見つけもの @ そこかしこ

ちょっと見つけて嬉しい事、そこら辺にあって感動したもの、大好きなもの、沢山あるよね。

カテゴリ: 舞台・芝居全般


久しぶりのマクベス。

実はシェイクスピアの作品の中でもよく知られているのに、舞台で観た事って意外と少ない。2−3回かな、、? 今回はマクベス夫人役のAnne-Marie Duffを観たくて行ってみた。
劇場はNT(ナショナルシアター)の中のOlivier、ここはアンフィシアター=円形舞台なので、とても見易い.。どの席も良席と言える。そして高さ5回建で何層にも回せる最新の舞台機能があり、これをどんな風に使った演出になるかも楽しみだ。
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マクベスのあらすじは比較的シンプル。

舞台はスコットランド。ダンカン王の信頼厚い武将のマクベスは、反乱軍を鎮めて帰途に着く途中、森の中で3人の魔女たちに「未来の予言」を告げられる。「コーダの領主に、そしてやがてスコットランド王になる」と告げられたマクベス。さらに一緒にいた友人のバンクオーにも「お前の子孫がやがて王になる」と予言がされる。半信半疑だったマクベスだが、すぐに自分がコーダの領主に任命されたと知らされると、さらなる予言の成就=王座に野心を抱き始める。
そしてマクベスよりもその予言に執着したのがマクベス夫人だ。王がマクベスの城に泊まった晩、ひるむマクベスを駆り立てて、野心をむき出しにして王の暗殺をそそのかす。そして王を刺し殺た罪の意識におののくマクベスを叱咤激励して後始末の手はずをする。危険を察したダンカン王のの息子、マルコムがイングランドに亡命すると、マクベスは王位に就く。
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しかし王位についても安心できないマクベスは「王を生み出す」と予言されたバンクオーを暗殺し、また、マクベスに疑惑の念を抱いていた貴族のマクダフがイングランドに亡命すると、マクダフの妻子をも暗殺する。不安をぬぐいきれないマクベスは再び森の魔女達にあって、さらなる予言を聞き出すと、「女から生まれたものにマクベスは殺せない」「森が動かなければマクベスは倒されない」と言われ、どちらもありえない事、と安堵する。王の暗殺には冷徹な顔を見せたマクベス夫人だが、やがて罪の意識は彼女を夢遊病にしてしまい、夜な夜な血で汚れた手を洗おうとさまよい歩く。そしてついには自ら命を絶ってしまう。やがてイングランドでダンカン王の王子=マルコムを説得したマクダフは、マクベス討伐の為にイングランドから攻め込む。女から自然な形では生まれなかった=母の腹を蹴破って出てきたというマクダフにマクベスは討たれ、マルコムが次期王として即位する。

マクベスで有名なのが、魔女たちの予言だ。しょっぱなから謎かけのような有名なラインがある。
Fair is foul and faul is fair
これは日本語ではよく「良いは悪いで、悪いは良い」とか「綺麗は汚い、汚いは綺麗」「フェアはファウルでファウルはフェア」と訳されてる。この時にバンクオーに与えられた予言、「王を生む」は、やがて彼の子孫が王女と結婚して世継ぎをもうけることになるのだが、ここでは出てこない。
2度目の予言では
For none of woman born shall harm Macbeth =女から生まれた(自然に)者は誰もマクベスを倒せない

となっているのだが、実はバンクオーは今でいう帝王切開で出てきた、という屁理屈でマクベスを倒す。
そうはいってもあの時代、麻酔も医療技術も無かったのだから、お腹を割いて赤ん坊を取り出すという事は間違いなく母親は死んだのだろう。まさに「母の腹を切り裂いて出てきた」のだ。森が動く=イングランドの護衛軍が木の枝をかぶって前進してきた様子が「森が動く」という光景になる。

ストーリー的には簡単なのだけれど、魔女たちの予言に野心と欲が出て、手を血で染めることになったマクベス夫妻。その後の罪の意識と不安におののく姿がこの芝居の軸なのだけれど、意外と淡々と作られていた。マクベス夫人のAnn-Marie Duffがやっぱりよかったな。殺害の場面では男気がある感じで、その後の夜歩きまでの心情の変化がうまかった。
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今回のマクベスは時代設定的には明確でない。衣装は軍服にブーツで、現代風ではあるけれど、いきなりセットで生首が木の上に吊るし上げられていたり、とちょっと野蛮な中世の雰囲気も出ている。
マクベス役のRoy Kinnearは何処かで見たな、と思ったら、以前「三文オペラ」でマックをやった人だった。

マクベスはそれほど長い芝居ではないけれど、なんとなくあっさりと話が進んだなあ〜と思ってプログラムやレヴューを見てみると、結構削った台詞も多いらしい。ハムレットのように台詞の下まで覚えているわけではないので、見ている時には気づかなかったけど。

オリヴィエ劇場といえば、やっぱりセットと舞台転換がすごく見ものなのだが、今回は何本も高く作られた木に魔女たちが上ったり生首がかかってたりと、高さをよく使っていた。ただ、最終シーン間近、まさに木をかぶった兵士たちが近づいてきて「森が動く」というそのシーン、途中で回転舞台が動かなくなってしまった!

「なんかこのシーン遅いな」と思っていると、舞台監督らしき人が出てきて「申し訳ありません、テクニカルプロブラムで中断します」 と挨拶。こういうハプニングは本当に珍しいので、拍手喝采。アンフィシアターは幕がないので、裏が全部見える。
どうやら手動ではなんとか動くらしく、スタッフやその場に出てない役者も出てきて、手動で舞台を回して無事続行。 滅多にないハプニングに遭遇できました。

ちょっとびっくりしたのが、、「この人もいいな」と思ったマクベス夫人の侍女役のNadia Albinaという 女優さん、右腕が肘までしかない事に途中で気づいた。あれ?と思ってからも、角度で見えないのかな?と思ったのだけれど、確かに右腕の肘から手がない。身体的なハンデをもつ役者が普通の舞台に出ているのを見たのは初めてだったので、これは結構印象に残った。プロフィールをみると、舞台でも映像でもあちこちで活躍している。新鮮だった。

去年日本行きと重なって見られなかったNINAGAWA Macbethがやっぱりみたいな。私がイギリスに来た頃に、ちょうど話題になっていた作品だ。初演は平幹二朗さんと栗原小巻さん、この二人のポスターの絵はよく見たなあ。DVDになってる再演版を買ってみるかな、、、、 


