カストラート、一度その歌声を聴いてみたいと思ったものの、今ではそれはかなわず、一番近い所でカウンターテナーの声を探した時期があった。
今回の芝居は18世紀初めのスペイン王、フェリペ5世とヨーロッパ一の歌声で大スターだったカストラートのカルロ・ファリネッリのお話。国王は極度の躁鬱病にかかっており、王妃(2度目の)イザベラ(エリザベッタ)や宰相達を手こずらせている。主治医から精神の安定には音楽が良いのではと助言された王妃は、当時のヨーロッパ一の歌声で大人気だったカストラート、ファリネッリをスペイン宮廷に呼び寄せる。国王はファリネッリの歌声で病んだ心に安らぎを見いだし、ほどなく国王にとってファリネッリの存在そのものが必要不可欠な程になっていく。
フランスの太陽王=ルイ14世の孫として生まれたフェリペ(フィリップ)はフランスのヨーロッパでの勢力拡大の為に王位継承者選びで困っていたスペインに新国王として即位することになる。(当時のヨーロッパ王家はなんらかの血縁関係があり、王位継承権は何通りも考えられた)スペイン語も話せないのに王になってしまった自分の運命を、フェリペは「自身で選んだ訳ではない」とファリネッリに話す。
一方のファリネッリは10歳の時に父が死んだ後、家族を経済的困難から救うため、兄の取り決めによって去勢され、カストラートとして生計を立てるべく訓練される。この芝居は、権力と名声を手にしながらも、どちらも「自分で望んで選んだ人生ではなかった」という共通点を持つ二人の友情と、夫をあくまでも国王として献身的に支え続ける王妃の3人の結びつきが描かれる。
フェリペ5世はファリネッリと王妃の3人だけで森の中での生活を夢見てマドリッドの宮廷から出てしまう。森の木の上に家を作り、農夫のような姿で夜の月明かりの下でファリネッリの天使の歌声を聴き、少しずつ精神が安定していくように思えた、、、、
実際にファリネッリはスペインに行ってからは国王と王族の為だけに歌い、錯乱のひどい王が昼と夜逆の生活になってからは、朝の5時半頃まで数曲のアリアを繰り返し歌っていたという。ヨーロッパ中から脚光を浴びていた大スターが、スペイン宮廷に20年以上も留まっていた。18世紀初めにはスペインではオペラはまだ広がっておらず、ファリネッリの力でやがてスペインにもオペラ劇場が建てられるようになる。
実際に国王が森の中で暮らしたかどうかは定かでないが、音楽が精神の病に与える影響というのは実際に研究されてきた。統合失調症やアルツハイマー、強度の鬱病や躁鬱病、記憶喪失などにも音楽を用いたセラピーは効果を示しているという。
劇中ではファリネッリが歌うシーンになると、ファリネッリ役の役者の横に影のようにもう一人、カウンターテナーのシンガーが登場して歌う。ファリネッリの台詞の中で、「歌う時は、自分の声なのにもう一人別の自分がいて、そこから声が出ているような感じがする」と言っているのもあり、このシャドウのようなシンガーの登場はあまり違和感は無い。
宮廷サロンにいるような、ゆったりとした夜のひと時、といった雰囲気の芝居だ。この本を書いたクレア・ヴァン・カンパンは実は戯曲家というよりは音楽家だ。Royal college of Musicを出ており、シェイクスピアのグローブ座で音楽担当もしている。また物書きとしては音楽関係の本もいくつか書いており、舞台の音楽も数多く担当しているので、この芝居の台本を書くに至ったという。
戯曲としての完成度は有名な劇作家達のような筆の技法は無いけれど、シンプルで穏やかなストーリーにバロックのアリアがちりばめられていてとても美しい作品になっている。
こういう、サロン風の芝居も秋の夜長にはゆったりとしていて良い。スペインでの日々を終えた晩年のファリネッリの影で歌われるヘンデルのLascia ch'io piangaはとても美しい....
米良美一さんやPhillipe JarousskyのLascia ch'io piangaがとても好きだ。この芝居のラストにまさにふさわしい一曲。せっかくなので米良さん版を映画「ファリネッリ=カストラート」に合わせたヴァージョンをどうぞ。