見つけもの @ そこかしこ

ちょっと見つけて嬉しい事、そこら辺にあって感動したもの、大好きなもの、沢山あるよね。

舞台・芝居全般

病んだ心に天使の声=Farinelli and The King


カストラート、一度その歌声を聴いてみたいと思ったものの、今ではそれはかなわず、一番近い所でカウンターテナーの声を探した時期があった。
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今回の芝居は18世紀初めのスペイン王、フェリペ5世とヨーロッパ一の歌声で大スターだったカストラートのカルロ・ファリネッリのお話。国王は極度の躁鬱病にかかっており、王妃(2度目の)イザベラ(エリザベッタ)や宰相達を手こずらせている。主治医から精神の安定には音楽が良いのではと助言された王妃は、当時のヨーロッパ一の歌声で大人気だったカストラート、ファリネッリをスペイン宮廷に呼び寄せる。国王はファリネッリの歌声で病んだ心に安らぎを見いだし、ほどなく国王にとってファリネッリの存在そのものが必要不可欠な程になっていく。

フランスの太陽王=ルイ14世の孫として生まれたフェリペ(フィリップ)はフランスのヨーロッパでの勢力拡大の為に王位継承者選びで困っていたスペインに新国王として即位することになる。(当時のヨーロッパ王家はなんらかの血縁関係があり、王位継承権は何通りも考えられた)スペイン語も話せないのに王になってしまった自分の運命を、フェリペは「自身で選んだ訳ではない」とファリネッリに話す。

一方のファリネッリは10歳の時に父が死んだ後、家族を経済的困難から救うため、兄の取り決めによって去勢され、カストラートとして生計を立てるべく訓練される。この芝居は、権力と名声を手にしながらも、どちらも「自分で望んで選んだ人生ではなかった」という共通点を持つ二人の友情と、夫をあくまでも国王として献身的に支え続ける王妃の3人の結びつきが描かれる。

フェリペ5世はファリネッリと王妃の3人だけで森の中での生活を夢見てマドリッドの宮廷から出てしまう。森の木の上に家を作り、農夫のような姿で夜の月明かりの下でファリネッリの天使の歌声を聴き、少しずつ精神が安定していくように思えた、、、、

実際にファリネッリはスペインに行ってからは国王と王族の為だけに歌い、錯乱のひどい王が昼と夜逆の生活になってからは、朝の5時半頃まで数曲のアリアを繰り返し歌っていたという。ヨーロッパ中から脚光を浴びていた大スターが、スペイン宮廷に20年以上も留まっていた。18世紀初めにはスペインではオペラはまだ広がっておらず、ファリネッリの力でやがてスペインにもオペラ劇場が建てられるようになる。
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実際に国王が森の中で暮らしたかどうかは定かでないが、音楽が精神の病に与える影響というのは実際に研究されてきた。統合失調症やアルツハイマー、強度の鬱病や躁鬱病、記憶喪失などにも音楽を用いたセラピーは効果を示しているという

劇中ではファリネッリが歌うシーンになると、ファリネッリ役の役者の横に影のようにもう一人、カウンターテナーのシンガーが登場して歌う。ファリネッリの台詞の中で、「歌う時は、自分の声なのにもう一人別の自分がいて、そこから声が出ているような感じがする」と言っているのもあり、このシャドウのようなシンガーの登場はあまり違和感は無い。

宮廷サロンにいるような、ゆったりとした夜のひと時、といった雰囲気の芝居だ。この本を書いたクレア・ヴァン・カンパンは実は戯曲家というよりは音楽家だ。Royal college of Musicを出ており、シェイクスピアのグローブ座で音楽担当もしている。また物書きとしては音楽関係の本もいくつか書いており、舞台の音楽も数多く担当しているので、この芝居の台本を書くに至ったという。
戯曲としての完成度は有名な劇作家達のような筆の技法は無いけれど、シンプルで穏やかなストーリーにバロックのアリアがちりばめられていてとても美しい作品になっている

こういう、サロン風の芝居も秋の夜長にはゆったりとしていて良い。スペインでの日々を終えた晩年のファリネッリの影で歌われるヘンデルのLascia ch'io piangaはとても美しい....
米良美一さんやPhillipe JarousskyのLascia ch'io piangaがとても好きだ。この芝居のラストにまさにふさわしい一曲。せっかくなので米良さん版を映画「ファリネッリ=カストラート」に合わせたヴァージョンをどうぞ。

タンゴ 冬の終わりに


今回の里帰りでの観劇はこれ1本、清水邦夫の「タンゴ 冬の終わりに」。三上博史さんがこの作品をやると聞いては観ないわけにはいかない!! 蜷川さんの「Ninagawaマクベス」も、これが最期の機会かな〜と思ったのだけれど、なんせお高い。で、配役等すべて検討して、これ1本に絞った。

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初演は1984年、その時は私は観ていなかった。私が観たのは91年だったか、ロンドンのウェストエンドで蜷川さんの演出で英国人俳優による英語ヴァージョンで上演されたものだ。日本人演出家の舞台が本当のウェストエンドで上演されたのは初めてだったと記憶している。しかも、当時「危険な関係」等で人気急上昇だったアラン・リックマン氏の主演でだった。登場人物の名前は日本名のままで、演出も日本が舞台のまま、それを英国人俳優でやるというのは凄く勇気のいる制作だったと思う。

狂気の世界に足を突っ込んだ元俳優の話だ。スター俳優だった彼も今は田舎に引退しているのだが、それでも栄光の舞台で輝いていた日々を忘れられない。そのくせ、自分と関わっていた人達の事はどんどん解らなくなっていってしまう。その妻、弟、元不倫相手、その現在の夫、誰かの人生の中での自分の存在を確かめるべく、、いろんな思惑が交錯する中、当の本人はどんどん自分の中の舞台に入っていってしまう・・・・

正直いって、古い本だ。私が演劇養成所、劇団時代には清水邦夫や別役実、寺山修司、それから唐十郎とか矢代誠一の戯曲をよく読んだし、観た。今から思うと、いかにも70年代の匂いがする作品達。私はこの芝居をロンドンヴァージョンで観た後に、本を探して戯曲を読み、(あの当時は英語の台詞劇はまだちゃんとは理解できていなかった)いつかまた観たいとずっと思っていた。

今年はハムレットを2本みて、やはり「狂気」を演じる芝居の違いを感じていたところにこの芝居。正常な人間には想像するしかない「狂気の世界」を演じるのは難しい。狂った人間がどんな声で話すのか?、そのテンポは?、間は?、呼吸は?、、、そしてどんな風に人を見るのか?、その目の動き方は?目線は?振り向き方から歩き方まで、どう創ればその役が表現できるのか・・・・??

