見つけもの @ そこかしこ

ちょっと見つけて嬉しい事、そこら辺にあって感動したもの、大好きなもの、沢山あるよね。

カテゴリ: 舞台・芝居全般


久しぶりに日曜マチネ。場所がウェストエンドじゃないから、仕事の後にはなかなか行かれないので、このスタジオーMeniere Chocolate Factoryに行くときは日曜マチネが多い。そもそも日曜に上演している芝居はとても少ないので珍しいケースだが。

イギリスで愛される作家といえばシェイクスピアとジェーン•オースティン。オースティンの小説は6作しかないにもかかわらず、「高慢と偏見(Pride and Prejudice)」や「分別と多感(Sense and sensibility)」「エマ(Emma)」なんかは何度も映画やドラマになり、その度にキャストが話題になっている。彼女の作品は貴族ではない田舎の地主・有力者の家庭が主で、この「平民だけれどお金と教養があるGentry階級」の娘達の、貴族や将校達と結婚するまでを描いたものがほとんどだ。「誰に嫁ぐか」が大問題のお年頃の娘達の目を通して、いろんな男性像や周りの家族達の価値観等を面白おかしく描いている。


この「The Watsons」は比較的早い時期に描き始めた小説だが、なぜか未完のままオースティンは別の話を書き始め、とうとう書き上げる事は無かった作品だ。なぜ途中で打ち捨てられたのかはもちろん明確ではないけれど、だからこそこれに続きをつけた「完結版」と称する作品がたくさん書かれている。

予備知識なしで観たこの芝居、途中からの展開が予想外だった!

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軸になるのは田舎のジェントリー階級の「ワトソン家=題名のThe Watsons」の末娘、エマ。リッチな叔母の元で育てられたエマは他の姉達よりも良い環境で教育を受けてきた。その叔母が再婚するにあたって実家に戻されてきたのだ。父は病床にあって、姉のエリザベスが面倒を見ている。他の姉達にとっても、重要事項は「結婚」のこと。このエリアで一番の貴族「オズボーン家」のパーティーにやってきたエマは、そこでトム•マスグレイヴや牧師のMrハワード、そしてオズボーン家の若き当主、オズボーン等と出会う。 マスグレイヴは娘達の間で話題のいわゆる「たらし」!。自分こそが一番女にもてて当然、のような色気振りまき男。そして堅実で(聖職者だから)誠実な大人のハワード。オズボーン卿は若き当主だが思い切りぎこちなくてまともに女性と会話もできなそうなタイプ。でもこのパーティーでエマはそれぞれの男達に好印象を与えた模様。パーティーの翌日、エマの元にマスグレイヴがやってくるが、彼女は「たらし」には興味がない。続いてやってきたのが不器用なオズボーン卿。しどろもどろで、それでもありったけの勇気を振り絞ってエマに求婚の意想を伝える。

お城に住む貴族のオズボーン卿からの求婚にエマが「イエス」と答えようとしたその時、ワトソン家の若い召使の娘がストップをかける。ジェーン•オースティンの筆はこのプロポーズのあたりで止まっていて、ここからがこの芝居の始まりと言っていい。

召使の娘は実は現代のオースティン研究家のローラ(実際にこの芝居の台本を書いたのがLaura Wade)で、ローラはエマに「あなた達は実在の人間ではなく、書きかけの小説の登場人物にすぎない。この小説は終わりがなくて、でも作者が家族に話した粗筋ではあなたはオズボーン卿ではなくハワード氏と結婚することになっている」と語り出す。登場人物全員がその話を聞いて驚き、混乱し、不安になり、エマ達とローラの会話は現代と19世紀初めのギャップが炸裂する。
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初めはローラが主導権を握って残された資料に鏤められたオースティンの考えたプロットにみんなを引き込もうとするのだが、やがて終わりのないストーリーの中に放り込まれたキャラクター達は「私たちにだって意志がある。書き上げなかった作者の意向なんてどうでもいい」とばかりに反乱精神を起こす。筋書き通りにはならないぞ、と思い思いが勝手な行動に走るのだが、、、、

勝手に結末を付け加えるよりもずっと面白い手法で本が書かれている。放り出されたキャラクター達がどうするのか?ここまでしか描かれなかったキャラクター達が本当はどんな自分でいたいのか?

エマとローラはやがて終わりのないストーリーを繋げていく道を探し出す。

ローラ•ウェイドの本は個々のキャラクターが本の中と外でそれぞれに生かされていて、セリフもウィットに富んでいて笑いを誘う。オースティンが生きたのはもう200年前だ。その頃とは男女のあり方も結婚の仕方も違うとはいえ、どの時代にも属さない価値観の持ち方は今でも十分楽しめる。シェイクスピアが時代を超えて愛されているのも、人間の中身そのものに焦点を当てているからだ。

10人ほどのカンパニーというのもまとめやすいし、本のほとんどは創作なのに、どこかしらジェーン•オースティンらしくてとても楽しい作品だ。半分作者のオースティンは今ではこの国の紙幣(10ポンド札)に描かれている。これをローラがエマに見せるのも笑った!

ちなみにこのメニエールというスタジオはチョコレート工場をスタジオ劇場とレストランにした建物で、行く度に舞台の作り方が違う。客席が周りを囲む造りの時もあったし、スタジオならではの、変形舞台の時もあった。今回は劇場式の舞台の作りで、この狭い空間にそれでも客席400は作っていたかな、、、満杯の客席と舞台の距離感がすごく良くて、スタジオ劇場ならではの熱気で楽しかった。

ちょっとシリアスに考える場面もあったし、何より「これをどうやって収集つけるんだろう?」と思いながらずっと観ていられる。オースティンのように作家になろうと決めたエマはペンを取って自らの続きを書き始める、そしてその小説の主人公もまた作家になって新たなストーリーを、、、、未完の作品が永遠に続いていくのを予感させて静かに幕が閉じられた。

 


3ヶ月ぶりの芝居!! 日本行きで散財したのと、夏の間はあまりピンとくるものが無かったのでちょっと我慢していたけれど、秋にはいくつか観たいものがあって、まずは楽しみにしていたFlorian Zeller氏の新作、「The Son」。
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これはゼレール氏の「The Mother」「The Father」に次ぐ3作目という事になっているけれど、別にストーリーや人物設定に関係があるわけではない。あくまでもタイトルだけの話。前回に観た「The Height Of The Storm」では突然妻を無くした半分認知症の父と事後処理(家の売却と父の施設入り)にやってきた娘たちの話で、心に問いかける作品を打ち出した。それに続いて今回は作者自身がインタビューで「今回は、はっきりと言いたいことがあって書いた」と語っている。

