グログのアクセスに関しては月に2−3度チェックする程度なのですが、この2日間のアクセスに、「フェルセン」の検索数が跳ね上がっていてビックリ・・!!

どうした、、何かあったのかフェルセン伯、、 と思ったら、どうやら日本のテレビ「世界ふしぎ発見」で、フランス王妃マリー・アントワネットの為の時計の話題が出たらしい。完成したのが王妃の処刑から数年も経ってからで、しかも依頼主が解らないという事でオクラ入りになってしまった有名な超高級懐中時計。そのからみでフェルセン伯爵の事も出てきたのだと納得した。

フェルセンの研究本を手に入れたのが2年前で、実際に残された資料だけをみると、王妃との不倫関係については確証はないというのが正確な答えだけれど、フェルセンが命をかけて王妃および国王一家を救う為に奔走したのは事実。妹や親友にあてた数々の手紙や自身の日記からも、彼が王妃アントワネットを愛していたというのは間違いない。けれど疑問は逆のほうにある王妃アントワネットのほうはどれほどだったのか?

マリー・アントワネットの悲劇は14歳で王太子妃として嫁いでから子供に恵まれるまでの8年間の間に、いわれのないゴシップや悪意ある噂の為にすっかり国民から嫌われてしまった事だ。贅沢な浪費家で遊び歩いているというイメージに加えて、義弟との不倫を噂されたりポリニャック一族にあまりに肩入れしたために、ポリニャック夫人とのレズビアン関係がゴシップとしてバラまかれたりしてしまった。フェルセンはアントワネットがプチ・トリアノンに出入りを許した一番近しい友人の輪の一人だった事も確かで、王妃のお気に入りとして、やっかみとからかいの目で見ていた人達が居た事も事実のようだ。けれど、実際のアントワネットはお気に入りの外国人貴族と不倫に走るタイプだったかというと、かなり違うと思う

ルイ16世は歴代国王の中でもめずらしく寵妃を持たなかった。国王夫妻は2人とも敬虔なカソリックで、アントワネットはオーストリア女帝、マリア・テレジアの娘でもある。アントワネットが14歳でフランスに嫁いでからマリア・テレジアが亡くなるまでの11年間に渡って母娘がやり取りした手紙が残っている。この2人の手紙集と、当時マリア・テレジアがフランス宮廷での娘の様子を逐一報告するようにと、半ばスパイのような役目を命じていたオーストリア大使のメルシー伯爵の女帝への手紙を集めた本が出版されていたので読んだ

嫁いだ頃はまだ半分子供のようで、王太子妃時代には母の知らぬ所でこっそり言いつけに背いてはちょっと嘘の手紙を書くという事もあったアントワネット。異国の母には知られないだろうと思った事が実はメルシー伯から筒抜けになっていて(アントワネットはそうとは知らない)、いきなり母から叱責の手紙を受け取って仰天する・・・ マリア・テレジアは常に冷静に娘の行動をフランス国内、さらにはヨーロッパ圏内でどんな評判になっているかを気遣い、娘を指導し、時に叱責し、良き女王にと導こうとする。そんな母から常に教えを諭されていたアントワネットが、愛妾を持たずに質素な生活をしている国王を出し抜いて不倫に走るとは考え難い

実際、子供達が生まれてからの王妃はなによりも家族を大切にしていた。折しもその頃には既にフランスは財政危機に瀕していて、1785-6年以降は革命に向けてかなり不穏な空気になっていた。国王夫妻が生後数カ月の娘と王太子だったルイ・ジョセフを亡くしてからは2人は益々信仰深くなり、絆を強めていった。恋愛結婚ではなかったにせよ、国王/王妃としての義務と責任はこの立場にある人達にとっては何よりも守らねばならないものだったのだ。オーストリア皇女として14歳でフランス王太子に嫁いだ彼女は当然それを当たり前の事として受け入れていたはずだ。

