見つけもの @ そこかしこ

ちょっと見つけて嬉しい事、そこら辺にあって感動したもの、大好きなもの、沢山あるよね。

カテゴリ: 舞台・芝居全般



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去年からチケットを取ってあった「Peter and Alice」。ジュディ・デンチ(Judi Dench)とベン・ウィショウ(Ben Wishaw)という世代を越えた実力派コンビとあって楽しみにしていた。実は、脚本のジョン・ローガン氏とこの二人は007シリーズの最新作ーSkyfallでも組んでいたようで、早く観なくては・・・と思う次第

世界的に不滅とも言える児童文学の定番、アリスとピーター・パンには両方ともモデルがいたというのはよく知られている。アリスは作者のルイス・キャロルの友人の娘、当時10歳のアリス・リッデル(結婚してからはハーグリーヴス)。ピーターのほうはジェイムス・バリーが後見人となって引き取った友人の息子達をモデルに書いたものだ。5人兄弟の少年達のうち、3男のピーターが名前の為に世間的にはピーター・パンのモデルとしてのラベルを貼られていた。この芝居は1932年のルイス・キャロルのエキシビションの際に当時80歳になっていたアリス・ハーグリーヴスと35歳で出版社を経営していたピーター・ルウェイン デイヴィスが初めて実際に会った日のひと時を、現実とファンタジーを交錯させながら描いている

実際に二人がどんな会話をしたのかは解らない。でもこの芝居の中で、ピーターは自分がピーター・パンとして事ある毎に話題にされる人生に疲れている。ピーターのモデルとはいっても実際に「ジムおじさん=バリー」が一番可愛がっていたのは弟のマイケルだったし、ピーター・パンのインスピレーションは兄のジョージに寄るところが大きかったのだという事を知っている。大人にならない=永遠の子供として夢と冒険の世界を飛び回ったピーターとは違って、大人にならなくてはならなかった自分の人生は、今や幸せや希望に溢れたものではなくなっていた。情緒不安げなやつれた顔は悲しみと痛みをにじませている。

金髪でエプロンドレスの10歳のアリスは遠い昔の陽だまりの中の思い出から生まれた姿で、実際には今や80歳になっているアリス。彼女もまた無垢な少女時代を遠くに置いて大人にならなければならなかった。編集者としてピーターはアリスに自伝に興味はないかと話し始め、そこから二人の子供時代とこれまでの残酷な人生とが交錯する。作者のキャロル(芝居では本名のチャールズ・ドジソン)とバリー、そして物語の中のピーター・パンとアリスも登場して、遠い陽だまりの中の記憶が必ずしも純粋ではなかったかもしれない事や、今の現実の残酷さをつきつける

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早くに両親を亡くして後見人のバリーに面倒を見てもらっていた少年達のうち、一番ピーター・パンらしいモデルになったジョージは一次大戦で戦死。そしてバリーの一番のお気に入りで、家を出てからも毎日のように手紙のやりとりをしていたマイケルも、大学の友人と一緒に川で溺れてしまう。(同性愛心中だったとも言われている)。自身も戦争に行ってドイツ兵を殺してしまったピーターは、それ以後も精神的に安定を欠いて酒に溺れていく。

昔、とても可愛がってくれたチャールズおじさんの事は子供時代の金色に輝く思い出としてきたアリスだったが、今になって考えると彼の自分に対する態度は大人として健全ではなかったかもしれないと思い当たる。(ルイス・キャロルはロリータ趣味と言われている)ある時から急におじさんとは疎遠になって、お母さんはチャールズおじさんからの手紙を燃やしてしまった・・・裕福な結婚をしたものの、二人の息子は戦争で亡くなり、夫の死後は家財産を維持していくのに窮してルイス・キャロルから送られた「不思議の国のアリス」の原本を売らなければならなくなった

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ファンタジーの世界から顔を出しては「嘘つき!」「ふしだら!」「酔っぱらい!」 と今の二人を責める物語の中のピーター・パンとアリス。子供への執拗な愛情という意味で、どちらもちょっと不健康なキャロルとバリー。大人になったピーターは叫ぶ
子供時代が楽しいのは、大人になってから辛い人生の折々に思い出せるようになんだ
大人にならない子供なんていないんだよ。それができるのは大人になる前に死ぬっていう事さ!

ファンタジー童話のモデルと言われ続けた二人の人生も、違った形で幕を閉じる。二人が会ったというエキシビションから2年後、アリス・ハーグリーヴスは就寝中に眠ったまま静かに息を引き取り、ピーター・ルウェイン デイヴィスは1960年にロンドンの地下鉄に飛び来んで自殺してしまう・・・・

脚本のローガン氏は舞台劇だけでなく、映画のグラディエイターや、ヒューゴラルゴスウィニー・トッド等の脚本も手がけている。この舞台は新作でこれがプレミア公演だけれど、これも映画化できそうな作りで台詞のセンスもすごく良い。主役二人の魅力は言うに及ばず。ジュディ・デンチは舞台で観たのは2度目だけれど、やっぱり台詞一つ、表情一つで空気を変えてしまう力がある。ベンは23歳の時に演じたハムレットで一躍「若手実力派」として注目されてからもう9年も経っちゃったのね・・・身体は細いのに凛とした声で、繊細な演技が素晴らしい

人生はファンタジーではないけれど、子供時代の楽しい思い出を辛い時の糧にするなら、子供時代が不幸だった人は何を思い出せばいいのだろう、、、? ピーター・パンもアリスも、大人が必死で創り上げた妄想に過ぎないのかもしれない・・・。そんな事を考えながら駆け抜けるような1時間半だった。




こんな雪の日だったんですが、日曜マチネに行って来たMerrily We Roll Along

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なんだが今年はミュージカルな年明けだな〜〜、この数年ミュージカルは滅多に観なくなったというのに・・・元々はミュージカル大好きだったし、劇団でもやってたし、イギリスに来た初めの頃は英語がよく解らなかったせいもあって、普通の芝居よりもミュージカルを中心に観ていた。なんでだろう、年と共にだろうか、最近は商業用のミュージカルよりも芝居劇のほうが観たい。言葉と身体で表現する役者の演技が観たいんだ。もちろん自分が歌うのも踊るのも今でも大好きだけど。

一昔、いやもう二昔くらい前と言った方がいいか、古き良き時代のブロードウェイミュージカルといえば、歌とダンスが華やかで「これぞエンターテイメント!」っといった勢いがあった。昔のミュージカルスターといえば踊れる人だった。歌と演技ももちろん必須なのだけれど、3要素のうちではダンサーとしての評価が一番多くの割合を占めていたよね。ミュージカルをやるには踊れなきゃ話にならなかったのだ。それを覆して踊れなくても歌える人がミュージカルスターになるという形態を確立したのが、70年代以降のロイド・ウェバー氏を初めとするオペラ形式のミュージカルの数々だ

今回は久しぶりになんだか日常的でサラッとしたミュージカルを観た気がする。つまり、レ・ミゼラブルのような壮大なドラマというでもなく、あくまでも舞台の上の世界というでもなく、もっとシンプルで身近で誰の人生にでもありそうな話という意味だ。Merrily We Roll Alongというこのミュージカルの事は知らなかった。でもソーンダイム氏(Stephen Sondheim)の作品と言う事で観たいと思って数カ月前にチケットを取っておいた