両親が離婚した時期から少しずつ精神的に不安定になってしまった息子=ニコラス。閉じこもり、一人でぐるぐると歩き回ったり落書きしたり、そうかと思うといきなりキレたりという完全に鬱状態の彼を親として案じる両親。離婚の原因は夫のピエールに愛人ができたからで、結局妻と息子の元を去ってその愛人=ソフィアと再婚してしまったのだ。学校で問題を起こしたニコラスの事を相談しにピエールの元を訪ねた母親のアンは、親としての責任と一人では抱えきれない状況を訴える。
ソフィアも含めて話し合った結果、ニコラスはピエールとソフィアの所で暮らす事になり、学校も転校して新しい生活を始めてみる。 父親と暮らし、ソフィアとも少しずつ話をするようになっているかに見えても、ニコラスの心の病みは頑なに彼を支配している。一生懸命に両親やソフィアに取り繕うとしたこともあったが、転校以来実は一度も登校せず、毎日学校へ行くふりをしては時間を潰して帰ってきていたのだ。
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母親としてニコラスを守り、立ち直らせたいとは思うものの、自分も生活の為に仕事に出なくてはならず、一人では抱えきれずに苦しむアン、結婚していながらも、一人の男性としてソフィアを愛して新しい人生を選んだ事を正直に話して聞かせるピエール、父親の元愛人・現在の妻という立場に引け目を感じる事なく、素の自分でニコラスに接するソフィア。大人たちにも其々の考えや愛情の示し方があり、みんながそれなりにニコラスの事を何とかしてあげたいと思っているのはわかるのだが、ニコラスの病んだ心は癒えず、とうとう自殺を図ってしまう。
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 命を取り留め、病院で精神鑑定を受けたニコラスについて、精神科の医師ははっきりと「今家に帰すのは大変危険です」と告げる。時間をかけて、しっかりと治療をするのが先決だと。もしどうしても家に連れて帰るなら、「何があっても病院側は一切の責任を追いかねる」という書類にサインをしてもらいます、という医師の強い言葉を聞いて、アンもピエールも流石にまた自殺騒ぎを起こしてはいけないと、ニコラスに治療を受けるように説得しようとする。それに対してニコラスは子供のように必死に「家に帰りたい」と懇願する。「ここはみんながおかしいんだ、こんな所にいたら自分もおかしくなっちゃう、こんなところに僕をおいていかないで」と泣き叫ぶように哀願するニコラスに、心を鬼にして「ここに残って治療を受けるんだ」と突き放そうとするピエールとアンだったが、スタッフに押さえつけられ、まるで犯罪者が引き立てられるかのように病棟に連行されて行くニコラスの悲鳴のような叫びを聞いて、最後の最後でとうとう書類にサインをしてニコラスを家に引き取って帰ってくる。

久しぶりに親子3人で家にいる嬉しさを隠せないニコラスは、子供の頃の3人での思い出を話して少し落ち着いたかに見えたが、、、「お風呂に入ってくるね」と言って消えて行った浴室から、一発の銃声が、、、、、

大人たちに罪があるわけではない。父も母も、個人としての人生があり、責任があり、何よりも息子を愛している。それでも深い傷を負った子供の心は出口を見つけられずに苦しみ続けてしまう、、、、とても苦しい現実がある。助けたい、でもどうすればいいのか、助けたいという思いが気持ちでは届いていても救いにはなれない。

作者が言っていた「はっきりと言いたかった事」ではないかと思うセリフが後半にあった。精神科医が、ニコラスを病院に残すか家に連れて帰るか迷う両親にきっぱりと言った。「愛しているだけではダメなんです。=Love is not enough」。はっきりと心に残るセリフだった。心の病は病気であって、きちんと時間をかけて治療法を模索し、投薬やカウンセリング等、医学として必要な治療を施さなければ治せないのだ、と。劇中で何度も言われるセリフ、「It's going to be all right」でも決して大丈夫ではないのだという現実をひしひしと突きつける。

とても現実的で、日常的で、だからこそ考えている人たちにはっきりと苦しい現実を突きつけるような芝居だ。前作の「The Height of the storm」のような、見た人に考える余韻を与える作品と少し違って、厳しいインパクトがある。芝居の最期はもっと寂しい。息子を救えなかったピエールは少しずつ後悔と罪の意識に苛まれて、慰めるソフィアの腕の中で、彼自身も心を病み始めているのだ、、、、、

まだやっと40になったばかりのゼレール氏の筆の勢いは止まらない。翻訳はいつものクリストファー・ハンプトン氏。このコンビもすっかり定着した。そういえはハンプトン氏自身の書く芝居はなかなか新作が出ないなあ〜〜。翻訳もので忙しいのかな。
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すっかり名コンビになりつつあるお二人のツーショット。いつものように休憩なしの2時間そこそこの芝居。結末がキツイから、ちょっと苦しい感じも残ったけれどど、劇中のセリフの掛け合いは面白い。場面の終わりと次の場面の始まりが少しオーバーラップするような演出もスムーズで、大きな転換でなくても場面の切り替わりが繋がっていた。少ない登場人物の芝居は一人一人の比重がバランス良くて、見ている方も何かしら共感できる部分が必ずある。時代も国も関係なく上演できる芝居だからいろんな国で翻訳されるといいな。





 


裏技のお試しで日本のテレビが観られるというのに登録してみた。スルスルと観られる。リアルタイムの番組はもちろん、2週間前まで遡って観る事ができるので、結構な量だ。地上波だけでなく、BSやCSの一部も入っているので、WOWOWのライヴとか衛星中継とかスポーツチャンネルとかも
探しているときりがない。これはもう1日が50時間あっても足りないかもしれない、、、、!!

日テレBSで、「氷艶2019-月光りの如く」をやっていた。前回の歌舞伎から平安絵巻になった「氷艶」高橋大輔さんが光源氏を演じるというのはずっと前から宣伝されていたので知っていた。しかも演出が宮本亜門さん、出演者達を観ても、これはアイスショーではなく、「氷上舞台劇」になるだろうな、と期待していた。ちなみに私は高校時代に選択授業で源氏物語を原文で読みたかったのだが、人数が少なくてクラスが無くなり、円地文子さんの訳で読んだ。でも宇治十帖がどうしても入っていけなくて、ちゃんと通して読んだのは源氏がいなくなる「雲隠れ」までだけど。

実際にこれは「源氏物語」とは全く別物のストーリーだ。いや、人物設定や名前なんかはそのままなのだけれど、「光源氏」の話ではあるけれど源氏物語ではない。だからタイトルにも入っていないのだろう。
なんというか、舞台演劇とスケートと、ミュージカルとエンターテイメントが全て合わさって確かに見応えは十分な公演になっている。で、ストーリーがちょっと宝塚、、、まあ重くないという点ではこの本もありなのかな。