不条理劇」と言う分野にサミュエル•ベケットの「ゴドーを待ちながら」やハロルド•ピンターの作品がよくあげられる。日本では別役実さんなんかも似た作風のものを描いていた。(芝居を始めた頃に別役実氏の芝居を観て、一緒に観た仲間と延々と話し合ったことがある)
今年初シアターはThe Birthday Party、ハロルド•ピンターの作品。ピンター氏の本は、理論的に筋が通っていようがいまいが、感情を揺さぶって強引に展開していく。時として「何故なのか」「誰なのか」「本当なのか嘘なのか」解らないままに怒ったり怯えたりする状況が繰り広げられる

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海辺の少し古びた感じのB&B(民宿)のような家。経営しているのは主人のピーティーとメグの初老夫婦。でも泊り客は1年程前にふらりとやってきて以来居ついている、スタンリーだけだ。スタンリーは30代後半くらいか、、? メグとの話の中で、昔はピアニストとしてあちこち演奏して回っていたらしい事がわかる。なんとなく半分息子のようなスタンリーに対して、メグはランドレディーというよりは、母親、あるいはもう少し親密な(?)態度で接している。

散歩から戻ったピーティーは、街で会った二人の男達に宿を提供する事にしたから、午後には彼らがやってくると告げる。そしてやってきた二人組のゴールドバーグとマッカーン。でも何故かこの二人の来訪を知ってからスタンリーの様子がおかしくなる
その日はスタンリーの誕生日だと言うことで、気乗りしない当人をよそに、メグやゴールドバーグ達は密かにパーティーを計画する。ところが次第にスタンリーはやってきた二人におびえ始め、パーティーが進むうちにどんどん追い詰められていき、遂には精神的に壊れてしまう•••••
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何故この二人がやってきたのか、彼らは誰なのか、また、スタンリーの過去は本当なのか、何故二人は彼を責め立てて追い詰めるのか、そして最後に正気を失ったスタンリーを何処へ連れて行ったのか、、、、??? 
それらに答えはない。解らないまま芝居は進み、感情を揺さぶられ、観ているこちらも言い知れぬ恐怖感を覚えずにはいられない

1幕目は穏やかにで、セリフのトーンも間もゆっくりと進む。ピーティーとメグの会話はお互いに同じ事を繰り返したり、あらかじめ相手が何を言うかわかっているかのように聞いていなかったりする。客というよりは居候のようなスタンリーに対して、いつまでも起きてこない息子(といってもいい大人)に朝食を用意したり起こすタイミングを気にしたりしているメグの様子はもちょっとヘンだ。

パーティーになるとゴールドバーグとマッカーンに威圧感がどんどん増していく。明らかにスタンリーは彼らにおびえている。何故なのか、、、??解らないままにパーティーは進み、二人組の態度はどんどん冷酷になって行き、スタンリーはとうとう取り乱し、メグの首を締めようとまでする。ところが酔っ払っていたマグは次の朝には覚えていなくて、「楽しいパーティーだったわ〜」と夢うつつになっていて、一夜にしてスタンリーが壊れてしまった事には気づかない•••••

ハロルド•ピンター氏は2005年にノーベル文学賞を受賞した。受賞の理由は「日常の何気ない無駄話の下に潜む危機感を浮き彫りにし、人間の抑圧され、閉じられた空間に押し入っていった」というもの。
この芝居でも、ストーリーに沿って気持ちが動くのではなく、曖昧な状態でも感情を揺さぶり、精神を壊すことができるのだという事を観客に納得させてしまう

嘘か本当か、夢か現実か、何も起こっていないのに過剰反応していく人間の心理、観ているうちになんとも怖くなってくるのだ。

でも、これも特別な事ではないのだ思う。例えば、私はいつも電車の駅までバスで行くのだが、バス停から駅のホームまで、何気なく駆け足すると、なんと後ろからみんな走り出す。別にまだ時間は大丈夫なのだが、必ず、100%皆んなが走り出すのだ。訳もなく、一人が走り始めたから不安になって焦り、なんだか必死になって皆んな走るのだ。決して非現実的ではない心理。

言葉の繰り返しと間がなんとも言えない。この芝居の初演は不評で、わずか1週間ほどで終わってしまい、そのあと、ピンター氏自身の演出で再演されたという。最初の演出家をピンター氏は気に入らなかったようだ。本をどう理解するか、、、理解できない本を納得させるにはどうするか、という事なのだろう。
ダークで、でもコミカルで、よく料理された舞台だった

 


数年前にポランスキー監督の映画を観て、元の舞台版が観たいと思った芝居、Venus in Fur(毛皮のヴィーナス)がロンドンで上演されている。
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脚本はDavid Ives、初演は2010年にオフ•ブロードウェイで、後にブロードウェイに乗っている。ポランスキー監督が映画にしたのが2012年だから、映画化としては早い方か、、、 本来の原作はザッハー•マゾッホで、マゾヒズムの語源になったという。
話の展開は映画を見た時の感想に書いたので、ちょっと端折ってしまおう。こちらを参照してください

映画版はパリの小さな劇場でのオーディションという設定だったけれど、本来の舞台版は、アメリカで書かれている。今回の演出で面白かったのは、一応アメリカでの話という事で、トマもヴァンダも素で話す時はアメリカンな英語で喋っている

演じている俳優はもちろん二人ともイギリスの役者なのだが、実はこの二人、ナタリー•ドルマーもデヴィッド•オークスもアメリカのテレビドラマや映画にも出演していて、なかなかナチュラルなアメリカンを話す。そしてオーディション内の役柄、クルジェミスキーとヴァンダを演じている時は、設定がクラシックでヨーロッパという事なのだろう、イギリス英語でセリフが語られていく。だからオーディションとして台本を読んでいる時と、作・演出家と女優に戻った時の会話のやり取りが、芝居と素の状態が聞いているだけで区別できて解りやすい

映画を見た時はフランス語のセリフを英語のサブタイトルで観ていたのだけれど、今回全編英語で聞いてみると、台詞にかなり笑える要素が散りばめられている。 結構コメディーっぽい掛け合いもあるので、セクシャルでダークなイメージが気恥ずかしくなるという事が無かった。

