見つけもの @ そこかしこ

ちょっと見つけて嬉しい事、そこら辺にあって感動したもの、大好きなもの、沢山あるよね。

July 2015


オスカー・ワイルドの傑作、The Importance of Being Earnest、私がまだ劇団に入る前に戯曲で読んだ時の日本語タイトルは「真面目が大切」だった。調べてみるとどちらかというと「真面目が肝心」の訳のほうが一般的なようだけれど?、、、、

この本はワイルドの作品の中でも最高傑作の声が高いが、私もとりわけ大好きな作品だ
タイトルからして駄洒落になっている。日本語では真面目という語が使われているEarnestには正直で誠実=真面目という意味と、男性の名前=アーネストの2つの意味があり、この芝居はまさに、誠実である事を薦めていると同時に名前がアーネストであるという事に重要な意味がある。
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田舎で大きな屋敷に住んでいるジャック(ジョン)は退屈な毎日に飽きるとロンドンに出て来て自由奔放な数日を過ごす。彼はアーネストという名のちょっと無法者で問題児の弟がいるという設定を作り上げ、彼がまた何かしでかしたという口実でロンドンに出てくるのだ。ロンドンでは彼自身がちょっとワルなアーネストになって二重生活を楽しんでいる。また、ロンドンでの彼の親友、アージェノンは貴族の叔母の相手をするのを逃れる口実に、病弱で田舎で静養中の架空の友人、バンブリーを見舞いに行かなければならないと嘘をついては堅苦しい週末から逃げ出している。(この、口実を使う事を彼は「バンブリーする」と言っている)

実はアーネストが本当はジョンという名で田舎では18歳の娘の後見人として堅実な生活をしている(=彼もまたバンブリーしている、)という事を知ったアージェノンは、ジョンが面倒を観ているという娘、セシリーにまだ会わずして興味を持つ。
ジョンはアージェノンの従妹で貴族のグウェンドリンに恋していて、2人きりになると思いを打ち明ける。するとなんとグウェンドリンも彼にぞっこんだと大喜び。ところが、実は彼女がジョンを愛しているのは「アーネスト」という名前(ロンドンでは皆そう思っている)だからだという事らしい。腑に落ちないジョンが試しに「もし僕が他の名前だったら、、、?」と聞いてみると、アーネスト以外は考えられないと言い張るのだ。

名前に恋されていると知って戸惑うジョンにとって、更なる難関は彼女の母親、口うるさい貴族のブラッくネル夫人だ。彼女はジョンを試験のようにインタビューして、実は彼は赤ん坊の時にバッグに入れられてヴィクトリア駅に置き去りにされていた孤児だと知ると、まるでゴキブリでも見たかのような反応でジョンを追い返してしまう。ジョンは慈善事業に関わっていた紳士にひきとられて、今の名前と邸宅を受け継いだのだった。

セシリーに興味津々のアージェノンはジョンがロンドンにいる間に、自分が彼の架空の弟、アーネストを演じてセシリーに会いに行く。ところが、バンブリーするのをやめようと決意したジョンは架空の弟、アーネストが突然パリで死んだという事にして予定より早く屋敷に戻ってくる。戻ってみると、彼の弟=アーネストだと名乗るアージェノンがいて、以前からジョンに聞かされていたちょっと無法者のアーネストとの空想愛を日記に綴っていた乙女チックなセシリーは空想から出て来た彼に夢中になってしまう。

アージェノンをアーネストだと思い込んでいるセシリーと、ジョンをアーネストだと信じているグウェンドリンが「アーネスト」をめぐる女の戦いを繰り広げる中で、やむなくジョンとアージェノンは「実はどちらもアーネストでは無い」と白状せざるを得なくなる。そこへブラッくネル夫人がやってきて、セシリーの教育係のプリズム婦人を見るなり、彼女が過去に妹(=アージェノンの母)の赤ん坊と行方を眩ませてしまった事を追求する。