亜門さんは少し前まで入院していたのを知っていたから、大丈夫なのかしら、、と思ったけれど、本当に昔からとてもエネルギー溢れる人だから、ニュースで観た稽古風景を見て安心した。スケーター、役者、スタッフとこれだけ多方面からの仕事をまとめて演出するのは大変だっただろうけれど、よく出来上がったと驚いた。

どうしても芝居を観る目線で観てしまうので、このプロジェクトがいかに大掛かりなものだったかは想像がつく。出演者達が一丸となってお互いの得意分野を分かち合っているのがよくわかる。役者達はスケートを練習し、スケーター達は役者から芝居の台詞を学び、平原綾香さんの歌を聞いて学び、柚希礼音さんの宝塚式の大舞台での堂々たる振る舞いを目の当たりにし、ノイズのように脇を固める人達が支えている。場面場面での民衆達の「ノイズ」が蜷川さんの舞台を思い出させた。蜷川さんは脇を固める役者達でノイズを造るのが本当に巧かった。今回の亜門さんの演出でもそれを感じた。

プロジェクターを使ったセットに代わる背景創りは見事だ。後ろ正面とリンク全部が大きな舞台になって、色も鮮やかに空間を邪魔せずに場面を創っている。 歌詠みのシーンでステファンと大輔さんのスケートに合わせてリンク上に筆書きの歌が描かれていく発想には唸ってしまった。

それにしても、みなさん本当に頑張ったのが見える。大輔さんは稽古の時にはセリフをいうのも一苦労だったようなのに、やっぱり役に入り込むと表現したいものが出てくるんだろうな。台詞や歌の技術はもちろん役者ではないのだから仕方ないとしても、短期間でここまで持ってきただけでも凄い。朱雀帝のステファンや弘徽殿の荒川さん、紫の上のリプニツカヤ嬢も朧月夜の鈴木明子さんも、セリフはなくても表情や体の動きで十分に観客に伝わる表現力を持っているのは流石だ。織田さんの陰陽師がハマりすぎてて怖い、、、!!平原さんはシンガーだからお芝居は、、?と思っていたら、なかなかしっかりとした芝居をしていて高橋さんを引っ張っている。滑舌と声がいいな〜と思ったら、ナレーションの仕事も結構されているんだ、、、納得。みなさんの持つ別々のケミストリーががっちり合わさった感じだ。前回の歌舞伎バージョンよりずっとずっと良いね。

それにしても源氏物語の設定はなくてもよかったんじゃないのかい、、、?と突っ込みたくなるくらい源氏物語ではな〜〜い!!でも別物と納得して楽しめてしまう作品になっていたのは間違いない。 たったの3日間というのはこれだけのプロダクションを創る事を考えたら短すぎるね。でももうこのメンバーでの再演なんて無理だろうし、DVDにもならないだろうしね、残念だわ。まあ、DVDで見返すかどうかは別問題だけど、「観に行きたかったのに行かれなかった」という人たちにもっと観てもらえるといいね。

「氷上音楽劇」という呼び方、ぴったりだわ。それにしてもストーリーの「あるある」な感じがちょっと??だったけど、難しい事言わずにエンタメとして楽しむにはあれくらいでよかったのかも。 もちろんもっと突っ込んだ意見を言うこともできるけれど、私としてはこれで十分楽しめた。会場で観たらもっと大きな舞台として観られたんだろうな。スケートの持つスピード感はいろんな場面で通常のミュージカルなんかでは出せない躍動感がある。創る側は大変だろうけれど、もっと定着して行くと、引退後のスケーター達にも幅ができるんじゃないだろうか、よくあるアイスショーだけじゃなくて。

さーて、そうは行ってももう9月、スケートはぼちぼち競技シーズンが始まるね。まだ現役の高橋選手、今年はどんな 演技を見せてくれるのか、、、羽生君や昌磨君はもちろん、若手も競争率高いよね、島田高志郎君や山本草太君、友野一希君、、、ベテランの刑事くんも。どうなることやら、、、、女子はもっと凄い戦いになるしね、、、う〜ん、女子の方はわからないな、4回転少女達もこの一年で身体が変わって行くだろうしね。みんな怪我無く良い演技を見せて欲しいな。
 

ハロルド・ピンターの芝居を「ハロルド・ピンター劇場」でシリーズ上演している。観てきたのは 「Betrayal」。私は知らないのだけれど、主要キャストの一人は「アヴェンジャー」ものの映画で人気の人らしい。どうりで劇場は満杯、今回はサークル席の最前列を取ったのだけれど、見回すと後ろのギャラリーに立見が出ている。ああ、だからBox officeの前に長蛇の列ができてたんだね。「お客さま」が多いのかなあ〜??とちょっと不安。

主要キャストは3人。タイトルの Betrayal(裏切り)はこの比較的シンプルな芝居の中で多用に絡まってくる。まあ、簡単にいうとダブル不倫、いや、トリプル不倫というやつだ。
エマ(Zawe Ashton)とロバート(Tom Hiddleston)は夫婦で二人の子供もいる。そしてロバートの長年の親友、ジェリー(Charlie Cox)も家族もちで、お互いに長い友人関係を持っている。で、このジェリーとエマは7年間に渡る不倫関係を2年前に清算したのだが、今になって、ジェリーはエマからロバートと離婚することになったと聞かされる。

離婚の原因はロバートに何年も前から愛人がいたことが発覚したからなのだが、これをきかっけに、実はロバートはエマとジェリーの関係を4年も前から知っていたこと、ロバートが知っているという事を知っていたエマはそれをジェリーに話さなかったことが明かになる。

二人が深い関係になって、それをロバートが知ってから今まで知らぬ顔でジェリーと親友づきあいをしてきた様子、エマとジェリーの関係が少しずつ薄れていって終止符を打つ流れを時間を遡りながら台詞だけで見せていく。

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何もない舞台にあるのは二つの椅子だけ。これを回り舞台の構造をうまく生かして3人の微妙な心理のずれや表裏を表す演出がなかなか上手い。演出のジェイミー・ロイドの舞台は今までいくつか観たけれど、私の中で好き嫌いが二分されている。今回は本よりも演技よりも演出が光る。

台詞の中に絶妙な静止と静寂が随所にちりばめられている。台詞を畳み掛けるのではなく、返事を返すまでの少しの間にお互いの顔を見つめることで返事の一言の感情を何倍にも膨らませているのだ。この間の取り方が絶妙で、意味を持たせるギリギリのタイミングを維持しつつ、芝居のペースも崩さない。とてもデリケートな演出だ。