この芝居は2日間に渡る話で、時間にしたら実は1日半分しかない。徐々に進行していく過程を描く暇もない。

幕が開いてから最初の10分程はこの芝居のテンポに乗れずにいた。間延びしているように感じて。これは多分私が日本語の、しかもこういうちょっとレトロな空気の芝居を見慣れていないせいだと思う。「こんなにテンポ遅いのか、、??」とちょっと首をかしげながら観ていた。三上さんの声は澄んでいて、台詞はきっちりと聞こえるものの、心が病んでいる人間の台詞に聞こえない、、、、

でもだんだん解ってきたのが、彼はもう自分の世界の中でしかものを見ていないのだという事。だから周りに反応しないで、自分だけのテンポを貫いている。そうか、これが三上博史の演じる清村盛なのだ。この周りを見てない演技が後半になって輝いてくる。

周りのキャストが皆良い。ユースケ・サンタマリアさんは舞台で観たのは初めてだったけれど、テレビで観るよりずっとずっと良い 弟役の岡田義徳さんは出てきた時から光っていた。声が素敵だ。この岡田さんとユースケさんが見た目がちょっと似ていて、最初は「ユースケさんにしちゃあ、若いな、、??」と思ってしまっていた。おばさん、時代遅れだわ、、、、

あの頃のなんだろう、、?埃臭いっていうのか、泥臭いっていうのか、そういう匂いのする芝居を今の時代に再演するのって、難しいんだろうなあ、と思わずにいられない。もちろんもっと現代風にしても芝居は成り立つ。でもシェイクスピアのようにオリジナルの匂いを消しても作品を残すか、時代の流れと共に少しずつ上演されなくなってしまうのか、、、なんだかあの頃に読んだ、観たカビ臭い芝居がとても懐かしくなってきた。

本で読んだだけで観ていない芝居っていうのも沢山あるなあ、、、この「タンゴ 冬の終わりに」みたいに、いつか観られる機会はあるんだろうか・・・??

ハムレットの調理法


一年以上前にチケットを取ってあったベネディクト・カンバーバッチ氏のハムレット。3週間程前になってやっと届いたチケットには「入場には写真付きIDが必要」と但し書きがついていたのだが、結局誰も何もチェックしなかったよ・・・

実はプレビューの頃から楽屋口にたむろす世界中からのミーハー的なファンが多いらしく、カンバーバッチ氏自身が「お願いだから公演中に携帯で写真やビデオを撮るのは やめてください、舞台から客席のあちこちに赤いライトが見えて気になります」みたいな事を言っていたので、「こりゃ、ちょっと雰囲気ちがうかな」と心配 していたのだけれど、別にそんな事はなく、観客はマナーを守って楽しんでいた

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今年は同じバービカンで5月に蜷川さん演出のハムレットを観たけれど、ほとんど別の作品のように違う舞台だ。今までに舞台やスクリーンで10本以上観ているこの芝居は、もちろんいつも違うのだけれど、今回のは一番が印象に残る。舞台セットの全貌が現れた時には思わず素晴らしさに息を飲んだ。この公演チケットは他と比べると異常に高くて、「なんでこんなに高いんだよ〜〜!」と内心カンバーバッチのせいか?、、と思っていたのだが、この舞台を観たら「こりゃ、お金かかってるわ、、、」と納得。

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ハムレットが何度観ても飽きないのは、やっぱりプロダクションによってその調理法が違うからだ。時代設定や人物の解釈はもちろんの事、それ以前に台本が毎回違う。1603年に初版が出版されてから30数年の間に7版ものヴァージョンがでている。その他にシェイクスピアが執筆するために書き溜めたノートに含まれた台詞やシーンもあって、一番長いヴァージョンだと軽く4時間を超える舞台になってしまう。現代の演劇事情ではこれはやっぱり長過ぎるので、どこかを削って3時間から3時間15分までに抑えるようにしているのが普通だ。

今回の設定は現代とまではいかないけれど、蓄音機や旧式のカメラを使っているので、1900年代前半といった感じ。まず冒頭のベルナルドとフランシスコのシーンがバッサリ切られている。その代わりハムレットが冒頭の「Who's there?!」の台詞を言って、現れたのはホレイショー。そのままホレイショーが帰って来た場面に続く。確かに亡霊云々はその後のベルナルドとマーセラスがハムレットに報告に来るシーンで理解できる。その他にも台詞を違う役に振ったり、米つきバッタ=オズリックを役名無しで女性が演じて余計な部分を削ぎ落としたりしている。宮廷なので、それらしく召使いや護衛が脇を固めていて、出演は総勢23人。これはかなり多い。

何と言ってもこの舞台では行間の埋め方がとても丁寧だった。この演出は、台本にはない場面と場面を繋ぐ登場人物の心情を、場面転換の空白の時間に巧く表現していて話の繋がりが自然に理解できる。実際にはハムレットが狂ったふりをするシーンは短いのだが、おもちゃの兵隊さんの格好でいかにもイカレタハムレットが模型の城に籠ったりと、行間を埋めている。ふらふらと出て行くオフィーリアを見送った王妃が彼女の残した写真が詰まったトランクを開けて、不吉なものを感じて後を追うシーンは、次のオフィーリアの死を告げる場面に巧く繋がっていた。

カンバーバッチ氏のハムレットは、もっとクールで距離感のある役作りになりそうな気がしていたのだが、これは嬉しい期待はずれだった。とても温度を感じるハムレットで、間の取り方や声の使い方で観客が心情についていける。

私はいつも役者を観るときに「演技者」と「表現者」を観てしまう。イギリスではしっかりとした技術に基づいた力量のある演技者としての役者は多い。そのレベルはやっぱり日本とはだいぶ違う。皆、プロとしてのしっかりとした訓練をして来た人達だ。でもその中でも、胸の中が揺さぶられるような表現力を持った役者は実は少ない。私にとって「良い役者」と「好きな役者」はそこに境界線がある。

テレビやスクリーンで観たカンバーバッチ氏は良い役者だと思っていたけれど、「フランケンシュタイン」の舞台で観て以来、「好きな役者」でもある。というより、その中間をバランスよく持っていると思う。表現者=アーディスとして、演じている事をいかに表現できるか、これは役者の永遠の課題だ

今回はハムレットが狂った振りをする場面が行間を埋める演出で面白く描かれている。このハムレットの「狂ったふりの演技」と、オフィーリアの「本当に狂った演技」の違いが印象に残った。台詞の行間にあるオフィーリアの狂った様子の表現は今まで観た中でも一番説得力があったと思う。間をたっぷり使ってピアノを弾いたりして。