気持ちではフェルセンという人物を心から信頼して愛していた事は間違いない。けれど国王の目を盗んで不倫の関係を結んでいたとは考え難い。ましてや一部の小説家がいうように「国王は2人の関係を知っていて見ぬ振りをしていた」というのもあまりにも無責任だ。カソリックの王家で王妃が不倫というのは国王と国に対する反逆罪だ。それだけでもギロチンに値する

親友として取り立てていたポリニャック夫人はじめその一族がどんどん権力を膨らませていって、そのおねだりにはアントワネットも次第に頭を悩ませるようになる。王妃がプチ・トリアノンに外国のお気に入り貴族、フェルセンやエステルハージを取り立てる事に忠告を申し立てた者がいた。「フランス貴族を閉め出して外国人を取り巻きに入れるのは宮廷貴族達の反感を買います」と言われてアントワネットはため息まじりに答えている。「そうかもしれませんね、でも彼等(フェルセン達)は地位や役職をねだったりしないのですもの(ポリニャック一族のように)」誰が本当に信頼できる人達かという事を王妃は解っていたのだ

革命が始まってからの国王一家は誓いをたてていた。何があっても決して家族が離ればなれにはならないと・・・ベルサイユからパリへ追い立てられてから、それは守られ続けた。ヴァレンヌ逃亡に失敗した翌年、命がけで再びパリに戻って新たな逃亡計画を薦めたフェルセンに国王はきっぱりと計画を断る。テュイルリー襲撃の際にもアントワネットは「死ぬ時は国王の足元で私も死にます」と言いきっている。フランス女王としての尊厳に命をかけたアントワネットに不倫関係の入り込む隙など無かった筈だ

フェルセンが思い続けていた程アントワネットが彼を恋していたか、、、こっちのほうが疑問だ。それどころじゃなかったんじゃない?

フランス革命から数年後、ヴェルサイユ宮殿にあった調度品がオークションで売却された際にフェルセンが王妃のベッドスプレッドを購入した。「世界ふしぎ発見」ではこれが布団という事になっていたようだけれど、Bedspreadというのはベッド全体をカバーとして覆うもので、実際に身体をくるませる毛布や布団とは違う。窓のカーテンのようなものだ。寝具というよりは調度品といって良い。

スウェーデンのロブスタッド城には是非一度行きたい。フェルセンが15歳から亡くなる2年前まで書き続けていた手記もすべてが翻訳されていないのが残念だ。もっとも1783年から1792年までの部分はヴァレンヌ逃亡の際に預けた友人の手で焼却されてしまっているし、残されている手記もかなりインクで消去された部分も多いらしい。フェルセン自身によるものか、後に手記を出版したフェルセンの姉の子孫クリンコウストローム男爵の手によるものかは解らない。アントワネットとやり取りされた手紙のすべては、2重暗号かあぶり出しの無色インクで書かれている。新聞やパンフレットの余白や、表に全く関係のない人宛のような手紙文を書いて行間に透明インクで暗号にして書いてあったり・・・それほど危険なやり取りだったのだ

フランス革命後はスウェーデンでいつも微妙な位置に立たされていたフェルセン。革命後はいつの間にかフランスの亡命貴族と同じように思われてしまったり、長く母国にいなかったせいもあって居心地が良く無かったようだ。ウプサラ大学の学長になったもののほとんど名前だけで、やった事といえばジャコバン思想が学内にはびこるのをひどく牽制していて、その規制には厳しかったようだ。新しい19世紀へ向けてのヨーロッパで、良くも悪くも保守的な高官貴族の彼は次第に時代から取り残されていった感がある。でも彼をよく理解して味方でいてくれた友人達/元恋人達もいた。カール13世の妃だったヘドウィグ・エリザベートもそうだ。彼女の尽力で無惨に殺されたフェルセンの無実がみとめられ、数カ月後に国葬で葬ってもらえたのだから

ロマンチックなんてあり得ない。現実には全くかけ離れていたはずだ