もう2年前に関係をやめたエマとジェリーが、久しぶりに飲みながら始まる開幕のシーンはぎこちなく、それでいてかつての親密さも隠せず、同じことを何度も聞いたり取り繕うとして見たり、、、、自分達がロバートを裏切っていたはずが、実はロバートもエマを何年も前から裏切っており、さらにロバートが二人の関係を知っている事をジェリーには知らせずにいたエマの裏切り。そして不倫を知っていながらジェリーと親友として振る舞ってきたロバートの仮面。遡る形で戻っていく過去のシーンは、「今思うと、、」という目線で見ることになるので、繊細な演技が求められる。ここでも抑えた言い回しやセリフの間の数秒の間合いが心理描写に効果的に使われている。

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もう一つ、演出で目を引いたのが舞台の後ろに映る影だ。ほぼ白い空間なので3人の陰が後ろの壁に綺麗に映るのだが、そこでもまた見えない心のセリフが呟かれているかのような効果を出している。時々、写っている影は別の動きをしているんじゃないかと思わず錯覚してしまうような鮮明な影絵。
最近は小さい劇場だとサークル席の最前列というのが結構お気に入りだ。今回もサークル最前席だったので、舞台上の役者の姿と後ろの影が重ならないでちゃんと見えたので正解だった、2重の回り舞台を使っ手の、お互いが行き来したり交差したりする様子もサークル席からの方がよく見えた。

ハロルド•ピンターというとちょっとひねくれたような「不条理劇」に分類される作品も有名だけれど、映画の「日々の名残」(カズオ•イシグロ)や「フランス軍中尉の女」等の脚本も手がけていて、このBetrayalも7年間の3人の関係をとても繊細に書いている。もちろん会話上の掛け合いから生まれる言葉の面白さも充分あるので何気ない会話に笑いも起こる。

休憩なしの1時間半はちょっと疲れた土曜日の仕事の後にはちょうど良い。劇場を出たらまだ薄明るさが残っていた。結婚生活に幾つのBetrayalがあるのかは人それぞれだ。別に不倫だけの話じゃない。心のどこかで、きっとお互いに必ずあるはずのBetrayal。大人の芝居はいいなあ〜〜


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小さなスタジオでの小さな宝石のような芝居が好きで、最近はなんだかスタジオ式の劇場でばかり芝居を観ている気がする。
ピカデリーサーカスの一本裏通り、いかにもポッシュな紳士向け高級テイラーメイドの店が並ぶJermyn Streetにある劇場、多分普通に歩いていたら見過ごしてしまう。座席数70のスタジオだ。こんな小さなスタジオでの芝居なのに、大御所演出家のトレバー ナン氏の演出作が上演されるのがロンドンの面白い所。しかも今回の芝居は120年前に書かれたのに、一度も上演されなかった、まさに時代に埋もれていた本だという。

ストーリーは実は単純だ。まだ17歳の時に(おそらくは家同士の取り決めで)年上の作家である夫と結婚したアグネスは、画家として自立したい思いと自由を求めて家を捨て、今はデンマーク人の男友達でやはり画家のオットーと同居している。オットーとは今までは男女関係は持っていない様子、、、。最近になって彼女の元に届く手紙で彼女の様子がおかしいと気づいたオットーが事情を聞くと、アグネスはオットーに初めて自分が結婚している事、そして夫が毎日のように「戻って来るように」という手紙を執拗に送って来る事を打ち明ける。また、アグネスの事を慕う若いアレキサンダーも彼女との甘い時間を夢見て時おりやって来てはオットーを不機嫌にさせている。やがて彼女は夫の執拗な説得を振りきってオットーと供にフランスに移住する。そこでは二人は絵を描きながら「夫婦」として暮らしている。(法的にではないが)次第に男友達から恋人になったオットーとの関係にも変化が訪れ、アグネスは自分自身の人生を探そうと揺れる。そして今一度、自分の意思で新しいパートナー(アレキサンダー)を選んでオットーのもとから巣立っていく。

単純に会話が進んでいくのだけれど、重要なのは、この芝居が1900年に書かれたという事だ。まず、登場してすぐにアグネスはいわゆる上流家庭の女性だと分かる。それは彼女の物腰や何と言っても話し方だ。イギリスではその人の話す英語で家庭階級や教育の背景が解ってしまうのだ。絵の具で汚れていても、アグネスが「上流夫人」であることは明白で、一緒に暮らすアーティストのオットーとのバックグランドの差が少し見えるのだ。そして彼女に言い寄る年下の若いアレキサンダーも家庭環境は上流なようだ。

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そんな背景が、語られなくとも会話しているだけで見えて来るのが面白い。夫がいるのに他の男と暮らしているという事が当時はどんなにスキャンダラスだったか、というところから成り立っている芝居だ。要するに、当時の女性の自立、というより男の所有物からの解放とでも言うべきか、自己と自由な恋愛を求めて歩いていく女性というのは今なら当たり前でも当時は大変な反社会的な存在だったのだ。

作者のHarley Granville-Barkerは1877年にロンドンで生まれている。キャリアとしてはまず役者として多くの作品に出演している。そして演出も手がけるようになり、シェイクスピアも何本も手がけている。戯曲も書くようになり、20世紀初頭のロンドン演劇界ではかなり斬新なアイデアで新しいタイプの演劇人として活躍していた。そんな彼が23歳の時に書いたこの芝居を、彼は一度も上演しなかった。むしろ残された手書きの原稿には「こんなのはゴミだ」と書きなぐってあったらしい。当時はイプセンが「人形の家」等で自立しようとする女性を描いて上演禁止になっていたのだから、この題材の芝居を彼が「成功するわけない」と思ったのも無理はない。

夫ある身で同じ画家の外国人(オットーはデンマーク人ということになっている)と暮らし、家に戻るようにという執拗な夫の誘いを振り切ってノルアンディーで夫婦(同様の)生活を始める二人。初めは同居人だったのが、ここから愛人に変わって行く。この関係の違いはやがてオットーとの生活にも影響して来る。「肉体的な男女の関係」というものが、台詞では現代劇のようにはっきりとは表現していないところがいかにも120年前の本だ。それでもアグネスは「そういった事」にも自分の生き方を見つけようとしているのだ。オットーと夫婦として暮らしながらも、彼が他の女性にキスをした事実を知り心が揺れるアグネス。

夫婦と愛人の、お互いに対する権利と規制はどこで決まるのか?まあ今でも議論のタネじゃないですか、身体の関係さえなければ浮気にならないのか、、、とか?。 アグネスは再び自分の人生を変える決意をする。ずっと年若いアレキサンダーと新たな道へ歩いて行くことにするのだ。愛しているのか好きなのかはよく解っていなくても、、、、
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単純なのだけれど、時代背景を考えてみると、今の時代にも変わらないものがある。舞台の広さは幅が歩いて7−8歩、奥行きは3歩も無いくらいの空間だ。役者の位置は絵を描いているカンバスの前と反対側の椅子、あるいはノルマンディーの部屋ではテーブルと周りの椅子だ。これだけの空間で2時間のセリフ劇の演出はやっぱりなかなか難しい。トレバー•ナン氏ならでは、か、、、、