実はこの芝居、はじめはかの「To be, or not to be」の台詞を芝居の冒頭に持ってくるという実験的・挑戦的な演出になっていたそうだ。

日本の演劇公演はどれも1ヶ月そこそこなのでこういう形態はとられていないが、こちらでは必ずプレビューと呼ばれる「試演期間」がある。劇場で演じられる最初の2-3週間はあくまでも試演期間で、チケット代も安く観られる。これは、できあがってきた芝居が実際に観客の前で演じてみてうまく機能するかどうか見ながら、修正・変更する大事なプロセスだ。やはり芝居は観客がいて初めて生きるのだと言う事で、これはやっぱりあって当然の重要なリハーサル期間。稽古場で積み重ねて来た事が正しいかどうかを見極めて、必要とあれば大幅に変更する事もある。実際に毎日観客が入っている公演なのだけれど、この期間はどのメディアも劇評の対象にはしない。
作り上げた舞台は本公演の初日に各メディアを招待して披露し、翌日か翌々日には一斉に劇評が載る。そして一度固めたらそれを長期間の公演中維持し続けていくのがプロの仕事だ。

ところが今回、The Times紙がこのプレビューの段階で批判的なレビューを載せてしまい、その事自体を批判する記事が出たりして話題になった。結局To be , or not to beの台詞も元の位置に戻されていた。

蓄音機からシナトラやナット・キング・コールが流れて来たり、オフィーリアの趣味が白黒写真の撮影だったり、ホレイショーが首にTatooを入れたバックパッカーの学生だったりと、「おや、、?」という演出もあったけれど、おもしろく調理された演出で、面白かった。レアティーズ役が黒人の役者で妹のフィーリアが色白の女の子という見た目の矛盾も観なかった事にする・・・・ちなみに、ハムレットのアンダースタディーに配役されているのもマーセラス役の黒人の役者だ。

それにしても今回の舞台セットは良かったよ、、、どこにもセット全体の写真が見当たらないので載せられないのが残念だわ、、、


ハムレット ロンドン公演@Barbican



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            (写真はThe Telegragh より)

前回の生では観られなかったハムレットからもう12年も経ったんだ、、、と驚きながらも藤原竜也さん主演のハムレットを楽しみにしていた。日本では今年始めから公演していたのだが、ロンドンにも来る事が解っていたので、あえて情報集めをしなかった。聞いたのは、日本の田舎家屋のセットという事と、配役くらい。それにしてもこの配役はもうお目にかかれないだろう程の豪華キャストだ

幕が開くまでは「このセットがどうエルシノアとして機能するのか、、?」とちょっと不安もあったのだけれど、実際の舞台では照明を駆使して家屋としてはほとんど見えず、暗い色の塀のようにしか目に入らない。それでいて舞台全体が引き戸で囲まれているので役者の出入りが四方八方から可能になっている。考えたなあ〜〜、、、
王と王妃の衣装は赤。これも照明や椅子の色と相まってベテランのお二人、平幹二朗さんと鳳蘭さんの重厚な演技を倍増させていた。長く蜷川さんの元でスタッフをしていた友人から「蜷川幸雄のこだわり」についてはいろいろ聞いていたので、今回のこの「」にもどれだけ細心の注文があったのか想像がつく

平さんの力量に圧倒された。まず声だ。声、声と台詞のメリハリ、滑舌、息の使い方、これらは役者としての技術、プロの役者が素人とは違う事を証明する武器と言っていい。演技の前に要求される「声と言葉」 がまさにドシー〜〜ンと核をなしていて、一つ一つの台詞が耳だけでなく頭に入ってくる。それに加えて舞台での重厚な存在感、大きな目をクルクル動かしての 表情、何よりも80を超えているのに12時間のフライトでヨーロッパまで来て、舞台では裸で禊の水をかぶるのだからその体力や尋常じゃないよね。さすがで す・・・

存 在感で平さんに引けを取らずに横に並べるという事で、鳳蘭さんのガートルードはやっぱり映えた。このお二人のシーン、今まで何本も観て来たハムレットの中 で一番存在感あったんじゃないだろうか。平さんも鳳さんも私が最期に舞台で観たのはもう30年前になる。今、舞台では実年齢より30年は若い王・王妃に見 えたよ

「藤原ハムレットを12年前に観たかった、、」といつも思っていたのだけれど、前回のWOWOWで放映された舞台を思い出すと、やっぱり今回のほうが数段良い。最近の藤原さんはテレビドラマや舞台は「ムサシ」「日の浦姫物語」等、ちょっとコメディータッチのものが多く、私としては藤原竜也には役不足のような感じがしていた。やっぱり真剣勝負の彼が一番光る。最初のハムレットの長台詞で、目がキラキラしているのを観て「これはいける」と思った

12 年前のハムレットの熱さを残しつつ、もっと大人のハムレットにちゃんと変わっていた。もちろん演出が違うのだからそれもあるのだけれど、役の消化の仕方が 成長している。オフィーリアとのシーンでその違いは顕著だった。舞台での立ち姿も奇麗だったし。(衣装がよく合ってたというのもある)一幕は怒りの為か、 ずいぶん声にも力がかかってしまっていたけれど、2幕ではかなりナチュラルなハムレットだったね。殺陣のシーンは満島さん共々見事な場面だった

ただ、やっぱり「声と言葉」が気になる私、、、特に文頭の無声音が変な音になると耳に残ってしまって仕方が無い。「父」「聞け」「𠮟咤」台詞の頭の音はとても大事、無声音なんだよ〜〜〜その意味で、平さんの台詞はお手本のようだった。

蜷 川さんの舞台はやっぱりまず視覚から捉えられてしまう。今回は海外公演という事が最初から決まっていて、イギリスの観客に見せるハムレットにする事は念頭 にあったはず。ライティングが目を引いた。ハムレットの独白時には白いスポット、王と王妃には赤、亡霊には青白い光、、、クローディアスの懺悔には裸の身 体に禊の水をかぶらせ、劇中劇の雛壇での歌舞伎のような演出とその後のスローモーションは「さすが蜷川さん!」と思わせる

私がハムレットの度に楽しみにしているホレイショー役は、今回は横田栄司さん。藤原さんが10代の頃から折々で共演していた人なので、息はぴったりだろうと思ったら、今回のホレイショーは「大正時代の書生さん」のような出で立ちで新鮮な驚き。その大人なホレイショーが、きっちりと身分の違いを崩さないでハムレットに寄り添う姿は、全く知らない人が初めて見たら「王子さまの家庭教師かしら?」と思うんじゃないか、、、?でも素敵なホレイショーだった

満島みのりさんのオフィーリアは、か細くて小鳥のようだった。台詞になるとちょっとつらい感じもしたけれど・・・ただ、レアティーズとのシーンで、オフィーリアのほうが強気な印象を受けたのは、実際にはお二人が姉弟だという事を知っていたせいだろうか、、  でもオフィーリアの台詞は実際に言うのは難しいんだよね。本当に傷ついて悲しんでいるときに「ああ悲しい」と声に出していう人は実はいないんじゃない か、、狂ってからの突然の「ねえ聞いて」や「ご婦人方おやすみなさい」にしても、自分の中で噛み砕いていうのは実は難しい。

一番驚いたのはフォーティンブラスだ〜〜!私の隣にいた3人のイギリス人女性も、フォーティンブラスには「え、、?」と声を出していたくらい。
シェイクスピアの本は行間をどう埋めるかで演出や演技は無限に広がる。ローゼンクランツとギルデンスターンも良いインパクトだった。この二人を見て、久しぶりにトム・ストッパードの「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」が観たくなった。そういえば滅多に再演されないね〜〜、、?

