見つけもの @ そこかしこ

ちょっと見つけて嬉しい事、そこら辺にあって感動したもの、大好きなもの、沢山あるよね。

カテゴリ: 舞台・芝居全般

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去年上演されていた時は、「トトロか、、子供向けのファミリー劇場かな」と思ってスルーしていたら、なんと舞台は大絶賛されて、イギリスのいくつもの演劇賞、さらにローレンス・オリヴィエ賞で6部門を受賞(ノミネートは9部門)という快挙になった。
再演が決まったというので、やはりこれは観ておこうとチケットを取った。お高いけど、、、! 

劇場はバービカン、久しぶりだな〜。 ここは蜷川幸雄さんがいつも日本からの芝居をひっさげてきた劇場だ。(ここだけじゃないけど)今や中年俳優の域に足を踏み入れつつある藤原竜也さんも、デビュー以来何度も踏んでいる舞台。「もうここで蜷川さんの芝居を観ることは無いのかな」と思うとちょっと寂しい。

それにしても凄い人だ。フォイヤーも売店も人が一杯。座席に着いてさらにびっくり、この広いバービカンが端から上まで埋まっている! カンバーバッチ氏のハムレットの時みたい、、、、すごいぞ、スタジオ・ジブリ。去年の評判で来た人たちに加えて海外からのお客さんも多い様子だ。

このバービカンの舞台は広い。だから壮大な空気感を出せるし、セットも大掛かりなものができる。「となりのトトロ」の話は私は全く知らなくて、姪っ子がまだ2−3歳の頃にぬいぐるみを持っていたので容姿は知っていたけれど、実は「トトロは大きい」ということを2年前くらいまで知らなかった、、、、

お母さんの胸の療養のために東京から田舎に引っ越してきた一家。古い家には何やら不思議なススワタリという黒い埃・煤のようなものがたくさん蔓延っているが、これは子供であるさつきとメイにだけ見えている。このススワタリもそうだし、トトロも「子供にしか出会えない」という生き物で、日本特有の神秘的な自然崇拝や都市伝説のようなイメージを持っている。二人の姉妹と村の人々、大学教授の父、不器用な男の子、病気の優しいお母さん、、、と心温まるキャラクターが揃ったところに、森の不思議な生き物トトロ。まさにファンタジーなのだけれど、これが結構現実的なストーリーだ。あちこちのシーンで起こる拍手に笑いや静けさ、それは見ている人が誰であろうと、心のどこかに共鳴するものを持っているからだ。
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セットの巧みさに思わず唸る、、ちょっと蜷川さんのマネもあるかな、とさえ思ってしまう。製作は天下のRSC=ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーなので、芝居の質の高さは言うに及ばずだ。「子供向け」感がほとんどなくて、しっかりとした舞台演劇として作られている。役者たちもオーディションで選ばれたアジア系の人たちが「古き日本」の雰囲気を出していて素晴らしい。
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役者たちには日系の名前が多い。日本からの海外公演ではなくて、芝居は全て英語盤なので、バイリンガルか日系、アジア系の役者さんたちにチャンスがあったのは素敵なこと。アジア系の役者たちはまだまだ舞台で活躍できる場が少ないので、本当に良いチャンスだったと思う。12歳と4歳という設定のさつきとメイは子役ではなく二人とも大人の役者が演じている。これはオーディションの際に、微妙な気持ちの変化や素直な思いをきちんと形にして表現するには。子役ではなく大人の役者の技量が必要と判断してのことだったようだ。役者さんはお二人とも30歳となっているけれど、しっかりとちゃんと子供を演じていて、素晴らしかった。
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舞台上に生演奏でテラスのような場所から音楽を演奏するのも素敵な演出だ。なぜか歌を歌う場面は歌詞が日本語だった。でもそれでも伝わる、ということなのかな。(アニメの中での歌なのか、それが世界中で知られているのか、私にはわかりませんが) 

楽しくて、舞台芸術の可能性をたくさん観られる舞台だった。満杯の観客は最後のカーテンコールでは総立ちで、こんなに大きな完成と総立ち拍手はロンドンでは珍しい。でも本当に楽しかった!

そして、次には日本で大評判になったという「千と千尋の神隠し」がロンドンにやってくる。4月からの限定公演はあっという間にチケットが飛ぶように売れたらしく、夏までの延長が決まった。私も4−5月のチケットがあまり良い席がなくてどうしようと思っていたので、延長になった7月末のチケットで前方ど真ん中を取ってしまった。なんと!£170ですよ、、、!!しかも週末はもっと高い!

ロンドンの芝居も本当にお高くなってなかなか厳しいけれど、やっぱり良い作品を見ると幸せなので、これが私の贅沢と思っている。 


あっという間に年が明けてからもう2週間経ってしまった。
年が明けてからは何となく日本のお正月の空気を求めて、休みの間は日本のテレビをよく見ていた。お正月特番みたいなやつ。爆笑で見ていたのが「芸能人格付け」、、、笑わせてもらいました!
Gacktさんがあんなに連勝を重ねているのは、「良いものとは何か」の基準をきちんと知っているからなのだろう。こういうものは、自分の好みや価値観で選んでしまってはいけない、自分は好きじゃなくても「こういうものが美味しいとされる」という基準で答えないと、浜ちゃんチャーハンになってしまう。いや〜面白かったわ。高橋成美さんの「小学5年生より、、、」も観ましたよ!前回がまさかの「祇園精舎」で即敗退だったから、リベンジの300万円おめでとうございます!!

新春の舞台中継は野田マップの「フェイクスピア」。言葉を使っての巧みな組み立てがやっぱり野田さんは凄い。「Q」でも思ったのだけれど、言葉遊び(遊びというよりは言葉の追求)だけでなく、それを他の要素、歴史だったりシェイクスピア作品だったりに見事に繋げてしまう発想の柔らかさ。やっぱりこの人は凄いな、、と思わずにいられない。
ドラマで見ると何となくぼんやりした印象で特に好きというわけでもなかった高橋一生さん、舞台での声が良いな〜。白石加代子さんと橋爪功さんが本当に素晴らしい。やっぱりこの人達はずっと舞台をやってきた人たちだ。お二人とも80を越えているのに、すごい体力とバイタリティーだ。「頭を上げろ」「パワーだ」の言葉がそのまま85年の日航機事故のコクピットでの最後の会話だったというのは終盤の盛り上がりで重く響いてくる。

実際の事故直前の会話を芝居の中に使うのは、生存した方達や、被害者の家族達にどう受け止められるか、反感をあおることはないか、というのは当然考えての事だったと思う。でもこの最後の言葉を、逆に生きるための励ましのメッセージとして甦らせたのは素晴らしい使い方だったと私は思う。野田さんの本はいつも頭と感情を両方使って楽しめるところが凄いよね。