舞台は1976年、フランク(フランクリン)は有名な映画プロデューサーで作曲家でもある。最新映画の成功を祝ってアパートに関係者一同を集めてのパーティーに興じている。華やかでフラムボヤントなパーティーで、一人アルコール依存症で女性舞台評論家のメアリーはフランクを取り巻く「関係者」達を批判し、くだを巻いて回りの人達をしらけさせている。彼女はフランクとは20年来の友人/仲間であり、彼が心底音楽を愛して作曲家になろうとしていたのに、次第に音楽よりも成功する事にばかり欲を出して、一見華やかでも初心とはズレてしまった今の状況を受け入れ難く思っているのだ。酔っぱらってパーティーから追い払われたメアリーだったが、彼女の言葉にフランクは真実の痛みを感じている。結局パーティーは散々な終わりになってしまう。彼の妻で、元スター女優だったグッシーは、今回の映画で新人として抜擢された若手女優(フランクにちょっかいを出している)につかみかかって怪我をさせ、フランクに別れを切り出すのだ

ストーリーはどんどん遡って行く。フランクには長年の共作者=チャーリーがいた。チャーリーとフランクのコンビでショウを作り、メアリーはその劇評を書いては宣伝し、3人はいつもコンビで夢を追って次々とミュージカルを作る。ところがだんだんフランクは音楽よりも「成功」というものに捕われて、チャーリーとの方向性がズレはじめる。数年前、二人はラジオのインタビュー中に大喧嘩となりコンビは解消となってしまったのだ

フランクの最初の妻は彼等の初期のショウでオーディションにきたエリザベス=ベスだ。すぐに恋に落ちて結婚する二人。だがフランクは彼等のショウのプロデューサーの妻でスター女優でもあるグッシーとやがて関係を持ってしまう。ベスと別れたフランクはやがて同じく離婚したグッシーと再婚する・・・この遡って行く過程の時間の中で、メアリーは元々はお酒を飲まなかったのだという事も解る。結婚する初々しい二人が歌う歌と、泣きながら別れて行く時にベスが歌う曲が同じだというのも悲しい

成功したように見える人生半ばに始まったストーリーは場面毎に時間が戻って行き、実はその間に手に入れたもの、無くしたもの、生きて行く上での真実と嘘が走馬灯のように現れる。最期の場面は3人が初めて同じアパートの屋上で世界初の人工衛星=スプートニクを観た朝。フランクとチャーリーは音楽で成功したいと夢溢れ、メアリーは作家になりたいとあれこれ書き貯めて未来の道を探している。フランクは言う、「音楽の道で行きて行けないくらいなら死んだほうがマシだ」若い彼等にとってはどんな事も可能なこれからの人生が待っているのだ

平凡なストーリーには現実味がある分説得力がある。そして役者達も素晴らしい。前にも何度も書いたけれど、ソーンダイム氏の曲はそれは難しいのだ。役者達の歌唱力は抜群で、客席180程のこのスタジオスタイルの空間一杯にエネルギーが満ちている。このMenier Chocolate Factoryは、前回は「ピピン」を観た所で、昔の工場を改造してスタジオ空間にした小劇場だ。この劇場のプロデューサーは女性なのだけれど、ウエストエンドに移行したヒット作もいくつもあるし、Donmar Warehouse, Trafalgar Studio, Hampstead Theatre等と並んで私はお気に入りの場所だ

この芝居の初演は81年だったそうで、ニューヨークでの初演はあまり評判が良く無かったらしい。2ヶ月近いプレビューの末に幕を明けたものの、たったの16日でクローズしてしまったそうだ。ロンドンでは2000年にDonmar Warehouseで上演され、その年のベストミュージカルだったそうだけど、はて、、記憶にないなあ〜〜 あの頃はウェストエンドもかなり下火な時期だったし・・?確かに最近のミュージカルと比べると、ちょっとスタイルが古く感じる。でもそうだよね、ミュージカルってこんな感じだったよね、、、って思うような懐かしさもある

誰の人生でも振り返るとちょっと心が痛くなるようなそんなストーリーにソーンダイム氏の曲がスルッと入り込んで、それがさっき書いたサラッとしたミュージカル、という印象なのだ。でも役者達のレベルは相変わらず高いよね。小さい空間でのミュージカルは大舞台のショウとは全く違うエネルギーがある。これが楽しくてわざわざ小空間の芝居を選んじゃうのよ・・・・確かにこの芝居は大舞台じゃないほうが合ってるんだろう。演出はミュージカル女優として定評のあるマリア・フリードマンの初演出。演出家としても新たな評価を受ける事間違い無し。雪の中、バスで2時間近くかけて行ったけど、こんな日曜日の過ごし方もいいんだよね


シアターコクーンでの「日の浦姫物語」を観てきた。大竹しのぶさんと藤原竜也さんの初共演とあって楽しみにしていた舞台

説教節を元にしたストーリーは、武家の棟梁家の双子の兄妹(日の裏姫と稲若)が父を無くした葬儀の日に契り合って子供ができてしまう。兄の死後、後見人となった伯父の配慮で赤ん坊のわが子を泣く泣く小舟に乗せて流す日の浦。流された赤ん坊は小島に住む住職に拾われて育つが、18になった時、島の若者をけんかで殺めてしまう。島を逃げ出し、自分の本当の親を探すべく旅に出た魚名は、やがて親子と知らぬままに母である日の浦と巡り合って夫婦になってしまう。自分達が親子であると知った二人は、互いを母子と見抜けなかった己が両目をつぶし、別れ別れにさすらいの旅へ・・・・といったちょっとドロドロのシチュエーション。実は近親相姦という関係は大昔から世界中にあったもので、古くからギリシャ悲劇にもある。母と知らずに夫婦になるという設定は「オイディプス」がそうだし、兄妹の間に子供なんて、一つや二つの話ではない

ストーリー設定を聞いて思ったのは、ちょっとオドロオドロしい妖しい陰と淫が漂う作品かと思っていた。身毒丸のような・・・そう、この作品はいのうえひさしさんの本だという事を見くびっていたのだ。藤原、大竹両氏とも出演している「身毒丸」に重なるような演出を蜷川幸雄さんがするわけないだろう、、、ということも

平安絵巻調の舞台の美しさと色使いの絶妙さは蜷川さんならではのもの。女と子供を連れた説教語りが物語へといざなうと、幕が開いた途端に目に入る平安絵巻。私の好きな絵だ。この物語では大竹さん演じる日の浦姫は15〜16歳、34〜35歳、そして53歳と3つの年代で登場する。大竹しのぶさんが演じると、年代ごとに見事に演じ分けているのもかかわらずちゃんと同じ一人の女として繋がっているのが凄い!15歳では無邪気な少女でありながら女になろうとする危うさを、中盤ではお堅い未亡人であり地方を治める女棟梁、そして出会ってしまった16も年下の若者に揺らぐ女を、終幕では迷いを浄化した老女を、あくまでも美しく見せるというのは女優として誰でもができることじゃない

この本、とにかく面白い!

