても、生きる道を探して叫び、反発し、愛し合い、助け合い、泣いたり笑ったりする若者達のエネルギーは充分に伝わる

ドラッグやフリーセックスやフルヌードが出て来るこの舞台に、人種差別や無意味な殺人やナイフを振りかざす通り魔は出て来ない。とても純粋だ。今の時代のほうが、何かが歪められてしまっている。ベトナム戦争はもう40年前の話だけれど、昨日のニュースで、アフガン以降のイギリス人兵士の死亡者が300人になった。
伝説のミュージカルの描く世界は、決してではない

去年のトニー賞授賞式より、今ロンドンでやってるのはこのキャスト


アンドリュー・ロイド-ウェバー氏の新作ミュージカル、「Love Never Dies」20年以上のロングランが今も続く大ヒット作「The Phantom of The Opera=オペラ座の怪人」の続編だ。初日後のレビューと私の観る前の期待度はこちらを←まずお読みください。

完全ネタバレのストーリーです。知りたく無い方はスルーしてください






設定はオリジナルのパリ・オペラ座から約10年後。オペラ座の怪人と呼ばれたファントムはニューヨークのはずれ、コニーアイランドの大型ファンフェア・パークのオーナーになっている。彼は表には出ずに謎のオーナーとして指示やショウの作曲を行い、実際にショウを取り仕切っているのは、かつてオペラ座でステージマネージャーをしていたマダム・ジリーだ。彼女の娘でかつてのクリスティーンの親友メグがスター女優として活躍していた。ビジネスは成功していたが、どうしてもクリスティーンの歌声を忘れる事のできないファントムは、プレジャーパークの目玉としてフランスからクリスティーンを呼び寄せて歌わせる企画を立てる。クリスティーンは夫のラウルと息子のグスタフと一緒にニューヨークへやって来る。ショウの打ち合わせにやってきたクリスティーンとラウルはそこでジリー親子と再会して喜ぶが、ラウルはショウの主催者がファントムである事を知って愕然とし、またスターとして頑張って来たメグはファントムがクリスティーンをわざわざ呼び寄せて歌わせる事にショックを受ける

ここからは、綱引きだ。クリスティーンを巡って夫のラウルとファントムが真っ正面から奪い合いになる。彼女がショウで歌うか歌わないかが男2人の賭けだ。かつてオペラ座で彼女の愛を争った2人。見た目の醜さだけでなく、歪められてしまった心で間違った愛し方しかできなかった、かつてのあわれなファントムはここにはいない。なんといってもビックリ仰天の新事実=クリスティーンとファントムはラウルとの結婚前に一度愛し合っていた! ファントムは今や借金まみれで酒浸りのラウルに、まさに敗者復活の挑戦状をたたきつけるのだ。究極の切り札=「お前の息子は実は俺の息子かもしれないぞ」をつきつけて・・・

身を裂かれそうな思いで、クリスティーンは「Love Never Dies」を歌う。初めは震えながら、戸惑いながら、そして最期には心の限りを込めて・・・

最期にはファントムはまるでヒーローだ。今までの自分を否定されたような切望感からピストルを持って叫びまくるメグをなだめるあたりは、今度は彼が2人の女から綱引きされている。そしてクリスティーンはファントムの腕の中で息を引き取り・・・・

そう、舞台も役者も音楽も素晴らしかった。でもね、、、

私はこんなストーリーは嫌だ!

なに、、密かに一夜を共にしていた? あの時確かに愛していた、、??
ちょっと待ってよ!

Love Never Diesっていうタイトルが、なんの愛の事なのかって実は期待していたのに・・・クリスティーンにとっての夫=ラウルへの愛なのか、歌うという事への愛なのか、、、彼女がどうしてもファントムを切り捨てられなかったのは、彼女の歌/音楽の導き手だったからだ。だから彼女が選ぶとしたら夫への愛歌う事への愛だと思ってたのに。それがここへきていきなり息子のグスタフが実はファントムの・・っていわれてもねえ〜〜?

曲は久々に大型ミュージカルらしい作品で、壮大でドラマティックな曲の数々は耳に残る。でも何故だろう?確かに良い曲なんだけれど、今ひとつ何かが足りないような・・・少し甘いっていうのかな、胸をさすような痛みが足りない・・?これってやっぱりサー・アンドリューの曲が丸くなってしまったって事なのだろうか?年齢と共に音楽もソフトになってしまうのか・・??!