実は見ていて本に書かれているのか、それともナン氏の演出なのか、分かりかねる部分も多い。どこまで作者が意図して描いた動きや設定なのか。ブリティッシュライブラリーで見つかったオリジナル原稿は鉛筆書きで、この上演に当たって戯曲家のRichard Nelsonが「Rivisor」としてクレジットされているので、手書きの原稿から書き起こしたのだろう。

登場人物5人の芝居。作者本人は「ゴミ」と思ったのかも知らないが、21世紀に観ても結構面白かった。ものすごく感動する、というような本ではないけれど、忘れられていた小さな宝石のような作品だ。実を言うともう少し広い舞台でもいいかも。せめてキャパ200くらいの、、、地味な作品だけれど、掘り出した価値があると思う。ナン氏の演出にも拍手。


79歳のイアン•マッケラン氏のリア王の舞台は是非見ておきたいと思ったのだが、そうなのだ、「リア王」は長い、、、開演時間が7時。私の仕事は6時までだが、時間きっちりに終わることはあまり無く、都心に出るには45~50分、いつもの7時半開演の芝居なら、なんとかコーヒーとサンドイッチくらいはお腹に詰め込んで行かれるのだが••••• 

躊躇している間にもチェックするたびにチケットはどんどん無くなっていくし、「どうしようかな」と思っていたら、またシアターライヴでやるという。家の近くのシネマだと、帰りも楽だし、本当は劇場で観たかったけれど、一歩譲ってシネマライヴのチケットを取った。

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「リア王」と言えば、数ヶ月前にBBCがアントニー•ホプキンス氏でテレビ版を放映していたのが記憶に新しく、比べてみるのも面白いと思っていた。そのブログ記事はこちらへどうぞ

今回の演出は元々Chechesterという地方都市のキャパ300の劇場での上演用として創られたので、ロンドンに持って来る際に、大降りにならないように留意したのだそうだ。上演されているDuke of Yorkは小ぶりな劇場だから、その意図は十分生かされていると思う。シアターライヴで何が良いかというと、役者の表情をアップで見る事ができる。反対に、あまりにカメラの寄りが多いと、「もっと舞台全体が観たい」とも思うのだが。

ケント役に女性を持ってきたのは変わっていた。そしてケントが変装してリアに付き添う際には思いっきりのアイリッシュアクセントになっている。ケントと三女のコーディリアが話の初めてでリア王の逆鱗に触れて「縁切り」の目にあうのだが、コーディリアのキャスティングだけが、どうもなんと無くしっくりこなかった。他の2人の娘も、グロースター、その息子のエドガーとエドモンドもすごく良かったので、余計に気になってしまった。

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今回コーディリアを演じたのは黒人の女優さんだ。こちらでは最近は肌の色に関係なく、黒人の役者達の普通にあちこちに配役されている。「家族だろう!?」と突っ込みたくなる事もあるのだけれど、親子、兄弟でもブラックの役者さんが配役されていることはままある。

演技的にはもちろん何も問題ないし、気にならない事の方が多いのだが、今回のこの女優さんは、話し方と首の振りにとても癖があって、それが気になってしまった。いわゆる「黒人訛り」と言えばいいのか、、、目をつぶっても「黒人だ」とわかってしまう滑舌なのだ。顎の骨格なのか、歯並びなのかはわからないけれど、すぐに解る。そして一生懸命話そうとするからか、首を振りながらセリフを粒立てようとしてしまうので、これが演技を邪魔してしまう。すごく気になってしまった。黒人でも普通に滑らかに話す役者もたくさんいるし、むしろロンドンの舞台ではそれが基準だったので、ちょっと驚いた。

それにしてもイアン•マッケラン氏は本当にプロ中のプロだと改めて凄いなと思ってしまった。もちろん彼はリアを何度も演じているし、まるで「もうセリフなんて体に染み付いています」という感じの自然さでシェイクスピアのセリフを紡ぐ。声も息も、そして目の動きまで、ちゃんと解って演じている感じだ。

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愛嬌のある役者さんなので、くるくると動く目だけでセリフが何倍にも膨らむ。巧いよ、、本当に名優だ。雨のシーンでは全身ずぶ濡れになって上着だけでなく中のシャツまでびしょ濡れだった。79歳で舞台に立ってこんなシーンを物ともせずにやり過ごす体力はすごい。そうだ、蜷川さんの最後のハムレットでクローディアスを演じた時の平幹二朗さんの時もそう思った。役者は体力勝負。頭も身体も声も揃っていなくては舞台には立てない。

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やっぱり劇場で観たかったなあ〜〜、でもそれでも観られて良かった。そのうち日本でも上映されるようだったら是非おすすめです。

さーて、いよいよ明日1日働けば日曜の朝には機上の人となる!!
でも、、、台風がやばい!本当にやばいことになってるよ、、、羽田に着くのが1日の朝7時の予定なのだが、台風真っ最中じゃないのか、、、ちゃんと降りられるんだろうか、ドキドキです。



 


ほとんど忘れかけてた!っていう位に久しぶりのフランス古典喜劇!! そうだよ、モリエールがいたじゃないか!、、、、、
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初めはタイトルの「Tautuffe」 を見てもピンとこなくて、その下にMoliereという名を見てやっと、「あ! タルチュフだ〜〜!」と気づいた。モリエールの喜劇なんて、本当にもう30年以上観ていなかった。久しぶりに嬉しくなって、速攻で何もチェックせずにチケットを取った。前の日になって、帰りの電車の時間が気になったので終演時間を確認しようとしたところ、「バイリンガル•プロダクション」と記事に書かれてあって、「??」と思ったのだった。

モリエールは17世紀のフランスで活躍した劇作家。彼の劇団は旅公演だけでなく、王侯貴族たちからも援助を受け、社会風刺の効いた喜劇で人気を博していた。丁度太陽王、ルイ14世の時代だ。モリエールの喜劇は、同時代のラシーヌのようなギリシャ悲劇を元にした古典劇に比べると、題材が人間本来の感情や思考による間違いや勘違い等での面白さなので、時代にとらわれずに楽しめる。

今回のプロダクションも時代は現代のロサンゼルスという事になっているらしい。そして、本当に英語とフランス語がゴッチャに入り混じってのバイリンガル劇になっている、、、、しょっぱなから聞こえてきたのはフランス語の掛け合い。え、、?と思って見回すと、舞台上部、左右、そして前方の床の左右、と、5箇所の字幕スクリーンがある。こういう場合はサークル席とかの方が舞台と一緒に字幕も視界に入るのだけれど、私のいるストール(一階席)のしかも前方(つまりはものすごく良席)だと字幕を見るためには顔を背けなくちゃならない。せっかく良いテンポの芝居なのに、字幕追いが大変で、「これで最後まで持つのか、、?」と不安になった。