ドロドロ?とんでもない!随所に笑いがちりばめられていて、それでいて大笑いした次の瞬間には思わず涙がにじんんでしまう、、という風に、見事に書かれている。いのうえひさしさんならではの言葉のマジック。そしてその間やテンポをストーリーを崩さずに次々と射抜いていく蜷川さんの演出マジックで、決して重くない展開だ。藤原竜也さんの稲若は、無邪気ではあったけれど、もうすこしあやうい男を感じさせてもよかったかな、二人とも若く演じてる為に声がちょっと聞いてて辛かった。あの当時の15ってもう成人扱いで結婚させたりしていたのだから、あんなに子供じゃないと思うのだけど・・・・でも初々しくて二人ともかわいい

後半のほうの藤原さんは良かった。力を抜いた演技のほうが光る。なんといっても見せ場は魚岩のシーン! これは必見。なんでこんなシーンがこの本にあるのか?!とも思うほどぶっ飛んでいる。でもそれが井上戯曲の魅力なのだ。藤原竜也の当たり役かも・・・?こんな面白い本が何故30年以上も再演されなかったのか初演時を知る人にちょっときいてみると、初演の評判は散々だったらしい。第一この本が書かれた時、主演の杉村春子さんは72歳だったのだ。「あて書き」といわれているけれど、これが杉村さんの役だとはあまり思えない。でも当時、文学座のために書いたという事は杉村春子さんの為に書いたも同然なので、そういう事だったのだろう。

真剣と遊び、笑いとホロリとする場面、主演の二人だけでなく、語り部役の木場勝己さんと立石涼子さんも素晴らしい。長い時を経て許され、浄化していく日の浦と魚名とは対照的に、この語り部の二人は社会の冷たい仕打ちに合うラストのコントラスト。この芝居は単なる近親相姦とその因果的なドロドロ物語ではなく、罪を犯した人間がどう生きていくか、人生の選択をどうやって決めていくか、というもっとポジティブな本だ。日の浦も、魚名も罪を犯す。日の浦は自分を閉じ込めて棟梁としての義務のために生き、魚名は育った島を去って親捜しの旅に出る。
罪は本当に償うという事はできない。ただ、許されるかどうかなのだ。許される為に必要な生き方と時間・・・

30年以上も埋もれていたこの本、これからもいろんなヴァージョンで上演されるといいのに。そう思える舞台だった。無謀とも思える言葉遊びがちりばめられたセリフを巧みに操りながら、同時に極限状態の感情の波を演じるのは本当に大変だと思う。でもそれを見事に演じ分けているのは凄い。笑って泣いて、3時間があっという間だった

それにしても、やっぱり大竹しのぶさんは天才だ・・・・


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ルパート・エヴェレットがオスカー・ワイルド役をやるというので、これはいいかも、、、と思ったら大当たりだった今回の芝居「The Judas Kiss」。
この作品は98年にリアム・ニーソンがオスカー役で初演されたもので、オスカー・ワイルドとその恋人だったアルフレッド・ダグラス卿との関係を軸に、ワイルドの人生における分岐点となる2つの日に焦点をあてたものだ。別にオスカー・ワイルドの伝記的なストーリーではない。だからオスカー・ワイルドを知っていればもっと面白いし、知らなくても芝居として理解出来る本になっている。オスカー・ワイルドが当時は法的に禁じられていた同性愛の為に投獄されていたというのは有名な話だ。この本は、逮捕直前と服役/釈放後の2つの日の出来事を描いている。実際の二人の写真

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オスカーは貴族の息子であるボジー(ダグラス卿の愛称)と同性の恋人関係にあった。彼等の年の差は16歳。当時はまだ同性愛は法律で禁じられていた時代で(広く行われていたにもかかわらず)息子とオスカーの関係を感づいたボジーの父、クイーンズベリー侯爵は息子に対してオスカーと離れるようにと再三諭していた。この父子はそれ以前から折りが悪く、ボジーは父の「勘当するぞ」との言葉にも耳を貸さずにオスカーと一緒にいる事を主張し、むしろ父親の事を嫌悪して罵る手紙を送りつけたりしていた。オスカーを巡って親子関係は悪化し、侯爵はある日クラブのメンバーズカードにオスカー・ワイルドが同性愛者であると書き付けたことから、とうとうオスカーは侯爵を「名誉毀損」で訴える事にする。しかし裁判になってみると名誉毀損どころかオスカーの同性愛癖を裏付ける証人が次々と出て来て、逆に不利だと諭す弁護士や友人達の言葉に、オスカーは訴訟を取り下げる。すると今度は侯爵側がオスカーを「同性愛者」として訴える事態になってしまう。(このいきさつは一幕の間の台詞で観ているほうが理解できる)

一幕はこの裁判を取り下げた日に焦点を当てている。ちなみにオスカーはこの時41歳、ボジーは25歳。今夜にも逆に警察がオスカーを逮捕しに来るだろうから、1分でも早くフランスへ逃げるようにと諭す周囲の焦りをよそに、オスカーはホテルの一室で自分の主張/美学を語って国外へは逃げない事を宣言する。父と恋人が争う裁判の張本人であるボジーは、まだ若く、奔放で我が儘な子供のような貴族の坊ちゃんで、大人として物事を深く理解する力の無い若者である事が解る。イライラするまわりをよそに食事を頼み、ワインを開けて逮捕/懲役を覚悟するオスカーを、ルパート・エヴェレットがフラムボヤントに、ウィットな台詞を操っていて、メイクからして容貌までオスカー・ワイルドになっている

一幕ではオスカー役のエヴェレット氏が大柄な身体(彼はとても長身な上、この役では衣装の下にを着ていると思われる)と強い目線で若干大袈裟に演じているのがデカダン調で良い。台詞の端々にワイルドらしいウィットに富んだ言い回しが散りばめられいて、それを見事に花咲かせている。最初に舞台に出て来た時は「ん?今日は代役の日なのか?」と思った程、ルパート・エヴェレットの容貌からかけ離れていたので驚いた。でもよ〜く顔をみると確かに彼なので、メイクと衣装の威力は凄いと感心してしまった。ちなみにリハーサル写真は普通に彼らしい顔。
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彼を舞台で観たのは本当に久しぶりだし、いわゆる中年以降になってからは観た事なかったからなあ〜〜。前回「ピクマリオン」のヒギンズ教授役で出ていた舞台はあまり評判よくなくてパスしたし・・・でもこのオスカーはまさにはまり役と言っていいと思う

舞台は彼が滞在しているロンドンのホテルという設定で、ホテルのスタッフ達が良いアクセントで場面を支える。派手な恋人同士のオスカーとボジーの間で、もうひとり、オスカーのかつての恋人で今でも義理堅い友人であるロバート・ロスが、ボジーとは対称的なキャラクターでオスカーを親身になって気遣っている。

2幕は2年間の服役を終えたオスカーが周囲の反対をよそにボジーと再開して居を構えたナポリでのある日。オスカーは重労働を強いられた2年間の服役でやつれ、老い、2回りも小さくなってしまった感じだ。それとは反対にボジーは相変わらず奔放で、オスカーの前でも平気で現地の若い漁師を家に連れ込んで来る。子供っぽいヒステリックな面や我が儘さが、彼がまだ若くて自由な若者である事をいやでも強調していて、衰えたオスカーとの対比が残酷だ

この日、ボジーは連れ込んだイタリア人の若者と連れ立ってクラブへ遊びに出かけて行き、その間にたまたまナポリを訪れていたロスがオスカーを訪ねて来る。立ち寄っただけのひと時の会話でも、彼が今でもオスカーの忠実な友人であると解る。オスカーを置き去りにして遊び放題のボジーとは対称的だ。そしてその夜、オスカーは家に戻って来たボジーが2階の部屋を歩き回りながら荷造りしている足音を聞く