そしてフィギュアのヨーロッパ選手権。ペアは見てなかったけれど、男子ではケヴィン、女子ではクラコワちゃんのショート落ちという衝撃の展開が、、、、、ケヴィンはGPFのフリーあたりからちょっと様子が変だ。年末のフランス国内大会でhも今回のように「心ここにあらず」な感じで、競技に出るという意欲が全く見られない。怪我でないならメンタルだろうか、、フランスはアダムとケヴィンの二人でワールド3枠をしょっているので、3月までには調子を戻して帰ってきてくれることを祈るのみだ。今回の男子はやっぱりセレフコ兄ちゃんだ!オリンピックは弟に行かれてしまったけれど、今回ショート落ちした弟の分も素晴らしい演技で銀メダル!そしてダンスのアリソル組の初メダル。会場がもう大騒ぎの大宴会という雰囲気で、日本の盛り上がりにも負けていない。アイスダンスはみんな笑顔で、表彰式もすごく良い雰囲気だった。

そして優勝したとはいえ、物議をかもしているアダム君。禁止されているバックフリップをあえて競技でやるのなら、明確なメッセージ、それも意味のあるメッセージにして欲しい。今回のフリーは転倒があったり、降りたジャンプもなんだか不安定で流れもなくて、ステップもなんだか粗っぽくて、GPSの時のほうがずっとよかった。途中で「このプログラムってもっと見ごたえあったはずなんだけどな、、??」と思って早送りしそうになったよ。そしたらいきなりのバックフリップ。

点数差があったから「勝てる」と思ってあえて減点対象の禁止技をやったのだろうけれど、私はちょっと???としか思わなかった、、、「観客の為にやった」と後で本人は言っていたけれど、フィギュアスケートのファンなら、観客が観たいのはミスなく仕上げて感動させてくれるような完成されたプログラムだよね。しかも彼のバックフリップは、かつてのボナリー選手のような美しいものではなくて、猿のように跳んだだけ、という感じだった。やった意味がぜんぜん解らない、、、、観たいのはそれじゃないんだよね。

ボナリー選手がやったバックフリップには、意味があった。当時「黒人であることの差別が入っている?」と思わせられるような空気の中で、自分の最高の技をしてもチャンピオンになれない悔しさと憤りを、自分をサポートしてくれている人たちに訴えるためのものだった。「同じ負けるなら、これを敢えてやって負ける」というプライドを持っての美しい片足着氷のバックフリップだった。昨日のアダムとは全く違う。
優勝したとはいえ、得点は年末の全日本での6位にしかならないのだから、どうか勘違いしないでスケートと向き合って欲しい。フランスのスケ連はケヴィン共々、選手を大事に世界選手権に送ってくださいな。

あちらこちらで高校大会やインカレ、国体、そしてCSとまだまだ続くスケートシーズン。とても全部を追いかけている時間はないので、どこをかいつまむか、、、今年からは劇場通いも再会していく。今検討しているのは今年の里帰り時期。ここ数年は10月が続いていたけれど、今年はずらそうかと思う。6月には劇団の先輩、戸田恵子さんの舞台があるし、「氷艶」もあるので、う!ん、久しぶりに6月始めに行ってこようか、、、早く決めなくては、、、、


今年最後の芝居はRSC(ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー)の「Hamnet」
 
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そう、「ハムネット」。タイトルを見ると、シェイクスピアの「ハムレット」のパロディーかと思ってしまうけれどちょっと違う。
Hamnetというのは実はシェイクスピアの息子の名前。Maggie O'Farrell(マギー・オファーレル )の小説を舞台化したもので、ほとんど記録に残っていないシェイクスピアの家族に焦点を当てたストーリーだ。残されているシェイクスピアのプレイベートな記録はざっと次の通り。

 ストラートフォード生まれ。18歳の時に年上のアン・ハサウェイと結婚し、その半年後に子供が生まれて教会で洗礼を受けた記録がある。(つまりは、、、デキ婚!)子供は長女のスザンナと2年後に生まれた男女双子のジュディスとハムネット。そしてハムネットは11歳で亡くなっている。シェイクスピアが大半の時をロンドンで過ごした間もアンと子供達はストラトフォードで暮らしており、シェイクスピアは引退後にロンドンから戻って晩年を家族と過ごした。

これだけの記録から、シェイクスピアとアンはどんな夫婦だったのか、子供達との関係はどうだったのか、妻のアンはどんな女性だったのか、、、を肉付けした、これは「家族のストーリー」だ。

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この芝居でのストーリーの中心は実は妻のアンネスだ。芝居の中で、彼女のアンという名は実はAgnes=アグネスのgを発音しない「アンネス」だという設定になっている。アンネスは森の中で自然の声を聞いたり、薬草を煎じたり、直感で何かを知ることができる神秘的な能力を持っている。そのため、一部の人からはちょっと変わり者で「魔女なんじゃないか、、、」と噂されたりしている。けれで性格は大らかで大地のような強さを持った女性だ。まだ若いシェイクスピアが一気に惚れ込んでデキ婚に持ちこんでしまったあたり、あの時代の両家の反応はどんなだったか、、、というあたりも描かれる。

夫がロンドンで大成功していく間、ずっと田舎で家を守っているアンネス。年に1−2度しか帰ってこない父でも家族は平穏にストラトフォードで暮らしている。
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そして、息子の悲劇の死が訪れる。ここではジュディスとハムネットの双子としての独特の絆が感動的に描かれる。病(ペスト)に罹ったジュディスの傍を離れず、励まし、慈しんでいたハムネットの方が今度は倒れてしまい、ジュディスが回復する代わりにハムネットのほうが亡くなってしまう。

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息子を亡くしたアンネスの嘆きは夫に対する怒りも呼び起こし、数年後に夫が上演する演目が「ハムレット」と知ると、ロンドンまで芝居を観に行く、、、、
当時はHamletとHamnetは時にどちらの綴りも使われるいわゆる「同じ名前」のようなもので、アンネスは夫が息子の名を芝居にしたことで大事なものを奪い取られたような思いがしたのだ。
 
子供を亡くした家族が、夫婦が、どのようにその悲しみを消化して前に進むのか、、、?