私 はハムレットが言う「弱きもの」が、実際に立場上の弱いガートルードを観たいな〜と思う。あの時代、王に死なれた王妃というのは実はとても弱い存在になる 危険があったのだから。国王の結婚はほぼ全部が政略結婚で、外国から嫁いで来た姫君だったりした時代。新しい王になった途端に前王妃やその子供達が宮廷の 隅に追いやられてまうというのは日常茶飯事だった。だから、義弟を男として心底愛していたわけではないけれど、自分と息子の為にクローディアスに求められ るまま身を託してしまったのではないか、、、?そんな弱さを、息子から情欲に負けた女として真っ向から非難された驚愕と後悔、、? 今回のガートルードは あちこちでクローディアスとイチャイチャしていて、「あんたら、前から不倫してて共謀して前王を殺したのと違う?」と言いたくなるくらいだったね

藤原竜也という俳優にはには叙情と熱情が必須なんだなあ〜と思った。コミカルなドラマなんてやらなくていいよ、、、15年前に私が思わず嫉妬しそうになった藤原さんは、やっぱり真剣勝負の舞台の上で光っていた。こういう役者をもっと観たいんだ・・・


Man and Superman=(コメディーと哲学)


長かったよ、、、バーナード・ショウの「Man and superman(人と超人)」。
久しぶりのNTは今回はLittleton。(ナショナルシアターには3つの劇場がある)
バーナード・ショウといえばノーベル文学賞受賞の劇作家。成人後の活躍は英国内だったけれど、アイルランド人だ。彼の持つ辛辣な風刺精神はアイルランド人ならではともいえる

副題に「コメディーと哲学」とあるだけあって、風刺に満ちた哲学的人間論が炸裂。これがなんとハムレット並みの3時間40分の芝居とあって、いささか頭使い過ぎた感じ・・・・でもストーリー的にあれこれといろんな事が起こる訳ではない。

斬新な革命的思考のジャックは「結婚は男の墓場」と豪語しているものの、柔和で女性に優しい友人オクタヴィウスと結婚すると思っていた幼なじみのアンが、実は自分との結婚を狙っていると知り驚く
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結婚とは女が男を支配しようとするもの、との考えを主張するわりに、実は彼もアンの事が本当は好きなのだという矛盾から逃れるべく、ジャックは運転手と一緒にスペインへと逃げる。この運転手、上流階級ではないものの、高等教育を受けて、メカニックの資格も取ったもっと現実的で常識ある教養者

スペインで、彼らは金持ちそうな車が通りかかると誘拐して金を巻き上げるギャンググループに捕まってしまう。社会主義者、無政府論者、国籍も混ぜ合わせのこのグループのボスはメンドンザ。ジャックは身代金ならいくらでも払うと安請け合いをしてメンドンザと意気投合するする。
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2幕前半(台本の上では3幕)ジャックの夢の中という設定で、この部分はバーナード・ショウがドン・ファンのストーリーに基づいて書いたという部分だ。現実にはアンという女性に追われているジャックが、夢の中では女性を追い回すドン・ファンになっていて、地獄に落とされたドンファンが、恋人だったドンナ・アンナや殺してしまった彼女の父の石像、地獄の悪魔達と延々と哲学的・宇宙的・人間的思考を討論し合う
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これが長い、、、掛け合いの中で延々と哲学的な言葉が語られるので、かなり疲れた、、、、この芝居が上演される際、この3幕をまるまる飛ばして上演する事も多いそうだ。確かに無くても話は繋がる。でもこれが他の3幕と対になっているのも確かだ。

かくしてジャックは結局アンナの押し(というよりは、自分が本当は彼女を欲しているという歪んだ本音)に負けて彼女と結婚する事になるのだ

これは芝居というより、本で読むと面白いかもしれない。それにしても膨大な台詞量だ。ジャック役のレイフ・ファインズ氏は本当に主人公の矛盾を巧く表現している。第一彼の声が、ほかの役者と比べても反響の仕方が違う。
私はいつもレイフの声は劇場で聞くのが一番と思っているのだけれど、普通の役者の声が舞台からmonoスピーカーのように聞こえてくるのに対して、彼の声はドルビーステレオで反響する。どんなに小さい声でも・・・映画では観られない彼の役者としての魅力だ。

皮肉で辛辣な台詞が的を得ているので笑いの連続。当然イギリス人をこき下ろす台詞も多々あり、ここでも爆笑の連続だ。哲学思考はさておいて、今度は本として読んでみようか。さすがに集中して聞いていたのでちょっと疲れる観劇だった。芝居は観る方も多少頭を使うような本が面白いのだけれど、今回はさすがに目一杯だったよ・・・・


Incredibly Hilarious!! - Light! Camera! Improvise!


抱腹絶倒の即興劇だった
芝居の出来が、とか、役者がとか、本や演出がどうのとか、そういう次元ではないのだ。とにかく全てがぶっつけ即興の笑いっぱなしの舞台。仮のタイトルはLights!Camera! Improvise! それ以外には作者も演出家もストーリーも無い。

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先日観て来た芝居、「The play that goes wrong」を上演中のカンパニーが、毎月第一月曜日に同じ劇場でこの日は「その場で作る即興映画」なるものを上演している。このMischeif Theatreはもう数年前からこの手の即興劇をエジンバラフェスティバルやツアーで演じていて、固定のファンがいるようだ。行く前に解っていたのは、その日の演目やジャンルは観客が決め、総上演時間は休憩無しの2時間弱という事だけだった。

まず、始まる前から観客層がちょと違う。ツーリストのような人たちはいなくて、みんな服装もカジュアル。場内は開演前から活気にみちたおしゃべりの声でざわめき合っている。年齢層は20代から60代、男女比率は半々だ。

始まると、進行役(今日作る映画の監督役をする)の役者が観客に「皆さんのリクエストで今日の芝居が決まりますので、どんどんアイデアを出してください」と語りかけると場内はもう参加気分満々だ。一通り盛り上がると、本題の作品決めに入る。