1幕とはうって変わって、2幕ではずっとオスカーは座りっぱなしだ。立ち上がるのもままならない、衰えた様子で、2年間の服役がどんなに彼を弱くしてしまったかが解る。逆にボジーは今を盛りとキラキラ輝くような残酷な若さを振りまいていて、実際全裸に途中からシーツを巻いただけの身体は眩しい程白く、若い。彼はまだ27歳だ。今なら侯爵家の息子としてまだやり直しができる。ボジーは最期には、自分がホモセクシャルである事さえもオスカーに否定して、出て行ってしまうのだ

これはオスカー・ワイルドの話ではない。同性愛とはいえラヴラヴで怖い物知らずだった二人の、周囲が全く眼中にないような夢中な時間と、再会しても元には戻れずに食い違っていく残酷な結末のストーリーだ。ちなみに出演者7人中の4人(男性3人、女性1人)が全裸になるシーンがあるのだけれど、本当に彫刻のように綺麗な身体で、これまたワイルドの美学の一部か、、という感じ。センスの良い台詞が笑いを誘う。かなり笑った。The Judas Kissというのは、ユダがキスを合図にキリストを売り渡したその裏切りの口づけの意味だ。この芝居では、暗い部屋でオスカーにキスを残してボジーが出て行くラストシーン。

二人のその後はというと、3年後にオスカーはパリで病死、ボジーはその後、貴族生活に戻り結婚し、詩人/作家として74歳まで生きた、後年にはオスカーとのソドミーな関係を否定している

Hampstead Theatreは小劇場でチケットはソールドアウトだそう。でも来年早々にウェストエンドに進出が決まった。絶対おすすめの芝居






なんと、10日も経ってしまった・・・いきなり寒くなって、もうオリンピックがあったのは随分前のような気がするこの頃。寒くて暗い秋/冬こそが劇場シーズンと言っていいかもしれない、というわけで、今回はコメディーを観て来た。大好きなAlan Ayckbournの本で今回の演出はトレバー・ナン氏。トレバー・ナンといえばシェイクスピアからミュージカルまで幅の広い演出家だ
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いろんな芝居/ステージのジャンルがある中で、コメディーにはいくつかの手法がある。誰が観ても笑えるいわゆるギャグやドタバタもの(Slapstick)、プロットでハプニングが仕掛けられて、それに対する登場人物のリアクションやそこから発展する次のハプニングで笑いを起こすシチュエーションのも(Sitcom)、そしてストーリーも登場人物も普通で真面目にやっているのに、キャラクターの心情や話の展開で回りが笑わずにいられないというもの

Alan Ayckbourn(アラン・エイクボーン)という劇作家の名前は日本では知られているのだろうか・・・?
おそらく国外で上演される類いの本ではないからあまり知られていないかも。でもイギリスでは人気の戯曲家だ。彼の書く本はコメディーといわれるのだけれど、前述した中の最期のパターンが多い。ストーリーやシチュエーションは普通なのだけれど、ウィットな台詞とその場の人間の反応で笑いを引き起こす→演じている方はもちろん大真面目→だから爆笑、というパターンだ。三谷幸喜さんの書く本と似た部分があるかもしれない。出て来るキャラクターもそれぞれみんな曲者いや、個性的。すべての役者に見せ場が用意されている

A Chorus Of Disapprovalは実は80年代の本で、今までも何度か上演されているのは知っていたけれど、今回初めて観た。「Begger's Opera」を上演しようとしているアマチュア劇団に、ガイというちょっと内気で基本的に何事も断れないお人好しな男がオーディションにやってくる。演出家のダフィド(デヴィッドのウェールズ語発音)はやたらとウェールズにこだわっている昼間は弁護士の男で、ガイがオーディション曲にウェールズの歌を持って来たと聞くと、勝手に自分で歌ってガイの歌をろくに聞かずに採用してしまう。小さな街のアマチュア集団は個性豊かな人達が集まっている。彼等が上演しようとしている「 Begger's Opera」というのは1728年にジョン・ゲイが書いた3幕のオペラで上流階級や政治家達を痛烈に風刺している。200年後にベルトルト・ブレヒトの戯曲にクルト・ヴァイルの曲で書かれた「三文オペラ」のオリジナルだ。三文オペラの登場人物もストーリーもほぼベガーズオペラに沿っている。

お人好しのガイはダフィドの妻ーハナに思いを寄せられ、同時に夫婦でスワッピングをスリルとしているフェイとも関係をもつ。ハナとフェイは全く正反対の女性。少女のような可憐さを残した良妻賢母でしっかり家と子供を守っている一途なハナに思いを寄せながらも、ワイルドで奔放なフェイに迫られると断れないのだった。二人の人妻とよろしくやってる間にも劇団内ではあれこれといろんな事が起こり、最初は端役だったガイは途中で役を降りてしまった役者達の為にひとつ、またひとつと配役替えに合い、とうとう主役のマクヒース役に就いてしまう

そう書くと、なんだかガイという男がは実はしたたかで、どんどん調子に乗って色男風を吹かせるのかと思うかもしれないが、実は全くそうじゃない。彼はあくまでも受け皿なのだ。断れずに受けてしまううちに何故かそういう事になってしまう・・・騙そうとか、のし上がろうとか、そんなつもりは全くないシャイなお人好しなのだ。彼が本当に事の深刻さを考えるのは、ダフィドがハナとの夫婦関係の事をガイに打ち明けてからだ。恋愛以外にも、あちこちの劇団員から彼の会社が関係している土地の事で「頼み事」をされてしまう。最期にはあっちにもこっちにも良い顔をしてしまったツケが回ってきて、妻との関係を知って激怒したダフィドをはじめ、みんなから総スカンをくらってしまう

そんな話が「ベガーズ・オペラ」の中の3角関係と平行して進んでいく。オペラのリハーサルという事で、ミュージカルでは無いけれど劇中には歌うシーンもそこここにあって、役者達がみんな歌える人達だと解る。ちなみにガイ役のナイジェル・ハーマン氏はBBCのソープオペラ「Eastenders」で広く顔を知られるようになった後、番組を離れてからもコンスタントにウェストエンドの舞台に出ている人だ。彼だけじゃないかなあ〜、Eastendersから出た役者でその後もこんなに活躍してるのは・・・去年はミュージカルの助演男優としてローレンス・オリビエ賞を取ったし、毎年のように舞台に出てる(ソープオペラについてはこちらをどうぞ)ダフィド役には今回コメディアンとして人気の人がウェストエンド初舞台という事で注目されている。素晴らしく良いよ。

登場人物みんなに役割と見せ場がある群像劇、歌あり秘密あり、つかみ合いもあり、滑稽で情けなくて大笑いできる芝居、そんな所が三谷幸喜さんの書く本と似たものがある。コメディーなのだけれどそれ以上にヒューマンドラマなのだ。三文オペラでもベガーズオペラでも知っている人はご存知の通り、マクヒース(三文オペラではメッキ)はまさに絞首刑になるという所でいきなり強引などんでん返しでハピーエンドになってしまうのだが、この芝居自体も最初のシーンでは舞台終演後、皆から総スカンを食らったガイが誰からも相手にされずに一人淋しく出て行く、、、と思ったところから回想という形で芝居が始まり、最期のシーンは舞台が終って皆が主役を演じ切ったガイと抱き合って喜ぶという場面に変わっている

