ちっとも夏らしくならないから実感無いけど、いつの間にか6月20日になってたんだね〜〜
気が付いていたでしょうか、、、私が今使っているブログのテンプレート写真はベルサイユのプチ・トリアノン、マリー・アントワネットが愛したハムレットです。プチ・トリアノン宮は結婚した際に夫である王太子(後のルイ16世)から送られたもので、その後にアントワネットが回りに田舎風の農家や水車小屋などを作らせて実際に家畜を飼い、畑を作って小さな村でのプライベートな時間に浸ったというのは良く知られた話

そのプチ・トリアノンに出入りできたのは彼女が特別に許可した親しい友人達に限られていたため、その後、王妃は出入りを閉め出された貴族達から猛烈な反感をかってしまう。これがまた革命の際に平民と手を組む貴族が出て来る原因ともなったのだからなんとも皮肉な話だ

このトリアノンに出入りしていた王妃のお気に入りの友人達の中にフェルセン伯はいた。スウェーデン貴族で一部の歴史家達からは「王妃アントワネットの恋人」といわれているハンス・アクセル・フォン・フェルセン伯爵。彼の生涯において今日の6月20日はまさに運命の日だった

今だからこそ、もう40年近くも前に大人気になった「ベルサイユのばら」の内容に、当時はまだ知られていなかった事実があった事が解っている。池田理代子さんのミスという事ではなく、当時はまだ明確な事が解っていなかった部分なのだ。6月20日についてのベルばらの誤記についてちょっと書いてみようか・・・

フランス革命において、6月20日といえば、1791年の国王一家逃亡事件で知られている(ヴァレンヌ逃亡事件)。この日、国王一家と王子/王女の教育係の6人がテュイルリー宮を脱出してモンメディーに向った。逃亡を計画、指揮したのは他ならぬフェルゼン伯爵だった。ベルばらではこの逃亡劇を国外逃亡としているけれど、実は国外へ行くという予定ではなかったのだ。あくまでもパリを離れて王党派の支持を得て再起を計るのが目的で、その逃亡先はモンメディーと決められていた。

フェルセンは実はその前の年から逃亡計画を持ちかけていて、実際に逃亡用の馬車は前年の暮れには注文されている。6人乗りのベルリン馬車の注文は遅くとも3月に間に合うようにと指定された。にもかかわらず逃亡計画そのものが6月まで伸び伸びになってしまったのはなんとも失敗だったと言って良い

逃亡は、人に知られず、闇にまぎれてコソコソと」が基本なのに、実際に逃亡計画が実行されたのは6月20日、ほとんど夏至の日というわけで、一年中で一番夜が短い時だ。日本ならまだしも、パリの緯度を考えれば夜は10時近くまで薄明るく、朝は3時半過ぎには明けてくるのだから、どんなに逃亡に不向きかが解ろうというものだ。

また、この逃亡に使われたベルリン馬車が豪華すぎた事も失敗の原因だったかもしれない。6頭立ての黄色に輝く馬車は調理器具もついた大型豪華馬車で、人目につき易い上に重過ぎて、時速がわずか10マイル程だったという。おまけに喉が渇き易い国王の為にワインの樽を4つも積んでいたというのだから、とうてい「すたこらサッサ」とはほど遠い

フェルセン自身が手綱を取ってバリの街から国王一家を脱出させたのは本当に大きな功績だった。「ベルばら」ではこの後に国王がフェルセンの随行を断ったようになっているけれど、実際にはかなり前の段階からフェルセン自身はパリを出たら国王とは別のルートで国外に出る手はずになっていたのだ。最初は彼も最期まで同伴したいと思っていたようだけれど、計画の初期段階から、彼は「万が一の為に国外へ逃亡して、諸外国の元首達に助けを乞う手紙を持参する」とう役目を負っていた。それでも律儀なフェルセンは、最期にもう一度国王に同伴を打診するが、国王は「計画通り、あなたは万が一の時の為に手紙を届けて下さい」と主張する。

このヴァレンヌ逃亡事件は本当に微妙な時間差で失敗に終ってしまった。あと40分あれば、歴史は変わっていたかもしれない。だからこそ、この逃亡事件の失敗をフェルセンが生涯悔やんで呪っていたというのも理解できる。実はこの日、パリから逃亡したのは国王一家だけでなく、その弟であるプロヴァンス伯(後のルイ18世)と夫人もそうだった。プロヴァンス伯のほうは、夫人と別行動を取っている。別の馬車で途中からはルートも変えてベルギーへと向う。彼等はパスポート上イギリス人という事になっていて、馬車もごく普通の目立たないものを使い、道行く先で出会った人達とも、わざとおかしなイギリス風アクセントのフランス語を喋っていた。そのため、全く気付かれる事なく無事にベルギーへ逃れている。後にナポレオンの失脚後にフランスに戻って王政復古をかかげ、めでたくルイ18世として即位したのだからこの古狸はたいしたものだ。彼は歴史上「フランス国王」として生涯を閉じた最期の国王という事になっている。

あくまでも生真面目で秘密理なフェルセンと、ちょっと芝居がかった古狸のプロヴァンス伯、、、、うまくやったのはプロヴァンス伯のほうだった。このヴァレンヌ逃亡に失敗した後のフェルセンの人生は本当にツキが無い。翌年の冬に危険を犯して再びパリに戻ったものの、ルイ16世はもう逃亡計画には同意せず、アントワネットも既に王妃として国王と運命を共にする覚悟を決めていた。この約10日間のパリ滞在期間中、フェルセンは愛人であるエレオノーラの処に隠れ住んでいた。しかも彼女のパトロンでフェルセンの友人でもあるクリフォードの目を盗んで彼等の家の屋根裏にいたというのだから、結構神経が太いというか・・・ちなみにこの1週間の愛人宅での隠れ家暮らしは、彼が実際に書き残した日記=ジャーナルによるもので、国王夫妻にには「1週間地方に行ってきます」と言ってるくらいだから、一部の歴史家達のいう、この時のフェルセンとアントワネットの不倫説はちょっと疑問がいっぱいだ

運命の6月20日、この時のヴァレンヌ逃亡事件が成功していたら、フランスの歴史は変わっていたかもしれない。そしてその後の国王一家やフェルセンの運命も・・・・そしてその日から19年後、まさに同じ運命の日にフェルセンは祖国で民衆達によって惨殺される。フランス革命後、祖国に戻ってスウェーデン国王に仕えていたフェルセンだったが、いまひとつ馴染みきれないものがあったようだ。真面目で秘密主義めいた彼は、いつの間にか「ちょっと古いタイプの堅物貴族」と思われがちだったようで、晩年は若かりし頃のきらびやかさを失っていく。地位的にはどんどん昇進していくのだけれど、居心地は良く無かったようだ

それにしてもね、、、本当に命がけの夜逃げの日が6月20日になってしまったのはなんといっても失敗だったよね。だってこんなに夜になっても明るいんだもの・・・・何が歴史を変えるかは本当に解らない。フェルセンだって、それから19年後の同じ日に自分が祖国の大通りで命を落とすとは知る由も無かったのだから

200年以上前の6月20日はもうちょっと暖かかったのだろうか、、、?今日みたいにおぼつかないお天気だったのだろうか、、?歴史の嵐に飲み込まれてしまった人達に合掌・・・・