スイスのダボス会議で、渡辺謙さんが、とても良いスピーチを行った。(全文は→こちら)腰は低く、それでいてとても的を得た内容で、スピーチ文を読んで共感することしきり。とかく今の時代には無くても足りるものが多過ぎるのかもしれない。同時に要らないものが多過ぎて、かえって存在が薄くなってしまったものも・・・「足るを知る」、まさに基本忘れるべからず

ネットの便利さや色々なテクノロジーで海外生活が以前に比べてどれだけ便利になったか、私もこのブログで何度か裏技について書いた事があるけれど、便利になればなるほど、人間は欲が出てしまうのだろう。実はこのブログも一週間以上書いていなかった。というのも、最近はちょっとテレビッ子になっているからだ。クリスマス前にテレビのセットボックスを新しいやつに変えてから、何しろテレビ番組がほとんど好きな時に好きな物が観られる状態。録画しなくてもいつでも巻き戻したり、後から追いついて観たりできるので、あれやこれやとついテレビの前に座ってしまった

一時は彼と「もうテレビは無くてもいいかもね〜〜」なんて言っていたのに、これはどうした事か!! あれほど「チャンネルばっかり多くても殆ど観られたもんじゃない!今はネットで何でも探せるしテレビ番組だって観られるからいっそ解約しようか」なんて息巻いていたのがこの有様だ。ドラマ、バラエティー、ドキュメンタリー、おまけにYoutubeもテレビ画面で観られるので、探し始めたらきりがない、、、無くてもいいがあっという間にかじりつきになってしまったのだ

やっと読み終えたカサノヴァの自伝=History Of My Life。生い立ちに始まって自分の記憶にある限りの子供時代から最終的には48歳までの人生を細かく再現した本は全部で3500ページ以上になる。一年以上かかってタラタラ読んでいたのは、本を読む時間が少ないだけでなく、途中からは「終らせたくない」という気持ちもあったからだ。18世紀はとても興味深い時代だ。まだ産業革命の前で電気は発明されていない。それでも知識ある人々が必死で研究し、考え、様々な説がその後の文明の発端になっているのだ。医学、哲学、文学、天文学、建築技術や金融、ヨーロッパ中がその当時にあったテクノロジーの最先端で栄華を競っていた時代。

カサノヴァ自身は貴族ではないが、強力なパトロンがいた為、ヨーロッパ中で王族/上流貴族と交流する。それと平行して、貧しい平民の娘達やその家族とも沢山関わり、当時の生活の様子を幅広く書き残している。ヨーロッパ中を短い時で2ー3ヶ月、長い時は2ー3年のサイクルで旅して回り、もちろん移動は馬車か馬。駅に当たる各所で馬を代え、時には馬車ごと売っては新しいものに変える。通信手段は手紙。これも日数がかかるので、旅を続けたくても手紙の返事待ちでその場所に留まっていなくてはいけない事も多い。もちろんただ待っているだけでなく、その間に社交の場を広げ、劇場で劇やオペラを楽しみ、親しい友人のサークルで毎日午後のディナー(2〜3時頃から夕方近くまで)を過ごし、目をつけた娘をサパー(9時頃にとる夜食)に呼んでそのまま一晩を過ごす・・・

社交の場を広げるために絶対に必要だったのが、友人からの紹介状だ。今で言う「友達の友達、、、」という事で、新しい地に赴く際には、誰かしらが知り合いに彼を紹介する手紙を書いて持たせてくれる。新しい地に着いたらその手紙を持って訪れ、その人の交際範囲に紹介してもらうのだ。18世紀版Mixiですわ、、、まあ彼の場合、紹介してくれた人達の奥さんや娘もことごとく手をつけてしまったりするのだけれどね

読んでいくにつれ、だんだん時代の差を感じなくなってくるのだ。今だって全く似たようなものだったりする。テレビやラジオが無いから、エンターテイメントは劇場やプレジャーパークと呼ばれる公園へ出向く。そこで友人達と交流し、舞踏会で踊り、年に一度のカーニバルには、趣向をこらした変装で仮面パーティーに出かけて行く。法律違反のカードゲームでひそかにギャンブルをして大もうけをしたり、大損をしたり、、、名誉を傷つけられたら喧嘩になり、天敵がいれば親友もいる。カサノヴァの人生には、身分や職業にかかわらず、男性も女性もそれぞれの個性を発揮する人達が溢れている

これは時代のせいじゃない。テクノロジーのせいでもない。何時の時代も何処の国でも、人間は人との関わりの中でコミュニケーションを最大限に使って生きて来たのだ。出会った人達同士の繋がり、それこそが人生を左右するものだったという事がよく解る。見えなければ触り、お金が無ければ頭を使い、世の中に言いたい事があれば原稿を書いて印刷屋に持って行く。インターネットや原子力がない18世紀でも、この生き生きとした生活感はどうだろう。そんな様子が面白くて、とうとう1年以上かかって3500ページにもなる本を読み切ってしまった

あって当たり前なのではなくて、無いのが当たり前だった時代。それでも人間が幸せに生きて行くのに足りないものがあっただろうか・・・・?きっと足りないものなんてなかったのだ。それは今から見ると、ちょっと不便なものだっただけなのだろう。医学や産業技術はもちろん今と比較にはならない。今と比べて無知だった物は仕方が無い。今から考えて「死ななくて良い人達が死んだ」のは「死の病にかかって死ぬべくして死んだ」のだ。
足るを知る」って、渡辺謙さんは良い言葉を引き合いに出したなあ〜〜。コントールできないものは無くても良い。まさにその通りだよね

さーて、フェルセン伯の本からもう2年近く、読んだ本がすべて18世紀がらみだった。そろそろ頭を現代に戻して次は何を読もうか、、、でも結局私もひと時代前が好きなのよ〜〜、 面白いんですもの18世紀は。日本の時代劇だってそうでしょ、貧しくても何故か人々が生き生きと見える、高官達のずるがしこい駆け引きがたまらない、民衆を引っ張って夢を語る、命がけで主君に使える武士の道、、、、結局は物資じゃなくて人々なんだよね。人がどう頑張って生きているか。

あって当たり前になってしまうと感謝する心すら起こらない。いきなり無くなったらパニックになるだけだ。少なくとも私達の世代は覚えている。携帯やネットが無くても全く困らなかった日々を。友達と楽しい時間を持つのになんの不便もなかったよね