資産家のオルゴンとその母親は友人のタルチュフの事を善良で信心深い、人類の見本のような人物だと崇めている。オルゴンは彼を自分の家に泊めて、なんとか彼を見習って自分も立派な信心深い人間になりたいと思っているのだが、実はタルチュフの本性は偽善者そのもの、自分を信じきっているオルゴンを利用しようとしているに過ぎない。オルゴンの周りの人たち、妻のエルミールや息子のダミス、義兄のクレアント達はタルチュフの胡散臭さをなんとなく見抜いていて、オルゴンに忠告しようとするのだが、オルゴンは一向に耳を貸さない。そして、既に恋人ヴァレールとの婚約が決まっていた娘のマリアンヌを婚約解消してタルチュフに嫁がせようと考える。父にヴァレールではなくタルチュフと結婚するようにと言われたマリアンヌは、父には逆らうべきではないという自分の忠実な娘としての立場から反論できずにいる。マリアンヌの侍女のドリアンヌはもっと自分の意見を主張するべきだとマリアンヌを諭すのだが、とうとうマリアンヌに泣きつかれて彼女の味方になると約束する。マリアンヌの兄のダミスは、タルチュフが密かに母=オルゴンの妻であるエルミールに言い寄っているのを聞きつけ、なんとか父にタルチュフの本性を知らせようとするのだが、オルゴンは一向に息子の言葉を信じないばかりか、逆に信仰を逆手にとって、「自分は罪深い人間だ、許してくれ」というタルチュフにますます肩入れしてしまう。なんとかしてタルチュフの本性を暴こうとエルミールは自らタルチュフに誘いをかけ、自分にいいよる悪党の顔をしたタルチュフの姿を夫に見せる。家族一丸となってタルチュフの本性を暴き、流石のオルゴンも自分の盲目的な思い込みから目がさめる。ところが、マリアンヌと結婚させて、タルチュフに家屋敷と財産を譲ろうとしていたオルゴンは全ての書類が入った鞄がタルチュフの手に渡ってしまった事に気づいて愕然とする、、、、、

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父に反抗できずにいるマリアンヌは当時(17世紀)の父親の家庭内での権力を示している。その後に、恋人のヴァレーヌと愛し合っているのに喧嘩になってしまったり、ダミスが必死に本当の事を告げて忠告しているのに、信じないばかりか逆に息子を勘当してしまうオルゴンのバカっぷりは本当に笑える。

それにしてもなぜ2ヶ国語なのか、本当によく分からない。英語部分の翻訳はお馴染みのクリストファー•ハンプトン氏だ。それも、キャラクターによってとか、場面によってというのではなく、普通の掛け合いの途中でいきなりフランス語と英語がシフトするのだから、なかなかついていくのが大変だった。

でも不思議なことに、意味はわからないのに、フランス語の台詞が耳に心地よい、、、おそらくあの時代の作品だから、シェイクスピアの英語と同じように、フランス語の台詞もリズムがあって書かれているのだろう。おまけに役者達は本当に良い芝居をしているので、字幕を見るのがもったいなかった。役者達はイギリス人、フランス人と混ざっているし、中の数人は実際にバイリンガルのようだ。

知らなくて得したのは、ちょうど今BBCでシリーズ3を放映中のドラマ「ベルサイユ」でルイ14世を演じているジョージ•ブラグデンがダミス役で出ていた事だ。3年前から始まったシリーズ物の「ベルサイユ」の大ファンで、「レ•ミゼラブル」の映画にも出ていたジョージのルイ14世をみて「一度舞台でもみてみたい人だな」と思っていたので。彼は子供の頃にフランスの学校に行っていたバイリンガルアクターだ。「ベルサイユ」のドラマは全て英語だけれど、制作はカナダ・フランスなので、インタビューなんかではかなりフランス語でも喋っていたっけ。

ドリアーンとオルゴンの母・ペルネル夫人を演じている2人のフランス人の女優さんが素晴らしい。そしてタルチュフ役のポール•アンダーソンは初めはアメリカ人の役者かと思った。ちょっと鼻にかかった投げやりな感じのロサンゼルスアクセントが偽善者の悪党ぶりを見事に表していて、決して攻撃的じゃないのに、「この悪党!」と思ってしまう憎らしさ!役者自身はイギリス人で、ちょっと驚いた。

最後はオリジナルから現代に変えていて、タルチュフを逮捕するのは国王ではなく、ドナルド•トランプというのがご愛嬌。
実はこの芝居、敬虔なキリスト教信者に見せかけた偽善者という設定から、当時の反宗教的要素を監視していた団体から圧力をかけられ、ベルサイユ宮殿で初演されたものの、その後、国王ルイ14世から上演禁止を命じられてしまう。(これは5年間で解かれている)

なんだか昔劇団時代に上演したフランス喜劇を思い出した。コメディー•フランセーズのレパートリーになっているジョルジュ•フェドーの喜劇達。笑いのテンポがやっぱりモリエールあたりが基本になっていたのだなあとちょっと思った。2ヶ国語ゴッチャの珍しい芝居だったけれど、それがなんだか耳に心地よくて楽しめたのだからまあ、成功していたと言っていいのかな。

でも次回はやっぱり全部分かる言葉で観たいなあ〜〜









 


久しぶりのマクベス。

実はシェイクスピアの作品の中でもよく知られているのに、舞台で観た事って意外と少ない。2−3回かな、、? 今回はマクベス夫人役のAnne-Marie Duffを観たくて行ってみた。
劇場はNT(ナショナルシアター)の中のOlivier、ここはアンフィシアター=円形舞台なので、とても見易い.。どの席も良席と言える。そして高さ5回建で何層にも回せる最新の舞台機能があり、これをどんな風に使った演出になるかも楽しみだ。
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マクベスのあらすじは比較的シンプル。