最初からヴァンダはピチピチの女王様スタイルで黒いパンティー丸見えなので、男性じゃ無くてもやっぱりむき出しの足やお尻に目がいってしまうのは仕方ない、という事か••••• う〜〜ん、スタイル抜群で女性としてはひたすら羨ましい限り 映画版よりは二人ともずっと若い。ヴァンダ役のナタリーは一見可愛い顔でキュートな笑顔を持ちながら、男を自分のペースに巻き込むパワフルな魅力を持っている。そしてトマ役のデヴィッドは知的で素直な笑顔が魅力的で、あまりダークな秘密は表に出さない演技 がナチュラルだ。

映画版は最後の最後がなんだか「ん、、??よくわからない、、?」と思いながら突然終わってしまった感じだったけれど、今回はそのあたりは収拾がついた。それでも、一体このヴァンダと名乗るとんでもないゴリ押し女優は何者なのか??というあたりはなんとなくミステリアスなままだ。首に縄をかけられ、柱に縛られたトマが叫ぶ、「お前は一体誰なんだ

最初からまだ出回っていないはずの上演台本を持っていたり、トマが求める役とは真反対のイメージで登場しながら、本読みを始めると思った通りの役柄を演じてみせる。またやたらとプライベートな事=トマの奥さんの履歴まで知っていたり、(後で、「実は奥さんとはジムで知り合ったのよ」と言っていたが、真相は不明??)一体この女は何者なのか??!

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夢、あるいは幻という言葉が合うかどうかはわからないけれど、もしかしたらこれはトマの妄想、いや願望なのではないだろうか?自分が書いた脚本のオーディションに来た女優たちはどれもハズレで、失望にも似た気分の中でトマは妄想する、、、、こんな女がオーディションに飛び込んで来たら、、、こんな女が自分の書いた芝居を完璧に理解して役を理想的に演じてくれたら、、そして自分の奥底にある真実の願望と欲望に目覚めさせてくれたら、、、、 

嵐の夜の、劇場の片隅で一人の男が見た幻想、、、?

それにしても二人の役者のケミストリーが素晴らしい。映画版も好きだったけど、やっぱり舞台での芝居だね。日本ではやれる人がいるかなあ〜?と思ったけれど、稲垣吾郎さんと中越典子さんで上演されたそうだ。う〜〜ん、なかなかいいかも、中越さんならこの役、いいだろうな。そして稲垣さんの知的で素朴なイメージは結構あってるかも。

休憩なしの1時間半、グイグイと観客を引っ張りながらちょっと怪しい摩訶不思議な空間に連れていってくれた感じ。 テレビに、映画に、舞台にと幅広く活躍する役者同士、かなりレベルの高い演技を見せてくれた


今回の滞在での観劇は1本。丁度「Hedwig and angry inch」がオリジナルのジョン・カメロン・ミッチェルのヘドウィグで来日公演をしているというので、来る前にチケットを取っておいた。
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ヘドウィグに出会ったのはもう10年以上前になる。映画版を観て、派手でいて素朴で純粋なヘドウィグのいじらしい人生に魅せられてしまった。映画は何度も観た。その後、日本での上演が決まって、しかもヘドウィグが三上博史さんと聞いて、観に行かれないもどかしさに身悶えしたものだ。三上さん版はレコーディングCDが出ていて、これを何度も何度も聴いた。(ちなみに海外での上演作は映像としては残してはいけないという契約があると聞いた) ブロードウェイでは3年前に新たなキャストで再演されて、トニー賞でも話題になったけれど、今回の来日公演でまたオリジナルキャストであり作者でもあるミッチェル氏が演じると聞いて正直驚いた。

東ベルリンに生まれたハンセル少年はある日アメリカ人の将校に見染められる。一緒にアメリカに行こうといわれ、でも彼と共に共産国の東ドイツを出るには、女性であることを示した上で結婚しなくてはならない。彼の母はハンセルに言う。「私の名前とパスポートを使いなさい。女性の体になることは、、、そう、自由を手に入れるためには犠牲にしなければならない事があるものよ」。こうしてヘドウィグという女性になるために手術を受けたものの、失敗して、女性器は形成されず、1インチのモノが残ってしまう。

犠牲を払ってアメリカにきたものの、一年で離婚、しかもその日はベルリンの壁が壊された日。女性としてメイクをし、かつらをつけ、女として自分を売りながらヘドウィグはけなげに生きていく。遠い昔に神によって引き裂かれた自分の片割れ、本当の愛を探し求めながら。
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ようやく見つけたと思った相手、トミーは、彼女がベビーシッターをしていた家の息子だった。クラブで歌う彼女に惹かれたトミーはヘドウィグと組んでバンド活動を始める、徐々に成功し、二人の関係も深くなろうかという時に、トミーはヘドウィグの残された1インチに気付いて去って行ってしまう。しかもヘドウィグが彼に教え込んだショウビジネスの知識や彼女の創った歌まですっかり持ち去って、、、、、

今回の公演はヘドウィグの新しい夫、イツァーク役の中村中さんがヘドウィグの人生を語る、という形をとっている。本来はヘドウィグが歌い、走り回りながら自分の物語を語っていくのだが、やはり言葉の壁とスタミナのバランスを考えたのか。実はちょっと私も心配だったのが、ジョン・カメロン・ミッチェル氏の年齢だった。初演の舞台はもう20年近く前だ。彼は今年で54歳。歌いっぱなし、喋りっぱなしのステージはきついんじゃないか、、、と。

だから、イツァークが彼女の事を語り、要所の歌をミッチェル氏自身のヘドウィグが歌う、というバランスはとても良かった。ジョンの歌唱力に衰えは全くない。そして、中村中さんが素晴らしい!開幕と同時に観客が総立ちで踊りだす、というのもすごいものがあった。この作品が映画化されてから、いわゆるヘドウィグフリークのようなコアなファンが沢山いるという事だ。中にはヘドウィグの扮装で来ている人達もいた。

夫のイツァークは元ドラッグクイーンだけれど、結婚するにあたって、ヘドウィグは「二度とクイーンとしてステージには立たない」という条件を付けさせる。でも最期、彼女を裏切ってしまった事を詫び、彼女の幸せを願う歌を贈るトミーを見て、ヘドウィグは何かに目覚める。自分のかつらと衣装をイツァークにつけさせて、素の自分になって彼を見つめるヘドウィグの、新しい人生を予感させる終わり方だ。

そして、なんとなくこのラストが、ミッチェル氏から中村さんへのバトンタッチのような印象すら持ってしまった。ジョンは年齢的にも、もうヘドウィグをステージで演じる事はこの先ないんじゃないか、そして、このラストはイツァーク兼もう一人のヘドウィグを演じた中村さんへのバトンタッチなんじゃないか、、、と。