プリズム婦人が小説の原稿の代わりにバッグに入れてビクトリア駅に置いて来てしまった赤ん坊こそがジョンであり、さらに彼の本当の名前が実はアーネストであったと判明する。架空の弟の代わりに、アージェノンが実の兄である事が解り、晴れてジョンはグウェンドリンとの結婚を認めてもらい、さらにはアージェノンもセシリーと婚約するというお決まりのハッピーエンド

台詞の粋の良さにヤラレル芝居だ。これは本で読んだときからそうだったし、映画版やドラマ版も観たけれど同じ台詞でも演出でいろんなニュアンスがあって、これも何度観ても飽きない芝居だ。

日本での上演を調べてみたけれど、ミュージカル風に作り替えられた宝塚版しか出てこない、、、あまり上演されていないんだろうか、、、英語での言葉遊びの要素が多い芝居だから?日本語訳でも十分に面白いのに。

毎回この芝居では主演の男二人の他にブラックネル夫人が注目される。口やかましい貴族のオバンなのだが、今回はDavid Suchetが演じるというので話題になった。スーシェ氏はアガサ・クリスティーの探偵ポワロシリーズでよく知られている。デカダンなブラックネル夫人で顔をしかめ、唾を飛ばしながらの演技に場内が湧いていた
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この芝居の登場人物は皆個性があって、そこここに見せ場がある。演出・演技次第でどんどん笑いを誘う事ができるし、実際後半にはあちこちの場面で拍手が起こるくらい盛り上がった

ワイルドの戯曲の中でも一番評価が高く人気がある、とはいうものの、この作品は初演の1895年以降、彼の存命中に再演される事はなかった。この初演時に、オスカー・ワイルドの恋人だったダグラス卿の父、クイーンズベリー侯爵が芝居を妨害しようとした話はワイルドを知る人にはお馴染みだ。

当時、同性愛は違法だった。息子との仲をよく思わなかったクイーンズベリー侯爵がワイルドを「ソドミー」と暴露した事がきっかけで、ワイルドは侮辱されたと裁判にしたものの、結局裁判では彼の同性愛ぶりがどんどん暴露される結果になり、やがてワイルドは逮捕されてしまう。
出所後も、彼の死後まで、オスカー・ワイルドの名前は不名誉なものとなってしまった。今ならば絶大な支持を得ただろうに・・・・

ちなみに私がお薦めする映画版は1995年にルパート・エヴェレット(アージェノン)とコリン・ファース(ジャック)が演じたバージョンだ。この時のブラックネル夫人はジュディ・デンチでこの人の解釈も大好きだ。DVDになってるかと思って探していたら、なんと「アーネスト式プロポーズ」というちょっとインテリジェンスに欠ける邦題で出ている
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DVDのカバーもなんだか安っぽいB級ラブコメみたいで、オスカー・ワイルドらしくないんですけど、、、!!?
でもワイルドのオリジナル原稿から舞台化される際にはしょられたシーンもこの映画版には含まれていて、台詞もほぼ戯曲どおりで映像による幅の広さを生かした映画になっているのでお薦め

こういうインテリジェントでウィットなコメディーがもっと日本でも上演されるといいのにね。


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シェイクスピアから約100年後、アイルランドからロンドンに出て来たジョージ・ファーカー(George Farquhar)の手による喜劇、The Beaux's Stratagemを観て来た。

初演は1707年で、王政復古後のこの時期の演劇作品はRestoration Comedyとも呼ばれている。
ピューリタン革命でチャールズI世が処刑されて以来、イングランドはオリバー・クロムウェルを中心とする共和制が敷かれた。その間、劇場でのエンターテイメントは全て禁止されていたのだが、1660年にチャールズII世によって王政が復活すると、国王は演劇の上演を後押しする。シェイクスピア時代には女優はいなくて、すべての役は男優が演じていたというのは知られた話だが、この王政復古以降は、はじめて女優が登場する。