主演キャストの歌唱力はこれ以上には望めないくらい素晴らしい。歌う中にも哀しみや迷いや、演技/台詞としての表現力があって、彼等の歌唱力で説得してしまう。ちなみファントム役のRamin Karimlooは3年前には「オペラ座の怪人」のほうでもファントムを演じている。アンドリュー氏のミュージカルも最近のいくつかはほとんど記憶にも残らないカンジだったので、ここへ来て「まだ才能は枯れていなかったか!」とこれまた復活の大御所

レーザー光線、プロジェクター、アニメーション、トリック、3Dビジュアル等を駆使した舞台美術も素晴らしい。アクロバットやダンスを受け持つアンサンブルも目を見張る。クールなマジックショウを観ているような仕掛けの数々は、2010年の今だから可能なテクノロジーによるもので、これもまた80年代半ばのオリジナルファントムとは一味違う。ちょっと雰囲気だけでも、、


ストーリー的にはべつに「オペラ座の怪人」の続きである必要はなかったと思う。実際、そのまま続いていると思ってしまうとあまりにも噛み合ない。だけど、曲調やちょっとゴシックな雰囲気や、手品仕掛け満載の舞台を考えると現代風な話で創るにはちょっと古めかしいのかな。でもストーリー的には

その昔、姿も心も醜い男が美しい歌姫に執拗に愛を寄せていました。彼女には愛する貴族の青年がいたのですが、男のあまりに執拗な愛にあわれみと同情を覚えるうち、彼女は自分の心が男に捕われているのを否めず、一度だけ結婚前に愛の一夜を持ってしまいました。それきり忘れようと彼女は貴族の青年と結婚し、男の子が生まれました。それから10年、夫は借金だらけで半分アル中になっていて、いまいち幸せとは言えません。そこへアメリカからショウでアリアを歌ってくれとのオファーがあり、行ってみるとその主催者はかつての男。夫はショウは取りやめにして今すぐパリに帰ろうと言い、男は今こそすべてを投げ打って自分の為に歌えと言います。身を裂かれそうな思いの中で、それでも彼女は歌わずにはいられません。最期には思いの丈を込めて男への愛を歌い上げ、遂にはそんな愛の罰を受ける事になります
これだけなのよね。これがファントムの続編である必要性を感じないという事なのだ

でもそんな疑問が、ステージ構成やドラマティックな曲や役者達の歌唱力で押さえ込まれてしまう舞台だった。これはこれで力のある舞台だから悪くはないんだけど、やっぱり私はこんな筋書きは嫌だったな。
最期は素直に拍手できなかったよ。役者がカーテンコールで出て来るまで・・・


すっごく面白い芝居を観た!
これは良かったよ〜〜!大当たりじゃない?
トーマス・ミドルトンWomen Beware Women
とにかくスタイリッシュな演出だ。舞台もワードローヴも。現代とまではいかない雰囲気で、それでいて中世宮廷の匂いをだしている。音楽もジャズ風。重厚でお洒落

余程イギリス文学や中世の演劇に通じてる人でない限りはほとんど聞いた事がないだろう、Thomas Middleton。私も実はイギリスに来てから初めて知った。シェイクスピアと同時期に活躍していた劇作家は他にもいる。クリストファー・マーロウ、ベン・ジョンソンン、ジョン・フォード、etc,,そう、シェイクスピアだけじゃないのだ

ミドルトンの芝居を初めて観たのは「The Changeling」だった。ジャコビアン悲劇の代表作という事だけど、なんだかドロドロの血みどろの凄い結末。この時代の作品、シェイクスピもそうだけどプロットとしては、恋愛(これは純愛と恋愛ゲームの2種類ある)、心変わり、裏切り、レイプ、復讐、近親相姦、権力、殺害、といったものが必ず出て来る。そして今回のWomen Beware Womenにも、これがぜ〜んぶ揃ってる

プロットの一つは実際に16世紀のトスカーナ大公の愛人になった女性がモデルになっている。(こちら身分の高い家に生まれたビアンカは平民の銀行家と恋におち、駆け落ちして結婚してしまう。夫の実家で義母と一緒に、仕事で出張に出る夫の留守を過ごす事になる。ところが夫が出張中に土地の権力者である大公にみそめられ、巧みな策におびき出されて無理矢理手込めにされてしまう。