ジョンの演じるヘドウィグは可愛い。彼女の生き方はいじらしい。なぜだろう、とても純粋なのだ。だからこんなにも世界中にファンができたのだろう。

シアターオーヴに行ったのは初めてだった。なんでもミュージカルを上演するのが主の劇場だそうだけれど、2000というキャパでありながら、とても観やすい。遠くても、ステージが良く見える作りになっている。
観られてよかった。やっと見られた=ギリギリ間に合ったというのが正直なところかな。


3年前にオープンした時、いろんな役者達がこぞって「また面白い場所ができた」と集まり話題を よんだFinsbury ParkのPark Theatre。スタジオ式の空間は一応ギャラリーも3列あって、総席数は200程、Donmar Werehouseくらいの空間かな。ウェストエンドの劇場とは違う芝居空間が妙に安心感があって私は好きなのだ。

今回はジョー•オートンのLootという芝居。オートンについては前にこちらで書いたとおり、60年代、労働党政権のイギリスに爆風を起こしてあっという間に消えて(死んで)行ってしまった劇作家だ。
このLootは彼の3作目の芝居で、これが大ヒットとなり、いくつかの賞を受賞している。
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場面は葬儀屋の準備室、舞台中央にはこれから葬儀という棺桶。亡くなったのはマクレヴィー夫人で、彼女の葬儀の準備をするのは夫のマクレヴィー氏と夫人の看護師だったフェイ。フェイは早速亡くなった夫人のスリッパを自分で履いていたり、これからの人生をまた生きなくてはと、マクレヴィー氏に再婚(自分との)薦めたりと、気後れもなくちゃっかり自分の立場を確保する手段を進めている。

実はこの前日に葬儀屋の隣にある銀行に強盗が入った。やったのはマクレヴィーの息子ハルと、この葬儀屋 で働くハルとは幼馴染(で恋人?)のデニスだ。二人は盗んだお金を棺桶を保管している部屋のクローゼットに隠している。いつまでもクローゼットに入れておけないということで、二人は棺桶の中にお金を移すことにする。そうなると棺桶に横たわる母親=マクレヴィー夫人をクローゼットに移さなくてはならない、、、そうこうするうちに刑事のトラスコットが銀行強盗の事を調べに水道屋と偽ってハルに話を聞きに来る。嘘がつけないハル、「本当に刑事か??」と最後まで疑いたくなるような強烈なキャラのトラスコット、彼らの銀行強盗の事を感づき、山分けに参加するフェイ、妻の残したお金で薔薇園を作りたいと語るひたすら善良なマクレヴィー氏。

とにかく台詞の応酬がオートンらしく「あり得な〜〜い!!」の連続だ

夫人の遺体はミイラ加工されていて、その死体を隠したり、服を脱がせたり義眼を取り出したり、社会的な良識からは考えられないような事が実におかしく繰り広げられる。葬儀に行く途中で車が事故にあったり、刑事のトラスコットに問い詰められたハルが嘘がつけずに銀行強盗を白状したのに、今度はトラスコットがそれを信じなかったりと、今までのやりとりがいきなりひっくり返ったりする展開は唸りたくなるほど軽快で絶妙な台詞の掛け合いだ。実はフェイには過去に7回の結婚歴があり、その夫達はみんな不審な死を遂げたり行方不明になっているのだった。最後にはトラスコットまでお金の山分けに参加することになる
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正直者は一人もいないのかあ〜!と思う反面、みんなそれで納得して大笑いしているのだから 、この空気をどう説明したものやら、、、、

他の芝居ではもしかしたら人形(マネキン)を使うのかもしれないが、実は死体のマクレヴィー夫人もちゃんと役者が演じている。これが本当に影の主役。一言のセリフもなく、自分で動くことも一切ない「死体」を見事に演じていて、これが演出で一番だったかも。クローゼットに逆立ち状態で入れられたり、服を全部脱がされて、シーツでぐるぐる巻きにされた状態で車椅子に乗せられたり、 棺桶の下に足で押しやられたり、、、それでもひたすらミイラの役だ。
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笑い、というものの意味をこんなにも皮肉な形で芝居にすることができたジョー•オートンの作品をもっと沢山観てみたかったね。銀行強盗を見逃してお金を山分けしようという刑事や、死者であり母への冒涜を恐れないハルの振る舞い、結婚しようとプロポーズしながらしっかりホモ/バイセクシャル なデニス、
7人の夫殺しの上、もしかして夫人を死なせたのも、、、?と思わせるトンデモ女のフェイ、これだけ揃えばもう怖いものなしで世の中を渡っていけるような気さえしてくる

このPark Theatreはカフェバーも劇場とは違って、ちょっとクリエイティヴな感じの空間だ。フィンズベリーパークの周辺は結構アーティストも多いエリアなので、役者やミュージシャン、ダンサーなんかも住んでいる。まあ、駅裏のガード下にはホームレスも住んでいるようだけれど、、、
ロンドンらしい環境でのイギリスらしい芝居、こんな時間がやっぱりすごく好きだなあ〜〜
 


本当は蜷川さん追悼公演のマクベスを観るつもりでいたのだが、日本に行く2週間の休みを取れる時期が折り合わず、結局マクベスは諦める事になってしまった。
で、代わりというか、久しぶりでバービカンでRSCのシェイクスピアを観ることにした。
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このThe Tempestは本拠地のストラトフォードで上演された時から話題になっていて、インテル社の協力のもと、舞台全体が3Dのプロジェクターで 大掛かりな仕掛けが施されている。
シェイクスピアのThe Tempestは妖精たちや魔女の息子が出てきたり、魔術で嵐を起こしたりと、現実のは少し外れたファンタジーの世界観を持つ話だ。

弟一味の陰謀でミラノを追われたもと大公のプロスペローは、無人島で娘と二人で暮らしている、彼には魔術を操る力があり、妖精のアリエルを家来のように使い、裏切った弟やナポリ王の一行が乗った船が近くを航海していることを知ると、大嵐を起こさせて、一行を島へおびき寄せる。

実は前回この芝居を見たのは、レイフ•ファインズのプロスペローでトレバー•ナン氏の演出だった。解りやすい芝居だし、視覚的な見応えもあって面白かったので、今回のスペクタクルな21世紀のテクノロジーを駆使した舞台がどんなものか楽しみだった。

