見つけもの @ そこかしこ

ちょっと見つけて嬉しい事、そこら辺にあって感動したもの、大好きなもの、沢山あるよね。

カテゴリ: 舞台・芝居全般


日本のテレビを見られるアプリを入れて一番嬉しいのは、地上波でないチャンネルも入っていること。昔からWOWOWで収録・放映される舞台作品は「ああ、観たい!」と思うものがいくつもあった。もちろん舞台は舞台で観るのが一番で、それは私の中でも絶対なのだけれど、観に行かれない時には最近増えてきたTheatre Liveが頼りだ。 

「渦が森団地の眠れない子たち」の公演に関して聞いていたのは、藤原竜也さんと鈴木亮平さんのダブル主演で小学生を演じる、という事だけだった。
実は鈴木亮平さんの事は私は「精霊の守り人」で観るまで知らなかった。日本にいない身なので勘弁していただきたいのだが、「精霊」でのヒューゴ役を見てすぐに、「この人、誰!?」と思って調べた人だ。ドラマ経歴も長く、年齢ももう30半ば、主にテレビドラマの仕事で出てきた人のようだけれど、元々は学生時代から芝居をやっていたという。体格も所作も舞台向きだし、 声も滑舌も良い役者というのは私はすぐに目が行く。藤原くんとは「安針」で共演したという事だけれど、ロンドン公演にはいなかったと思う、、、、

「渦が森団地の眠れない子たち」がオリジナル作品だというのは今回の放映に際して初めて知った。なるほど、当て書き台本ほど心強いものはない。本と演出の 蓬莱竜太さんはご自身の劇団で本を書き、演出も手がけてきている、でも舞台を観る機会はなかったので、こちらも私は初めてだ。ただ、経歴を見ていて「あ!」と思ったのが、以前にネットで観たテレビドラマの「平成細雪」の脚本を書いたのが蓬莱さんだった。とても独特の空気感のある本だったので覚えている。

さて、小学生だ、、、、地震があったエリアから渦が森団地へと引っ越してきた一家。啓一郎はこのとき初めて、母には(双子の)姉がおり、叔母と従兄弟が同じ団地のどこかに住んでいるらしいと告げられる。 でも関わり合いにはなってはいけない、お母さんによく似た人に会っても無視しなさい、と。
出逢ってしまった従兄弟の鉄志は団地の小学生軍団のキング。ガキ大将で、強くて、強引で、でも親戚がいたことを喜んでくれたので、二人は親友の誓いを交わす。そこから数年、子供たちの目から見た団地という世界の力関係、素直だったり、嘘をついたり、友達の見方になったり喧嘩をしたり、、、その中で、本当は嫌いなのに、本当は好きなのに、勝ちたいのに、やっつけたいのに、悪いと思っているのに、謝りたいのに、、、、と様々な心の葛藤が子供の目を通して描かれる。もちろん子供を見守り、また振り回される大人達の姿も。

メインのキャラクターはほとんどが小学生役で、大人役は鉄志と敬一郎の母親を二役で演じる奥貫薫さんと団地の自治会長の木場勝己さんだ。このお二人がガッチリ支えている。
やっぱり当て書きされた本は役者を十分に生かしていて、藤原竜也と鈴木亮平という全く違うタイプの役者をそれぞれの多面性を引き出していて見応えがある。

鈴木さんはどちらかというと正統派な演技をする人だ。声も滑舌も良いし、演技もなんだろう、、しっかりと構成されている、と言えばいいのだろうか。演技が「きちんとしている」のだ。それに対して藤原竜也という役者はやっぱり技術よりも感性が滲み出て来る演技をする人だ。 竜也くんはう〜ん、掠れ声で叫んじゃうのがやっぱり気になるなあ〜。大人になったら息の使い方も上手くなるかなと思ったんだけど、蜷川さんはあんまりそういうことには拘らなかったんだね。もちろん演技力というか、なんだろう、竜也くんの芝居にはオーラがあって、今回のような当て書き本だとそれが本当に生きて来る。

良い本だ。素直に「良い芝居だな」と思って観た。大人だから判る子供時代の微妙でデリケートな心境、それが子供の目で描かれ、それを大人の役者が演じる、、、、「小学生を演じる」と一言で言うにはあまりにも複雑なのだ。蓬莱隆太さんは素敵な芝居を書くなあ〜。

考えてみたら、今の子供達って、こんなふうに外に出て、戦争ごっことかもうしないんだろうな、とふと思った。今の子供達は家でゲームしたりネットしたり、ガキ大将がキングって呼ばれてるなんて事、今となってはもう架空の世界の事なんじゃないだろうか、、、?それとも、まだ地方にいけばこう言う子供達の姿も少しは残っているのだろうか?

後半は涙が出てしまった。芝居で泣くのって久しぶりだ。そして、芝居の最後に大人になった啓一郎が鉄志の事を懐かしく懐かしく、たまらなく会いたくなる気持ちが判る、、、、

子供達は眠れないのだ。考え、苦しみ、喜び、傷つき、後悔し、わけが分からなくて眠れない、、、、とてもリアルなようでいて、それでいて空想の中の話のような、不思議な空気感のある芝居だ。この感じって、前にドラマで見た「平成細雪」でもちょっと感じた。蓬莱さんの本、良いね。


サミュエル•ベケットの芝居をエンジョイするには、彼の芝居が好きでないと「訳がわからない、、!」という人もいるのだろう。同じ場面の繰り返しがあったり、会話として噛み合っていないセリフの応酬があったりする。「ゴドーを待ちながら」は彼の代表傑作だけれど、今回観てきた「Endgame」はゴドーの後に書かれた作品だ。

The Old Vicの今回の企画はベケット2本立ての芝居。初めは「Rough for Theatre II」とあるように、芝居上演の為のラフノート=下書きとのこと。滅多に上演されることのない本だそうだけれど、20分という短い作品だ。
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幕が開くと、正面の大きな窓の枠に立って、今にも飛び降りようとしているかのような男がいる。そしてその部屋に入ってきた二人の男がまるで検事と弁護士かのようにその男についての検証を始める。事務室のような部屋は二人の机とテーブルライトがあり、二人は書類の束をひっくり返して男について語り、議論する。その間窓枠の男は身動ぎもせず、そして最後まで、実際に男が飛び降りるのかどうかわからずじまいなのだ、、、 

20分の芝居の間、話の展開になるようなことはほとんどない。ただ、その日が満月の前日でとても月が明るい事が語られたり、デスクのライトがついたり消えたりする事で逆上したりする。蝋燭を持って部屋の中を探したりと、暗くなって行く部屋の中で使われる明かりが印象的だ。

男二人だけの台詞の掛け合いで、キャラクターが見えてくる。窓枠に立っている男を語る事で、この二人のキャラクター、一人は冷静できちんと整理して物事を運ぶタイプ、もう一人は集中が切れるとキレやすいタイプのようだ。