RSCの皆さんの演技力はお墨付きだ。古典ではないこの芝居でも、古典劇でみせるセリフと感情の表現は、シェイクスピアの作品ではないものの「その時代」の空気を出していて、やっぱり役者たちの力量だ。

何百年経っても上演されて続けているシェイクスピアの作品たち。どれも時代・世代・国境を超えて、人間であれば必ず理解・共感できる題材で、どの作品でも「シェイクスピアの人間洞察力は半端じゃないな」と感心する。宮廷人として、セレブのような地位にあった彼も、父であり夫としての姿があったのだ。そういえば、双子の出てくる芝居もいくつかある。彼の描いた女性キャラクターの中に、妻のアンそっくりの人もいたのだろうか、、、本人が人間臭い人だったからこそ、人物を描くことにその才能を開花させたのかもしれない。

知られざるアン・ハサウェイの「あったかもしれない」物語をもう少し追ってみたくなったので、原作の小説を読んでみようかな。最近は本を読んでないし、、、

珍しく平日のマチネだったので、休みのお昼にWest Endに出て、ジャパンセンターでラーメンなんて一人で食べてしまった。クリスマス前のピカデリーは凄い人だった。日本食材をちょっと買って、ラーメン食べて芝居観て、、、これぞ休みの日の幸せ!!

 


前回日本に行く時、滞在中に日本で観たい芝居をやっていないかと検索してチェックした、シアターコクーンでの「血の婚礼」。結局日本に着く日がギリギリで、最終日が父の法事だったので諦めたこの公演が、CSの衛星劇場で放映されていたので観ることができた。

ところで、私がここ数年重宝してきた日本のテレビが観られるサイト・アプリが最近新しいアプリと番組リストになっていて、更新の際に変更してみた。前は90チャンネルで申し込んでいたのだが、無くても良いチャンネルも多く、逆に別のパッケージだと見たいチャンネルがなかったりしていたけれど、新しい番組リストは67チャンネルで私が欲しいチャンネルを全てカバー、料金も少し安くなった。28日まで遡って見られるので時間のある時にチェックできるし、まだ試していないけれど、ダウンロードもできる。海外生活も本当に便利になっていく、、、、

さて、ガルシア・ロルカの「血の婚礼」。私はこの芝居は劇団に入る前の演劇学校時代に読んでいて、でも舞台では観ていなかった。演出は杉原邦生さん。この人は名前だけ聞いていた。自身の劇団や歌舞伎作品も手掛けていて、特に劇団での上演演目を見てとても興味があった。この舞台を観たいと思ったのはそれもある。

詩人でもあるロルカのセリフは、情状的に謳うようなリズムを出していて、翻訳台本が巧いなあ〜と思う。聞きづらいほどにならない丁度良さで役者がきちんと言いこなしている。安蘭けいさんはじめ、役者はみなさん素晴らしいね。

ストーリーはシンプルだ。結婚式の日に花嫁が元彼と逃げた、、、それを追って花婿と元彼が争い、刺し違えて二人とも死んでしまう、、、

演出の巧さは期待以上だった。セットや証明、そして森の中での男二人が女一人を挟んで戦うシーンはとても上手く振り付けられていて、役者たちの動きから暑い激情が迸る。今時「激情」とか「情熱」なんて言葉はもしかしたら昭和の死語なのかもしれないなあ〜、、なんて思いながら見てしまった。ロルカのセリフが詩的なのもそうだし、照明や衣装の色とか役者たちの動きとか、全体の演出に少しだけ蜷川幸雄テイストを感じたのは気のせいか、、、?? でもすごく私の好きな舞台になっていた。

最近は役者たちも年齢的に代替わりというか、私も名前しか知らない人が多くなった。でも皆さんしっかりとした芝居で良いカンパニー。単に駆け落ちというだけでなく、このストーリーの背景には、家族の男たちがみんなナイフで死んでいく、という設定がある。花婿の父親と兄はナイフ沙汰の事件でしんでしまって、以来次男の彼は母親と二人暮らしだった。そして彼らを死なせた加害者は、花嫁と逃げた元彼の親族ということらしい。そして次男の花婿もまた元彼との争いでナイフで死んでいく。

最近何年もイギリスではナイフによる殺傷事件=Knife crimeが激増していて、特にティーンエイジャーのナイフによる死亡事件が後を絶たない。ニュースをつければ週に2−3回は耳にするほどだ。そんな現代の社会問題にもからんでいるようで、少し時代遅れなのにタイムリーな印象もある。愛情、愛憎、怒りや憎しみ、理論や道理では測りきれない人間の心情はどんな時代にも当てはまる。

ヨーロッパの男たちは本能的に「狩猟民族=ハンター」だと教わったことがある。地続きで狩猟をすることで生きていた人間達なので、食べ物を得るために戦い、勝ったものが生き残れる。それに対して日本はじめアジア人は「農耕民族=百姓」なのだと。だから日本人が「協調性、仲間意識」を大切にするのは生きていくために必要なことなのだそうだ。

二人の男が一人の女を巡って戦う、というのは昔からのよくある筋書きではあるものの、その激情の殺し合いには男の闘争本能が先行して、挟まれた女の心情は勝ち負けには数えられない。この芝居でも二人が死んでしまった後は、残された女たち(花嫁、花婿の母、元彼の妻と母)は、ただどうすることもできずに途方に暮れているまま終わってしまう。「この人たち、これからどうなるのさ?!」と思わず問いかけたいところでカーテンコール、という展開だ。なんだかギリシャ神話を彷彿とさせる感じもする。

ロルカはスペイン内乱期に38歳の若さで銃殺刑で亡くなっている。残された作品は数は少ないが、「イェルマ」「ベルナルダ・アルマの家」とこの「血の婚礼」は3作悲劇として知られているけれど、もっと再上演されてもいいんじゃないかな。数年前にナショナルシアターで「イェルマ」が上演されていたけれど、コロナ明けでまだちょっと劇場には行きたくなかったのでパスしてしまった。NTの配信で観られるかな、探してみようか。

やっとCovidの規制も無くなってきたから、またいろんな新しい試みの芝居が観られると嬉しい。


 

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コロナ以来すっかり激減した劇場通い、でもせっかく年末年始は休みなので年の締めくくりに観に行くことにした。最近はすっかり大劇場よりもスタジオ式の空間がお気に入りで、今回もキャパ200のPark Theare。規模は小さくても高評価の演目で評判の劇場だ。

舞台は1900年クリスマス直前の話。Wickiesというのは灯台で導火線等を管理する、いわゆる灯台守たちを呼ぶスラング。(当時はオイルランプだった)そしてこの芝居には「消えたエラン・モール(島の名前)の男たち」という副題が付いている。エラン・モールはスコットランドの西側にある群島の一つで、燈台を管理する3人以外に住んでいる人はいない。
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エラン・モールの灯台には常時3人が勤務している。常任でベテランのジェイムス・デュカット、第二キーパーのドナルド・マッカーサー、そして臨時に加わった漁師のトーマス・マーシャル。ジェイムスはもう長年ここに勤務しているベテラン、ドナルドも常時勤務だが、トーマスは今回初めて配属された季節やといのメンバーで一番若い。