沢山笑った後に、なんだか心にしっとりしたものが残るような芝居、ドタバタやギャグもののコメディーはちょっと好みじゃないのだけれど、こういう舞台はいつでも観たいわ・・・
ちょっと探してみたら、なんとこの芝居アントニー・ホプキンズ&ジェレミー・アイアンズのコンビで映画化されていたちなみに映画の日本語タイトルは「浮気なシナリオ」ですと・・・


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久しぶりにミュージカルを観て来た。ナショナルシアターには劇場が3つあり、一番小さいスタジオで去年初演されて絶賛された「London Road」。去年は金欠で断念したのだけれど、今回メインのオリヴィエシアターでの再演が決まり、即チケットを取った。ちなみにナショナルシアターでは芝居に足を運び易いようにと、£12-00からのチケットがある。しかも3列目ど真ん中なのだ。オリヴィエシアターはローマンスタイルの劇場で、最前列でも舞台を見上げる事がないので、£12-00でこの席は夢のよう

さてこのミュージカル、すごく新しいスタイルで作られている。ミュージカルなのだけれど踊りは一切無い。歌もそれらしく歌い上げるという事は無くて、むしろ台詞にトーンが付いている、という感じだ。語る為に音程を利用しているといった作りで、これまでのMusicalの概念とちょっと違った新しい手法だ。台詞の殆どは確かに歌になってはいるのだけれど、旋律が耳に残らないのだ。メロディーラインも音楽というよりは効果音的な要素が強い。コーラスの掛け合いなんて、楽譜を頭に思い浮かべてみたのだけれど、どうしても聞いただけでは捉えきれない。そんなミュージカル/プレイが成功しているのは、音にあおられた台詞がより心情を膨らませて変化していくからだろう。

ストーリーは実際に数年前(2006年)にイギリスで起こった連続殺人事件を扱っている。イングランド東部、サフォーク州のIpswichという街での連続娼婦殺人事件が起きた。街娼として街に立っていた5人の女性達の遺体が次々と同じエリアで発見され、普段は平和で静かな街が騒然となる。このミュージカルはイプスウィッチのLondon Roadに住んでいる人達に焦点をあてて、地元住民としてのショック、不安、猜疑心、警戒心、そしてコミュニティーの繋がりを描いていく。歌という形で歌い上げるのではなく、音程の微妙な高低、テンポ、音量で心理描写を倍増させることに成功している
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事件発覚直後の驚き、そして犯人が捕まらない間の不安とお互いへの猜疑心、警戒心。女達は男性をみると「こいつが犯人か!?」と思い、男達はそんな女性達の冷たい視線を浴びる毎日に閉口する。ロンドンロードの79番に住んでいた男が容疑者として逮捕されると、街は連日連夜今度はメディアの目に曝される。平和だった住宅地の一角にテレビカメラや新聞記者、レポーターに、冷やかしで現場を見学に来るツーリストまで押し寄せて、地元住民達の穏やかだった日々がかき回される。彼等は家の出入りさえも、世界中から見られているような毎日にとまどう。

裁判が始まるまでの間も、「もしこの男が犯人じゃなかったら、真犯人は他に居るのか?」という疑問や不安、そして裁判が始まるとまたもや国中から押し寄せるマスコミの群れ。すっかり連続殺人の代名詞になってしまった地元の名誉を取り戻すにはどうすればいいのか、、、住民達の悩みは尽きない。

ロンドンロードに住む人達はこの事件をきっかけに強いコミュニティー意識を取り戻し、住民達でガーデニングのコンテストを開く。それぞれの家の前庭、後庭をいかに美しく草花で飾るか、というコンテストだ。前庭の芝をきれいに手入れし、家の窓際やドア、庭にも花を植えたバスケットを沢山つるし、ロンドンロードを美しく飾る。一介の殺人事件が地元住民の暮らしにどれだけ大きく影響してしまうか、そしてそこから近所同士の繋がりをどう立て直していくかをシリアスながらもコメディータッチに描いている。
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実際に事件当時に地元の人達に行ったインタビューを元に作られた本は現実としての説得力があり、台詞をあおる旋律やコーラスのパワーは派手に歌い踊る以上に効果的だ。観終わった後に音楽の旋律が全く頭に残らないというのも凄い。それだけ音が台詞に同化しているのだ。もちろん役者達の歌唱力、発声力が素晴らしいからこそ成功しているのだけれど。

まだ記憶に新しい事件だし、役者達も本当にお隣に住んでる普通の人達を地味に演じる事でリアリティーがある。劇中に使われているインタビューのテープは事件当時のメディアによる地元住民達、さらにはそのエリアで街娼をしていた女性達の実際の声だ。

私自身にも数年間に降り掛かった事だけれど、事件というのはどうしても「自分には起こらない事」と思ってしまいがちだ。毎日のようにテレビや新聞で観ているにもかかわらず、心のどこかで他人事にしてしまうものだ。でもこの舞台は語りかける。「次はあなたの街かもしれない」と。
事件前と事件後は決して元には戻らない。でもそこからどうやってポジティヴに普通を取り戻していくか、、、このミュージカルでは地元コミュニティーという形で人々の結束を固めていく。

観終わった後の不思議な感覚・・・大掛かりなステージとは全く違う、とても現実的で日常的なミュージカルだった


個人的に、ちょっと浮き浮きしております。金銭苦だったこの丸一年!いつまで続くかと思っていたら、急展開が訪れてどうやら脱出できる運びに・・・・よく言うよね、「長くて暗いトンネルの出口が全くみえない・・・」でもトンネルはまっすぐとは限らないのだ。暗くて見えなくてもそのトンネルは大きく湾曲していて、曲がったとたんに出口が目の前にあるのかもしれない。今が最期の曲がり角かもしれないのだ。またひとつ人生を学んだ気がする。

で、メドが立った途端に早速買ってしまったのが芝居のチケット、それも来年と再来年の分。最近のロンドンの芝居は昔のようにロングランというのがなかなか成立しなくなって来ている。ミュージカルなんかは相変わらず観光客に人気だからヒット作は続いていくけれど、普通の芝居は3〜4ヶ月限定のような形がほとんどになってきている。シーズンという事で向こう半年から1年のプログラムが随時発表されていく

その中で、今年の冬から来年の冬までのシーズン演目が発表になったMichael Grandage Company。彼はこの10年間倉庫を改造したスタジオ型の劇場、Donmar Warehouseの芸術監督だった人だ。客席わずか180程のDonmarから次々と良い作品を送り出し、数年前から年間を通じての公演をシリーズとして発表してチケットを発売するスタイルをとっていた。こんな小さなスタジオ劇場にイギリスを代表する実力派のベテラン俳優達が次々と出演するものだから、ロンドンでもチケット取りがかなり難しくなってきたものだ。今年からDonmarの監督は変わったけれど、自身の演出作品をシリーズとして打ち出す姿勢は変えていない。

2012年12月から2014年2月までの演目も、すべて観たいもの揃い。ベテラン俳優サイモン・ラッセル・ビール、ジュディー・デンチとベン・ウィッショウの競演、ハリー・ポッターから脱皮して大人の俳優へと目指すダニエル・ラットクリフ、大好きな「Little Britain」のデヴィッド・ウォーリアムがボトムを演じる「夏の夜の夢」そしてシーズン最期がジュード・ロウのヘンリー5世。う〜〜ん、全部観たい!!けれどここはやっぱり厳選しなくては、、、という事で、取ったのはJudi Dench+Ben Wishawの「Peter and Alice」とジュード・ロウの「Henry V」なんとチケットは来年の3月とヘンリー5世のほうは2014年の1月ですわ!!