正直、この前半の小芝居はまああってもなくてもよかったのかなあ〜と思った。めったに上演されないというのも納得、でもベケットらしいとは言える。

メインになっているのが2幕目の「Endgame」のほうだ。1幕で演じた二人が今度は全く違うキャラクターで演じている。ちなみにこの芝居のダブル主演はアラン•カミングとダニエル•ラドクリフ。Endgameというタイトルに、二つの意味を感じる、一つはゲームで使う「ゲームの終盤」の意味、そして、なんとなく空気の中に漂う世紀末的な終わりの雰囲気。始まった時から、実はこのシーンはもうずっと何度も繰り返されてきたのではないかと匂わせている。

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Endgameの方はもっとベケットの芝居らしい。なんだかこの世の終焉のような空気の中、わがままで横暴な主人(足が動かず、目も見えない)とその彼に奴隷のようにこき使われているのに、出て行かれない男(=下男であり、執事であり、息子のような存在でもあり、奴隷のようでもある )、そしてなぜかゴミ箱の中に住んでいる両親らしい老人夫婦。

目と足が不自由なハムは終始怒鳴ったり呟いたりしている、下男のクローヴを事あるごとに呼びつけてはろくでもないことを言いつけ、クローヴはその度に我慢の限界すれすれにキレながらも彼の命令に背けない。「出ていってやる、出ていってやる」と繰り返しては、ハムに丸め込まれるようにまたつまらない用事を言いつけられる。これの繰り返しだ。ドラム缶=ゴミ箱の中に入って暮らしている老人達はどうやらハムの両親らしいが、ハムと父親は衝突しがちで会話が噛み合わず、母親(とははっきり語られていない)は夢見心地の様子で年老いた父親とラヴラヴだ。

この老人二人を演じているのが、 カール•ジョンソンとジェーン•ホロックス。この4人のキャストとベケットということで私はチケットを取った。

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カミング氏のハムは横暴で、支配的で、わがままで、でもクロヴの事を「絶対に自分からは離れていかない」と思っている。クロヴを我慢のギリギリまで追い詰めておいて、それでいてクロヴはどうしても本当に出ていくことができずにいる。おそらくもうかなり長い間、こんな繰り返しの日々だったのだろうと判る。家の外、という感覚が全く感じられない、世界が終わりに近づいているという空気らしい。

最後になって、とうとう出ていく決意をしたクロヴがそれでもコートを着てスーツケースを持った姿で再び部屋に入って来る。見えないハムに気づかれないようにそっと入って来るのだが、ハムはすぐに彼の気配を嗅ぎ取っているようだ。そのまま身動きせずにいるクロヴ、彼がその後出ていくのどうかは演じられない。

「ゴドー」同様に、 この本も元々はベケットがフランス語で書いたものだ。その後本人が英語版に書き換えている。ハムのフラムボヤントで有無を言わせぬ支配力は見ていても息苦しくなって来る。だからこそ、我慢の限界で足をひきずって歩くクロヴのちょっと壊れかけた精神が見えて来るのだ。それでいて本当はお互いが必要な存在、、、、

ベケットの芝居には起承転結が定まっていない。もしかしたら最後の場面の後はまたクロヴは出ていくことをやめて明日も明後日も同じような日々が繰り返されるのではないだろうか、、、とこれは「ゴドーを待ちながら」と似たような印象の終わり方だ。

非現実的なようでいて、実は劇中のキャラクターの心理は理解できるのがベケットの芝居の面白いところだ。人気の役者が揃った舞台はちょっとチケット代が高いのだが、(どう見ても舞台セットその他でお金がかかってるとは思えないから、、、)観客層も「お客様」があまり多くなくて安心した。ダニエル•ラドクリフもすっかりハリー•ポッターからは脱皮している。今回の収穫はジェーン•ホロックスだった。老女の役なのに少女のようで、やっぱり巧いなあ〜と感心する。出番は少ないんだけれどね。

ベケットはちゃんと本で読んでみるともっと面白いのかもしれないね。戯曲を読むことって、もう今は全くなくなってしまったけれど、本で読んでみようかな。


1月は同僚のM嬢 が3週間のホリデーを取っていたので、時間通りに仕事が終われない日が続くと想定して芝居のチケットを取らなかった。何せ、芝居をみるには仕事の後は時間きっかりに職場を出ないといけないもので、、、

今年最初の芝居はコメディー!以前にも見たMischeif Theatreという劇団の作品で、以前にツアーをやっていたのは知っていたけれど、今回またウェストエンドに戻ってきた。タイトルは「The comedy about a Bank robbery」銀行強盗が題材というのはこれはあれこれ面白い展開が期待できる。
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舞台になるのはアメリカ50年代のミネアポリス。服役中のリッチとニールはミネアポリスのシティーバンクにハンガリーの国王から巨大なダイアモンドが預けられる事になったと知り、刑務所を脱走してこれを盗み出そうと計画する。芝居のしょっぱなからセリフの掛け合いにダジャレが入り、最初の2分で観客を30回程笑わせてくれる。言葉の取り違えや意味の勘違いといったセリフ上での笑いはともすると途中で飽きてしまうのだが、これがあくまでも最初だけで、すぐに違う笑いに持っていく手法はすごい。刑務所の脱走は絶対の秘密が定番なのに、ニールのおかげで、看守達や所長にまで知れ渡り、何故かみんなから「ダイアモンド強奪、楽しみにしてるよ〜!」などと煽られる始末。

何とか脱走に成功してミネアポリスにやってきた二人。シティーバンクの頭取はフリーボーイズ氏。彼の娘、カプリースはミッチ の元カノなのだが、彼女は幾多もの男達を手玉にとっている。銀行で働くモナハン夫人の息子、サムはあちこちで万引きや詐欺をしてはオカンを心配させている。このサムと知り合ったカプリースは 医者、弁護士、ラバイ等と名乗っているイカサマ師のサムに早速アプローチ。アパートに連れ込んでいるところに帰ってきたミッチと遭遇し、サムもこのダイヤモンド強盗に加わることに。
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とにかくコメディーに必要なすべての要素が詰め込まれている。このMischief Theatreはロンドンの演劇養成所の卒業生達が結成した劇団で、最初の「The Play that goes wrong」 が大ヒットになったことで一気にウェストエンドの仲間入りを果たした。彼らの芝居については私も2度見ている。その時のブログはこちらへ
The Play that goes wrong Light! Camera! Improvise!  クリックすると飛びます

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最初にみたThe play that goes wrongの頃は何となくまだアマチュアの劇団のような空気が残っていて、それが親しみ易かったのもあるけれど、今回はもっと洗練されて、プロのドタバタコメディーになっている。セリフのおかしさだけでなく、身体的にもかなり高度。50年代という設定で、時折場面で歌が入るのだが、モナハン夫人役の女優さんはじめ、本当に巧い。アカペラでのコーラスもそうだし、見事に雰囲気を出している。そしてロープを使ったアクロバティックなシーンなどもあり、あちこちで役者の身体能力がうかがえる。


聞き違い、勘違い、すれ違い、見間違い、それらを巧みに組み合わせるためのタイミング!本当に0.5秒も狂えないタイミングで芝居が進む。こういうコメディーはヘタをすると学芸会のようになってしまいがちで、昔の芝居にはそんな危なっかしさも見えたのだけれど、今ではすっかり洗練されている。

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誰が最後まで生き残るのか、そしてダイアモンドを手にするのか、、??!