若く元気なトーマスは新鮮な目でこの灯台での暮らしを見回す。スコットランドの冬は寒く、何より暗い。島での生活は日は短く、冬の期間はほとんど嵐のような日が続き、なにより他に誰もいないとあって孤独だ。他の先輩二人と少しずつ打ち解けるうちに、彼はこの島にまつわる不気味で不思議な逸話を聞くことになる。

トーマスは二人に「家族が遊びに来たことはないのか」と聞くと、二人の空気が一変する。話したがらない二人を問い詰めて聞きだすと、前任者の家族に悲劇があったことを話し始める。島には人は住んでいないが、この灯台は前年にできたばかりで新しく、居住エリアも充実している。物資は定期的に運ばれ、2週間ごとに数日の休日があり、その時は島を離れて家に戻るのだ。トーマスは前任者の家族が遊びに来た際、幼い娘の一人が海にさらわれ、もう一人の妹も島の古い教会で姿を消してしまったという話を聞く。そして母親は錯乱して自殺、、、この島はそれ以来呪われているというのだ。
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ちょっと怖いお話だ。怖いといえば、なんと言っても「Woman In black」に勝る芝居はないと言っていいと思うのだが、この話もなかなか怖い、、、日中がほとんど数時間という冬のスコットランド、他に誰もいない孤島、他の世界から切り離された孤独感と、言い伝えによる摩訶不思議な恐怖感は次第に3人の男たちの精神を追い詰めていく、、、、、

実はこの話が本当に怖いのは、実話に基づいているということだ。1900年の12月26日、交替要員と物資を運んできた船の船長は誰も出迎えに来ないことを不思議に思う。灯台に行ってみると、誰もおらず、鍵はかかっていない。台所では椅子が倒れたままになって食べかけの食事が残っており、一人の外套はドアにかかったままだった。通常、3人が一度に持ち場を離れることは禁止されており、さらにこの寒い冬の夜に防寒外套も着ないで外に出るのも考えられなかった。

さらに、残されていたトーマスによる日誌には、12月の12.13,14日と「これまでの人生で経験したことが無い大嵐、3人で祈り続ける」と記されていて、最期の15日には「やっと嵐が収まった。海も静か。すべては神の御手による」とある。日誌にはジェイムスは嵐の間ひたすら無口、ドナルドは泣いていた、3人で祈っているとも記されていた。調査にあたった警察は何の手掛かりもないまま、17日に島を襲った大嵐で2人が風か波にさらわれ、あわてて外套も着ずに駆けつけたドナルドも海に流されたのだろうという結論にするしかなかった。
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ところがこれには異論がいくつもある。一番の謎は12月の12日から15日にこのエリアでの嵐は記録されていない。それどころか、隣のセント・ルイス島からもエラム・モール島がよく見えていて、これは天候が悪かったらたちまち視界から消えているはずである。たとえ嵐でも、まだ新しいこの燈台の居住エリアは充分に安全で、そこまで緊迫して神に祈るほどのことは無いはずである。このエリアに大嵐が来たのは17日のことである。ところがその前日で日誌は終わっている、、、、、

亡くなった人たちの怨念、呪い、時折現れるぼやけた姿や声、、、かなりの恐怖感を呼び起こすお話だ。芝居は灯台での3人の役者が事件を捜査する警察官の3人も場面の入れ替わりで演じている。忽然と姿を消した3人の調査と、当の3人の様子が交互に場面転換されていく。長年の孤独な生活に自分を抑えて黙々と仕事に従事するジェイムス、やりきれなさや束縛感をお酒を飲むことで紛らすドナルド、新鮮な目で状況を見渡し、それでもだんだんと暗く不気味な心情に引きづられていくトーマス、、、嵐の中で3人が見た姿、追いかけた声、そしてその後の「誰もいなくなった」静寂、、、

実際の事件の詳細を芝居を見た後になってじっくりと読んで、さらにじわじわと怖くなってしまった。本当のミステリー。120年経った今でも真実はわからない。でも、それ以降の灯台管理の人たちが不思議な音や声を聞いた、、という話は今でも残っているそうだ。

3人で6人を演じるという小ぶりながらも巧みな本と演出で、自分から1−2歩のところに役者がいる親近感からくる恐怖感の煽り。演じている側の恐怖が肌で感じられる空間を活かした作りになっていて楽しめた。最初の部分だけ、スコッツのアクセントがあまりにも強くて集中したけれど、耳慣れるとすぐに入ってくるのがスコティッシュアクセント。クオリティーの高い舞台だった。

今年はまたもっと芝居が観たい!



子役の時からずっと好きで応援してきた鈴木杏ちゃん 、 いや鈴木杏さんが一人芝居「殺意~ストリップショウ」で読売演劇大賞と紀紀伊國屋演劇賞を受賞したと聞いた時、 「うわあ〜、観たかった!!」と思い、どんな芝居だったのか情報を集めた。宣伝のクリップ動画や受賞の様子、観た人の感想なんかを見るにつけ、観たくて観たくてたまらなくなった。

鈴木杏ちゃんというまだ子役だった少女の演技を初めて見たのは、もう20年以上前のドラマ「青い鳥」でだった。大人気だった豊川悦司さんの主演で、この野沢尚さんのドラマにも当時ハマったのだけれど、明るい空気を一瞬で作れるような笑顔と、しっかりとした子役の演技派、という印象だった。このドラマは1部、2部と8年の間を開けての話だったのだけれど、後になって、後半の第二部も数年後の杏ちゃんの芝居で見たかったと思ったものだ。

金城武さんと共演した「リターナー」のときで15歳。この映画での杏ちゃんは既に「恐るべき15歳」と言われて話題になった。そして何よりも役者として私の中にしっかりと根を下ろしたのは蜷川幸雄さんの作品を中心とする舞台での活躍だった。ヘレン・ケラーで評判になり、ハムレットのオフィーリア、ジュリエット、アオドクロなんかにも出ていたよね。舞台役者としての鈴木杏の大ファンになった。

