日本で、未公開ではないにしても、半端にしか公開できない映画といえば、「愛のコリーダ」

Ai noこれは、大島渚監督の名を世界に知らしめ、「ポルノか芸術か?」の大論争を巻き起した1976年の映画だ。 極秘で撮影したフィルムをフランスに送って編集し、カンヌ映画際で上映されるや大反響を呼び起した。その後とりあえず日本で公開された時には、あまりにもズタズタにカット&修正されて、ほとんど映画の主旨を残していなかったと言われている。 私は、当時はその辺はちゃんとは知らなくて、とにかく日本では未公開同然で、わざわざ外国まで観に行く人が大勢いる、というのは耳にしていた。

私がイギリスで観た時は、そんなオリジナル公開の大騒ぎから軽く10年以上が経過していた。 観たのはいわゆる名画座スタイルのシネマクラブ。ダブルビル(2本立て)で安く観られ、プログラムが良いのでメンバーになっていたKings Crossの映画館だ。その日は「愛のコリーダ」と「楢山節考」の2本立てだった。 ちなみに館内はほぼ満員状態、男女比率も良く、普通の大ヒットロードショーの映画館の雰囲気となんら変わらない。そして私は期せずして、一日に「愛のコリーダ」を2度も観る事になったのだった。

友人と、「愛のコリーダ」→「楢山節考」の順で観にいったのだけど、合間にトイレで別の友達に遭遇する。 一緒に行った友人はその後用事があってすぐ別れる事になっていたので、バッタリあった彼女と「後でお茶飲まない?」という事になった。 ところが彼女は今来たところで、これから「楢山」→「コリーダ」の順に観ると言う・・・じゃあつき合うよ、という事で、私は「コリーダ」「楢山」「コリーダ」と3本たて続けに観る事になり、正直言って映画館をでる頃には頭の中は飽和状態だったよ・・・・・・・

でも、最初に観た時のショーゲキが少し収まって、「楢山節考」で少し考えさせられてからもう一度観たおかげで、2回目にはもっと映画としてちゃんと観る事ができた。 ちなみにイギリスではボカシというのは普通無くて、裸はすべて見せる。 でもハードコア(実際に性器が交わっている場面)っていうのは公には禁止のはずなのに、これにはいっさいカットはなかった。 まあ、最初はやっぱり結構びっくりしたけど・・・・観ているうちに、それが普通の人間の身体なんだから、その事自体はあまり意識しなくなる。つまり、そういう風に撮るのが映画作品なのだと思う それが普通なんだと納得できるように作られるのが芸術的映画作品で、全編とにかく性的欲望を刺激し続ける様に創られるポルノ作品との決定的な違いだ。

後の「愛のコリーダ裁判」で、「猥褻か芸術か?」の論争に大島渚監督が、「猥褻でどこが悪い!」と言い放ったのは伝説になっている。そもそも猥褻っていう言葉自体が、抑圧されたものだと思うんだよね。「悪い事、いけない事、」という意識があるから猥褻という観念が生まれる。わいせつって、、なに、、?? ちょっと話がそれるけど、よく痴漢の事を「○○車中で猥褻な行為に及び、、、」なんて表現をするけど、あれってちょっと違うんじゃない?悪いのは猥褻な行為っていうよりも、「相手を不愉快にさせる行為」の事なんじゃないの? 世間には、痴漢されるのがOKな女性もいるらしい。そういう場合は、「不愉快」にさせられないから猥褻にはならないわけでしょ。合意の上なら強姦が成立しないのと同じだ。だから、抑圧された意識がなければ猥褻なんて言葉は存在しないんだよね。

この映画の中の2人、定と吉蔵の辞書には猥褻という言葉は存在しない。 ひたすら相手と繋がっている事を求め続けて、どんどん自分を相手に縛りつけていってしまう・・・よく映画の宣伝文句に「究極の愛」なんて言葉が使われるけど、「愛」ともちょっと違うと思うし、、、 これは映画だから、題材は実際にあった事件でも、映画のストーリーはフィクションだ。大島監督は定と吉蔵の関係を、「欲しがる」側と「与えたがる」側にしていく。それはよく言われるサディズム、マゾヒズム(加虐性と被虐性)とも少し違う。もっと動物的な関係だ。 定役の松田英子さんは、演技力がどうのというよりも、すごく良い顔をする。動物が欲しいものを前に、舌なめずりするように相手を見る顔、容赦なく欲しがり続ける顔・・・・最初は気取ったカンジのニヒルな旦那だった吉蔵は、定に与え続けて痩せ細っていくにつれ、どんどん優しい顔になっていく。

室内のシーンばかりなので、全く外の空気を感じない。それがまた観ている方も2人の閉ざされた世界にのめり込んで行くような気分にさせられる。 唯一外の空気を嗅げるのは、吉蔵が髪を切りに(だったかな?)外へ出ると、世の中は戦争へと向かっていて、出征する兵士達が日の丸の旗に送られていくのに出くわすというシーン。このカットはすごく印象に残る。それくらい外の空気を吸えない映画だ。赤の色がすごく効果的に使われているように感じた。映画を観た後に「赤=朱色」が飽和状態の頭に焼き付いていた。 随所に「日本の美」もちりばめられている。これが現代だったら、きっとこんな雰囲気はだせなかっただろう。着物、障子や襖、三味線や笛の音、そういったあの時代の日本のちょっと埃臭いカンジがこの映画を美しくしている。

ストーリーなんてほとんど無い映画だけれど、世界各地で高い評価を受けたこの映画は、やっぱり名作だ。 藤竜也さんは、この映画の後しばらく仕事が無かったなんて、何かで話していたらしいけど、ほとぼりが醒めてからだって渋く活躍している。沢田研二さんとやった「悪魔のようなあいつ」はこの映画の前だったんだろうか、後だったんだろうか・・・? ドラマの内容はほとんど覚えてないけれど、渋い藤竜也さんがやけに悩ましく壊れていたように記憶している、、、

「愛のコリーダ2000」と題うって、はじめてノーカット版が日本でも公開されたそうだけど、それでもどうしてもハードコアの部分はボカシを余儀なくされたらしい。 ボカシやモザイクって、あれば余計にそこに気を取られるというものだ。ずうっと昔、まだボカシの技術が出て来ていなかった頃、「時計じかけのオレンジ」を日本で観た時、いわゆる乱交っぽいシーンで画面のそれこそあちこちに黒丸が出て、それが役者達が動く度に黒丸も移動するものだから、最期には映画館が爆笑になってしまった事があった。

イギリスでどうして「愛のコリーダ」のハードコアのシーンがそのまま上映されたのかは知らないけれど、そういう酌量があってもいいんじゃないかしらね。ポルノじゃないんだから・・・


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