もう一つのプロットは宮廷貴族の娘イザベラ。彼女は父親の命令で、どんな女の子でもこんな男は絶対にいや!と思うような頭の弱いおバカ青年と結婚させられる事になってしまう。自分の運命に嘆く彼女を慰める叔父のヒッポリトは、実は密かに彼女を女として想っているのだ。悲嘆に暮れる彼女を慰めるうち、とうとう胸の思いを告白してしまう。叔父の事を幼い時から慕い、心をゆるしてきたイザベラはショックで打ちのめされる。

この2つのプロットを繋ぐのが、ヒッポリトの姉で2度の結婚でどちらも夫に先立たれたリヴィア。リヴィアは無教養で不器用なビアンカの義母を巧みに自分の屋敷に呼び寄せ、密かに大公とビアンカを逢わせるべく策を講じる。手引きされてリヴィアの屋敷に連れて来られたビアンカは、リヴィアと義母がチェスに興じている間に大公に無理矢理奪われてしまう。

また弟であるヒッポリトが姪のイザベラを愛していると知ったリヴィアは、バカ息子との結婚話とヒッポリトの激白のショックで嘆くイザベラに、実は彼女は母親が不義をして生まれてしまった子で、ヒッポリトとは血のつながりはないのだと嘘をつく。そして表向きはバカ息子との結婚を承諾して、ヒッポリトを愛し合って良いのだと説得する。

無理矢理大公に囲われる事になったビアンカは、平民である夫との惨めな生活よりも大公との豪華な暮らしが自分にふさわしいと思い始める。そして次第に権力と財力のある大公を愛するようになっていく。一方父のいいつけに背く事もできなかったイザベラは、バカ息子との結婚を割り切って受け入れ、同時に叔父との禁断の関係も深まっていく。そして恋愛ゲームの糸を引いていた筈のリヴィアは、大公の元で働くようになったビアンカの夫を愛人にしてしまう。

ここまでの中での女達の描き方の見事さ。これが本によるものなのか、演出なのか・・・きっと両方のバランスが見事に噛み合っての出来なのだろう。長台詞もちっともくどくないし、ウィットに富んでいる。一場一場にユーモアがあり、それがとてもスタイリッシュな演出でセクシーだ

途中から、この芝居は今目の前にあるセットや衣装をすべて取り払ったテキストの状態で読んでみたいと思った。ラストは惨劇になる。大公の命令でビアンカの夫が殺され、その翌日は大公と彼女の結婚式となる。その宴の最中、すべての人物がそれぞれの思惑で復讐するべく相手の命を奪って行く。今回の舞台ではダンスのような振り付けで、回る舞台のそこここで殺害シーンが演じられる。これも見事な流れでドロドロ感なく見せている

どうやらかなり本を削った部分もあるらしい。ダラダラと無駄がなくリズム良く進んで行くのはそのためかもしれない。そういった削った部分も含めて素晴らしい演出だ。ハムレットより面白いわこれ!
是非台本として読みたい芝居だ。多分最期の幕は本来ならまた血みどろのドロドロになるはずなんだろうな。でもこの舞台にはこれが「お見事!」という仕上がりだった。

う〜ん、久しぶりに5つ星をあげる!
長台詞が退屈だったら寝ちゃうかも、、なん思ってた自分が嘘のよう。これは今年の作品の中でも上位にいくかも・・・

冬眠状態だった1月もいよいよ終わり
また2月からはエネルギーを取り戻すぞ!! という事で、今年第一弾の舞台はベケットのWaiting for Godot(ゴドーを待ちながら)。去年、3ヶ月限定で上演されたヴァージョンの再演で、イアン・マッケルンのエストラゴン、ウラジミールは昨年のスタートレックの艦長さん=パトリック・ステュアートから変わってロジャー・リーズが演じている。

邦題「ゴドーを待ちながら」、サミュエル・ベケットのこの芝居はむか〜しから聞いていて、当時「不条理劇」なんて言葉も聞いた。アルベール・カミュとか別役実とかと並べられて語られる事が多かった部類の作品だ。実は昔の私はこの手の芝居はあまり好きなタイプではなく、もちろんいろんな分野で演劇の面白さはあるのだけれど、アングラっぽいものや、よくわからない系の芝居は二の次に考えていた。観客が劇場で頭を使わなくちゃいけない芝居というのは、私の目指していた演劇とは違っていた
そんなわけでまさに、やっと観たという感のあるこのWaiting For Godot。イアン・マッケルン氏がとても好評だったので、楽しみだった