NHK BSで放映があったのに気づかなくて見逃してしまったと判った時は本当に後悔した。何度も「再放送されないか」と思ってチェックしていた。そして、やっと!再放送を観ることができた。有料で日本のテレビを入れてよかった。
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なんといっても凄い本だ。三好十郎さんの2時間ほどの一人芝居。戦争前後の時代背景で、普通の田舎の女子学生だった主人公のミサが、上京して兄の敬愛する「進歩的思想家」の山田先生の家に身を寄せる。山田の弟、徹男に恋心を感じるが、二人とも何がどうするという事もできず、触れ合ったのは徹男が招集される前日、空襲を避けた防空壕の中で徹男が美沙を抱きしめて「僕は本当は死にたくない、、」と心の内を吐いただけだ。そのまま徹男は2ヶ月後に戦死し、弟の死を美沙に告げに来た山田先生に初めての女を奪われてしまう。その後はダンサーとして売れ始め、パトロンが付き、ストリップダンサーというよりも高級娼婦のような暮らしを始める。売れっ子になった美沙はパトロンの男達の相手をするうちに、山田先生の「進歩的思想」が左翼から、愛国精神、そしてまた左翼にと変貌していたことを理解する。

敬愛していた人に抱く怒りはどんどんと膨れ上がって殺意となり、彼を殺すべく毎日後をつけ始める。そして殺したいほどの怒りを抱く相手のまるで想像だにしなかった醜い姿を見つけ、「人間とはこういうものか」と思い始める。

「本当にこの本は戯曲として書かれたのか?」と思ってしまった。丸2時間を一人で語り、演じる。自分のこれまでの人生を物語として語るのは、「読み聞かせ」ならぬ「読み演じ」という感じで、杏さんの語りは一時も聞く側を離さない。所々キャラクターを演じる時は声とトーンを見事に変え、耳に心地よい滑舌は役者の技術だ。声と言葉と呼吸、この3つは私も劇団に入って最初に散々レッスンした。呼吸、発声、滑舌は役者の技術の3大柱だ。これが見事な演技力になっていて、しかも物語を聴きながら情景や表情が見えてきて、なんだか読み聞かせと同時に映画を見ているような感じもする。一人の役者から発せられる情念、後悔、諦め、悟り、怒り、殺意、そして最後にはそれらを全て「人間」の中に受け入れる。
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身動きもせずに2時間聞き入って・見入ってしまった。「演じる」とはこういうことか、凄まじい、、、、2時間で、物語を聞き、その情景を描いて1本の映画を見たような気がして、でも最後に気づくと、一人の役者を目の前にしていただけなのだ。独りの役者からこれだけのものが「見えてくる」という舞台を、本当に生で観たかったよ。映像だけでこれだけほとばしってくるのだから、生の舞台で観たらどんなだったろう、、?鈴木杏、恐るべし!

声の使い方が絶妙で、公演の間に潰さないだけでも凄いことだ。これを連日演じるのはどれだけの気力と体力が要るだろう。そして書かれている本の日本語が美しい。三好十郎氏の本は読んだ事なかったけれど、他の作品も読みたくなった。綺麗な日本語が美しく響くのを聴くのは心地よい。それが叫びでも怒りによる雄叫びでも嘲笑でも、少しも耳障りにならない。

鈴木杏ちゃんの舞台が見たいなあ〜。実は2週間ほど前にこれもまた放映されていた「ムサシ」を見たばかりだったのだ。最初はロンドン公演で観た「ムサシ」井上さんも蜷川さんも居なくなってしまっての再演。藤原竜也さんの舞台も久しぶりに観たいなあ〜。ハリー・ポッターを演ってるみたいだけど、また舞台での彼を見てみたい。

コロナですっかり劇場通いも我慢していたけれど、来年からはまた行きたいと思ってチケットを物色している。それにしてもこの2年で物凄く高くなっていてびっくり!!もう前みたいに月一とかでは無理かもしれないね。これだけ光熱費も物価も値上がりしてるし、ほんと、生活厳しいわ〜〜、、、、



 

THE FOREST Marketing Image Shaun Webb Design
待ってました!のワールドプレミアです。フローリアン・ゼレールの新作「The Forest 」ウェストエンドではなく、私の大好きなHampstead Theatre。ここは小規模な小屋だけれど、作品のクオリティーにはほぼハズレがない。
Florian Zellerの新作でワールドプレミア、小屋がハムステッドシアター、そして何より主演に大好きな俳優人の名前が並び、演出はジョナサン・ケント。この並びを見ただけで5分以内にチケットを取った。 

丸2年ぶりの劇場での芝居!、、いや、正確にはクリスマス前にもコメディーを観たのだけれど、Covid 事情もあって実感がなかった、サクっと観た娯楽芝居だったのでブログにも書かなかったっけ、、 

今をときめく話題の脚本家になったゼレール氏、自ら監督して映画化した「The Father=Le Pere」は主演のアントニー・ホプキンズがアカデミーを取ったのも記憶に新しい。今回はどんなテーマで来るのかなと思ったら、そう、ことの始まりは浮気、、、、

舞台のセットは3つの空間に分かれている、一つ一つの空間は使われていない時には全く視界に入ってこない、つまりは「違う世界」のような印象を与える。最初の場面で「男1」(後で名前はピエールだとわかる)が仕事から帰ってくる。彼は有能な外科医で患者から感謝の花束が届いている。いかにも両家の奥様風な妻から娘が泣きながら帰ってきていると聞き、事情を聞くと、どうやら長年一緒にいる彼氏が浮気をして裏切っていたらしい。娘を気にかける両親との場面はどこにでもある普通の家庭だ。
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場面は最初の場面の上にある空間に変わって「男2」が女性とベッドで情事を終えた様子。まだ若いソフィーはハキハキとして行動的、かつ大胆な性格のようだ。初めはこの男がさっきの娘の彼氏なのか、、と思いきや、どうやら違う。実はこの男2は男1と同一人物だ。ここは、優秀な外科医とは違う顔のピエールが関係を続けている愛人の部屋だ。そしてさらに右側に位置する空間ではこの男1が、顔面白塗りの精神科医に「真実を話せ」と詰め寄られる、、、場面が一巡りすると今度はまた初めと同じ場面に戻って同じ芝居が始まる。が、少し内容が変わっていく。この手法は「ゴドーを待ちながら」と似ているが、男1と男2が入れ替わりながら、実はピエールこそが長年浮気をしていて、しかもそれがだんだん手に負えなくなってきていることが解る。

逢って、寝て、帰っていくだけの関係にイライラし始めたソフィーは「いつ奥さんと別れるのか」という、お決まりの方向に走り始めていて、ピエールはいつ彼女がとんでもない事をしでかすかと気が気でない日々を過ごしているのだ。家のリビング、彼女の部屋、そして精神科医の部屋の3つの空間で交互に芝居が繰り返されるにつれ、どんどん空気は張り詰めて行き、ピエールの心境は追い詰められていく。
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なぜタイトルがThe Forestなのかは、途中で明確にされる。白塗りの男が話を聞かせるのだ。ある国の王子が森に狩にいき、そこで立派な牡鹿に出くわす。「どうしてもあの鹿を捉えたい」と必死に追いかけ、いつしか気づいた時には森の奥深くに入り込んでしまっていて、戻る道もわからなくなっていた。王子は途方に暮れ、今では本当にあの美しい鹿を見たのかどうかもあやしく思えてくるのだった、、、、