かき集められた配役ではなく、劇団というのもあるのだろう。誰が主役とかスターとかではなく、集団としてのパワー。どの役もしっかり生きているのは台本の力だ。元同窓生が集まって本を書き、芝居を作る。90年代に三谷幸喜さん達、東京サンシャインボーイズが大人気になっていったのと似ているかもしれないね。

この数年の間に、「〜goes wrong」の芝居は数本作られ、私は知らなかったのだけれど、BBCテレビでもgoes wrongシリーズが放映されたらしい。いくつかのエピソードはBBCのオンディマンドにあるみたいだから探してみよう。役者達の反応は本当に素晴らしいケミストリーで包まれている。全くの即興で1時間半近い芝居を連日その場で作って上演できる能力のある人たちだから、お互いの信頼関係が絶大なのはよくわかる。

日曜日のマチネで見たのだが、何とこの日は嵐がきていて大変だった!でもそんな日曜日の午後を、笑い倒して過ごすのは本当に楽しい。本来はコメディーよりもシリアスな芝居の方が好きなのだけれど、やっぱり舞台に関わっていた人間としては、この舞台を寸分の狂いなく連日上演するということの凄さが解るので賞賛せずにいられない。

たまには2時間半爆笑しっぱなしというのも気分が発散できて良いなあ〜!



 


久しぶりに日曜マチネ。場所がウェストエンドじゃないから、仕事の後にはなかなか行かれないので、このスタジオーMeniere Chocolate Factoryに行くときは日曜マチネが多い。そもそも日曜に上演している芝居はとても少ないので珍しいケースだが。

イギリスで愛される作家といえばシェイクスピアとジェーン•オースティン。オースティンの小説は6作しかないにもかかわらず、「高慢と偏見(Pride and Prejudice)」や「分別と多感(Sense and sensibility)」「エマ(Emma)」なんかは何度も映画やドラマになり、その度にキャストが話題になっている。彼女の作品は貴族ではない田舎の地主・有力者の家庭が主で、この「平民だけれどお金と教養があるGentlemen階級」の娘達の、貴族や将校達と結婚するまでを描いたものがほとんどだ。「誰に嫁ぐか」が大問題のお年頃の娘達の目を通して、いろんな男性像や周りの家族達の価値観等を面白おかしく描いている。


この「The Watsons」は比較的早い時期に描き始めた小説だが、なぜか未完のままオースティンは別の話を書き始め、とうとう書き上げる事は無かった作品だ。なぜ途中で打ち捨てられたのかはもちろん明確ではないけれど、だからこそこれに続きをつけた「完結版」と称する作品がたくさん書かれている。

予備知識なしで観たこの芝居、途中からの展開が予想外だった!

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軸になるのは田舎のジェントリー階級の「ワトソン家=題名のThe Watsons」の末娘、エマ。リッチな叔母の元で育てられたエマは他の姉達よりも良い環境で教育を受けてきた。その叔母が再婚するにあたって実家に戻されてきたのだ。父は病床にあって、姉のエリザベスが面倒を見ている。他の姉達にとっても、重要事項は「結婚」のこと。このエリアで一番の貴族「オズボーン家」のパーティーにやってきたエマは、そこでトム•マスグレイヴや牧師のMrハワード、そしてオズボーン家の若き当主、オズボーン等と出会う。 マスグレイヴは娘達の間で話題のいわゆる「たらし」!。自分こそが一番女にもてて当然、のような色気振りまき男。そして堅実で(聖職者だから)誠実な大人のハワード。オズボーン卿は若き当主だが思い切りぎこちなくてまともに女性と会話もできなそうなタイプ。でもこのパーティーでエマはそれぞれの男達に好印象を与えた模様。パーティーの翌日、エマの元にマスグレイヴがやってくるが、彼女は「たらし」には興味がない。続いてやってきたのが不器用なオズボーン卿。しどろもどろで、それでもありったけの勇気を振り絞ってエマに求婚の意想を伝える。

お城に住む貴族のオズボーン卿からの求婚にエマが「イエス」と答えようとしたその時、ワトソン家の若い召使の娘がストップをかける。ジェーン•オースティンの筆はこのプロポーズのあたりで止まっていて、ここからがこの芝居の始まりと言っていい。

召使の娘は実は現代のオースティン研究家のローラ(実際にこの芝居の台本を書いたのがLaura Wade)で、ローラはエマに「あなた達は実在の人間ではなく、書きかけの小説の登場人物にすぎない。この小説は終わりがなくて、でも作者が家族に話した粗筋ではあなたはオズボーン卿ではなくハワード氏と結婚することになっている」と語り出す。登場人物全員がその話を聞いて驚き、混乱し、不安になり、エマ達とローラの会話は現代と19世紀初めのギャップが炸裂する。
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初めはローラが主導権を握って残された資料に鏤められたオースティンの考えたプロットにみんなを引き込もうとするのだが、やがて終わりのないストーリーの中に放り込まれたキャラクター達は「私たちにだって意志がある。書き上げなかった作者の意向なんてどうでもいい」とばかりに反乱精神を起こす。筋書き通りにはならないぞ、と思い思いが勝手な行動に走るのだが、、、、

勝手に結末を付け加えるよりもずっと面白い手法で本が書かれている。放り出されたキャラクター達がどうするのか?ここまでしか描かれなかったキャラクター達が本当はどんな自分でいたいのか?

エマとローラはやがて終わりのないストーリーを繋げていく道を探し出す。

ローラ•ウェイドの本は個々のキャラクターが本の中と外でそれぞれに生かされていて、セリフもウィットに富んでいて笑いを誘う。オースティンが生きたのはもう200年前だ。その頃とは男女のあり方も結婚の仕方も違うとはいえ、どの時代にも属さない価値観の持ち方は今でも十分楽しめる。シェイクスピアが時代を超えて愛されているのも、人間の中身そのものに焦点を当てているからだ。

10人ほどのカンパニーというのもまとめやすいし、本のほとんどは創作なのに、どこかしらジェーン•オースティンらしくてとても楽しい作品だ。半分作者のオースティンは今ではこの国の紙幣(10ポンド札)に描かれている。これをローラがエマに見せるのも笑った!