「最近観た映画でどんな作品がよかったですか?」と問いかけるともう場内はものすごい勢いで皆が口々に映画のタイトルを叫ぶのだけれど、ひときわ多かったのが「Fifty shades of Grey!!」の声。これは絶対出るだろうなとは思ってたけれど、圧倒的だった

続いての、「どんなジャンルの映画にしましょうか」にはあちこちから「Porn!」の絶唱が・・・これには進行役もさすがに「いや〜、今日の観客は変態ばっかりか〜〜」と苦笑していると、2階席からひときわ大きな男性の声が「Western~~!」と叫んだ。これには一部の観客がブーイングを起こして場内爆笑。それでも誰かが中間を取って「Western porn!」と言うと一斉に大拍手がわき起こる・・・

すると客席中央から「ちょっと待ってくれ、子供と来てるんだ」の声がした。「いくつだ?」「16」。これが進行役を救った形になった。「まあ、ポルノは置いておいて、ウェスタン・ロマンチックという事で、、、」と取りなす。

次にはストーリーの中にどんな要素を取り込むか、を決める。ここでも場内割れるような大声が飛び交い、進行役がいくつか拾って「ウェスタン、ロマンチック、スリラー・ミステリー、ボリウッド」が組み込まれる事になった。進行役の役者はそれまで書き取ったメモを見ながら「これは役者達にとってはボリウッド(インド映画、インドのボリウッドダンスが特徴)が一番の難関になりそうだな、、」とつぶやく

そして最後にタイトルを決める時には、一女性の大声で満場喝采。この日のタイトルは「Fifty Shades of Hay」。これらが決まるとカンパニーの役者達が舞台に出て来てスタンバイに入る。進行役がタイトルや要素の確認をしながら観客を盛り上げている間、役者達は暗転の中でものすごく真剣な顔でスタンバイしていた。みんな必死で考えているのだろう。舞台袖で役者達が相談して筋書きを決める時間は全く無かったのだから、、、

最初の役者の台詞でストーリーの背景が決まる。
「大丈夫?ジェイソン、今週はもうロデオの落馬が3度目よ」
これで、この男優の役名はジェイソン、ロデオのライダーで何度も落馬している駄目選手という事が決まってしまった。女の子のほうはお隣に住む幼なじみでひそかにジェイソンを思っている様子

監督(進行役)は役者の台詞で少しストーリー背景ができる度に「ポーズ!」と叫んで場面を止め、「では、どうしてそんな事になったのか見てみましょう」と言って、役者達に次の場面を提示していく。メモを取っては、ストーリーに食い違いがないように、でも即興なのでちょっとずれてしまった時は「実はその真相は別の所にあったのです」等と言って話を作るように仕向けて行く。このチームワークが素晴らしい

この劇団がやっているのはコメディーだ。次から次へとどんどん出てくる場面やキャラクターにもう場内は大爆笑の連続。セットは無く、舞台には3つの大きさが違う箱があって、それを並べたり積み上げたりして必要に応じて使っていく。音はギターとキーボードの2人が場面に応じてそれらしい音楽をつけて行く

ロデオ一家に生まれたジェイソンはなかなか上達しないため、かつての名選手でコーチの父にも認めてもらえずに自信を無くしていた。名選手だった兄が落馬事故で死んで以来、なんとか自分が、、とは思うものの、父には相手にされず、いつか認めてもらいたいと努力するものの、うまくいかない。そんな彼を見つめて(実際にいつも家の窓からのぞいている)励まし続けるお隣さんのスーザン。兄が死んだ事故は落馬した際に頭から積んであった干し草の束におちたのだが、運悪く積まれた干し草の下に固いバスケットボールがあって、頭を強打してしまったのだ。でもジェイソンはその日に馬具装備をした自分の責任だと思っている。
一方、ロデオに命をかける競技会荒らしの女ライダー、アン・ウェルは恋人も作らずとにかくロデオの勝つ事だけに執念を燃やしている。やがて全国大会が催される事になり、アンは勝つためにジェイソンの馬具に細工をするように仲間に命じるのだが、、、


次々と新キャラクターが登場する度に、監督が裏付けを提示して、どんどんストーリーにも深みが出てくる。最初は足を折っただけなはずの父親が、いつの間にか上半身も両手も首さえ不随になっていて、グダグダの身体を他の役者が操り人形のように動かしたり、落馬したら確実に死ぬように干し草の中にボーリングのボールを10個隠したりと、コメディーのセンスが半端じゃない

それでも即興のデュエットがあったり、もちろんボリウッドダンスも盛り込まれた。デュエットの場面は歌詞も曲も即興なのにちゃんとハーモニーになっていて、バックコーラスも最高のチームワーク。監督役を含めて9人の役者達がそれぞれに出しゃばらず、相呼応して各キャラクターをしっかりと演じてストーリーを作っていく。役者の言った事を監督が素早くキャッチして文字通り、ウェスタンでロマンチックでサスペンス(ミステリーというよりは)ボリウッドも踊る、立派な1時間半の映画が出来上がった

芝居の稽古では「相手の台詞を聞け」と何百回も言われたものだ。覚えた台詞を言うのではなく、相手の言葉を聞け、と。会話の中からストーリーが生まれ、そこに感情が生まれ、人間関係が出来上がって行く。芝居はこうして生まれるのだという最高傑作のお手本だ。抱腹絶倒とはまさにこの事!

毎月の第一月曜日にやるそうなので、また行きたい







ドタバタ劇


2015年の芝居初めはコメディー。まさにドタバタの連続で、抱腹絶倒間違い無しのお墨付きだったので、一年の始めに良いかと思って行って来た。「笑う門には福来たる」って言うものね。タイトルはズバリ「The Play that goes wrong」、これですべてを物語っている
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舞台裏ものコメディーといえば、80年代にブロードウェイ、ロンドンで大ヒットした「Noises Off」という芝居があった。舞台を上演中の役者、スタッフ達の舞台裏でのドタバタもので、これもまさに大笑いの連続だったのを覚えている。今回は舞台裏ではなく、上演中の舞台そのものの中ですべて、まさに全てが巧く行かないというコメディーだ

開演前から舞台では(舞台上の公演の)開演準備が行われている。スタッフがセットの最終調整をしているのだが、ドアの立て付けがどうも悪かったり棚がしっかり支えられていなかったりする。舞台上の演目は「Murder At Haversham Manor」(ハヴァーシャム邸殺人事件)。ハヴァーシャム卿と婚約者、彼の兄と彼女の兄、屋敷の召使い達と刑事による「誰がハヴァーシャム卿を殺したか」の解明をしようとする、アガサ•クリスティー風の殺人ミステリー劇という設定だ。