ピエールはまさにその状況に追い込まれている。家庭を壊すことなど全く毛頭になく始まった愛人との関係は、確かにいつもの仕事とも家庭生活とも違うスリルと興奮に満ちていたはずなのに、今や家庭を脅かす存在になりつつある彼女に恐怖すら抱いている。家に毎日のように無言の電話がかかるようになり、妻は不思議そうに、そして少し猜疑的にその事をピエールに話す。「奥さんに言うわよ」というお決まりのような脅し文句を口にするようになった彼女の部屋に慌てて駆けつけると、彼女は部屋で血まみれまになって息絶えていた、、、白塗りの男(精神科医?)が問い詰める、「本当の事を言え、お前はどうしたいのだ?何をしたのだ?」
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一人の人物を二人の俳優で場面ごとに演じるというのは面白い手法だ。それによってこの男が異なる二つの世界で生きていることが表れているのと、「嘘の言葉」と「追い詰められる心」の葛藤にもなっている。嘘に始まる謎、ピエールを問い詰める白塗りの男は医者でもあり警察官でもある、、、謎のロシア男が「その筋」の人間を使って彼女を殺した=消したのか?、、、殺したのはピエールの心なのか、、、?
はっきりとした結末を突きつけるのではなく、観客に最後の判断をさせるようなミステリー仕立て。

ジョナサン・ケント氏の演出は先にも書いた通り、舞台を3つの空間に分ける事で一人の男の「違う世界」を写しだす。ピエール役のトビー・スティーヴンス氏と妻役のジーナ・マッキー、そして男2のピエールを演じたポール・マッガーンは舞台やテレビで何度か見ていて「間違いない」役者さんたちなので、楽しみにしていたのだけれど、この巧妙な本を確かな演技力でグイグイ引っ張っていく。見る方が少し頭を使う、でも全く判らなくならない、という微妙な構成の本を演出と演技で創り上げていくのはどんな作業だったのか、その稽古場を覗きたくなってしまう。

休憩なしの1時間半弱。ゼレール氏の本はいつも「怖い」。それは人間の中にある本質だからだ。彼の芝居は「嘘」から始まることが多い。嘘、あるいは「本音を言わない」ことから話が曲線を描いていくのだ。嘘をつくと人は怯え、焦り、怒り、取り乱し、途方に暮れる。「本当のことが見えない」ことから起こる様々なミステリーのような紐解きを描くのが本当に巧いと思う。「Father」も「Mother」も、「The Son」もそして「The truth」も、本当の心を探ること、理解することに苦しむ人間模様のを描いている。

芝居見に来た人の中には浮気の一つもしている人がいるかもしれない、と考えるとこれはかなり怖い話で、ミステリーを通り越してホラーに近い心境になるかもしれないね。

Covid の規制が全て無くなって初めての芝居。客席もフォイヤーも人は満杯で、久しぶりにあの劇場のザワザワとした音を聞きながら、それでも消毒液を使ったりプログラムやカフェの注文も全てカード支払いのみ(カードをかざすだけなので手に触れない)だったりと、一応の気配りがされていた。場内でマスクをしていたのは、、、う〜〜ん、半分以下だったけれど私はずっとしていた。

久しぶりに「芝居を観た!」と実感!どうやら3月に入って日本側の入国規制も無くなった様子だ。イギリスからの帰国も隔離はなく、3回目のワクチンを受けていればそのまま入れるようになったらしい。
フィギュアの世界選手権のすぐ後に開かれるスターズオンアイスにはアメリカの選手たちも名前が入っているので、また今年の夏は楽しいアイスショーが復活できますように。こればかりはまたいつ状況が変わるとも限らない。おまけにロシアの暴挙で飛行ルートにも影響が出ているし、、、本当に早く馬鹿げた侵略はやめてほしい!


 


早く劇場に行きたいとは思うものの、やっぱりまだデルタ型のCovid-19の感染が気になるこの頃なので、今のうちにまた日本のCS放送をチェックしてみると、大竹しのぶさんの「フェードル」の舞台放送をやっていた。気づいたのは放送の3日後で、14日間まで遡って見ることのできるサービスで本当に良かった!

ラシーヌの「フェードル」といえば、私は何年か前にヘレン・ミランの舞台を観ている。ヨーロッパらしい舞台で、「ギリシャ劇のフランス版」を見事に表現していてミラン女史の演じる「女」に釘付けになったのを覚えている。

今回は栗山民也氏の演出で、大竹しのぶさんのフェードルだ。これはもう本当に舞台を生で観たかった!
栗山さんの演出はロンドンで見た「フランス風ギリシャ劇」とはまたちがって、もっと激情に揺さぶられる情念たっぷりの芝居になっている。これができるのは大竹さんしかいない!と思わせる迫力だ。「恋」をすると同時に溢れ出る愛憎、義理の息子を愛する自分を疎み、自分のプライドと戦いながらも迸る激情に逆らえずに苦しむフェードルは、地団駄をふみながらも溢れ出る感情を抑えきれないでいる、、、大竹さんの演技はテレビ録画の画面からでもはみ出しそうなほどのエネルギーだ。これを劇場で観たらどんなだったのだろう、、、と思わずにいられない。

大竹さんのフェードルとなれば、周りの役者は大変だ。「どこまでくらいつけるのか、、、」と思いながらみ観ていたのだけれど、みなさん素晴らしくて良いカンパニーにだ。フェードルには乳母のエノーヌ、イポリートには教師のテラメーヌが対になっている。もともとギリシャ劇にはアンサンブルとして主役を取り巻いて話の補足役をするコロスという数人の役者たちがいるのだが、このラシーヌ版ではエノーヌとテラメーヌがその役割をしているような作りだ。この二人の役者がフェードルとイポリートに与える影響は大きいので、この二人の役者がとても重要になってくる。

林遣都さんは舞台もやるのは知らなかったけれど、「くらいついているなあ〜」というのがよく判る。実際のギリシャの男の人って、もっと泥臭い感じなのだけれど、まあ日本の舞台だからいいよね。でも舞台での声もいいし、すごく頑張っていてよかった。テラメーヌ役の酒匂芳さん、あまりお見かけしたことないとは思ったけれど、ずっと舞台をやってきた方なのだと知った。やっぱり!という感じ。がっちりイッポリートを支えてる。そしてキムラ緑子さんは見ただけでは判らなかったよ、、(私の中ではもっと若いお顔がイメージだったから)。彼女も流石に舞台の人だ!ガッチリと大竹さんのフェードルとペアになっている。