ちなみにこのメニエールというスタジオはチョコレート工場をスタジオ劇場とレストランにした建物で、行く度に舞台の作り方が違う。客席が周りを囲む造りの時もあったし、スタジオならではの、変形舞台の時もあった。今回は劇場式の舞台の作りで、この狭い空間にそれでも客席400は作っていたかな、、、満杯の客席と舞台の距離感がすごく良くて、スタジオ劇場ならではの熱気で楽しかった。

ちょっとシリアスに考える場面もあったし、何より「これをどうやって収集つけるんだろう?」と思いながらずっと観ていられる。オースティンのように作家になろうと決めたエマはペンを取って自らの続きを書き始める、そしてその小説の主人公もまた作家になって新たなストーリーを、、、、未完の作品が永遠に続いていくのを予感させて静かに幕が閉じられた。

 


3ヶ月ぶりの芝居!! 日本行きで散財したのと、夏の間はあまりピンとくるものが無かったのでちょっと我慢していたけれど、秋にはいくつか観たいものがあって、まずは楽しみにしていたFlorian Zeller氏の新作、「The Son」。
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これはゼレール氏の「The Mother」「The Father」に次ぐ3作目という事になっているけれど、別にストーリーや人物設定に関係があるわけではない。あくまでもタイトルだけの話。前回に観た「The Height Of The Storm」では突然妻を無くした半分認知症の父と事後処理(家の売却と父の施設入り)にやってきた娘たちの話で、心に問いかける作品を打ち出した。それに続いて今回は作者自身がインタビューで「今回は、はっきりと言いたいことがあって書いた」と語っている。

両親が離婚した時期から少しずつ精神的に不安定になってしまった息子=ニコラス。閉じこもり、一人でぐるぐると歩き回ったり落書きしたり、そうかと思うといきなりキレたりという完全に鬱状態の彼を親として案じる両親。離婚の原因は夫のピエールに愛人ができたからで、結局妻と息子の元を去ってその愛人=ソフィアと再婚してしまったのだ。学校で問題を起こしたニコラスの事を相談しにピエールの元を訪ねた母親のアンは、親としての責任と一人では抱えきれない状況を訴える。
ソフィアも含めて話し合った結果、ニコラスはピエールとソフィアの所で暮らす事になり、学校も転校して新しい生活を始めてみる。 父親と暮らし、ソフィアとも少しずつ話をするようになっているかに見えても、ニコラスの心の病みは頑なに彼を支配している。一生懸命に両親やソフィアに取り繕うとしたこともあったが、転校以来実は一度も登校せず、毎日学校へ行くふりをしては時間を潰して帰ってきていたのだ。
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母親としてニコラスを守り、立ち直らせたいとは思うものの、自分も生活の為に仕事に出なくてはならず、一人では抱えきれずに苦しむアン、結婚していながらも、一人の男性としてソフィアを愛して新しい人生を選んだ事を正直に話して聞かせるピエール、父親の元愛人・現在の妻という立場に引け目を感じる事なく、素の自分でニコラスに接するソフィア。大人たちにも其々の考えや愛情の示し方があり、みんながそれなりにニコラスの事を何とかしてあげたいと思っているのはわかるのだが、ニコラスの病んだ心は癒えず、とうとう自殺を図ってしまう。
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 命を取り留め、病院で精神鑑定を受けたニコラスについて、精神科の医師ははっきりと「今家に帰すのは大変危険です」と告げる。時間をかけて、しっかりと治療をするのが先決だと。もしどうしても家に連れて帰るなら、「何があっても病院側は一切の責任を追いかねる」という書類にサインをしてもらいます、という医師の強い言葉を聞いて、アンもピエールも流石にまた自殺騒ぎを起こしてはいけないと、ニコラスに治療を受けるように説得しようとする。それに対してニコラスは子供のように必死に「家に帰りたい」と懇願する。「ここはみんながおかしいんだ、こんな所にいたら自分もおかしくなっちゃう、こんなところに僕をおいていかないで」と泣き叫ぶように哀願するニコラスに、心を鬼にして「ここに残って治療を受けるんだ」と突き放そうとするピエールとアンだったが、スタッフに押さえつけられ、まるで犯罪者が引き立てられるかのように病棟に連行されて行くニコラスの悲鳴のような叫びを聞いて、最後の最後でとうとう書類にサインをしてニコラスを家に引き取って帰ってくる。

久しぶりに親子3人で家にいる嬉しさを隠せないニコラスは、子供の頃の3人での思い出を話して少し落ち着いたかに見えたが、、、「お風呂に入ってくるね」と言って消えて行った浴室から、一発の銃声が、、、、、

大人たちに罪があるわけではない。父も母も、個人としての人生があり、責任があり、何よりも息子を愛している。それでも深い傷を負った子供の心は出口を見つけられずに苦しみ続けてしまう、、、、とても苦しい現実がある。助けたい、でもどうすればいいのか、助けたいという思いが気持ちでは届いていても救いにはなれない。

作者が言っていた「はっきりと言いたかった事」ではないかと思うセリフが後半にあった。精神科医が、ニコラスを病院に残すか家に連れて帰るか迷う両親にきっぱりと言った。「愛しているだけではダメなんです。=Love is not enough」。はっきりと心に残るセリフだった。心の病は病気であって、きちんと時間をかけて治療法を模索し、投薬やカウンセリング等、医学として必要な治療を施さなければ治せないのだ、と。劇中で何度も言われるセリフ、「It's going to be all right」でも決して大丈夫ではないのだという現実をひしひしと突きつける。

とても現実的で、日常的で、だからこそ考えている人たちにはっきりと苦しい現実を突きつけるような芝居だ。前作の「The Height of the storm」のような、見た人に考える余韻を与える作品と少し違って、厳しいインパクトがある。芝居の最期はもっと寂しい。息子を救えなかったピエールは少しずつ後悔と罪の意識に苛まれて、慰めるソフィアの腕の中で、彼自身も心を病み始めているのだ、、、、、

まだやっと40になったばかりのゼレール氏の筆の勢いは止まらない。翻訳はいつものクリストファー・ハンプトン氏。このコンビもすっかり定着した。そういえはハンプトン氏自身の書く芝居はなかなか新作が出ないなあ〜〜。翻訳もので忙しいのかな。
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すっかり名コンビになりつつあるお二人のツーショット。いつものように休憩なしの2時間そこそこの芝居。結末がキツイから、ちょっと苦しい感じも残ったけれどど、劇中のセリフの掛け合いは面白い。場面の終わりと次の場面の始まりが少しオーバーラップするような演出もスムーズで、大きな転換でなくても場面の切り替わりが繋がっていた。少ない登場人物の芝居は一人一人の比重がバランス良くて、見ている方も何かしら共感できる部分が必ずある。時代も国も関係なく上演できる芝居だからいろんな国で翻訳されるといいな。





 


裏技のお試しで日本のテレビが観られるというのに登録してみた。スルスルと観られる。リアルタイムの番組はもちろん、2週間前まで遡って観る事ができるので、結構な量だ。地上波だけでなく、BSやCSの一部も入っているので、WOWOWのライヴとか衛星中継とかスポーツチャンネルとかも
探しているときりがない。これはもう1日が50時間あっても足りないかもしれない、、、、!!