ところがこの舞台、あるはずの小道具がなかったり、ドアが開かなかったり、きっかけで役者が出てこなかったり、はては思い切り開けたドアに頭を打たれて女優が失神してしまう、、、、台詞を間違えたために芝居が数ページ戻ってしまって何度も同じシーンを繰り返す、セットが次々と壊れはじめ、音響のテープからは効果音の代わりにデュランデュランの音楽が流れてしまう。まさに、舞台上のアクシデントを役者達がどう乗り切るか、、、という役者にとっては悪夢のような喜劇だ。

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プログラムにはまず「Murder at Haversham manor」の配役とスタッフが記載されている。刑事役の役者が演出やデザイン、メイク、制作、広告からヴォイスコーチまでほぼすべての企画を受け持っており、それぞれの役者達のインタビューも載っている。ここまではすべて舞台上で上演されている(とされる)芝居のプログラムだ。そしてさらに、その舞台上の役者を演じている本当の役者達のプロフィールが後に続く。役を演じている役者を演じている役者達だ。役者達が2重に芝居をしていなければならないというこの喜劇の本質がここにある

混乱する前に本来に戻ると、この「The play that goes wrong」を上演しているのは有名な演劇養成機関、LAMDA(The London Academy of Music and Dramatic Art)の出身者である役者達が集まって作ったMischief Theatreという劇団で、主に即興劇のコメディーを上演している集団だ。本格的なウエストエンド劇場での公演はこれが初めてだけれど、エジンバラフェスティバルやツアー等での実績は絶賛されている

舞台上のアクシデントに役者がどう対処するか、、これは一発勝負の舞台だからこその予測のつかない事で、これが起こってしまった時に役者達の即興の対応力が試される。役者としては起こって欲しくない最悪の事態なのだ

私も昔、おかしな経験をした。
うちの劇団にはめずらしく、外からのお誘いで提携して子供向けの創作ミュージカルをやった時だ。演目は「孫悟空」と「かぐや姫」の2本立てで、最初は京都での上演だった。京都駅から劇場へ直行し、楽屋にスーツケースを置いたままリハーサル開始。大道具の立て込みから照明機材の設置に始まり、芝居の場当たりに入ったのは夜になってからだった。そして夜の1時も過ぎてから、ダンスの場当たり中に役者の一人がなんと骨折してしまい、ホテルにもいかないうちに彼は真夜中に救急車で病院へ。翌日朝から、彼の役の台詞を他の役者に振り替えて、彼の抜けたシーンを全てまた創り直す事に。(アンダースタディーはいなかったので、抜けた分を振り分けて埋めるしか無かった)

本番までは1日しかなかったので、この日は全員真っ青になりながら、最終確認に追われた。なんといっても夜中に足がボッキリ折れてしまった仲間を目の前にしたショックが残っている。それでもなんとか幕は開き、公演そのものには影響させずに済んだのだけれど・・・本番中だったらどうなっていた事やら、、、

そしてそれだけではなかったのだ、、、可笑しかったというのは、幕が開いてからの事。まだ20代前半の私はなんとこのとき「かぐや姫」でお婆さんの役だった。夜中に竹が光っているというので村人達が騒ぎだし、おじいさんがおそるおそる鉈で竹を割ってみると、なんと竹のなかには可愛い小さな小さな赤ちゃんが、、、というシーン。

もちろん竹にはちゃんと細工がしてあって、軽く鉈を当てると竹がパックリと割れて中には小道具さんが仕込んだ小さな人形が入っている。「お婆さんは思わず目をそむけ、赤ちゃんの鳴き声でおそるおそる振り返ると光った竹に女の子が、、」という手筈の通りに私が効果音の鳴き声で振り向くと、村人役の仲間達の様子がなんか変、、?

「ハッと驚いて呆然としている」という芝居なのに、何故かみんな肩が小刻みに震えている(笑いをこらえている?)竹をみると、中は空っぽだ。一瞬「小道具さんの仕込みミスだ」と思ってそれでも芝居は止められないので「まあ、赤ちゃん!!」といつもの倍近い声で強調して駆け寄ろうとすると、なんと 首が見事にギロチンのごとく身体から離れた人形が舞台に転がっている、、

駆け寄りながらとっさにかがんで人形を拾い、竹の中から取り上げる芝居を続けたものの、あれはちょっとわざとらしかったよなあ〜〜、、と今になっても笑えるアクシデントだった。子供達はともかく、一緒に観ていた父兄の人たちには解ったかも。一瞬の出来事でサッと拾い上げたつもりだけれど、客席のすべての角度から隠れたとは思えないからねえ〜〜。

生の舞台ならではのアクシデントと共に芝居を続ける役者というのはいつでも即興に対応できないといけないんだよね、本当に。

久しぶりに全編笑いっぱなしの全開コメディーだった。良い年明けになりましたよ




My night with Reg....Everyone's night??


ゲイの人たちの話は、普通のようで、やっぱり男女とはちょっと違うようで、でも現実味があって、デリケートだったりする
今回観てきた「My night with Reg」は、学生時代からの親友仲間の6人の男達、とはいってもゲイのお友達の話。

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3幕とも場所は同じ、時代設定は80年代後半頃か、、、ちょうどゲイ社会の間でエイズの恐怖が広がっていた時代だ。30代半ばでアパートを購入したガイが、久しぶりに昔の仲間を新居祝いに呼ぶ。学生時代の仲間達はそれぞれにたまに会ったり出くわしたりしてはいたものの、集まるのは12年ぶりだという事が会話で解る。

最初にガイのアパートにやってきたのはジョン。ガイはハンサムというタイプではないけれど、面倒見が良くて誠実な人柄なため、独り身ではあるものの、皆から姉のように(?)信頼されている。きれい好きで、性行為でも必ず用心を忘れない。台詞の中にエイズという言葉は出てこないけれど、ゲイとエイズの関係が社会問題になっていた時代背景が解る。恋人がいない事をからかわれながらも、実はガイは学生時代からずっとジョンに思いを寄せているのだった。でも彼の心が自分を振り向く事はないと知っているガイは、親友としてジョンの近くにいる事を選んだのだ。

ガイのアパートでテラスのペンキ塗りをしていた超ハンサムなエリックももちろんゲイ、その容貌に目を止めたジョンとの視線のかわし方で、お互いに「気に入った」のが一目瞭然。とにかくゲイの人たちは遠慮なく舌なめずりするような視線を気に入った男に向ける。
次にやってきたのはダニエル、彼は仲間のレジと恋人関係でもう長く一緒にいる。ひとしきりお互いの近況話が弾むが、ダニエルが帰っていくと、ジョンはガイに、実はレジと先日会って、一夜をともにしてしまった事を告白する。一方ガイはホリデーに行った先で無理矢理いやな男に乱暴されてしまった事を話す。なんの用心もなしに無理矢理された事でガイは深く傷ついている。密かに愛しているジョンからレジへの思いを打ち明けられて、ガイは親友として精一杯ジョンを抱きしめてやるのだった。