先週観て来た「One Man, Tow Guvnors」はもう笑い転げた スラップスティックコメディーっていうのも随分観ていなかったなあ〜。去年のNTでの初演から絶賛されていたので観たかったけれど、金欠対策で我慢していた作品。それがこの夏に再演されて特別オファーの料金で凄く良い席が取れた。英語の題名を聞いた時はピンと来なかったのだけれど、この戯曲には原作があって、それが「The Servant of Tow Masters」と聞いた時、なんとなく記憶の底から浮かんできたのが二人の主人を一度に持つとという芝居の題名とアルレッキーノという名前。もう遠いむか〜〜しにあった気がする

幕間にプログラムを見てみると、原作者のカルロ・ドルゴー二は18世紀後半のベニス生まれの人。当時は俳優達が鍛えられた身体をフルに使ってドタバタと転げたり走り回ったりして見せ場を作るコメディーが流行していて、フランス宮廷(ルイ15世)にも召し抱えられていたそうだ。あれ、、?丁度カサノバの世代だわ。芝居やオペラ大好きで毎日のように劇場に行ってたカサノバもきっとドルゴー二の喜劇を観たに違いない それにしてもこの芝居の題名と役名が記憶にあるという事は、私昔にこの舞台を観たんだろうか、、、?観たような気もするけれどちょっと覚えてないなあ〜〜

このOne man, Two Guvnorsは舞台を60年代のイギリス、南のシーサイドリゾート=ブライトンに移してストーリー設定は原作と同じで書き直された一応新しい芝居だ。台詞のユーモアもイギリス風になっている。お金欲しさに2人の主人に使える事にしたものの、二人の主人が同じ宿に泊まってしまい、あっちにもこっちにも・・・というドタバタの立ち回り。シチュエーションだけでなく、実際の役者の身体の動きがものを言う。最初からず〜っと笑いっぱなし。途中で客席から観客を舞台に上げてシーンに参加させて笑いを誘う場面もあって、場内盛り上がった。笑うというのは本当に素敵なストレス解消だ

今年は無理だと思っていたけれど、うまくすれば秋には日本に行かれるかもしれない・・・そう思ってチェックしてみたら、そうか大竹しのぶさんと藤原竜也さんの「日の裏姫物語」が11月からだ。う〜ん、これは実はとてもとても観たい。15年前に藤原竜也君が出て来た当時、「この子は大竹しのぶさん以来の天才だ」と思ったものだ。なんと今年で30になったのだから本当に早い・・・おばさん年取るはずだわ。11月ねえ〜〜、行かれるかなあ? 日本で遊べるだけのお金を今から調達するのはなかなか苦しい。現在の貯金ゼロですもの。でもここから脱出できるだけでも有り難い。

再来年のチケットなんか取っちゃって、それまでに何があるかも解らないのにね。来年の事を言うと鬼が笑うというのはどんな理由だったか、じゃあ再来年はどうよ



日曜日に芝居を観に映画館へ行って来た

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これって、通常の観劇とは違う行為なのだ。ロンドンの劇場はまだまだ日曜日は休演日が普通。最近でこそツーリストに人気のミュージカルとか、期間限定タイプの公演なんかが日曜日の午後に上演するケースが出て来ているけれど。そして映画館ではもちろん芝居は上演していない

これは去年からNT=ナショナルシアターが始めたNT Liveというもので、公演期間中の限定された日に、劇場からライヴ中継される公演を映画館で同時に観るというもの。本来はロンドンに住んでいない人、ウェストエンドまで芝居を観に来られない人達にも舞台の興奮を一緒に楽しんでもらう、という目的で実験的に始められた

日本と違って、こちらでは舞台公演がDVDになるという事は無い(何かの記念公演のような形を除いて)。あくまでも舞台は生のものという伝統精神が根強いのか・・・ 舞台と映像はきっちりと隔てられている。だから今回のNTのライヴ中継というのは全く新しい形なのだ。あくまでも、DVDのように家で観るのではなく、遠くにいても映画館の客席で一緒に舞台を観ましょうという事なのだ

これが実は大当たりだった。去年のNTLiveはどの公演も大成功で、今年になってからはNTの作品はそのほとんどがLiveの日を設けている。しかも最初にこの企画が成功してからはどんどん上映映画館は増え、イギリスのみならずヨーロッパ、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカと世界中の映画館で観る事ができるようになった。連続上映というわけではなく、一公演に限定された日のみなので、普通の映画をみるのともまた違う。

今回私が観たのはさらにそれの再上映版だ。去年観た「フランケンシュタイン=Frankenstein」のライヴとして上映されたものが大好評だった為、またしても日にち限定で再上映されている。このフランケンシュタインは2人の主演俳優が怪物=クリーチャーとフランケンシュタイン博士を交互に演じ、二人揃ってEvening Standard,さらにLawrence Olivierの2大演劇賞の最優秀演技賞をダブル受賞した。私の感想ブログはこちらをどうぞ。 ダブルキャストのうちどちらを観るかでかなり迷った末にジョニー・リー・ミラー氏のクリーチャーで観たのだけれど、やっぱり二人とも大評判だったのと主演男優賞を二人でシェア受賞という事もあって、今回の再上映が決まったと聞いてすぐにカンバーバッチ氏のクリーチャーを観ようと決めた

休憩無しの2時間芝居なので流れはかなり詳細に覚えている。それでも映像だと役者の表情や特に身体の動きが細やかにアップで観られるので嬉しい。日本でよくある舞台のDVDもそうだけれど、本来は舞台で演じられている物をどう映像として撮るかというのは、やはり映像としての新たな演出力が問われると思う。どこでアップにするか、どの角度からのカットを採用するか・・・?

例えば藤原竜也君が主演した「ハムレット」のWOWOWの映像は私はかなり良かったと思う。全体の絵、アップにするタイミング、芝居の流れに沿った躍動感があって、生の舞台ではないのに生き生きとした呼吸が伝わってきた。実はWOWOWが撮った舞台の映像ヴァージョンはどれもかなり質が良いと思っている。日本での舞台がどうしてこんなに映像=DVDになるのかは、商業的な意味と同時にやっぱりロングランが成立しないという日本の演劇事情にもよるのかもしれない。でもだからなのかな、録画された舞台中継の作品は結構良いものが多い。NT Liveもどうやら定着しつつあるので、その辺のセンスが向上するといいな。決して悪くはないけれど、映像としての舞台中継という意味での演出力がアップする事を期待してます。

こんなロンドン郊外での映画館だし、映画館での舞台中継上映なんてもしかして私しか行かないかも・・・なんて思っていたけれど、結構観に来ている人達がいてちょっと嬉しい驚きだった。もちろん映画館満員という訳じゃないけどね。本来は劇場の舞台で芝居を観るというのが基本だけれど、今回みたいにもう一度違うキャストで、、、という場合にはライヴ再上映£10-00なら大歓迎です

ちなみにこの芝居を演出したDanny Boyle氏、「スラムドッグ・ミリオネア」での演出で世界的にも有名だけれど、彼は今年のロンドンオリンピックで開会式の演出を担当する。実は彼の映画作品は、メジャーになった「スラムドッグ・・」や「The Beach」も良いけど、最初の「Shallow Grave」や「Trainspotting」みたいな骨太で心理的にちょっとダークな作品がピカイチなんだよね。さてさてどんなオリンピック開会式になるんでしょうか・・・

この芝居でダブル受賞をしたお二人、カンバーバッチ氏は去年は他にもBBCの新しいシャーロック・ホームズや映画の「Tinker Taylor soldier Spy」 で活躍してまさに当たり年だったし、一方のミラー氏はもうすぐ封切られる映画版のシャーロック・ホームズでシャーロック役をやっているそうで、何となく因縁ある関係になりつつある・・・ミラー氏はもう16年も前にアンジェリーナ・ジョリーと結婚していたというもの最近知って驚いた

もちろん舞台は生のもので映像とは違う。これが最善とは言わないけれど、ロンドンに来られない人達がライヴ中継で舞台の空気を感じながら芝居を観られるというのはとても良い事だと思う。だからこそNTはますますこのLiveを広げているのだろう。地方に住んでる人、あるいは金欠で舞台のチケットはちょっと手が出ないという人にも丁度良いセカンドチョイスだと思うな

あ〜あ、、金欠状態から何時になったら抜け出せるのやら・・・???




