坂本龍一さんの「美貌の青空」が入っているのは95年のCD、Smoochy 私はイギリス版が発売されてからこちらで買ったので当然日本語解説は入っていない。で、1曲目の「Bibo no aozora」という曲名を見て、ビボのあおぞらってなんだろう、、、?と思ったのだった。 ビボのあおぞら・・・なんだか子供向けの絵本のタイトルみたいじゃない?って感じだったのだ。 この曲には歌詞があって教授自身で歌っているのだが、なにせモゴモゴの教授の発音に加えて、多分わざと歌詞を強調しないような歌い方(けだるい曲の空気に上手く乗せている)なので、はっきり歌詞が聞き取れるというわけでもなく、だから歌詞にはほとんど気づかずにしばらく聞いていた。

何度か聞いてるうちにBibo no aozoraが美貌の青空だと解って、口の中で繰り返してみる。美貌の青空、美貌の青空・・・・なんだかすごく美しい日本語のような気がしてくる。 坂本さんのお父様は文芸界では名の通った編集者だった方だ。教授も「小さい頃から山のような本の背表紙を見て育った。意味も解ってないのに目についた本のタイトルをさも自分の言葉みたいに使ってみたりした」と何かのインタビューで語っていた。音楽だけでなく、文学や政治についても若い頃にはよく対談なんかで話していたっけ。

美貌の青空」という言葉が何故か私の中でチェ・ゲバラと結びついていたのは何故なのだろう・・?何かゲバラの書いた本とか、関係したものにそんな表現があったのだろうか・・・? とにかく、この「美貌の青空」というタイトルは、どことなく文学的でそして思想的で、さらにこのCD全体に漂う背徳感があった。 おまけにこの曲自体は穏やかな午後の青空を彷彿とさせる静けさがある。

チェ・ゲバラの事が気になったので、「美貌の青空」という言葉がどこから来たのが探してみた。びっくりしたのが、この坂本さんの曲の詩を書いた売野雅勇氏が書き下ろした朗読/音楽劇があった。  同じ「美貌の青空」のタイトルでゲバラをモチーフにした朗読形式の脚本だそうだ。 歌舞伎界を代表する俳優さん達で上演されたものがDVDになっている。でも公演日程を見てみると2005年だ・・・私の頭の中にあったゲバラのイメージはもっとずっと前からなんだけど・・・?

さらに時を遡って調べてみると、思いがけない所に着地する。
土方巽さんだった。

もう、ほとんど忘却の彼方になりつつあったその名前を見た時、思い出すのにちょっと時間がかかった程だ。 当時、パントマイムともダンスとも違う肉体表現の演技を形容する言葉は無かった。 後になって舞踏=Butohと呼ばれるようになり、日本ではむしろマイナーなアングラっぽいイメージとして、そして海外では日本のアヴァンギャルドな表現芸術として認められていったジャンルだ。 80年代にはイギリスでもリンゼイ・ケンプ・カンパニーが主にアーティスト達の間であがめられるようになり、その後、日本の山海塾というグループは何度もヨーロッパ、アメリカで海外公演を成功させている。 その走りとも言える「暗黒舞踏」を築いたのが土方巽氏だ。

その土方巽さんは86年に亡くなっている。 私は丁度芝居の世界にどっぷり浸っていたので、土方さんの名前やそれに近いパントマイムや舞踏の世界の人たちの事も知ってはいたけれど、演技そのものを身近に観た事は無かった。 だから今になって土方さんの名前を観てもピンとこなかったのだ。 そして彼の死後、土方巽遺文集として発売された本のタイトルがなんと「美貌の青空」だったのだ! 動画サイトで30年も前の彼のパフォーマンスを見つける。う〜ん、、すごい・・・こんな所に辿り着くとは・・・・

坂本さんの美貌の青空は1996のトリオ・ヴァージョンでさらに磨きがかかる。 このヴァージョンは去年公開された映画「バベル」の最後で滅茶苦茶効果的に使われていて、おそらくこれでこの曲の事を知った人も沢山いるんじゃないだろうか・・? 教授の曲のインスピレーションがどこから来たのか、文学的な言葉からなのか、思想的な背景があってなのか、はたまた前衛的な表現芸術を意図したのかは解りかねるけれど、なんだかこの一言の為に長い旅をしたような気分になった。だからインターネットはやめられないんですよね〜〜!

<美貌の青空>  詩・売野雅勇

眼差しの不実さと、気高さに溺れていた

狂おしい夏だった・・・


これ以上愛さない    禁じる愛おしさで

瞳は傷口と知る    魂の・・・


別々の惑星に僕たちは住む双子さ

野獣の優雅さで        沈黙を舌で味わう
芥子のように


切なさで胸を痛めながら

君の可憐な   喉笛から

溢れ出した虹の果ては

    美貌の青空


・・・・

手に触れるすべて  欠片の死のように

君の血が透き通る  野蛮な瞳見ては

途方に暮れる  真夏の楽園