2幕はやはりガイのアパート、お葬式の後だと観て解る服装。レジが死んだのだ。2幕には1幕では登場しなかった仲間、バーニーとベニーもいる。この二人も長年のパートナーだが、荒っぽい性格のベニーに我慢強い奥さんのように寄り添うバーニーという、また違ったカップルの形を描いている。バーニーはガイにベニーに内緒でレジと関係を持った事を告白する。また、エリックはガイがジョンの事を愛しているのを見抜いて、「彼に本当の気持ちを打ち明けるべきだ」と肩を押すが、タイミングを失ってガイは言い出せない。そしてどうやらその場に登場せずに死んだレジという男は他にもあちこちで見境無く関係を持っていたらしい。エイズで死んだのは会話で解るのだが、どこから回ってきたのやら・・・・

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3幕目もガイのアパートだが、住んでいるのはジョンとエリックだ。ガイのお葬式の後。エイズで死んだと思われるガイは、最初に告白していた例のホリデーでのレイプで感染していたのだろうか、、、彼は死ぬ直前になって初めてジョンに長年の自分の思いを告白し、自分のアパートをジョンに残したのだ。(ちなみに3幕の前半はエリックとジョンは全裸で演じているのだけれど、もう本当に奇麗な体!!前向き写真はさすがに載せられないのが残念だわ、、、)そして会話を聞く私たち(観客)には、エリックも昔レジと関係を持った事があるのだと解る

またしても仲間を失った悲しみの中で、ダニエルはジョンに長年の疑問を問いただす、「レジと、関係があったんじゃないか、、、?」ダニエルにはずっと言えずにレジへの愛を隠してきたジョンだが、、迷った様子の末に言う「そんな事ある訳無いじゃないか!」

誰かを愛する気持ち、誰かの思いに答えられない現実、振り向いてもらえない一方通行の愛、パートナーに誠実であるという事、ちょっと目を盗んでアヴァンチュール、親友仲間としての友情、、そんなゲイにも男女にもどこにでもあるような恋の感情が、なぜか超ハンサムな男達で演じられるととても純粋に見えてくるから不思議だ。

この作者、Kevin Elyot氏は実は今年の5月に亡くなった。この芝居が初演されたときにはエイズが大問題になっていたし、実際私の同僚も、何人も仲間をエイズで亡くしてはその度にお葬式に行っていた・・・自分も検査を受けて、その恐怖に怯えていたっけ。それでもゲイの人たちは結構複数と関係する人が多い。堅実なカップルもいるけれど、派手な人たちのほうが目立っていた。

会話劇というのは、芝居の中で劇的な事が起こる訳じゃない。彼らの台詞の端々から状況が説明され、過去の出来事の話でそれぞれのキャラクターを埋めていく。この芝居はコメディーだ。初演時にはいろんな演劇賞を受賞している。台詞はウィットで、ユーモアがあり、「同性愛」という事での違和感や粘っこさは感じさせない。オープンで、皆が抱き合ってキスし合う男達の友情とその秘密が、コメディータッチで描かれていく。

ガイから寝耳に水の告白を受けてアパートをもらったジョンは、今はエリックと一緒にいるけれど、この二人もこれからどこへいくのか、、、??ちょっと切ない友情・恋愛劇だった。これって、日本では上演、、、されないだろうなあ〜〜、、??

ちょっとコミカル、「リチャード3世」


さて、書こうと思っていたらなんと!錦織選手がUSオープンの準決勝でジョコヴィッチを下し、日本人・アジア人初のグランドスラム決勝進出を果たした
これは凄い!本当に素晴らしい快挙だ。準決勝進出でも素晴らしい健闘、それでも「やっぱりジョコヴィッチが勝つんだろうな、せめていいテニスをして欲しい、世界NO1を相手にどこまでやれるか?」と思っていたら、本当に勝ってしまうとは・・・さらに、決勝相手は、これまた14シードながら第2シードのフェデラーを破ったチリッチ選手。両選手にとって大きな試合になる。決勝がどうなるのか楽しみだ!!

さて、7−8月は芝居を観ていなかった、、、久しぶりの舞台は「リチャード3世
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シェイクスピア劇はイギリスでは本当に様々な解釈、設定で上演される。舞台もオーソドックスな中世から現代まで、演じる役者も幅広い年齢で再現される事も多い。
私はどちらかというと現代っぽいシェイクスピアより、古典的な演出のほうが好きなのだけれど、それだけ彼の本は時代背景にかかわらず練り直しが可能な戯曲なのだ

今回の演出はJamie Lloyd氏。彼の演出作品は私の中では好き嫌いが分かれるので、今回はどんなもんか、、、と思っていたら、設定は70年代末の英国を反映させている。感心したのは、「知らない観客にも解らせる」という作りだ。リチャード3世の事を歴史的に知らなくても、シェイクスピアの芝居を全く観た事がなくても、それでも理解し易いように練ってある。

設定が70年代末というのは、英国人にとって解り易い背景がある。今でも時々譬喩されるのが78-79年の冬の英国の社会状況だ。当時の英国は労働党政権で、失業率は以上に高く、それでいて労働賃金は低すぎ、国民にとって非常に厳しい状況だった。とうとう労働組合が昇給率引き上げを要求して、ほぼすべての公共機関がストライキを行ったのが78-79年の冬の事。この冬はさらに気象もきびしく、大型の吹雪にみまわれて大雪や凍結でさんざんだった為、この年の冬の事を英国では度々「The winter of discontent」と表現される。これは「リチャード3世」の冒頭の台詞をかけたもので、(Now is the winter of our distontent, made glorious summer by this sun of York)今回の作品はこれを政治的背景に重ね合わせた演出だ。

このTrafalgar Studio は小さな舞台で、さらに今回は舞台後方にも観客を入れているため、役者が動ける範囲はとても狭い。その舞台が閣僚の会議室の設定になっている。開演前に舞台のセットをみて、「これは80年代、、?いやもうちょっと前だな」と解るように作られている。対峙した長いデスクの上にはピッポッパではなく、ジリ〜〜ン式の電話。デスクランプやタイプライター、始まる前からこれは80年代前の設定だと観客が解るようにできている。

