「死神の精度」が公開前という事で、あちこちにインタビュー記事や試写会の感想が出てる。 同時に藤原竜也君の「身毒丸」もいよいよ埼芸での最終公演に入って、あれこれと情報が耳に届く。復活と銘打って2月のワシントンからやってる事を考えると、けっこうな長丁場だ。死神・・」は、若い監督の長編デビュー作という事や、原作との比較とかいろいろな意見があるみたいだけど、監督や金城さんのインタビューでの言葉でちょっと考えた。

主演の金城武さんは、現場であれこれとアイデアを出しては、いろんなシーンで違う事を試しながら創っていったという話。 彼自身、「僕は現場であれこれやって、ちょっと台詞も変えたりしてその場で創っていくという映画の撮り方でやってきた。日本のやり方とは違うかもしれないし、失礼なのかもしれないけど、そういうやり方でずっとやってきたので、その中で良いものを出していけたらいい」みたいな事を言っていた。今さら「失礼かもしれないけど・・・」とことわりを入れるあたり、まだ日本での仕事に慣れていなかった頃に、そういうやり方を批判されたり、反発されたりした事があるのかもしれない。(ってか、絶対あったんだろーな〜と想像できる

でも逆に舞台を創る時にはそれが普通だ。稽古場は、演出家と役者みんながアイデアを持ち寄って試すために集まる場所。毎日稽古の度にあれこれとやってみては、採用もあれば却下もある。 アイデアを持たずに稽古場に来るなんぞもってのほかだった。 舞台と映画の大きな違い・・・それは、映画は最終的に完成された作品であり、舞台には決して完成という事はあり得ないのだ。映画はであり、舞台は空間この違いは役者の演じ方の大きな違いでもある。絵にする為の演技と空間を埋める演技はまったく違う。

もちろん舞台だって、最終的には舞台の上に絵を創るのだけれど、1冊の台本に書かれた文字を肉付けして舞台空間に置くには無限の可能性と解釈があり、また現実的に生の舞台で可能なセットや仕掛けの中で創るという制限がある。 映画の監督さんっていうのは、もう頭の中にはじめからがあって、その絵をいかに現実にするかーという事に時間と労力を費やす。 役者に対しても、動きのひとつひとつを細かく演技指導するタイプの人は多いようだ。実際に「こういう風にやってください」と自分で演じてみせる監督さんもいらっしゃるし、撮影が終ってからは、切ったりはったりの編集作業で監督の理想の絵を作りあげて、映画は完成というゴールをみる。

舞台は、稽古で創りあげたものを本番でキープしていくというのが最も難かしい。 稽古中に何をやっても演出家の気に入らなくて、そのうちアイデアも出てこなくなって、アップアップしながら無駄な事を毎日繰り返してしまう辛さは役者にとっては本当に苦しいのだけど、まだ自分で良し悪しの判断がつく。 でも本番が開いてからの評価というのはもっと判らない。自分では調子が良いと思っていたら、終演後に思いっきりダメをくらったり、今日はダメだったかな、、と思うと回りからお褒めの言葉をもらったりするものだ。 自分では芝居を変えていないと思っても、やっぱり舞台は生き物で、全く同じ芝居を全員ができる事なんて無い。舞台は、その日の自分の体調でも、共演者の気分でも、スタッフの機嫌でも、お客さんの反応でも、さらに演出家がソデにいるかどうかでも変わってしまうというモロイものだからだ。

本番になって舞台で稽古をするな。稽古場ですべてのアイデアを出し切れ」とは言われたけれど、やっぱり同じ舞台をキープするって大変だ。日本と違ってWest Endでのロングラン公演は、評判が良ければ何年も続く。役者も契約によって1年くらいで変わっていくけれど、客席から観た舞台の仕上がりを変えずに続けるというのは、本当にすごいプロの仕事だ。絶対に「完成」する事のない舞台での芝居、、、それをひたすら繰り返す。 何年経ってもどこででも、安心して同じ完成作品を観る事のできる映画と比べて、観る時の緊張感が違う。

この一球は絶対無二の一球なり、されば心身を挙げて一打すべし と言ったテニスの選手はどなただったか、、、テニスに限らず、「完成」がないものすべてに言える言葉だ。

日本に行ったら観たい映画や舞台が待ってる。 安心して鑑賞できる映画と、劇場内の空気の動きにちょっと緊張しながらみる舞台・・・・どっちも楽しみだ(でも私的には、やっぱり舞台だなあ〜)


ランンキングにも1クリックお願いします
Banner