大竹さんは年齢と共に声にドスが出てきたというのか、、元々は高めの声なのだけれどすごく深みのある声が出せるようになってきて、ますます大きく見える。本当にこの人は演じる為に生まれてきた人だ。彼女の「ピアフ」を本当に観たかった。 60を超えてどんどん貫禄がでてきて、それでいて少女のようなしなやかさを失っていない。素晴らしいよね。「女」の情念をいろんな顔で見せられるこの役は本当に彼女ならではだと思う。

ただ、やっぱりこの戯曲はフランス劇であり、題材はギリシャであり、もう少し違う空気があってもよかったかなあ、、、とも思う。舞台全体がずっと暗いイメージだし、恋する女の気持ちは激情ばかりでなく、優しかったり夢見るようであったり、、という部分もある。ヘレン・ミランのフェードルはそっちの方をよく出していたように記憶している。舞台も、いかにもギリシャのサンサンとした太陽と深い青い海のイメージだった。もちろんこちらのフェードルは心の葛藤が中心で演出もこういう形になったのだとは思うけれど。

英語で見たときはもともとのフランス語のセリフを詩的に訳していて、英語のセリフにリズムがあり、そんなところも本の魅力だったのだけれど、さすがに日本語訳でそこまでは無理なのは仕方がない。

ふと思ってしまった、、、蜷川幸雄さんだったら、大竹さんのフェードルをどう演出したのだろうか、と、、、、 


心がなんとなく曇っていたので、2月は書きたいことが頭にはあったものの、文字にするのが億劫なまま過ぎてしまった。でも3月になって「早生まれは一年得!」と思っていた自分も赤い誕生日の大台ということで、心機一転!。残りの人生のほうが今までの半分もあればラッキーなのだから、と心を取り戻すべく 自分の人生を大切にすることにした。

ロンドンはまだまだ劇場再開にならないけれど、ようやく春から少しずつロックダウン解除の調整がされ始めている。ここで間違ったら大変だから、政府の慎重な対策は無理もない。それでも夏頃には劇場も再び開けられる方向になってきていて、いくつかの芝居は夏のチケットを販売し始めている。でもまだどうなるかは確定じゃないので、まだしばらくは様子をみるか、、、、

この機会になるべく日本にいられない間のものを見たいと思ってチェックしている。実はもうず〜っと子役の時から応援している鈴木杏さんが今年の読売演劇大賞、紀伊国屋演劇賞を手にして、すごくすごく嬉しい。一人芝居の「殺意」の舞台をやるのは知っていたけれど、NHKのBSで放映があったのは知らなかった、、、う〜〜んすっごく残念、受章を機に再放送してくれないかしら、、?観たかった。せっかくBSやCSも観られるように有料サービスにしたんだから、しっかりとチェックしなくては。

そして今日見つけたのが、「いきなり本読み!」
岩井秀人さんプロデュースのこの企画は、俳優たちが初めて手にした台本の読み合わせを、そのまま観客に見せるというもの。昨年に何度か公演したうち、12月の国際フォーラムでの舞台がテレビ放映されていた。NHK BSありがとう!

いつも「シアターリーグ」のツイッターで、芝居関係の放映状況を把握するのだけれど、なんといってもキャストが大好きなひとたちだ。神木隆之介、松たか子、大倉浩二、後藤剛範の4人。実は後藤さんのことはピンと来なくて「何に出てたかな」とチェックしてみると、なるほど、ドラマなんかはちょこちょこで、ずっと舞台をやってきた方なのですね。声がとても良い役者さんだ。

初めての本読み、もちろん私も遠い昔に経験がある。でも普通は最初の稽古までに本を読む時間があるわけで、全くの初見で本読みをするわけではない。それがこの企画の恐ろしくて素晴らしいところ。しかも俳優は4人だけなので、2役読まなきゃいけないシーンもあれば、男女数が合わなければ女役・男役も。しばらく読んでから初めて自分が女役だと気付いたり、、爆笑もんです。

そうだね、確かに芝居の稽古って、本番より面白いことがたくさん起こる。初めのうちは役者たちもあれこれと試してみるし、演出的にオッケーだったら採用、ダメなら何度でも、、、となる。この舞台では岩井さんが進行役とあって、一場ごとに役のイメージや台詞の口調を考えて配役を変えながら作っていく。

人間の体を乗っ取った宇宙人が、自分たちが持っていない「概念」を人間達との会話の中で盗み取り、取られた人はその言葉の概念を失って理解できなくなる、、、ちょっとSFっぽい作品だ。
違う人のように性格が変わってしまった人を、同じように愛したり憎んだりできるのか、性格が変わったというのは、違う人間になったのとは違うのか、なんて事を実験的な読み合わせをきいて爆笑しながら考えてしまう。

だんだん話も佳境に入り、最後には「愛」という概念を与える=失くすという決意に辿り着く。愛するという概念を失くしたら、人はどう変わるのか、、、というところで、この企画はいつも最終場面までやらないというのがルールなのだそうだ。結末はわからないまま、ただ俳優たちが初めて出会った台本をあれこれと作り替えながら作品のイメージを作っていく、というもの。

本読みの先にあるのが立ち稽古だ。舞台に立った状態をつくる、この立ち位置、セリフの掛け合い位置、セットとの見え方なんかがまた試行錯誤の連続だ。そうだね、芝居を作るのはおもしろい。やってる時は本当に辛いと思う方が多かったけれど、それでもやっぱり好きで、辛いのも楽しかったからやってたんだね。こんな企画、ほんとうに今までなかったよね。5月からWOWOWでレギュラー番組になるらしい。必ずチェックしよう。

BSやCSも見られるのはうれしいのだけれど、本当にいつ何をやっているのかが追いつかない。映画チャンネルや衛星劇場、ライヴなんかのチャンネルを全部チェックしたら相当いろんなものが見つかるんだけど、なかなか時間もない。そうこうするうち、あと2週間でフィギュアスケートの世界選手権だ。ロシアは不調のコストルナヤちゃんに勝ったリーザ姉さんが6年ぶりに出場する。これは嬉しいことだ。

ISUはシニアの年齢を17歳に引き上げることも検討しているそうだけれど、私はその方が良いと思うな。ジュニアからシニア1−2年でトップになってそのまま次の世代に交代なんて、やっぱりスポーツとして選手の成熟期間が短すぎる。男子だって、大人の筋肉がちゃんと出来上がる年齢を考えたら、シニア競技の年齢引き上げには私は賛成だ。