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前々から一度観たいと思っていたジャコビアン悲劇のひとつ、「The Duches of Malfi=マルフィー公爵夫人」を観た。このジョン・ウェブスターのジャコビアン悲劇は、以前全く別のプロダクションで観たかったのがチケットが取れずに残念だった。今回のプロダクションはDonmerのジェイミー・ロイドの演出でレビューは星4つが並んでいたので、金欠にもかかわらずイースタースペシャルオファーという事で良い席を格安でゲット!

時期的にはシェイクスピアの後輩、トーマス・ミドルトンやジョン・フォード等がドロドロの復讐劇をいくつも書いたこの頃の作品一連は「Jacobien Tragedy」と呼ばれる。ジャコビアンはジェイムス1世の時代で、エリザベス1世のすぐ後だ。(英語名のJamesはヘブライ語のJacobからきている)復讐悲劇とも呼ばれ、内容は裏切り、陰謀、復讐、殺人、がてんこ盛りで、その始まりは禁断の恋、密通、レイプ、近親相姦といったドロドロしたものばかりだ
ミドルトン/ロウリーの「チェンジリング」やフォードの「あわれ彼女は娼婦」、そしてジョン・ウェブスターの「白い悪魔」やこの「マルフィー公爵夫人」はどれも舞台が死体だらけになる

この芝居のプロットは未亡人になってしまった若い公爵夫人。アラゴン出身でアマルフィーの公爵に嫁いだ彼女の名前は何故か出て来ない。彼女には双子の兄(フェルディナンド)と長兄の枢機卿がいる。枢機卿は愛人を囲っていて、未亡人になったばかりの妹を見張るようにと、自分に仕えて汚い仕事を引き受け、やっと奴隷船での刑罰から戻ったばかりのボゾラにスパイを命じる。一方フェルディナンドは執拗なまでに妹の再婚を警戒し、彼女に硬く再婚しないようにと釘をさす。これは彼女の再婚によって公爵家の莫大な財産が自分に回って来るチャンスが減るのを防ぐ為と、もう一つは彼女に対して近親相姦的な愛情と嫉妬を持っていたためだ。にもかかわらず、彼女は自分の家従であるアントニオと秘密に結婚してしまい、3人の子供を設ける。公爵夫人とアントニオは二人の関係を公には知られないようにしていたが、やがてアラゴンにいる兄達にも疑惑の噂が届く。アントニオと長男は彼女と別れて直前に逃れたが、身分の低い男との間に子供を設けたとあって激怒した兄は、妹の居場所を探し出して彼女と二人の子供を監禁し、ボゾラに殺害させる。彼女の死体を前に公爵家の財産が自分に回るようにとの計算高い心を見せたフェルディナンドをみて、ボゾラは次は自分が殺させる事を予感し、サービスの報酬を要求するが、フェルディナンドは取り合わない。ボゾラは一時的に息を吹き返した公爵夫人にアントニオと長男は無事な事をささやき、彼女が息絶えると逆に兄達への復讐を決意する。
というわけで、後半はもう次々と皆殺されてしまう。殆どはボゾラによって。


今回の演出はジェイミー・ロイド。彼の舞台はいくつか観たけれど、私の感想では演出的に良かったものとそれほどでも、、、の2つに別れる。ミュージカルだった「Piaf」と「Passion」はどちらも凄く良かったけれど、「サロメ」はかなり不愉快だった。今回の演出はその両方。場面によって「お!いいなあ〜」とおもうシーンと「物足りないなあ〜」というシーンに分かれた。特に連続殺人になる後半が、あまり緊迫感もなく、ドロドロした心情も実際の血も出て来ないので、なんだか実感が無い。以前にナショナル・シアターで観た「Women Beware Women」のほうがずっと効果的に演出されていた。(これは本当に巧くできていたこちらです

何故、こんなドロドロの惨劇が400年経っても上演されるのか、それは人間の醜さ、弱さ、残酷さが、罪と解っていてもどこか心の隅をゾクゾクさせる、半分エロティックな誘惑があるからだ。その禁断の魅力が舞台で出てきてこそ面白いのだ。

公爵夫人役のEve Bestは素晴らしい女優さんだし全体としては面白い芝居だった でも何かがちょっと欠けてるような感じ。それが心をくすぐるエロティックな誘惑。舞台から裸にした台本だけを読めば、それだけで面白い舞台になるのは解る。17世紀の舞台という事で舞台セットや衣装等はとても絵としては良かったけれど、公爵夫人をとりまく登場人物の持つ心の汚さが今ひとつだった。ボゾラを演じた俳優はスコティッシュの人で、彼のそのままのスコッツアクセントがいかにも手を汚して来た感じのする泥臭さを出しているものの、今ひとつ陰のパワーが弱いのもちょっと残念。でも演技よりも演出じゃないかと思うんだけど・・・

本としては充分面白いので、いつか違う演出でまた是非観てみたい。プロットが単純でちょっと捻りが少ないとは思うけれど、そういった意味ではやっぱりシェイクスピアやミドルトンのほうが筆は上かな。


30年・・・、そう、このミュージカルの舞台を観るのに30年待った。「Pippin=ピピン」です!

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スティーヴン・シュワルツ(Stephen Schwartz)のPippinは、ボブ・フォッシーの演出/振り付けで1972年にブロードウェイで初演された。2000上演近いヒット作になり、トニー賞はじめいくつもの賞を穫ったにもかかわらず再演はあまりされず、ほとんど忘れられたミュージカルに数えられていた。今ではオリジナルのセクシーでちょっとエロティックな部分はほとんど省略されて、逆に子供が楽しめるアマチュアヴァージョンが各地の学校の学園祭等で上演される事が多いので、ロイド・ウェバー氏の「Joseph•••」のようなファミリーミュージカルだと思っている人も多いらしい

個人的にとても思い入れのあるミュージカルだ。 というのも劇団時代、何故かこれからの上演予定作品の中にこのミュージカルが入っていた時期があったからだ。制作上の事はよく覚えていないけれど、きっと当時は上演権を取ってあったのだろう。ミュージカル概論の講義でストーリー/舞台構成を聞き、ブロードウェイ版のサントラを何度も聞いては歌っていた