日テレBSで、「氷艶2019-月光りの如く」をやっていた。前回の歌舞伎から平安絵巻になった「氷艶」高橋大輔さんが光源氏を演じるというのはずっと前から宣伝されていたので知っていた。しかも演出が宮本亜門さん、出演者達を観ても、これはアイスショーではなく、「氷上舞台劇」になるだろうな、と期待していた。ちなみに私は高校時代に選択授業で源氏物語を原文で読みたかったのだが、人数が少なくてクラスが無くなり、円地文子さんの訳で読んだ。でも宇治十帖がどうしても入っていけなくて、ちゃんと通して読んだのは源氏がいなくなる「雲隠れ」までだけど。

実際にこれは「源氏物語」とは全く別物のストーリーだ。いや、人物設定や名前なんかはそのままなのだけれど、「光源氏」の話ではあるけれど源氏物語ではない。だからタイトルにも入っていないのだろう。
なんというか、舞台演劇とスケートと、ミュージカルとエンターテイメントが全て合わさって確かに見応えは十分な公演になっている。で、ストーリーがちょっと宝塚、、、まあ重くないという点ではこの本もありなのかな。

亜門さんは少し前まで入院していたのを知っていたから、大丈夫なのかしら、、と思ったけれど、本当に昔からとてもエネルギー溢れる人だから、ニュースで観た稽古風景を見て安心した。スケーター、役者、スタッフとこれだけ多方面からの仕事をまとめて演出するのは大変だっただろうけれど、よく出来上がったと驚いた。

どうしても芝居を観る目線で観てしまうので、このプロジェクトがいかに大掛かりなものだったかは想像がつく。出演者達が一丸となってお互いの得意分野を分かち合っているのがよくわかる。役者達はスケートを練習し、スケーター達は役者から芝居の台詞を学び、平原綾香さんの歌を聞いて学び、柚希礼音さんの宝塚式の大舞台での堂々たる振る舞いを目の当たりにし、ノイズのように脇を固める人達が支えている。場面場面での民衆達の「ノイズ」が蜷川さんの舞台を思い出させた。蜷川さんは脇を固める役者達でノイズを造るのが本当に巧かった。今回の亜門さんの演出でもそれを感じた。

プロジェクターを使ったセットに代わる背景創りは見事だ。後ろ正面とリンク全部が大きな舞台になって、色も鮮やかに空間を邪魔せずに場面を創っている。 歌詠みのシーンでステファンと大輔さんのスケートに合わせてリンク上に筆書きの歌が描かれていく発想には唸ってしまった。

それにしても、みなさん本当に頑張ったのが見える。大輔さんは稽古の時にはセリフをいうのも一苦労だったようなのに、やっぱり役に入り込むと表現したいものが出てくるんだろうな。台詞や歌の技術はもちろん役者ではないのだから仕方ないとしても、短期間でここまで持ってきただけでも凄い。朱雀帝のステファンや弘徽殿の荒川さん、紫の上のリプニツカヤ嬢も朧月夜の鈴木明子さんも、セリフはなくても表情や体の動きで十分に観客に伝わる表現力を持っているのは流石だ。織田さんの陰陽師がハマりすぎてて怖い、、、!!平原さんはシンガーだからお芝居は、、?と思っていたら、なかなかしっかりとした芝居をしていて高橋さんを引っ張っている。滑舌と声がいいな〜と思ったら、ナレーションの仕事も結構されているんだ、、、納得。みなさんの持つ別々のケミストリーががっちり合わさった感じだ。前回の歌舞伎バージョンよりずっとずっと良いね。

それにしても源氏物語の設定はなくてもよかったんじゃないのかい、、、?と突っ込みたくなるくらい源氏物語ではな〜〜い!!でも別物と納得して楽しめてしまう作品になっていたのは間違いない。 たったの3日間というのはこれだけのプロダクションを創る事を考えたら短すぎるね。でももうこのメンバーでの再演なんて無理だろうし、DVDにもならないだろうしね、残念だわ。まあ、DVDで見返すかどうかは別問題だけど、「観に行きたかったのに行かれなかった」という人たちにもっと観てもらえるといいね。

「氷上音楽劇」という呼び方、ぴったりだわ。それにしてもストーリーの「あるある」な感じがちょっと??だったけど、難しい事言わずにエンタメとして楽しむにはあれくらいでよかったのかも。 もちろんもっと突っ込んだ意見を言うこともできるけれど、私としてはこれで十分楽しめた。会場で観たらもっと大きな舞台として観られたんだろうな。スケートの持つスピード感はいろんな場面で通常のミュージカルなんかでは出せない躍動感がある。創る側は大変だろうけれど、もっと定着して行くと、引退後のスケーター達にも幅ができるんじゃないだろうか、よくあるアイスショーだけじゃなくて。

さーて、そうは行ってももう9月、スケートはぼちぼち競技シーズンが始まるね。まだ現役の高橋選手、今年はどんな 演技を見せてくれるのか、、、羽生君や昌磨君はもちろん、若手も競争率高いよね、島田高志郎君や山本草太君、友野一希君、、、ベテランの刑事くんも。どうなることやら、、、、女子はもっと凄い戦いになるしね、、、う〜ん、女子の方はわからないな、4回転少女達もこの一年で身体が変わって行くだろうしね。みんな怪我無く良い演技を見せて欲しいな。
 

ハロルド・ピンターの芝居を「ハロルド・ピンター劇場」でシリーズ上演している。観てきたのは 「Betrayal」。私は知らないのだけれど、主要キャストの一人は「アヴェンジャー」ものの映画で人気の人らしい。どうりで劇場は満杯、今回はサークル席の最前列を取ったのだけれど、見回すと後ろのギャラリーに立見が出ている。ああ、だからBox officeの前に長蛇の列ができてたんだね。「お客さま」が多いのかなあ〜??とちょっと不安。

主要キャストは3人。タイトルの Betrayal(裏切り)はこの比較的シンプルな芝居の中で多用に絡まってくる。まあ、簡単にいうとダブル不倫、いや、トリプル不倫というやつだ。
エマ(Zawe Ashton)とロバート(Tom Hiddleston)は夫婦で二人の子供もいる。そしてロバートの長年の親友、ジェリー(Charlie Cox)も家族もちで、お互いに長い友人関係を持っている。で、このジェリーとエマは7年間に渡る不倫関係を2年前に清算したのだが、今になって、ジェリーはエマからロバートと離婚することになったと聞かされる。