さて、あらすじ等は前回のこちらのブログを参考にしていただく事にして今回はちょっと省きます。この舞台、幕が開いた瞬間から「大掛かり」がやってくる。大嵐のシーンが、まず船の枠組みに大波、大風、と3Dプロジェクターで本当にリアルだ。そういえば前に観た「Lord of the Rings」も大掛かりな視覚装置でファンタジーの世界を描いていた。
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よく観ると、アリエル(空気を司る妖精)の体の動きが3Dでプロジェクターに反映する仕組みになっていて、マジカルなパワーがいっぱいだ。次から次へと目を奪われるような壮大な世界が展開する。

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そして途中でふと気づいた。「あれ、、この芝居って、もう少し面白かったんじゃないかな、、、」
視覚効果が大きいのは見応えあるのだが、逆に本来の芝居の持つ面白さがその分薄れてしまっているような気がしてくるのだ。

プロスペロー役のSimon Russell Bealeは実力派のベテランで、RSCの役者達は皆さん力量は確かだ。でもシェイクスピアらしい面白さが、なんだか薄れているような、、、これが演出の違いによるものなのか、、?
前に観たトレバー•ナン氏の演出では、魔術のシーンは仕掛けよりも、リボンダンサーやアクロバット的な宙吊りにダンサー達を使って肉体で躍動感を出していた。もともとシェイクスピアの時代には仕掛けなんてできなかったのだから、それを補うためにシェイクスピアは台詞を書いたのだ、それを役者がきかせる事で、観客にイマジネーションを与え、想像を膨らませていたのだ。

この舞台をシェイクスピアが観たら何というだろうか?まずびっくり仰天するに違いない。もしかしたら台詞を3分の1ほど削ってしまうかもしれない。(描写の必要がないかも)21世紀のテクノロジーのおかげでCGがどんどんリアルになり、だからハリー•ポッターシリーズも映画化することができたわけだし、エンターテイメントということでは本当に進化している。でも元々の「本」にあった言葉達がなんだか薄れてしまうような感じでちょっと疑問を感じる。

「言葉、言葉、言葉だ、、」とシェイクスピアが本に詰め込んだ幻想的でマジカルな世界観が、言葉から離れすぎてしまうのは芝居の面白さを奪ってしまわないだろうか••••
今回の演出は5年前からRSCの芸術監督をしているグレゴリー•ドーラン氏。前任のトレバー•ナンやピーター•ホール同様、シェイクスピアへの愛情を感じる舞台を多数演出している。元々はRSCに役者として入ったのが、後に演出に移った人だ。RSC以前から劇団を作ったりしていた人なので、役者としてよりも、舞台演出をやりたかったのかも。

このテンペストは観る価値は十分にある。こんなにもマジカルな世界を舞台に出せるなんて思ってもいなかった。だけど、私が好きかどうかという観点で見ると、実は前回のナン氏の演出の舞台の方が解りやすくて芝居として面白かったと言える。視覚が言葉を遮らない範囲でみせてくれていた。

こちらの感想←と比べてみてください。

 


久しぶりに観たRozencrantz and Guildenstern are dead。シェイクスピアの「ハムレット」では脇役のこの二人を主人公にしたハムレット•スピンオフとして有名なTom Stoppardの戯曲。
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ハムレットと幼少時代の友人なのだけれどホレイショーのように友情と信頼を寄せられているのではなく、国王にハムレットの監視役を命じられ、狂気を演じてイングランドへ送られることになったハムレットを共に船に乗る。けれどイングランド王が自分を殺すように仕向けた仇の叔父・国王の手紙を見たハムレットは内容を書き換え、代わりにローゼンクランツとギルデンスターンがイングランドで処刑されてしまう

ハムレットではほんの小さな役だが、私も以前思ったのだ、確かにこの二人はちょっとバカで論理的にも感情的にも地に足がついていない感じで、それがちゃっかり国王の手先(という自覚が本人達にはない)になってハムレットの行動を監視・報告する役目担ってしまうのだが、本人達にとってはハムレットの為を思っての事なのだ。悪気は全くないし、むしろ単純バカの典型のようなキャラクターだ。それなのになぜ、ハムレットは自分の代わりに彼らを処刑するようにとイングランド王に手紙を書いたのか、、殺さなくたって良かったじゃないか、、??

ローゼンクランツとギルデンスターンは舞台袖にいる。そう、彼らはなんだか舞台袖で出番を待っているエキストラ俳優ような感じだ。常に二人のたわいのない掛け合いが続く。彼らの周りでは大ドラマが繰り広げられていて、一国の宮廷にまつわる陰謀と復讐が織り成されているというのに、彼らは事の次第をきっちりと理解していなくて、コインを放って裏表を当てたり、話の進展の全くない言葉の掛け合いで会話したりしている。この、何も起こらない中で会話の応酬が続くあたりは、ベケットの「ゴドーを待ちながら」ともちょっと似ている、、、

「ハムレット」でも、ローゼンクランツとギルデンスターンは取り違えられがちだと解らせる場面がある。要するに、どっちがどっちでもあまり重要ではないような二人なのだ。背丈も見栄えもなんとなく似た感じの2人の役者がこの役を演じるのが常なのもその為だ。 こちらの本でも初めからなんども二人の名前がごっちゃになるので、はっきりとギルデンスターンがローゼンクランツを「ローゼンクランツ!」と呼ぶまで確信できない位だった。ちなみにこの二人は背丈が似ているのだが、他の出演者達よりも小さい。この「小さい二人」というのもなんとなくキャラクターを反映しているように見える。

でも確かにキャラクターには違いがある。ギルデンスターンの方がセリフが多く、なんとか筋道を立てようとあれこれ考えて喋っている。そしてローゼンクランツは合いの手を入れながらどんどんそれに乗っていくタイプだ。 相手の意見を覆すような討論じみた会話は一切無い。ハムレットのことも、アレヨアレヨというまに宮廷に呼び出されて、久しぶりに会ったのだが、特に命がけで友を守ろうというような熱い思いもないし、殺人騒ぎが起きても大した危機感も持っていない。ようは流れに乗っているのに周りの状況が把握できていないのだ。