舞台はスコットランド。ダンカン王の信頼厚い武将のマクベスは、反乱軍を鎮めて帰途に着く途中、森の中で3人の魔女たちに「未来の予言」を告げられる。「コーダの領主に、そしてやがてスコットランド王になる」と告げられたマクベス。さらに一緒にいた友人のバンクオーにも「お前の子孫がやがて王になる」と予言がされる。半信半疑だったマクベスだが、すぐに自分がコーダの領主に任命されたと知らされると、さらなる予言の成就=王座に野心を抱き始める。
そしてマクベスよりもその予言に執着したのがマクベス夫人だ。王がマクベスの城に泊まった晩、ひるむマクベスを駆り立てて、野心をむき出しにして王の暗殺をそそのかす。そして王を刺し殺た罪の意識におののくマクベスを叱咤激励して後始末の手はずをする。危険を察したダンカン王のの息子、マルコムがイングランドに亡命すると、マクベスは王位に就く。
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しかし王位についても安心できないマクベスは「王を生み出す」と予言されたバンクオーを暗殺し、また、マクベスに疑惑の念を抱いていた貴族のマクダフがイングランドに亡命すると、マクダフの妻子をも暗殺する。不安をぬぐいきれないマクベスは再び森の魔女達にあって、さらなる予言を聞き出すと、「女から生まれたものにマクベスは殺せない」「森が動かなければマクベスは倒されない」と言われ、どちらもありえない事、と安堵する。王の暗殺には冷徹な顔を見せたマクベス夫人だが、やがて罪の意識は彼女を夢遊病にしてしまい、夜な夜な血で汚れた手を洗おうとさまよい歩く。そしてついには自ら命を絶ってしまう。やがてイングランドでダンカン王の王子=マルコムを説得したマクダフは、マクベス討伐の為にイングランドから攻め込む。女から自然な形では生まれなかった=母の腹を蹴破って出てきたというマクダフにマクベスは討たれ、マルコムが次期王として即位する。

マクベスで有名なのが、魔女たちの予言だ。しょっぱなから謎かけのような有名なラインがある。
Fair is foul and faul is fair
これは日本語ではよく「良いは悪いで、悪いは良い」とか「綺麗は汚い、汚いは綺麗」「フェアはファウルでファウルはフェア」と訳されてる。この時にバンクオーに与えられた予言、「王を生む」は、やがて彼の子孫が王女と結婚して世継ぎをもうけることになるのだが、ここでは出てこない。
2度目の予言では
For none of woman born shall harm Macbeth =女から生まれた(自然に)者は誰もマクベスを倒せない

となっているのだが、実はバンクオーは今でいう帝王切開で出てきた、という屁理屈でマクベスを倒す。
そうはいってもあの時代、麻酔も医療技術も無かったのだから、お腹を割いて赤ん坊を取り出すという事は間違いなく母親は死んだのだろう。まさに「母の腹を切り裂いて出てきた」のだ。森が動く=イングランドの護衛軍が木の枝をかぶって前進してきた様子が「森が動く」という光景になる。

ストーリー的には簡単なのだけれど、魔女たちの予言に野心と欲が出て、手を血で染めることになったマクベス夫妻。その後の罪の意識と不安におののく姿がこの芝居の軸なのだけれど、意外と淡々と作られていた。マクベス夫人のAnn-Marie Duffがやっぱりよかったな。殺害の場面では男気がある感じで、その後の夜歩きまでの心情の変化がうまかった。
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今回のマクベスは時代設定的には明確でない。衣装は軍服にブーツで、現代風ではあるけれど、いきなりセットで生首が木の上に吊るし上げられていたり、とちょっと野蛮な中世の雰囲気も出ている。
マクベス役のRoy Kinnearは何処かで見たな、と思ったら、以前「三文オペラ」でマックをやった人だった。

マクベスはそれほど長い芝居ではないけれど、なんとなくあっさりと話が進んだなあ〜と思ってプログラムやレヴューを見てみると、結構削った台詞も多いらしい。ハムレットのように台詞の下まで覚えているわけではないので、見ている時には気づかなかったけど。

オリヴィエ劇場といえば、やっぱりセットと舞台転換がすごく見ものなのだが、今回は何本も高く作られた木に魔女たちが上ったり生首がかかってたりと、高さをよく使っていた。ただ、最終シーン間近、まさに木をかぶった兵士たちが近づいてきて「森が動く」というそのシーン、途中で回転舞台が動かなくなってしまった!

「なんかこのシーン遅いな」と思っていると、舞台監督らしき人が出てきて「申し訳ありません、テクニカルプロブラムで中断します」 と挨拶。こういうハプニングは本当に珍しいので、拍手喝采。アンフィシアターは幕がないので、裏が全部見える。
どうやら手動ではなんとか動くらしく、スタッフやその場に出てない役者も出てきて、手動で舞台を回して無事続行。 滅多にないハプニングに遭遇できました。

ちょっとびっくりしたのが、、「この人もいいな」と思ったマクベス夫人の侍女役のNadia Albinaという 女優さん、右腕が肘までしかない事に途中で気づいた。あれ?と思ってからも、角度で見えないのかな?と思ったのだけれど、確かに右腕の肘から手がない。身体的なハンデをもつ役者が普通の舞台に出ているのを見たのは初めてだったので、これは結構印象に残った。プロフィールをみると、舞台でも映像でもあちこちで活躍している。新鮮だった。

去年日本行きと重なって見られなかったNINAGAWA Macbethがやっぱりみたいな。私がイギリスに来た頃に、ちょうど話題になっていた作品だ。初演は平幹二朗さんと栗原小巻さん、この二人のポスターの絵はよく見たなあ。DVDになってる再演版を買ってみるかな、、、、 


不条理劇」と言う分野にサミュエル•ベケットの「ゴドーを待ちながら」やハロルド•ピンターの作品がよくあげられる。日本では別役実さんなんかも似た作風のものを描いていた。(芝居を始めた頃に別役実氏の芝居を観て、一緒に観た仲間と延々と話し合ったことがある)
今年初シアターはThe Birthday Party、ハロルド•ピンターの作品。ピンター氏の本は、理論的に筋が通っていようがいまいが、感情を揺さぶって強引に展開していく。時として「何故なのか」「誰なのか」「本当なのか嘘なのか」解らないままに怒ったり怯えたりする状況が繰り広げられる

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海辺の少し古びた感じのB&B(民宿)のような家。経営しているのは主人のピーティーとメグの初老夫婦。でも泊り客は1年程前にふらりとやってきて以来居ついている、スタンリーだけだ。スタンリーは30代後半くらいか、、? メグとの話の中で、昔はピアニストとしてあちこち演奏して回っていたらしい事がわかる。なんとなく半分息子のようなスタンリーに対して、メグはランドレディーというよりは、母親、あるいはもう少し親密な(?)態度で接している。

散歩から戻ったピーティーは、街で会った二人の男達に宿を提供する事にしたから、午後には彼らがやってくると告げる。そしてやってきた二人組のゴールドバーグとマッカーン。でも何故かこの二人の来訪を知ってからスタンリーの様子がおかしくなる
その日はスタンリーの誕生日だと言うことで、気乗りしない当人をよそに、メグやゴールドバーグ達は密かにパーティーを計画する。ところが次第にスタンリーはやってきた二人におびえ始め、パーティーが進むうちにどんどん追い詰められていき、遂には精神的に壊れてしまう•••••
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何故この二人がやってきたのか、彼らは誰なのか、また、スタンリーの過去は本当なのか、何故二人は彼を責め立てて追い詰めるのか、そして最後に正気を失ったスタンリーを何処へ連れて行ったのか、、、、??? 
それらに答えはない。解らないまま芝居は進み、感情を揺さぶられ、観ているこちらも言い知れぬ恐怖感を覚えずにはいられない