離婚の原因はロバートに何年も前から愛人がいたことが発覚したからなのだが、これをきかっけに、実はロバートはエマとジェリーの関係を4年も前から知っていたこと、ロバートが知っているという事を知っていたエマはそれをジェリーに話さなかったことが明かになる。

二人が深い関係になって、それをロバートが知ってから今まで知らぬ顔でジェリーと親友づきあいをしてきた様子、エマとジェリーの関係が少しずつ薄れていって終止符を打つ流れを時間を遡りながら台詞だけで見せていく。

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何もない舞台にあるのは二つの椅子だけ。これを回り舞台の構造をうまく生かして3人の微妙な心理のずれや表裏を表す演出がなかなか上手い。演出のジェイミー・ロイドの舞台は今までいくつか観たけれど、私の中で好き嫌いが二分されている。今回は本よりも演技よりも演出が光る。

台詞の中に絶妙な静止と静寂が随所にちりばめられている。台詞を畳み掛けるのではなく、返事を返すまでの少しの間にお互いの顔を見つめることで返事の一言の感情を何倍にも膨らませているのだ。この間の取り方が絶妙で、意味を持たせるギリギリのタイミングを維持しつつ、芝居のペースも崩さない。とてもデリケートな演出だ。

もう2年前に関係をやめたエマとジェリーが、久しぶりに飲みながら始まる開幕のシーンはぎこちなく、それでいてかつての親密さも隠せず、同じことを何度も聞いたり取り繕うとして見たり、、、、自分達がロバートを裏切っていたはずが、実はロバートもエマを何年も前から裏切っており、さらにロバートが二人の関係を知っている事をジェリーには知らせずにいたエマの裏切り。そして不倫を知っていながらジェリーと親友として振る舞ってきたロバートの仮面。遡る形で戻っていく過去のシーンは、「今思うと、、」という目線で見ることになるので、繊細な演技が求められる。ここでも抑えた言い回しやセリフの間の数秒の間合いが心理描写に効果的に使われている。

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もう一つ、演出で目を引いたのが舞台の後ろに映る影だ。ほぼ白い空間なので3人の陰が後ろの壁に綺麗に映るのだが、そこでもまた見えない心のセリフが呟かれているかのような効果を出している。時々、写っている影は別の動きをしているんじゃないかと思わず錯覚してしまうような鮮明な影絵。
最近は小さい劇場だとサークル席の最前列というのが結構お気に入りだ。今回もサークル最前席だったので、舞台上の役者の姿と後ろの影が重ならないでちゃんと見えたので正解だった、2重の回り舞台を使っ手の、お互いが行き来したり交差したりする様子もサークル席からの方がよく見えた。

ハロルド•ピンターというとちょっとひねくれたような「不条理劇」に分類される作品も有名だけれど、映画の「日々の名残」(カズオ•イシグロ)や「フランス軍中尉の女」等の脚本も手がけていて、このBetrayalも7年間の3人の関係をとても繊細に書いている。もちろん会話上の掛け合いから生まれる言葉の面白さも充分あるので何気ない会話に笑いも起こる。

休憩なしの1時間半はちょっと疲れた土曜日の仕事の後にはちょうど良い。劇場を出たらまだ薄明るさが残っていた。結婚生活に幾つのBetrayalがあるのかは人それぞれだ。別に不倫だけの話じゃない。心のどこかで、きっとお互いに必ずあるはずのBetrayal。大人の芝居はいいなあ〜〜


Unknown

小さなスタジオでの小さな宝石のような芝居が好きで、最近はなんだかスタジオ式の劇場でばかり芝居を観ている気がする。
ピカデリーサーカスの一本裏通り、いかにもポッシュな紳士向け高級テイラーメイドの店が並ぶJermyn Streetにある劇場、多分普通に歩いていたら見過ごしてしまう。座席数70のスタジオだ。こんな小さなスタジオでの芝居なのに、大御所演出家のトレバー ナン氏の演出作が上演されるのがロンドンの面白い所。しかも今回の芝居は120年前に書かれたのに、一度も上演されなかった、まさに時代に埋もれていた本だという。

ストーリーは実は単純だ。まだ17歳の時に(おそらくは家同士の取り決めで)年上の作家である夫と結婚したアグネスは、画家として自立したい思いと自由を求めて家を捨て、今はデンマーク人の男友達でやはり画家のオットーと同居している。オットーとは今までは男女関係は持っていない様子、、、。最近になって彼女の元に届く手紙で彼女の様子がおかしいと気づいたオットーが事情を聞くと、アグネスはオットーに初めて自分が結婚している事、そして夫が毎日のように「戻って来るように」という手紙を執拗に送って来る事を打ち明ける。また、アグネスの事を慕う若いアレキサンダーも彼女との甘い時間を夢見て時おりやって来てはオットーを不機嫌にさせている。やがて彼女は夫の執拗な説得を振りきってオットーと供にフランスに移住する。そこでは二人は絵を描きながら「夫婦」として暮らしている。(法的にではないが)次第に男友達から恋人になったオットーとの関係にも変化が訪れ、アグネスは自分自身の人生を探そうと揺れる。そして今一度、自分の意思で新しいパートナー(アレキサンダー)を選んでオットーのもとから巣立っていく。

単純に会話が進んでいくのだけれど、重要なのは、この芝居が1900年に書かれたという事だ。まず、登場してすぐにアグネスはいわゆる上流家庭の女性だと分かる。それは彼女の物腰や何と言っても話し方だ。イギリスではその人の話す英語で家庭階級や教育の背景が解ってしまうのだ。絵の具で汚れていても、アグネスが「上流夫人」であることは明白で、一緒に暮らすアーティストのオットーとのバックグランドの差が少し見えるのだ。そして彼女に言い寄る年下の若いアレキサンダーも家庭環境は上流なようだ。

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そんな背景が、語られなくとも会話しているだけで見えて来るのが面白い。夫がいるのに他の男と暮らしているという事が当時はどんなにスキャンダラスだったか、というところから成り立っている芝居だ。要するに、当時の女性の自立、というより男の所有物からの解放とでも言うべきか、自己と自由な恋愛を求めて歩いていく女性というのは今なら当たり前でも当時は大変な反社会的な存在だったのだ。

作者のHarley Granville-Barkerは1877年にロンドンで生まれている。キャリアとしてはまず役者として多くの作品に出演している。そして演出も手がけるようになり、シェイクスピアも何本も手がけている。戯曲も書くようになり、20世紀初頭のロンドン演劇界ではかなり斬新なアイデアで新しいタイプの演劇人として活躍していた。そんな彼が23歳の時に書いたこの芝居を、彼は一度も上演しなかった。むしろ残された手書きの原稿には「こんなのはゴミだ」と書きなぐってあったらしい。当時はイプセンが「人形の家」等で自立しようとする女性を描いて上演禁止になっていたのだから、この題材の芝居を彼が「成功するわけない」と思ったのも無理はない。