Restoration comedyは貴族やアッパークラスはもちろん、もう少し庶民に近いいわゆるミドルクラスの観客からも人気を集め、ちょっとおしゃれで色気の入ったコメディータッチの作品が数々上演される事になる

ロンドンでの放蕩ぶりがたたって借金まみれになってしまった貴族の男二人が、お金持ちの娘と持参金目当ての結婚をする事でなんとか身を持ち直そうと企み、イングランドの田舎町、Litchfieldにやってくる。

二人(エイムウェルとアーチャー)は、貴族(子爵)とその従僕という役割を演じて街一番のお金持ち貴族のバウンティフル夫人の娘、ドリンダに目を付ける。(本当はエイムウェルは次男坊で子爵の称号は兄のものなのだ)
従僕を装ったアーチャーは、巧みな会話で宿屋の娘、チェリーをたちまちのうちに夢中にさせ、同時に自身はドリンダの義理の姉(バウンティフル夫人の息子の嫁)ケイトの美貌と人柄に強烈にひかれて行く。ドリンダを落として持参金を、、と企んだエイムウェルはドリンダに本気で一目惚れし、一生懸命に思いを伝えようとするのだが、ドリンダ身持ちが固く、兄夫婦の不幸せな結婚を目の当たりにしているために、なかなか心を開いてくれない。

ドリンダの兄、スレンは飲んだくれのいささか退屈な男で、妻のケイトとは全く折りが合わない結婚生活を送っている。お互いを軽蔑しあっているというのに、結婚という鎖で繋がれた典型的な不幸な夫婦だ。

本当は身分ある二人の男が演じるBeaux(ちょっと粋でおしゃれな伊達男、とでも訳すとしっくりくる)、普段は本音を言う事もできずにひたすら従僕として使えているバウンティフル夫人のバトラー、ケイトが夫に嫉妬させようと当て馬に使われるフランス人将校や、エイムウェルとアーチャーを「なんだか怪しい」と疑う宿屋の主人、ならず者を追う警官等が織り成すコメディーだ

この芝居は策略というプロットの上に成り立つ喜劇と同時に、当時の風習についても痛い所を突いている。ケイトの不幸な結婚は、なんといっても当時の貴族階級の女性達にとってはよくある話なのだ。結婚と同時に彼女の財産はすべて夫のものとなってしまい、文字通り身も金も夫に捧げる事を強いられたお嬢さん達。彼女は言う、「女が国を治める時代でありながら女はいまだに奴隷でなければいけないの?」(この時期はアン女王の時代で、初演時の1707年にはスコットランドとイングランドが合併し、グレートブリテンが誕生した)

結局、最期になってエイムウェルは家督を継ぐはずだった兄が死亡した事によって、本当にエイムウェル子爵となり、ドリンダに求婚する。そしてお互いが不幸だと解りきっていながら夫婦でいなければいけなかったスレンとケイトは、合意の上で離婚する事に、、、、
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実際にはイングランドはヘンリー8世の時から離婚という制度ができたものの、あくまでも離婚できるのは夫が妻をなんらかの咎で離縁するというのが決まりだった。もちろん離婚した後の女性は財産は全て元夫に没収され、再婚する事は禁じられていたので、余生が悲惨な事は目に見えていた

けれどもこの芝居のラストは、ケイトとスレンの「合意による離婚」が認められ、されにはその後のアーチャーとケイトとの再婚を示すかのようなハッピーエンドになっている。これは当時の社会では夢のような展開で、コメディー芝居の中にこうした社会に対するアピールを盛り込んでいるのがファーカーの本の面白い所。

ちょっと調べてみた限りでは、日本での上演記録が見当たらない。こういう喜劇は演出次第で時代や国を選ばずに楽しめるので、日本で上演しても面白いんじゃないかな。シェイクスピアのように長台詞が続くわけでもないし、テンポよくコミカルな作品になると思う。

おしゃれなスケコマシはいつの時代にもやっぱり魅力的なのだ

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