去年、世田谷パブリックシアターと英演出家サイモン・マクバーニーのコラボ作品「春琴」が日本で上演された時、「素晴らしかった」とレポしてくださった方がいた。深津絵里さんは私も好きな女優さんで、題材が谷崎潤一郎の「春琴抄」という事で、この有名な谷崎の代表作をイギリス人がどう見るのか、ましてやそれが鬼才サイモンであればどうなるのか、興味があった

この舞台のロンドン公演の事は本当に直前まで知らなかったので、びっくりした。キャスト一同は1月初めには来英して、30日からのロンドン公演に向けて手直しのワークショップを続けていたそうだ。丸3週間の公演というのは遠征公演としては長いほうだが、マクバーニー氏のCompliciteはこちらで凄く人気があるので、驚く事じゃないかもしれない。07年のA Disappearing Numberはいろんな賞も取ったし

マクバーニー氏はもう10年以上も谷崎の「春琴抄」と「陰翳礼讃」を組み合わせた舞台の構想を練っていたらしい。成る程これは外国人の目からみた日本の美だ。光と闇の、闇を美しいと思う心。この舞台では日本の美が至る所にちりばめられていて、日本人としてはそれに気づかないくらいだ。衣装の着物の色合いから、襖を開け閉めする音、(これを呼吸音で表現していた効果に驚いた)畳を歩くすり足、黒髪のおかっぱ、竹筒を流れる水の音、、、、

三味線の音というのは、今の日本では普段耳にする事はほとんどないのだろう。私の母はずっと三味線、長唄、小唄をやっていたので、私には子供の頃から耳慣れた音だ。そういえば、うちの彼がはじめて日本に言った時、時差ボケでうとうとしていた所に2階から聞こえてきた母のお三味線のかすかな音が、ものすごく心地よくて安心できたと言っていた。今でも時々その事を話すくらいだから余程気持ちよかったのだろう

春琴と佐助の師弟として、主人と従者として、男と女としての人間関係を、役者の肉体と声、そして人形を使って表現していく。子供時代の春琴を人形にして、それを黒子役が二人で操って動かす。黒子の一人、深津絵里さんが春琴の声を演じている。 子供は残酷で、人形は不気味だ。この冷たい陰の要素に感情の肉付けをしているのが深津さんの声で、彼女の声は冷たく、激しく、燐としていてどんな大人も服従させるエロチシズムを持っている。 そして後半で大人の春琴を生で演じる深津さんの声も、トーンは全く違うのに、子供時代からの春琴と違和感が全く無い。

春琴も佐助も、子供時代から晩年まで人形と役者合わせて4人ずつで演じられている。が、そのギャップは全く感じさせない。特に春琴は、子供の人形から少し大きくなった人形、そして人形の仮面を付けた役者が肉体を使って人形のように演じる春琴、最期に深津さんが扮する大人の春琴と演じられる。この多面性は舞台進行が朗読のようで、想い出話のようで、史実のようで、ラジオドラマのようで、舞台劇であるという多面的な表現効果を使っているのと相まって、視覚的、感覚的に谷崎のオリジナルが持つ独特の世界観を美しく表現するのに成功している

芸術の発端は。何かを美しいと思う感情が、美を求め、探し、見つけ、再現し、創造する。何を美しいと思うかが芸術の無限の可能性で、視覚的なものから、感触、音等様々だ。谷崎潤一郎が綴った陰の闇の美しさは、同時に人間の持つ影の心の描写でもある。高慢で盲目で究極な我が儘女の春琴が美しく、なじられても蔑まれても春琴に奴隷のように尽くす被虐的な佐助の愛が美しい。二人のS&M的な主従関係は、同時に艶かしい男女の関係であり、生涯にわたる絶対無二の愛情関係だ。これらを舞台で美しく見せるために、どれだけの試みがなされたのだろうか・・・

やられた」というのが最初の感想だ。これを外国人にやられてしまったよ・・っていうか、日本人にはこういう舞台は思いつかなかったんじゃないだろうか。随所に取り入れられた和楽器の効果や、棒だけで表現される部屋空間や楽器、庭の様子等も無駄がなくて解り易いし、畳の使い方も巧い。「現代のスタジオで収録中」という設定を織り込む事で、これが本の中の絵空事ではなくて、充分に現代でもどこにでもあり得る話である事を観客に思い出させる事も忘れない

とても練り込んである作品だ。きっと今もまだいろいろと練り込んでいるのかもしれない。去年の日本での初演から何処がどれくらい変わったのかは解らないけれど、外国人観客に解り易く練り直した部分はあるようだ。時々、どんな訳になっているのか気になった部分だけ、ちらちらと字幕を見ていた

バービカンでは、字幕が左右の電光版に2行ずつでるのだけれど、これを読んでいると舞台が視覚に入らないという欠点がある。だから、舞台での動きや入れ替わりが激しいと読んでいられなくなってしまう。今回の舞台は比較的読みながら舞台に目を戻す時間が計算されていたように思うので、イギリスの観客にも理解してもらえたんじゃないだろうか。笑いもけっこう起きてたし・・・

プログラムも充実していて読み応えがあった。Dr Stephen Doddの寄稿文を読んで面白い事に気づいた。それは「日本では、日本近代文学の中では夏目漱石のほうが文豪として位置づけられ、お札の顔にまでなっている。が、日本以外の国ではほとんど話題にされていない。谷崎のほうが西洋の読者達に受け入れられ、共感されている」という一文だ。Dodd氏はこれを、谷崎の作品は現代のフェチズムやセクシュアリティー、肉体や欲望等、一種特殊な嗜好を現実とイマジネーションとの世界で表現しているからだ、と結んでいる

これは、谷崎の文学が美を追求した芸術に分類できるからではないだろうか。三島由紀夫にしてもそうだ。西洋では三島が一番知られているかもしれない。確かに夏目漱石の作品は、文学的ではあるけれど、芸術的ではないと言える。美を求める感性とは違うものだからだ。(留学しちゃったのがドイツだからね〜・・・?)芸術っていうのは本当に人間の陰な部分の逃げ場のようなものだからね。普段の会話や行動ではタブーとされる事が、芸術では認められてしまうのだ。だから、人間の闇=陰の部分をさらけ出せる場として、人々は芸術の美に逃げ込める

日本人が忘れかけている日本らしい闇の美しさを、こんな風に舞台で見せてもらえるというのは嬉しい驚きだ。日本での凱旋公演もあるようなので、機会がある方にはおすすめです。日本での再演ではまたそれに合わせて舞台も手直しされることだろう。


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