夫ある身で同じ画家の外国人(オットーはデンマーク人ということになっている)と暮らし、家に戻るようにという執拗な夫の誘いを振り切ってノルアンディーで夫婦(同様の)生活を始める二人。初めは同居人だったのが、ここから愛人に変わって行く。この関係の違いはやがてオットーとの生活にも影響して来る。「肉体的な男女の関係」というものが、台詞では現代劇のようにはっきりとは表現していないところがいかにも120年前の本だ。それでもアグネスは「そういった事」にも自分の生き方を見つけようとしているのだ。オットーと夫婦として暮らしながらも、彼が他の女性にキスをした事実を知り心が揺れるアグネス。

夫婦と愛人の、お互いに対する権利と規制はどこで決まるのか?まあ今でも議論のタネじゃないですか、身体の関係さえなければ浮気にならないのか、、、とか?。 アグネスは再び自分の人生を変える決意をする。ずっと年若いアレキサンダーと新たな道へ歩いて行くことにするのだ。愛しているのか好きなのかはよく解っていなくても、、、、
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単純なのだけれど、時代背景を考えてみると、今の時代にも変わらないものがある。舞台の広さは幅が歩いて7−8歩、奥行きは3歩も無いくらいの空間だ。役者の位置は絵を描いているカンバスの前と反対側の椅子、あるいはノルマンディーの部屋ではテーブルと周りの椅子だ。これだけの空間で2時間のセリフ劇の演出はやっぱりなかなか難しい。トレバー•ナン氏ならでは、か、、、、

実は見ていて本に書かれているのか、それともナン氏の演出なのか、分かりかねる部分も多い。どこまで作者が意図して描いた動きや設定なのか。ブリティッシュライブラリーで見つかったオリジナル原稿は鉛筆書きで、この上演に当たって戯曲家のRichard Nelsonが「Rivisor」としてクレジットされているので、手書きの原稿から書き起こしたのだろう。

登場人物5人の芝居。作者本人は「ゴミ」と思ったのかも知らないが、21世紀に観ても結構面白かった。ものすごく感動する、というような本ではないけれど、忘れられていた小さな宝石のような作品だ。実を言うともう少し広い舞台でもいいかも。せめてキャパ200くらいの、、、地味な作品だけれど、掘り出した価値があると思う。ナン氏の演出にも拍手。


79歳のイアン•マッケラン氏のリア王の舞台は是非見ておきたいと思ったのだが、そうなのだ、「リア王」は長い、、、開演時間が7時。私の仕事は6時までだが、時間きっちりに終わることはあまり無く、都心に出るには45~50分、いつもの7時半開演の芝居なら、なんとかコーヒーとサンドイッチくらいはお腹に詰め込んで行かれるのだが••••• 

躊躇している間にもチェックするたびにチケットはどんどん無くなっていくし、「どうしようかな」と思っていたら、またシアターライヴでやるという。家の近くのシネマだと、帰りも楽だし、本当は劇場で観たかったけれど、一歩譲ってシネマライヴのチケットを取った。

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「リア王」と言えば、数ヶ月前にBBCがアントニー•ホプキンス氏でテレビ版を放映していたのが記憶に新しく、比べてみるのも面白いと思っていた。そのブログ記事はこちらへどうぞ

今回の演出は元々Chechesterという地方都市のキャパ300の劇場での上演用として創られたので、ロンドンに持って来る際に、大降りにならないように留意したのだそうだ。上演されているDuke of Yorkは小ぶりな劇場だから、その意図は十分生かされていると思う。シアターライヴで何が良いかというと、役者の表情をアップで見る事ができる。反対に、あまりにカメラの寄りが多いと、「もっと舞台全体が観たい」とも思うのだが。

ケント役に女性を持ってきたのは変わっていた。そしてケントが変装してリアに付き添う際には思いっきりのアイリッシュアクセントになっている。ケントと三女のコーディリアが話の初めてでリア王の逆鱗に触れて「縁切り」の目にあうのだが、コーディリアのキャスティングだけが、どうもなんと無くしっくりこなかった。他の2人の娘も、グロースター、その息子のエドガーとエドモンドもすごく良かったので、余計に気になってしまった。

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今回コーディリアを演じたのは黒人の女優さんだ。こちらでは最近は肌の色に関係なく、黒人の役者達の普通にあちこちに配役されている。「家族だろう!?」と突っ込みたくなる事もあるのだけれど、親子、兄弟でもブラックの役者さんが配役されていることはままある。

演技的にはもちろん何も問題ないし、気にならない事の方が多いのだが、今回のこの女優さんは、話し方と首の振りにとても癖があって、それが気になってしまった。いわゆる「黒人訛り」と言えばいいのか、、、目をつぶっても「黒人だ」とわかってしまう滑舌なのだ。顎の骨格なのか、歯並びなのかはわからないけれど、すぐに解る。そして一生懸命話そうとするからか、首を振りながらセリフを粒立てようとしてしまうので、これが演技を邪魔してしまう。すごく気になってしまった。黒人でも普通に滑らかに話す役者もたくさんいるし、むしろロンドンの舞台ではそれが基準だったので、ちょっと驚いた。

それにしてもイアン•マッケラン氏は本当にプロ中のプロだと改めて凄いなと思ってしまった。もちろん彼はリアを何度も演じているし、まるで「もうセリフなんて体に染み付いています」という感じの自然さでシェイクスピアのセリフを紡ぐ。声も息も、そして目の動きまで、ちゃんと解って演じている感じだ。

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愛嬌のある役者さんなので、くるくると動く目だけでセリフが何倍にも膨らむ。巧いよ、、本当に名優だ。雨のシーンでは全身ずぶ濡れになって上着だけでなく中のシャツまでびしょ濡れだった。79歳で舞台に立ってこんなシーンを物ともせずにやり過ごす体力はすごい。そうだ、蜷川さんの最後のハムレットでクローディアスを演じた時の平幹二朗さんの時もそう思った。役者は体力勝負。頭も身体も声も揃っていなくては舞台には立てない。

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やっぱり劇場で観たかったなあ〜〜、でもそれでも観られて良かった。そのうち日本でも上映されるようだったら是非おすすめです。

さーて、いよいよ明日1日働けば日曜の朝には機上の人となる!!
でも、、、台風がやばい!本当にやばいことになってるよ、、、羽田に着くのが1日の朝7時の予定なのだが、台風真っ最中じゃないのか、、、ちゃんと降りられるんだろうか、ドキドキです。



 