それでもその表舞台の袖でひたすら無意味な会話の応酬を繰り返し、コインを放る姿はなんだか憎めないから不思議だ。

そしてこの芝居でもう一人、脇役から主役級に抜擢されているのが旅芸人たちの座長だ。ハムレットの劇中劇で前国王暗殺の様子を演じることになった旅役者一座。この一座と二人が宮廷に行く前に旅の途中で出会っていて、さらにはイングランド行きの船にも隠れて乗りこんでいうるという設定。座長は芸術と現実について語る。彼は舞台劇の核となるのは弁論技術はもちろんのこと、芝居で血が流れなければいけないと信じている。すべてのものは死につながるのだと。 
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あまりインパクトのあるキャラではない主役二人の代わりにこの座長役が多いに語る。そして二人はまたそれを袖で聞いていて流れに乗る、、ということの繰り返しだ。座長を演じたのはDavid Haig。古典劇からミュージカルまで幅広く活躍するベテランだ。私はThe Madness of  George III でこの人の国王を観た。演じる座長が主張する通り、セリフ術に長けた役者さんで、今回の役も(馬鹿馬鹿しい)説得力十分だった。コミカルで大げさで、愛嬌がある

ローゼンクランツはようやくハリー•ポッターから脱出した感じのダニエル•ラッドクリフ、ギルデンスターンはジョシュア•マグアイアー 。ダニエルは深く考えずに相槌を打つうちにどんどん流れに乗って行ってしまうローゼンクランツの能天気なキャラをユーモアラスに演じている。ギルデンスターンの方が先のことを考えて不安がったりするのだが、独白のようなセリフが上手い。この辺りは座長のいうレトロリックか。(チェックして観たらRADA出身の人だ)

クスクス笑ううちに、終盤ではこの二人の残酷な運命に気づかされる。ハムレットの原作では最後は「ローゼンクランツとギルデンスターンは死にました」という報告のセリフだけで終わってしまう二人の人生だが、最後にギルデンスターンは呟く、、「こうなる前に、どこかで、NOという機会があったんじゃないか、、??」 それでも運命の流れのままイングランドで待ち受ける死を受け入れてしまったらしい二人が哀れに思えてくる。そうだよ、殺さなくたって良かったんじゃないの?

こんな単純でお人よしの二人組を、仇の国王のパシリになったという事で殺すように仕向けたハムレット、、、この芝居を初めて観たのはかなり昔のことだけれど、これを観てからは「ハムレット」の見方が変わったのは確かだった。そしてこの二人とは大違いの信頼と愛情ををハムレットから 寄せられるホレイショーのことも、もっと深く見るようになったっけ。

でも、要するにNoと言うきっかけを逃してしまったのがいけなかったのだ。もっと周りで起こっていることに集中して目を凝らしていれば、異国の地で死ぬことはなかったのにね。原作のハムレットがシリアスなキャラクターだからこそこの二人組に意味があったとも言えるけれど。シェイクスピアがハムレットを書いた時には何を想定してこの役を作ったのか?もちろん当てて書いた役者がいたのだろう。似た者同士でみんなからちゃんと個人として見てもらえない二人の役者がいたのだろうか?でも「ハムレット」ではコメツキバッタほどのインパクトも無いような二人なんだけど、、、

ハムレットを全く知らないで見ると面白さは半減するけれど、これだけでも面白いセリフ劇だ。ボケとツッコミのような二人の延々と続く掛け合いは、テンポの良いリズミカルな演出で観客を引っ張る。 舞台袖を、さらに舞台裏から見ているような芝居。
やっぱり面白い

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今年の最後はバレエ。久しぶりでMatthew Bourne氏の新作「The Red Shoes
レッドシューズといえば、アカデミー賞も受賞した1948年のバレエ映画。バレエを志すダンサーなら必ず観ているであろう大作にして名作だ。アンデルセンの原作は宗教的な色が濃く、残酷でダークなイメージもあるのだが、それを「踊らずにはいられない」というバレエに対する情熱と、興行を制作するバレエ団という組織の舞台裏に絡めて作られた映画版は7年前にデジタルリマスター版がリリースされて、今も色褪せない作品だ。

マシューさんのことだから、ダークな色を押し出したちょっと普通から外れた解釈になってるんだろうか、、と思ったら、バレエ作品としてはオーソドックスな作りだった。とはいえクラシックバレエとモダンバレエの組み合わせは、観ていて全く飽きない。

映画版The Red Shoesでの音楽を使用しているのかと思ったら、 曲は「華氏451」「鳥」「タクシードライバー」等の映画音楽を担当したバーナード•ハーマン氏の曲を組み合わせて使っている。この作品用に書かれたものではないけれど、各場面で時々耳慣れたメロディーが入り込んでくるので初めて聞く感じがしない。冬といえばヨーロッパはバレエシーズン。この新作も大人から子供まで楽しめる作品になっているので、これからの冬のレパートリーとして毎年踊られてもいいかな

このカンパニーのダンサー達は身体がギスギスしていない。主演のヴィクトリア役のダンサーは(3人が交代で踊っているようだ)みんな身体に丸みがあるし、足や腕もガリガリしていない。これは映画版で主役を演じたモイラ•シェアラーもそうだった。年代的にはやはり1940-50年頃を意識しての衣装や振り付けになっている。そんな所も映画版のファンには嬉しい。

ストーリーは全く知らないで観てしまうと、バレエカンパニーがあちこち旅をして興行しているあたりが解りにくいかもしれない。場所が場面毎に変わるから、、、、 それでも場面毎に振り付けの雰囲気も変わって視覚的にもクリスマスにふさわしい楽しい舞台になっている

そんなわけで今年も終わっていく、、、今年は本当にたくさんの、それも私の青春時代からずっと人生の一部に在り続けた人たちが何人も亡くなってしまった。年明けのDaved Bowieに始まって、さすがにもう今年は出尽くしたか、、と思った所へクリスマスにジョージ•マイケル氏、さらにはつい2週間ほど前までイギリスのテレビにも出ていた(本のプロモーションにイギリスに来ていた)キャリー•フィッシャーさんが亡くなり、翌日にはお母さんのデビー•レイノルズまで、、、

デヴィッド•ボウイー、プリンス、キース•エマーソン&グレッグ•レイク(ELP)、ジョージ•マイケル、グレン•フライ、 彼らは私が10代〜20代の頃にずっと私の生活の一部だった。イギリスに来てからこちらでずっとその活躍を見て来た人たちで亡くなったのは、ヴィクトリア•ウッド、キャサリン•エイハン、テリー•ウォーガン、ロニー•コルベット、ボール•ダニエルズ、皆お馴染みの顔ぶれだ。
そして、ナタリー•コール、モハメド•アリ、キャリー•フィシャー、デビー•レイノルズ、そういえばピート•バーンズ(Dead Or Alive)もだっけ。 