1幕目は穏やかにで、セリフのトーンも間もゆっくりと進む。ピーティーとメグの会話はお互いに同じ事を繰り返したり、あらかじめ相手が何を言うかわかっているかのように聞いていなかったりする。客というよりは居候のようなスタンリーに対して、いつまでも起きてこない息子(といってもいい大人)に朝食を用意したり起こすタイミングを気にしたりしているメグの様子はもちょっとヘンだ。

パーティーになるとゴールドバーグとマッカーンに威圧感がどんどん増していく。明らかにスタンリーは彼らにおびえている。何故なのか、、、??解らないままにパーティーは進み、二人組の態度はどんどん冷酷になって行き、スタンリーはとうとう取り乱し、メグの首を締めようとまでする。ところが酔っ払っていたマグは次の朝には覚えていなくて、「楽しいパーティーだったわ〜」と夢うつつになっていて、一夜にしてスタンリーが壊れてしまった事には気づかない•••••

ハロルド•ピンター氏は2005年にノーベル文学賞を受賞した。受賞の理由は「日常の何気ない無駄話の下に潜む危機感を浮き彫りにし、人間の抑圧され、閉じられた空間に押し入っていった」というもの。
この芝居でも、ストーリーに沿って気持ちが動くのではなく、曖昧な状態でも感情を揺さぶり、精神を壊すことができるのだという事を観客に納得させてしまう

嘘か本当か、夢か現実か、何も起こっていないのに過剰反応していく人間の心理、観ているうちになんとも怖くなってくるのだ。

でも、これも特別な事ではないのだ思う。例えば、私はいつも電車の駅までバスで行くのだが、バス停から駅のホームまで、何気なく駆け足すると、なんと後ろからみんな走り出す。別にまだ時間は大丈夫なのだが、必ず、100%皆んなが走り出すのだ。訳もなく、一人が走り始めたから不安になって焦り、なんだか必死になって皆んな走るのだ。決して非現実的ではない心理。

言葉の繰り返しと間がなんとも言えない。この芝居の初演は不評で、わずか1週間ほどで終わってしまい、そのあと、ピンター氏自身の演出で再演されたという。最初の演出家をピンター氏は気に入らなかったようだ。本をどう理解するか、、、理解できない本を納得させるにはどうするか、という事なのだろう。
ダークで、でもコミカルで、よく料理された舞台だった

 


数年前にポランスキー監督の映画を観て、元の舞台版が観たいと思った芝居、Venus in Fur(毛皮のヴィーナス)がロンドンで上演されている。
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脚本はDavid Ives、初演は2010年にオフ•ブロードウェイで、後にブロードウェイに乗っている。ポランスキー監督が映画にしたのが2012年だから、映画化としては早い方か、、、 本来の原作はザッハー•マゾッホで、マゾヒズムの語源になったという。
話の展開は映画を見た時の感想に書いたので、ちょっと端折ってしまおう。こちらを参照してください

映画版はパリの小さな劇場でのオーディションという設定だったけれど、本来の舞台版は、アメリカで書かれている。今回の演出で面白かったのは、一応アメリカでの話という事で、トマもヴァンダも素で話す時はアメリカンな英語で喋っている

演じている俳優はもちろん二人ともイギリスの役者なのだが、実はこの二人、ナタリー•ドルマーもデヴィッド•オークスもアメリカのテレビドラマや映画にも出演していて、なかなかナチュラルなアメリカンを話す。そしてオーディション内の役柄、クルジェミスキーとヴァンダを演じている時は、設定がクラシックでヨーロッパという事なのだろう、イギリス英語でセリフが語られていく。だからオーディションとして台本を読んでいる時と、作・演出家と女優に戻った時の会話のやり取りが、芝居と素の状態が聞いているだけで区別できて解りやすい

映画を見た時はフランス語のセリフを英語のサブタイトルで観ていたのだけれど、今回全編英語で聞いてみると、台詞にかなり笑える要素が散りばめられている。 結構コメディーっぽい掛け合いもあるので、セクシャルでダークなイメージが気恥ずかしくなるという事が無かった。

最初からヴァンダはピチピチの女王様スタイルで黒いパンティー丸見えなので、男性じゃ無くてもやっぱりむき出しの足やお尻に目がいってしまうのは仕方ない、という事か••••• う〜〜ん、スタイル抜群で女性としてはひたすら羨ましい限り 映画版よりは二人ともずっと若い。ヴァンダ役のナタリーは一見可愛い顔でキュートな笑顔を持ちながら、男を自分のペースに巻き込むパワフルな魅力を持っている。そしてトマ役のデヴィッドは知的で素直な笑顔が魅力的で、あまりダークな秘密は表に出さない演技 がナチュラルだ。

映画版は最後の最後がなんだか「ん、、??よくわからない、、?」と思いながら突然終わってしまった感じだったけれど、今回はそのあたりは収拾がついた。それでも、一体このヴァンダと名乗るとんでもないゴリ押し女優は何者なのか??というあたりはなんとなくミステリアスなままだ。首に縄をかけられ、柱に縛られたトマが叫ぶ、「お前は一体誰なんだ

最初からまだ出回っていないはずの上演台本を持っていたり、トマが求める役とは真反対のイメージで登場しながら、本読みを始めると思った通りの役柄を演じてみせる。またやたらとプライベートな事=トマの奥さんの履歴まで知っていたり、(後で、「実は奥さんとはジムで知り合ったのよ」と言っていたが、真相は不明??)一体この女は何者なのか??!

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夢、あるいは幻という言葉が合うかどうかはわからないけれど、もしかしたらこれはトマの妄想、いや願望なのではないだろうか?自分が書いた脚本のオーディションに来た女優たちはどれもハズレで、失望にも似た気分の中でトマは妄想する、、、、こんな女がオーディションに飛び込んで来たら、、、こんな女が自分の書いた芝居を完璧に理解して役を理想的に演じてくれたら、、そして自分の奥底にある真実の願望と欲望に目覚めさせてくれたら、、、、 

嵐の夜の、劇場の片隅で一人の男が見た幻想、、、?

それにしても二人の役者のケミストリーが素晴らしい。映画版も好きだったけど、やっぱり舞台での芝居だね。日本ではやれる人がいるかなあ〜?と思ったけれど、稲垣吾郎さんと中越典子さんで上演されたそうだ。う〜〜ん、なかなかいいかも、中越さんならこの役、いいだろうな。そして稲垣さんの知的で素朴なイメージは結構あってるかも。

休憩なしの1時間半、グイグイと観客を引っ張りながらちょっと怪しい摩訶不思議な空間に連れていってくれた感じ。 テレビに、映画に、舞台にと幅広く活躍する役者同士、かなりレベルの高い演技を見せてくれた

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