コーチを行ったり来たりと、コストルナヤも今年は大変だったけれど、まずCovid−19がちゃんと完治しているのかどうかが先決だ。後遺症についてもいろいろ言われているのだから、スポーツ選手にとっては命取りだ。まあ、エテリさんにとっては、もう既にオリンピックでメダルを狙える次の子達が何人もいるのだから、彼女一人が今更どうなってもあんまり痛くはないんだろうなあ〜、、、

どうか世界から集まる選手たちが安心して力の限り戦える世界選手権になりますように。スウェーデンはまだ感染者が増えている状況の様子。イギリスはやっと死者数がグッと減ってきた。明日からは学校が再開する。あ〜〜道が混むよー、朝の通勤が今まで静かだったんだけど、それも終わりか〜。

それにしても寒すぎる、、最高で5-6度って3月には異常だ。水仙も一応咲いてるんだけど、「あら?間違えました?」っていう感じがする。早く春らしくなって欲しい。



もう10日になってしまったので、今更新年、、、というのもおかしいかな。
いつもなら、もう10月頃から「来年の初芝居は何にしようか」とチケットを厳選して楽しみにするのだけれど、今年はそれもかなわず。実を言うと、一時期だけ一部の劇場が空いて、(席数は制限されていたが)ベケットの芝居をやっていたので「どうしようかなあ〜」と思ったのだけれど、やっぱり仕事の後に電車で中心地まで出てまた夜遅くに電車を乗り継いで帰ってくるのはちょっとやめておくことにした。今のコロナの状況は最初の頃の比じゃない、、、、

で、ちょうどライヴ配信をやっていたのが、藤原竜也さんと柄本明さんがタッグを組んだ「てにあまる」だった。舞台のことは情報が入っていたけれど、ライヴで放送というのは直前になって知った。WOWOWで5日にあった舞台放送を今日ゆっくり観た。

初めてのタッグだ。知った時は「へ〜〜、柄本明と藤原竜也の舞台か」と思ったよ。柄本さんといえば「東京乾電池」。劇団畑で演出もやる方なのは知っていたけれど、舞台で見る機会は無かった。個性的は役をテレビでは色々と見ていたけれど、今回舞台で見て「ああ、やっぱり舞台畑の役者なんだな」と思った。異色な組み合わせのようで、実はすごく良いケミストリーが出た芝居になっている!

心理を深くえぐる話は結構きつい。でも現実にある事だし、今はロックダウンの世の中で、ここイギリスでも家庭内暴力が急増加している。みんなストレスギリギリになってきていて、いつ爆発するかわからない、、という人も多いのが現実だ。この芝居の二人=親子は怒り・暴力的な感情を抑えられなくなる、いわゆるキレ易い性格を共有している。普通はどんな人でもある程度の激情は抑えて冷静に戻る事ができるが、たまにそこから勢いのままに取り返しのつかない暴挙にでてしまう人がいる。

性格異常なのか、たまたまのアクシデントなのか、 長男を死なせてしまった父親と兄を失ってしまった次男はその後は違う人生を歩んでいたのに、ある時再び同居することになる。人生を見失ってしまったのは息子(勇気)のほうだった。ず〜っと心に抱え続けてきた暗い闇と向き合おうとしたものの、その闇はどんどん広がってしまっていく。

芝居が始まる時点では、勇気のほうは若いなりに成功してIT企業の社長、メディアにも取り上げられてちょっとした有名人、妻は元モデルで 8歳の娘と高級なセレブマンションに住んでいる。そして父親(この時点ではまだ親子関係は明かされない)は刑務所を出所後は、取り壊し予定のぼろアパートで生活保護を受けて暮らしている。20年ぶりに突然やってきたユウキは自分の高級マンションに住み込みの家事手伝いとして来ないかと持ちかける。
ところが、勇気は表向きはベンチャー企業の社長としてセレブなマンションにいるけれど、実際には仕事はほとんどまとまらず、妻からも離婚されようとしているのだ。さらに有能な部下(三島)はやがて独立して会社を立ち上げるために辞表を持ってくる。

躾か虐待か、にはじまり、カッとなった 瞬間の行為は殺意なのかアクシデントなのか、、、そしてそれ以降自分と向き合うことでどんどん追い詰められてしまう、、、コロナ渦でストレスが募っていく現在の状況にマッチしてタイムリーな芝居になっている。最初にこの芝居の情報を得たとき、「てにあまる」というタイトルがなんだか芝居の題名らしくなくて、ちょっと不思議な感じがした。抑えきれない怒り、激情、とまらない暴力、暴言、、、それらを嫌いながらも止められない、そんな意味での「てにあまる」なのか、、?

「あんた達の世界は私のものとは違うんですよ」というセリフが何度がでてくるが、世界が違うのははっきりと柄本明・藤原竜也の親子と、ユウキの妻、みどりと部下の三島の2対2にはっきり分かれている。役者の演技なのか、柄本さんの演出意図なのか、芝居のしかたも空気もこの2対2で歴然と違いがあるのだ。柄本明さんがやっぱり上手い。それでいてさりげなく藤原竜也を主演にしてくれているんだよね。演出しながらの出演は大変なはずだけど、流石だなあ〜と思って見てしまった。

柄本さんと竜也さんのケミストリーは素晴らしいものが生まれたね。今回の竜也さんは声がよく出ていて、喉に負担のないしゃべりだから聞きやすかったし芝居が生きていた。 シェイクスピアとかだと、やっぱり喉に負担がかかってるのが判っちゃたりすると聞いてて辛くなるからねえ〜〜。長年彼を応援してきて、一時は喉・発声が大丈夫かなと思った時期もあったけど、今回は「巧くなったなあ〜〜」と思った。彼ももう38歳になったんだね、、、信じられないよ〜〜!!実生活でもお父さんだし、これからまた役者として1段階大人になっていかなくちゃいけない過渡期だ。きっと蜷川さんも天国から「うん、竜也なかなかいいよ」と言っているかも。

精神的にはきつい部分もある本だけれど、すごく揺さぶられるものがある。現実なのか幻覚なのか微妙な部分があって、これは演出の狙いなのだろうか、、、はっきりと 結果を提示しないで、見る人に投げかけて終わる、、、途中で、部屋の壁にある絵をわざと斜めにずらす芝居があったんだけど、あれって、何か現実と幻想の境、、みたいな意味でもあったんだろうか、、??ちょっと目についた。まだ最長2週間は見返すことができるので、ちょっともう一度細かい所を見直してみようかな、、でも逆に、芝居は一度しか観ないのが基本なので、これはこれではっきりと解らなくてもいいのかな、とも思う。

芝居ってそういうものなんだよね、だから面白いんだ、作るのも観るのも、、、!! 

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