2人の浮浪者がゴドーという人物に会うために彼を待っている。待つ間に冗談を言ったりとりとめのない話しをして時間を潰す。何も起こらない。会話の内容も殆ど意味が無い。そこへ召使いの首に縄をつけて金持ちの男が通りかかる。長年仕えてくれたこの男を売りに行くのだ。まるで奴隷か犬にでも命令するように年老いた召使いを扱う大男。ヘンな奴らとのヘンな時間を2人の浮浪者は分かち合うのだが、相変わらず何もストーリーらしい事は起こらない。金持ちと召使いが去る頃はもう夜になっている。すると少年がやってきて、「今日はゴドーさんは来られません、明日来ますのでまた明日待っていてください」と言う。2人の男はその夜の寝床へと分かれて行く

そして2幕、同じように2人は同じ場所でゴドーを待ち続ける。そしてまたしても昨日と同じ2人連れに会う。夜になるとまた同じ少年がやって来る。状況は昨日=一幕と同じ事の繰り返しなのに、すべてがずれている。エストラゴンは昨日も同じ場所でゴドーを待っていた事を覚えていない。さらに昨日は大いばりの風体だった金持ち男は盲目になっている。昨日は主人に言われるまま行動し、あげくに歌ったり踊ったり哲学的演説まではじめた召使いは、聾だという。「昨日は違ったじゃないか、何時からだ!?」と問いかけてもまるでずっと昔からそうだったかの様子だ

一幕を通して「何だこれは、、何も起こらない」と思い続けていた観客はこのあたりから芝居の仕掛けに気付き始める。正直、演出の悪さ加減では、一幕で出て行ってしまう客がいたとしても不思議じゃない。それくらいなんてことない台詞の掛け合いが延々と続くのだ。
でも2幕では、同じ場面の繰り返しが、実はまったく別世界のものになっている。昨日の事は現実だったのかどうかもはや解らなくなっている。何度も「ここでゴドーを待っていなくちゃいけない」と繰り返すこの浮浪者達が、実は本当にゴドーを待っているのかさえも、最期には疑わしくなる。昨日と同じ少年がやって来て、これまた同じ事=ゴドーさんは明日来ます、を告げる。どうみてもホームレスにしか見えない彼等にYes sir、 No sir とサー付けでいちいち返事するあたりも実はおかしい

よく見てみると、最初に「立体感のあるセットだな」と思った舞台セットさえも、なんだか工事予定地なのか、廃墟なのか、地震あるいは戦争の直後なのか・・・とよくわからない。ただゴドーとの待ち合わせ場所として指定された一本の木だけが居場所として存在している。

2人の浮浪者は最期に自殺をしようかと試みるが、それさえもうまくいかない。ボロボロのズボンの紐はヨレヨレで簡単に切れてしまう。結局「明日ちゃんと自殺しよう、もしゴドーが来なかったら、、、」という事になる。

昨日と今日が夢と現実なのか、今の真実は明日の真実なのか?昨日生きていた者が今日死んでいるとしたら、今日死んだ人間は明日生きているのか・・・?

な〜るほど、こういう仕掛けか・・・と思い始めると2幕はかなり面白く観られた。イアン・マッケルンの演技のチャーミングな事!!巧い
最初に登場した時から彼の名演に目がいってしまう。1幕の何のヘンテツもない台詞の応酬に笑いをもたらし、退屈という落とし穴から観客を救う。細かいよ、演技が。流石です!少年以外の登場人物は皆それなりに年配なのだけれど、とてもチャーミングだ

ベケットの原作はフランス語で書かれたというのも初めて知った。彼はアイルランドの人だと思ってたら、フランスに長い事住んでたんだね。こういう芝居を観たのは本当に久しぶり。20代の事には「よく解らない」と素通りしがちだったけど、こうしてちゃんと観てみると演劇を通しての問いかけが見えて来て面白い。答えは無数かゼロか、なんだけどね。

無駄のない演出で、観易い作品に仕上がっている。「ゴドーを待ちながら」の次になんと続けるか・・・
待ちながら観た世界は昨日の現実で今日の夢で幻想で真実、、?劇場でしか味わえないといえば確かにそうだね。この不思議感が楽しめた。ベテラン勢の名演で引っ張られる舞台だ



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