その後、ブロードウェイでのステージを映画用に撮影した舞台映画版を観て、ボブ・フォッシーの振り付けにハマった。JazzyでSexyなダンスシーンと、色鮮やかな コスチュームの舞台。ボブ・フォッシーといえば代表されるのが、「キャバレー」や「シカゴ」の振り付け。帽子やステッキを巧みに使ったセクシーな振り付けで、ちょっとダークで危険な香りを醸し出す。子供向けミュージカルにもなりがちなストーリーが大人向けになっているのは、彼の振り付け/演出による。この映画版は最近になってYoutubeにも上がっているのを見つけた。各歌を中心に場面毎に別れているけれど観る事ができる。物語のキーになっている曲、人生の意義を探す決意をするピピンの歌=Corner of the Skyこちら

ストーリー

舞台はリードして行く狂言回しの役割をする役者が各場面を取り仕切る形で進んで行く。ローマ帝国を支配するシャーメイン国王の王子、ピピンは品行方正、学業優秀で教育期間を終了する。父には色仕掛けで王の寵愛をつなぎ止めている後妻のファストラーダと彼女の連れ子(弟)でお馬鹿だけれどやる気満々の戦士=ルイスがいる。これからの身の振りかたについて、彼は「人生の真の意味を探しに、何か特別な大いなる物=extraordinaryを見つけに行きます」と宣言する。
ところが戦争に参加して勝利を収めても、流されたおびただしい血に手をそめて恐れおののき、沢山の女達との性愛にふけっても愛の無い情事にピピンの心は満たされない。彼の心は相変わらずEmpty and Vacant。ピピンは継母のファストラーダと折り合いが悪くて隠居している祖母、バーサに会いに行く。ピピンはバーサから、「考え過ぎちゃ駄目、自然の成り行きに任せて人生を楽しんで生きることさ。」と励まされ、もう少し力を抜いて生きてみようと思う。
やがて父王の政策が段々暴挙を帯びて来ると、ピピンは父に反抗して革命を企て、父を殺害して王位に就く。しかし、自分が王になってみると事は思うようには運ばず、結局は父がとったような暴君政治になりつつある事に気付いたピピンは、ここで芝居を止めて、リードアクターに父を生き返らせてストーリーを修正してくれと頼む。かくして自分が王になる前に話は戻り、ピピンはさらに人生特別な意義(extraordinary)を探して芸術や宗教といろいろ試すが、相変わらず心は満たされず、とうとう道に行き倒れてしまう。
倒れていたピピンを助けて世話をしたのが未亡人のキャサリン。彼女にはテオという息子がいて、典型的な田舎の農家暮らしだ。キャサリンとテオの家で、ピピンは初めて平民の平凡な生活を送る。やがてキャサリンと愛し合うようになるが、次第に乳搾りや死にかけのアヒルのために祈るような日々をとてつもなく退屈だと思い始めたピピンは、心傷ついたキャサリンを置いて家を出る。
この後はフィナーレに向かって行く。リードアクターやアンサンブルの役者達にあおり立てられて、ピピンは壮大で目を見張るような劇的な最終場面を演じようとするのだが、結局は自分の心が一番安らいだのはキャサリンの側にいた時間だったのだと悟る。あれほどExtraordinaryを求めたピピンが、最期には音楽も証明も無くなった舞台で、キャサリンとテオと抱き合って歩き始める。
そして空っぽになった舞台に再びテオが戻って来て、静かにCorner of the skyを歌う。今度は彼が人生に何かを求めて旅立つのか・・・?


今回の舞台は物語そのものをコンピュータービデオゲームの中の世界、という全く新しい設定にしている。まあそれは無理もない。1972年のアメリカと今とでは社会状況が全く違う。人生の希望に満ちた無垢な青年が自分探しの旅に出る、なんて話はこの夏に街中を荒し回った今時のティーンエージャーには通用しないからね。でもこのビデオゲームという設定が巧くハマっている

会場に入る前の通路はオタクっぽい男の子の部屋になっていて、ピピン役の役者がPCに向かっている。 そのゲームの中が会場という設定だ。このメニエール・チョコレート・ファクトリーは、昔チョコレート工場だった建物をスタジオシアターに改造したもので、客席だって180あるかないかだ。セットはシンプルだけれど、ビデオスクリーンをふんだんに使っている。各場面がレベル1レベル2とゲームのように設定されていて、はじめの人物紹介から、戦争をクリアしたら女性遍歴、次のレベルは革命、権力、、というようにゲームの中でストーリーが展開して行く。女性達との遍歴のシーンはセクシーなダンスシーンと同時に出会いサイトやエロサイトの映像が使われ、父のシャーメインを生き返らせるシーンは前のレベルに戻ってやり直し、という手法だ。 

特筆すべきは、ビデオゲームという設定にした事で話の古さを感じさせない事と、嬉しい事に随所にオリジナルのボブ・フォッシーの振り付けを再現している事だ。これはわざわざニューヨークから、かつてフォッシーの助手だった振り付け師を招いて、ダンサー達にブートキャンプが開かれたそうだ。 

リードアクター役はブロードウェイでのベン・ベリーンのイメージが強かったのでどうかと思ったけれど、今回の人もなかなか良かった。 ロックシンガーっぽいタイプで、エヴィータのチェ役も良いかな。私の一番のお目当ては、ファストラーダ役のフランセス・ラッフェル(Frances Ruffell)。彼女はレ・ミゼラブルのオリジナルでエポニーヌを演じた人で、私の大〜〜好きな女優さんだ。(彼女についてはこちらにも書きました。)小柄ながらハスキーな声とコケティッシュな魅力。47歳のはずだけど、ダンスシーンでは見事にスプリッツを見せてくれます!!歌唱力は言うに及ばず

もう一人、バーサを演じたルイーズ・ゴールドも素晴らしかった
 何といってもチャーミング。彼女のシーンは観客を巻き込んで皆で歌うという状況にもっていかなくてはならないので、引っ張る力がないとついていけない。出て来た瞬間に観客が彼女を好きになってしまわないと成り立たないのだ。このシーン(レベル)はポカポカと太陽の暖かさを感じるような場面だった。もちろん皆でNo time at allを大合唱してきた。

主役のピピンはもっと小柄で線の細いイメージだった。少年の面影を残したウブな感じ、、?でも今回のHarry Heppleはなんだか健康そうな大人に近い青年で、ちょっとイメージと違ったかな、でもオタクっぽい現代風の若者という感じはする。そして歌声がとても綺麗だ。う〜ん、、最終的に歌でオーディションに勝ったっていう感じだったのかなあ〜。実はテオ役の役者がピピンの アンダースタディーにクレジットされているけれど、彼が最期に歌うCorner of the Skyの一節もソフトな声だった。私としては彼のピピンを観てみたいかも

子供連れで来ていた人もいたけれど、最初に書いたように元々このミュージカルは子供向けじゃない。それを知らなくて、学校演劇のイメージで観に来た人はちょっと度肝を抜かれたかもね。 この芝居は好き嫌いがあると思う。このメニエールはリバイバルもののミュージカルには定評があって、ここで大ヒットして大きな劇場に移った作品がいくつもある。でもピピンはここ(小スタジオ)でヒットしてウェストエンドで再演っていうパターンまでは行かないように思なあ、、、

でも個人的にはとても思い入れのあった作品なのでやっと観られてよかった。しかもフランセスが出ていたのはボーナス!ボブ・フォッシーの振り付けも、当時のアシスタントやダンサー達によってかなり保存されている。演出によって変わるのが舞台ではあるけれど、やはりダンスの振り付けも一つの芸術作品。作品として保存していくべきだよね

観られて良かった。楽しかったよ

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