日本では何と言っても蜷川幸雄さんと平幹二朗さんが相次いでいなくなってしまったのは大きい、、、70年代から親しんだ大橋巨泉さんもだし、年の瀬のだめ押しのように根津甚八さんまで、、、大好きだったんだよね〜根津さん•••

本当にね、だんだん自分の人生での大切な時間を共有していたような人たちが亡くなっていくのは寂しいよ。まあ80も超えてれば仕方ないけど、まだ60代とか、ジョージ•マイケル氏は53だよ、、!一度ロンドンのクラブで会ったことあるなあ〜〜、、会ったというより、たまたま私たちが踊っていたすぐ横にいたっていう感じだったけど。

来年はどんなことが待っているのか、、、とりあえずは元気が一番。クリスマス前にかかったインフルエンザがもうほとんど治りかけてるんだけど、気管支炎が完全に抜けないなあ〜〜このゼイゼイする咳が早く消えて欲しい。でもこれのおかげで一発でタバコをやめることができた。まあ良しとするかな。

毎日の忙しさに紛れて、以前ほど本も読まなくなってしまったし、あれこれといろんな事をつついて面白いことを発見したりする機会が無くなってしまっている、、、これじゃあいけないよね。来年はまた本を読もう。映画もせっかくAmazonのプライム会員になったんだから色々と探してみようか。
今年もこのブログをのぞいてくださった皆様、どうぞ良いお年をお迎えください。 


案内のe-mailでこれを目にして、観る!と即決した。 
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まずはスティーヴン・バーコフの本である事、そして演出がナイジェル・ハーマン。

Steven Berkoff 氏は俳優として映画やテレビで悪役やちょっと癖のある役であちらこちらに出ているけれど、実は映像での彼を私は観た事が無い、か、出演作を観ていたとしても普通に見過ごしている、、、
私が彼を観たのは、彼が演出・ヘロデ王役だったオスカー・ワイルドの「サロメ」だった。台詞も動きもスローモーションなこのプロダクションは、それまでに何度か観た「サロメ」の中で、一番印象に残っている美しい舞台だった。冷え冷えとした空気が漂うような白い月の中で、台詞が美しく散りばめられていて、「こうなるのか!」と目を見開いて舞台に魅入っていた。その後も彼の演出、脚本の舞台をいくつか観て、鬼才=バーコフ氏のファンになった。彼の本なら面白いこと間違いない!

一方、今回の演出はNigel Harman、彼は元々子役出身でミュージカルにも出ている舞台畑の役者だ。でも彼の名前をお茶の間に広めたのは、何と言ってもBBCの看板ソープドラマ「Eastenders」だった。Eastendersを離れてからはまた舞台に戻り、Shrekというミュージカルでローレンス・オリヴィエ賞の助演男優賞を取った。ちなみにEastendersから卒業?していった俳優達が結局その後はほとんど名前も聞く事が無い中で、ここまで舞台で活躍している人はいない。その彼がバーコフ氏の本を演出するというのでとても興味が湧いた。

どんな芝居なのかは全く知らない。そして会場は劇場というより、スタジオだ。俳優が動ける距離は、幅7歩、奥行きは3歩(実際に確かめた)で、コの字に囲む客席は100席程の空間しかない。でもこういう身近な空間での芝居がまた私は好きだ。私が観た日はハロウィーンの月曜日という事もあってか、客数は40人程だったので、おそらく役者は観客一人一人の顔を意識していたと思う。

この芝居は実は2本の一幕ものが一つとして上演されている。どちらも45分程なので、これを一幕、2幕として上演していて休憩無しの90分だ。バーコフ氏は最初の「Lunch」を1983年に、2幕となる「The Bow of Ulysses」を2002年に執筆した。そして後者はまさにLunchの続編で二人の20年後を描いている。
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海辺のピアにあるベンチでランチタイムに偶然出会った男と女。男は彼女を一目見て強烈に惹かれる。なんとか話しかけようとしては怖じ気づき、でも頭には彼女を讃えるありとあらゆる形容詞が飛来して、長い独白で彼女への募る思いを吐く。やがてぎこちなくも話を始める初対面の二人。女の方は表面上は興味なさそうに男を観察しているが、やがて男が仕事でやりきれない思いを吐き出し始めると、少しずつ相手になる。出会った二人は見知らぬ同士のまま、やがて心の奥底にある闇のような思いをさらけ出し、ベンチで身体を合わせ、そして見知らぬ同士としてひと時の出会いに別れを告げる。

膨大な台詞の量だ。そして、とても叙情的でポエッティックで長い長い独白の応酬はシェイクスピアにも至適する。掛け合いではなく、当たり障りの無い会話の合間に胸の内の本音を長い台詞で描いて行く。凄い本だ。これだけの台詞で心のうち=本音を語るのは挑戦でもあり冒険だ。
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一幕の終わりではそれで分かれたと思った二人が、暗転して2幕になると、同じベンチに少しくたびれたレインコートを着て座っている。前半とは逆の位置に座った二人。1幕から20年が経っている。あの日から付き合い始めてこの20年を一緒に過ごしてきた同じ男と女が、この20年でどんなに二人の関係が失望し、疲れ果て、初めから間違っていたのではないかと、これまた膨大は独白台詞の応酬で語り合う。そこに描かれているのは、ごく普通にありそうな男女の苦しくても現実的な本音だ。生々しい言葉はリアリティーがある、だからこそ「それを言っちゃあ、、、」「そこまで言うか?」と思いつつも、観ていると心の内から裸にされるような奇妙なリアリティー。

リズミカルで詩的な台詞は美しく語られる。必ずしも言葉が奇麗なのではない。聞くに堪えないような単語が並んでいても語られる様が美しい。それはそこに現実があるからなのか、、、、まさにバーコフ氏が鬼才と呼ばれる所以か。「痛い」。耳にも胸にも痛い本音が延々と語られて、どんな大人でもなにかしら「まいったなあ〜〜、、」と思わずにはいられない。こんな本があったなんて・・・・

シェイクスピア張りの本もさることながら、演じる役者の力量には唸ってしまう。決して名の知られた役者ではない。でもこれだけの台詞をあんなにもリアリスティックに、20年という歳月の二人の関係を吐き出して語れるのは凄い事だ。たまに日本に帰った時に芝居を観ると、内容よりもやっぱり役者の技術的な力の差を感じてしまう。声、滑舌、呼吸、身体の動き、感情を微妙な空気で言葉に重ねて表現する技は、何が違うのだろう、、、訓練の仕方か?美しく書かれた叙情詩を、美しく観客の耳に届ける事がどれほど至難の技か・・・

