久しぶりにRSCの舞台、Written On The Heart

heart

世界中で1位不動のベストセラー本といえば「聖書」。この芝居は現在イギリスで最もポピュラーでスタンダードになっている英訳聖書=King James Versionを出版するように命を受けた司祭/学者達の話だ。ジェームス1世の時代、1603年に国王の命を受けて54人の賢者達がイングランド国教会で仕様する定番聖書の翻訳作業にとりかかる。このキング・ジェームス版は1611に出版され、以来19世紀まではイングランド教会に於いて使用された唯一の英訳聖書だ

「神の声」を人に届ける為の大作業である。英語に翻訳された聖書というのは実はもっと前にもあった。14世紀に出されたジョン・ウェイクリフによるヴァージョンと16世紀初期にウィリアム・ティンダイル(William Tyndale)のヴァージョンが出版されていて、このジェームス版も実は8割方はTyndaleの訳に手を加えたものだ

この芝居では1610年の翻訳の最終段階での喧騒に加えて、過去の英訳本が歴史的にどんな位置にあったかも背景として描いている。ウエイクリフの時代は、聖書を読めるのは選ばれた階級の知識人=高職の司祭達に限られており、神の言葉を民衆に伝えるのは彼等の特権であった。それゆえに聖職者達はその威厳を保ってもいたのだ。凡人でも字を読めれば神の言葉に触れられる、というのはむしろ牽制されていた。ティンダイルの頃はヘンリー8世が妻と離婚したいが為にカソリックから独立して英国国教会を新たに創ってしまった時代。後に彼はヘンリー8世の離婚/再婚に反発する文書を書いた事で「反逆罪」の罪で逮捕され、火あぶりの刑にされてしまった

芝居の中で翻訳の責任者アンドリュー卿のもとにティンダイルの亡霊が現れ、神の言葉が時代や政治によって変えられていく現実を考えさせる。不変であるはずの神の啓示は実は権力者達によって時代と共にちょっとずつ曲げられていってしまうのだ。新旧の賢者二人はお互いを見つめあって神の声を心に届ける事をめざす

私の出身校はキリスト教だったので、私にとって聖書は学校生活とはきっても切り離せないものだった。学校に行けば礼拝があり、授業にも聖書/宗教の時間があり、神について考える事は学生生活の一部になっていた。小学生の頃はただ習慣でそうしていたものが、10代になると自分なりの考えや疑問が出て来て、高校生の頃には結構真剣に考えたりして聖書を読み通そうとした事もあった。(かなり読んだけれど、旧約はどこまでいったんだか、、?)

英語に限らずもちろん日本語でも翻訳は何種類もあって、今はあの頃よりもっと口語らしくなっていたり、解り易い言い回しになっていたりするのだろうけれど、私が覚えている聖書の出だし=創世記の始まりは→

初めに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、闇が淵の表にあり神の霊が水の表を覆っていた。神は光あれ、と言われた。すると光があった」 

覚えているもんだねえ〜〜、、、 主の祈りとか詩編23編とか、やっぱり今でも空で言えるのは九九と一緒だわ。
今新たに見てみると、地がむなしいってなんだろう、、? 光あれ→光があったなんて、確かに表現が上から目線で、神の威厳を見せつけている翻訳だ

キリスト教のみならず、ユダヤ教でもイスラム教でも教典として存在している旧約聖書は十戒をはじめ、人として絶対に必要な価値観やモラル、哲学がいろんな話の中に詰まっている、言わば世界最大の哲学書とも言える。それがまた宗教によって採用している書や編集の順番が違っているというのもそれぞれの価値観の違いなのだろう。

新約聖書はもっと選ばれている。本来キリスト以降に書かれた福音書は数多くあった。20世紀になってエジプトのNag Hammadiで見つかった多くの福音書簡は最終的に新約聖書の卷から除外されたもので、ノースティック(Gnostic Bible)と呼ばれている。このノースティックこそが面白いという話を数年前に聞いて、読みたいを思っていたのだけれど、他にも読みたい本があって後回しになってしまっている。

そう考えると、「なあ〜んだ、神の啓示なんて、結局は歴史の中で支配者達の都合の良いように選択されてきたんじゃないか」とも思えるのだけれど、それでも基本的には人が何かを信じて、自分を支え、生きていくための大いなる教本と考えれば、時代の都合で多少の差はあったとしてもそれ位は大した事じゃないんじゃないか、、、

信仰ってそういうものじゃないだろうか。祈るというのは神様におねだりをするのではなく、何か/誰かを信じる事。信じる事で勇気と希望を持つ事。その希望の力を他の人とも分かち合う事時代も宗派も関係ないはず