ほとんど忘れかけてた!っていう位に久しぶりのフランス古典喜劇!! そうだよ、モリエールがいたじゃないか!、、、、、
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初めはタイトルの「Tautuffe」 を見てもピンとこなくて、その下にMoliereという名を見てやっと、「あ! タルチュフだ〜〜!」と気づいた。モリエールの喜劇なんて、本当にもう30年以上観ていなかった。久しぶりに嬉しくなって、速攻で何もチェックせずにチケットを取った。前の日になって、帰りの電車の時間が気になったので終演時間を確認しようとしたところ、「バイリンガル•プロダクション」と記事に書かれてあって、「??」と思ったのだった。

モリエールは17世紀のフランスで活躍した劇作家。彼の劇団は旅公演だけでなく、王侯貴族たちからも援助を受け、社会風刺の効いた喜劇で人気を博していた。丁度太陽王、ルイ14世の時代だ。モリエールの喜劇は、同時代のラシーヌのようなギリシャ悲劇を元にした古典劇に比べると、題材が人間本来の感情や思考による間違いや勘違い等での面白さなので、時代にとらわれずに楽しめる。

今回のプロダクションも時代は現代のロサンゼルスという事になっているらしい。そして、本当に英語とフランス語がゴッチャに入り混じってのバイリンガル劇になっている、、、、しょっぱなから聞こえてきたのはフランス語の掛け合い。え、、?と思って見回すと、舞台上部、左右、そして前方の床の左右、と、5箇所の字幕スクリーンがある。こういう場合はサークル席とかの方が舞台と一緒に字幕も視界に入るのだけれど、私のいるストール(一階席)のしかも前方(つまりはものすごく良席)だと字幕を見るためには顔を背けなくちゃならない。せっかく良いテンポの芝居なのに、字幕追いが大変で、「これで最後まで持つのか、、?」と不安になった。

資産家のオルゴンとその母親は友人のタルチュフの事を善良で信心深い、人類の見本のような人物だと崇めている。オルゴンは彼を自分の家に泊めて、なんとか彼を見習って自分も立派な信心深い人間になりたいと思っているのだが、実はタルチュフの本性は偽善者そのもの、自分を信じきっているオルゴンを利用しようとしているに過ぎない。オルゴンの周りの人たち、妻のエルミールや息子のダミス、義兄のクレアント達はタルチュフの胡散臭さをなんとなく見抜いていて、オルゴンに忠告しようとするのだが、オルゴンは一向に耳を貸さない。そして、既に恋人ヴァレールとの婚約が決まっていた娘のマリアンヌを婚約解消してタルチュフに嫁がせようと考える。父にヴァレールではなくタルチュフと結婚するようにと言われたマリアンヌは、父には逆らうべきではないという自分の忠実な娘としての立場から反論できずにいる。マリアンヌの侍女のドリアンヌはもっと自分の意見を主張するべきだとマリアンヌを諭すのだが、とうとうマリアンヌに泣きつかれて彼女の味方になると約束する。マリアンヌの兄のダミスは、タルチュフが密かに母=オルゴンの妻であるエルミールに言い寄っているのを聞きつけ、なんとか父にタルチュフの本性を知らせようとするのだが、オルゴンは一向に息子の言葉を信じないばかりか、逆に信仰を逆手にとって、「自分は罪深い人間だ、許してくれ」というタルチュフにますます肩入れしてしまう。なんとかしてタルチュフの本性を暴こうとエルミールは自らタルチュフに誘いをかけ、自分にいいよる悪党の顔をしたタルチュフの姿を夫に見せる。家族一丸となってタルチュフの本性を暴き、流石のオルゴンも自分の盲目的な思い込みから目がさめる。ところが、マリアンヌと結婚させて、タルチュフに家屋敷と財産を譲ろうとしていたオルゴンは全ての書類が入った鞄がタルチュフの手に渡ってしまった事に気づいて愕然とする、、、、、

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父に反抗できずにいるマリアンヌは当時(17世紀)の父親の家庭内での権力を示している。その後に、恋人のヴァレーヌと愛し合っているのに喧嘩になってしまったり、ダミスが必死に本当の事を告げて忠告しているのに、信じないばかりか逆に息子を勘当してしまうオルゴンのバカっぷりは本当に笑える。

それにしてもなぜ2ヶ国語なのか、本当によく分からない。英語部分の翻訳はお馴染みのクリストファー•ハンプトン氏だ。それも、キャラクターによってとか、場面によってというのではなく、普通の掛け合いの途中でいきなりフランス語と英語がシフトするのだから、なかなかついていくのが大変だった。

でも不思議なことに、意味はわからないのに、フランス語の台詞が耳に心地よい、、、おそらくあの時代の作品だから、シェイクスピアの英語と同じように、フランス語の台詞もリズムがあって書かれているのだろう。おまけに役者達は本当に良い芝居をしているので、字幕を見るのがもったいなかった。役者達はイギリス人、フランス人と混ざっているし、中の数人は実際にバイリンガルのようだ。

知らなくて得したのは、ちょうど今BBCでシリーズ3を放映中のドラマ「ベルサイユ」でルイ14世を演じているジョージ•ブラグデンがダミス役で出ていた事だ。3年前から始まったシリーズ物の「ベルサイユ」の大ファンで、「レ•ミゼラブル」の映画にも出ていたジョージのルイ14世をみて「一度舞台でもみてみたい人だな」と思っていたので。彼は子供の頃にフランスの学校に行っていたバイリンガルアクターだ。「ベルサイユ」のドラマは全て英語だけれど、制作はカナダ・フランスなので、インタビューなんかではかなりフランス語でも喋っていたっけ。

ドリアーンとオルゴンの母・ペルネル夫人を演じている2人のフランス人の女優さんが素晴らしい。そしてタルチュフ役のポール•アンダーソンは初めはアメリカ人の役者かと思った。ちょっと鼻にかかった投げやりな感じのロサンゼルスアクセントが偽善者の悪党ぶりを見事に表していて、決して攻撃的じゃないのに、「この悪党!」と思ってしまう憎らしさ!役者自身はイギリス人で、ちょっと驚いた。

最後はオリジナルから現代に変えていて、タルチュフを逮捕するのは国王ではなく、ドナルド•トランプというのがご愛嬌。
実はこの芝居、敬虔なキリスト教信者に見せかけた偽善者という設定から、当時の反宗教的要素を監視していた団体から圧力をかけられ、ベルサイユ宮殿で初演されたものの、その後、国王ルイ14世から上演禁止を命じられてしまう。(これは5年間で解かれている)

なんだか昔劇団時代に上演したフランス喜劇を思い出した。コメディー•フランセーズのレパートリーになっているジョルジュ•フェドーの喜劇達。笑いのテンポがやっぱりモリエールあたりが基本になっていたのだなあとちょっと思った。2ヶ国語ゴッチャの珍しい芝居だったけれど、それがなんだか耳に心地よくて楽しめたのだからまあ、成功していたと言っていいのかな。

でも次回はやっぱり全部分かる言葉で観たいなあ〜〜









 

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