ハーマン氏の演出は、この狭い空間の中、ベンチの周りで二人が語り合って、あるいは責め合って、そして挑発し合って、最後には絶望的な関係になっている様を最小限の動きで聞かせている。目の前にいる(まさに目の前だ)私たちは、二人の言い分をじっと聴き、時に笑い、共感し、そして一緒に失望していくのだ。

こんな芝居が観られるなんて、、、この本はほとんど上演される事の無い二つの一幕ものだけれど、芝居としては小さな宝石のような輝きがある。観た後になんだか「痛い所を突かれた」ようなちょっと気まずい気持ちで席を立つカップルが多いはず。この日の40人程の観客も年齢層は40~50代で、夫婦連れがほとんどだった。私もうちの彼と一緒じゃなくてよかったかも、と密かに思ってしまったよ、、、

芝居って、こういうものなんだよなあ〜〜、、と、ちょっとまた演ってみたくなってしまう舞台だった。






 


日本に来て3日目から鼻風邪をひいて4日ほど調子悪かったけれど、幸い喉に来る前に追い返すことに成功。連日誰かとランチの約束が続いて食べまくり、、、日本にいればこんなにいろんな美味しいものが手頃なお値段で毎日食べられるのかと思うと、まるで違う惑星に来たみたいだ

今回は丁度「鱈鱈」を上演中なので予めチケットを取ってあった。銀河劇場は初めてだ。幅の広い造りで、客席空間が大きい。韓国の劇作家という事で、今までとは少し違う空気の芝居かな、、といつものように予備知識無しで観る。

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この芝居、創る側にとっては面白いだろうなというのは観ていて思った。本を読みこむほどに色々見えてくるものがある芝居で、役者も演出家もきっと台本を読み込んで創っていったのだろう。でも、一度しか観ない一観客としては、それが今一つ、もう一歩で見えてこない部分があった。少人数の芝居というのは其々の相手との関わりが線で見えてくると解りやすい。その線がちょっと点線にしか見えない部分があったような印象だ。

日本で演劇公演で思うのが、不要な前宣伝かもしれない。この舞台はホリプロ制作で主演に藤原竜也を銘打っているので、まず公演が発表された時点で、「藤原竜也が同性愛者を演じる」と、宣伝されていた。でもそれは芝居を観て解れば良い事で、むしろ必要ない宣伝だったように思う。というのは、彼がずっと一緒に倉庫に住みながら働いてきた同僚をひそかに好きなのだという事は、芝居を見て「ああ、、」と気付きたかった。藤原さんはちゃんとそれが見えてくる繊細な演技をしていたので余計にそう思う。

正直に言うと、藤原さんの演じた役は、ゲイというより、「ちょっとIQの低い半分OCD」という設定なんじゃないかとさえ思う。そう思って観ていて、「ああ、彼を好きなんだな」と思わせるあたりは、余計な前宣伝は要らなかったね。ここで役名をチェック。舞台では相手の名前を呼び合う事はなかったように思うので、役名を覚えているのは「ミス・ダーリン」だけだ、、、あ、解った。藤原竜也=ジャーン、山本裕典=キームね。

山本さんの演じたキームのほうがキャラクターとしては解りやすい。長い間ず〜っと倉庫の中で昼も夜も働きながら一緒に生活していたこの二人に転換期が訪れるのだが、この二人をかき回すことになるミス・ダーリンがこれまた難しい役だ。中村ゆりさんは初めて観たけれどミス・ダーリンのいろんな側面を演じ分けて見せていた。でも、その切り替えが唐突で、なんでそういう顔に急になるのか理解しきれない。きっと演じている役者には意図があるのだろうけれど一度しか観ない観客には一発で解らない、、、というもどかしさ。

観終わってプログラムで補足しようと思って高いな、と思いつつ購入した。ちなみにロンドンで芝居のプログラムは600円前後だ。プログラムにはその芝居が書かれた時代的・社会的背景とか、作者の意図とか、それが及ぼした影響とか、芝居を理解する要素が沢山書かれていて、観た後に読むと参考になって面白い。出演者の紹介は略歴やキャリアの代表作を羅列するだけ、というのが普通。でもこのプログラム、読む価値があったと思えたのは演出の栗山民也さんのページと藤原・木場両氏の対談くらいだ。(この対談も、このプログラムでじゃなくてもよかったかも。)これでこのお値段はちょっと驚き、、、

時代的に少し古いのかと思ったけれど、90年代の作品なので、社会的背景は少し違うのだろう。韓国の労働階級が倉庫で寝泊まりしながら何年も箱を積んで並べるだけの仕事を一日中しているとは、、、、思えないよね?? 嫌だ嫌だと言いながら結局10年以上も倉庫にいたキームが最期に自分の生活を変える決心をするのも、現代的感覚だと「そんな結婚いつまで続くんだよ??」とツッコミたくなるのだけれど、ちょっと現実とはちがう状況に設定することでこの芝居に奥の深さを与えているのは良く解る。

やっぱりこの芝居は創る側にとって面白い本だな、という事。観ていて「これ、台本で読みたいな」と思ってしまった。でも観る側は2時間弱の一回だけ。今一つ、「こだわり」が見えてこないもどかしさが残ってしまった。テンポもあまり変化がないので時差ぼけの身としては途中で眠くなってしまった。もう少し速いテンポで回せるシーンもあったと思うのだけど、、、が多い、、、持たせられない間は眠くなる。その点ではやっぱり藤原竜也という役者は間を持たせて引き付ける力がある。これはやっぱり天性のものかな。

役者は皆さん良かった。木場さんの役はミス・ダーリンよりも「外からの侵入者」というインパクトがあった。チームとしては良いんだけど、なんだろう、、、やっぱりこだわりなのかなあ、、?芝居っていうのは観る人の感想や思いは皆違うのだから、とにかく舞台から「おれたちの芝居はこれだ〜!」っていうこだわりが見えてくれば良い悪い、好き嫌いの判断ができるのだけれど、そのこだわり感が弱いというのが印象かなあ〜、、。そういう意味で、やっぱり蜷川幸雄という演出家はこだわりをきちんと見せて、役者にもそれを要求する人だったんだなと改めて思う。

面白くないとは言わない。結構深い本だし。全く違う舞台にもなりそうだし。でもこれで「完成版」なの、、?という印象。なんとなくまだ終わっていない不思議な感じ。いや、もしかしてそれが狙いなのか・・・


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