登場したリチャードは、まだ国王になる前のグロースター公として軍服を着ている。
小柄な体にわずかに盛り上がった左肩。右手は全く動かさない。ひょこひょこと歩くわりにはいやに威厳をふりまいている様子はなんだかヒットラーのようだ。それでいて、Martin Freeman演じるリチャードは無慈悲で狡猾だ。フリーマン氏といえば、最近では映画の「ホビット」やBBCシリーズの「シャーロック」でのワトソンのように、温厚なイメージがあったけれど、シャープで鋭い目をしたリチャードをこれまた鋭い声で演じている

この芝居の中で、リチャードは王位に付くために、兄のジョージ、その2人の息子たちを殺させ、さらには嘘を吹聴して自分の王座に邪魔な者達を次々と排除していく。でも自分では手を下さない狡猾さは、むしろとぼけているような様子で、観ていてかなりコミカルだ。「死んだ」と聞いて素っ頓狂に驚いてみせる表情や、本当は喉から手を出して待っていたのに、いざ王位に付くとなると謙遜してみせたりする演技が冷酷というよりは滑稽なのだ。実際、いろんなシーンで客席からは笑いが起こる。それでいて非情・・・自分の都合のことしか考えていない。現代っ子風なキャラだ。

狭い空間に大きな会議用デスクが2つ置かれているため、演出上の役者の動きはとても緻密だ。本当に動ける場所が少ないのだ。でもそれを有効に使っている。ロイド氏の演出は血しぶきが飛んだり泥だらけになったりする事も多いのだけれど、今回も血しぶきがあがったりして、最前列の人は髪を払ったりしていた。ちなみに後で読んだゲネプロのレビューでは「1−2列目の人は劇場にクリーニング代を請求する必要があるかも」と書かれていたりしたけれど、そこまででは無いようだったので、少し抑えたのかもしれない。

バッキンガム公、リッチモンド公等、皆軍人の設定で、最後のボズワースの戦いは会議室での反乱のような形で銃やナイフでの争いになる。「これでどうやって最後の馬の台詞にもっていくのか、、?」と密かに思っていたら、これがうまい解釈だった

リチャードの最後の台詞は、元々は戦いで馬を無くし、泥の中で不利になったリチャードが「馬を!馬をくれたら王国をやるぞ!」と叫ぶのだが、会議室の中で銃を突きつけられての状況では無理がある

味方がいなくなってしまった中で、真っ向から銃を突きつけられたリチャードは、キョロキョロとあたりを見回し、逃げ場が無い事を見て取ると、「え〜っと、どうやって逃げようか?」という顔をする。誰にともなしに、「うま〜〜、馬もってこ〜い、かわりに王国をやるぞ〜〜」と言ってみるのだが、あえなく銃で撃たれてしまう、という最後だった。この「馬で逃げちゃおっかな」というニュアンスにまたも会場からはクスクス笑いが起こる。

台詞やト書きの行間をどう埋めるか、がシェイクスピアの芝居では無限の可能性がある。人としての心理、恋の激情も、憎しみも嫉妬も野望も悲しみも、それはいつの時代のどんな人にでも共通している。シェイクスピアの芝居が何百年経っても色あせずにいろんな形に姿を変えてよみがえるのは、彼が常に人としての情感の原点を突いているからだ

もしかしたら「私はそんなつもりで書いたんじゃないぞ!」とあの世の彼方で言っているのかもしれないが、だからこそシェイクスピアは英国が誇りにし愛している偉人なのだ




やっぱりちょっと重かった・・・


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劇評がすごく良くて、観たいなと思ってはいたのだけれど、金銭的に厳選してちょっと躊躇したのと、観たいと思った時にはチケットが取れなくなっていたのとでパスした芝居が、またまた映画館でのライヴ上映という形で観られる事になった
イプセンの「幽霊=Ghosts」主演のLesley Manvilleの演技が各紙で5つ星評価だったのでこの機会を逃す手はなかった。

イプセンはノルウェーの劇作家。どうしてもロシアとか北欧のちょっと一昔前の劇はイマイチ暗いっていうか、辛気くさいっていうか、私にはあまりピンと来ないので普段はちょっと避けている。もちろん作品として評価されるに値するものが多いのだけれど、どうも「重い」んだよね・・・

この「幽霊」はイプセンの代表作、「人形の家」の続編的な意味合いを持つと言われている。19世紀の女性たちは、まだまだ自由を謳歌したり自分の意見を主張したりという事は疎んじられていた。従順で貞淑な妻、良き母でありさえすれば可愛がってもらえる、という社会から少しずつ女性の自己主張が芽生え始めはしたものの、社会的にまだそれが受け入れられない葛藤に苦しんでいた女性たちがどれほどいたことだろう・・・?

酒癖と女癖が悪い夫をそれでも世間的には見栄え良く取り繕って家を守ってきたアーヴィング夫人。自分が守ってきたと思っていたものが実は虚構であり、最愛の息子にそのしわ寄せがのしかかってしまった現実を目の当たりのした時に彼女が選んだ最後の選択は、息子を苦悩から救ってやるというものだった

自由思想を持ち、自分なりに正しい道を選んできたと思っていた彼女が最後に気づいたのは、自分の言動が自由気ままに生きていた夫を少なからず縛り付け、その反動で夫は酒と女性関係に身を持ち崩し、さらには息子に先天性梅毒を遺伝させてしまうという悲劇を生んでしまったという事だった。父を尊敬し、自分はいつも誠実に生きてきた息子ーオスワルドが、身に覚えのない梅毒に犯されて末期の症状に怯えおののく様は本当に悲劇としか言いようが無い。

重いんだよ〜〜、やっぱりちょっと辛気くさい、でもその重さがやけに現実的で身につまされる思いがする。だから余計に観ているのがつらい。アーヴィング夫人役のLesley Manvilleと息子役のJack Lowdenの演技がピカイチだ。さすがは5スター評だけの事はある。特にスクリーンでは表情がアップで観られるので微妙な心理の演じ分けが際立っている。

19世紀半ばの文学作品で女性が意見を主張したり自分の生き方を見いだしていく、といったテーマは数多い。ジェーン・オースティンやシャーロット・ブロンテの「ジェーン・エア」はその代表作、D.H.ローレンスの作品における女性たちもそうだ。まだまだ社会に縛られていた女性たちが求めた自由思想や自己主張は今の時代でこそ当たり前であっても、当時にあっては大きな社会的変換の要素だったのだ。

私の好きなタイプの芝居ではないのだけれど、演劇作品としてはやはり価値がある。今回の演出はリチャード・エアー氏によるもの。シンプルで無駄が無く、役者の演技力を最大限の武器にした作品になっている。心を鷲掴みにされるような演技はやはり芝居を観る最大の冥利だ。1時間半の芝居なのに、見終わってぐったりしてしまう・・・
演劇」というのはこういうものなのか、、と久しぶりで演劇の原点をみたような気がした
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